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第十四章 道路と交通
(第一節 道路と電鉄)
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第十四章 道路と交通

 

==第一節 道路と電鉄==

 

第一節 道路と電鉄

 一、収納道御普請願帳

  この道路は別名を「僧殺し街道」ともいって、当時金沢(尾山)へ出る重要道路の一つであった。天正七年(一五七九)から天正九年にかけて、越前の柴田勝家が織田信長の命により、加賀の一向衆徒を攻めた時、多数の僧侶達を殺してこの街道に首をさらしたという。山島方面から林中・舘畑・中奥などの各部落を経て、末松の轟から清金・下林を経て太平寺の尾山往還に出たのである。通すじの百姓達が年貢米や麦、菜種などを加賀藩に納めるために運んだ道路であるという。金沢へ通じる近道だったのであろう。この橋のかけ替えに当時の通すじの肝煎達が連名で御普請を願い出て、現在の補助金に当たる書類申請をしている。

  慶応二年五月 (表紙)

  石川郡下林村領字拾貫橋普請奉願申帳

  富樫組

  中奥組

 林組

 一、壱ヶ所 橋 長四間四尺、幅七尺      下林村領字拾貫橋、御収納往来此材木相図り入用

 一、弐本 橋杭            草槇十四ノ五寸角、弐ツ切ニシテ用イル代百目        但シ一本ニ付五拾目宛

 一、三本 行桁   こうちん木、十四ノ六寸角、但シ一本ノ時此ノ代銀四百三拾目

 一、壱本 帽子桁   草槇十四ノ六寸角、代七拾弐匁

 一、三本半 橋板    同十四ノ八寸角、此ノ代銀四百五拾目、但シ一本ニ付百拾八目少々宛

 一、壱本半 欄干行桁  同十四ノ九寸角、此ノ代銀弐百十三匁

 一、壱本  同男柱   同十四ノ五寸角、代五十目

 一、壱本  同中柱   同一丈五寸角、代銀三拾八匁

 一、弐坪 橋両袖    松三寸板買板、代三拾八匁

 一、五拾八匁四分 駄賃 宮ノ腰より野々市迄

 一、弐拾五人      大工 但壱人ニ付七匁五分宛

 一、六人八歩 代五拾壱匁 木挽 右ニ同ジ

 一、拾八挺       六寸?

 一、弐百六拾本 代百五匁 折頭、三寸五分ノ釘

 一、六拾六匁 欄干   金具

 一、弐百九拾六匁四分  野々市より拾貫橋迄、材木持付人五拾弐人、但壱人ニ付五匁七分宛

 一、百四匁       道下古持人足弐十人 但壱人ニ付五匁弐分宛

 丑十月

 一、八拾八匁 橋 〃高等 道下惣代 木津村肝煎 三郎兵衛他十六人

  寅三月

 一、五十八匁五分 同断諸色高値ニ付 惣代末松村肝煎 太郎兵衛他九人

  寅五月

 一、三拾八匁 橋出来ニ付御扶持人係江 同惣代 向嶋村肝煎 与右衛門他六人

 御名分等顧ニ付宿料

 〆弐貫四百四拾弐匁八分

  内六百目 御加銀   吉 殿御渡御座候

 引残リ壱貫八百四拾弐匁八分 道下勤銀

 右下林村領字拾貫橋去丑年より御願申上候処御加銀ヲ以今度橋懸渡方出来任候共当時諸色高値ニ付格別ノ銀嵩ニ相成候 道下百姓中難儀迷惑仕候間何卒御慈悲之御詮議ヲ以地郡代銀ヲ以被仰付下候様奉願上候 以上

 慶応二年五月

 木津村肝煎        三郎兵衛     行町村肝煎     啓造

 針道村兼帯来同村肝煎   弥三右衛門    寄新保村肝煎    市郎右衛門

 漆島村肝煎        嘉右衛門     吉田村組合頭    長次右衛門

 藤木村組合頚       次郎作      向島村肝煎     与右衛門

 矢頃島村肝煎       忠兵衛      舘村肝煎      久三郎

 菅波村肝煎        弥兵衛      乙丸村肝煎     弥右衛門

 平松村組合頭       太三右衛門    今西村組合頭    孫右衛門

 橋爪新村肝煎       権兵衛      三浦村肝煎     市郎右衛門

 橋爪村肝煎        兵右衛門     福正寺村肝煎    太郎右衛門

 長竹村肝煎        弥三衛門     末松村肝煎     太郎兵衛

 清金村肝煎        理右衛門     二口村肝煎     源兵衛

 安吉村肝煎        庄右衛門     下林村肝煎     庄右衛門

 瀬尾孫左衛門殿

 水内六三郎殿

 田辺次郎吉殿

 さらに今一通の古文書には

 「清金村領御収納道橋等御普請奉願申帳 石川郡中奥組」の表紙で数頁にわたって墨の達筆で書かれ、最後の所は

 「右私共在所御収納往来橋は安致二年御郡用水打銀を以御普請被仰付候処年数相立朽損人馬通行危く御座候ニ付□□図り奉顧上候間何卒以前の通り御郡用水打銀を以御普請被仰付度下様奉願上候 以上

 明治二年十月

 清金村肝煎 理右衛門(印)

 組合頸 市郎右衛門(印)

 組合頭 次郎右衛門(印)

 村井村 駒太郎殿

  御扶持人宿中

 となっている。

  清金村の架橋についてなぜ一木の村井村の住人駒太郎なる人物あてに願い出の書類を書いたか、興味あることと思われるので、駒太郎なる人物を記してみよう。

  駒太郎という人の子孫は現在水内という姓で一木村の県社本村井神社の宮司である。水内氏の先祖は越前朝倉氏の一族で、わけがあって叔母の姓を継ぎ、堀江石見守義任と号したが、同族の朝倉義景が天正元年(一五七三)八月二十日に滅亡したあと、義任は柴田勝家の幕下として越前の国水落という土地の郷士となり、以後水落の姓を名乗ったが、のちに水内と改めた。

  水内六郎左衛門義定になって現在の松任市村井町小字中村という所の六右衛門方に入った。以後六郎右衛門の孫の代まで、付近のこどもたちを集めて寺小屋を設け、育英事業に尽したが、与三兵衛の時に加賀藩主前田家から十村役を命ぜられた。その後六郎左衛門の代になって無組御扶持人十村惣年寄頭役代官を兼ね、苗字帯刀も許された。

  享保九年(一七二五)、旧の御手洗村・出城村の一部を開墾し、用水を開削し、海岸には風波を防ぐため数十万本の松苗を移植し、貧民達に住居を与えた。そして享保十九年に十ヵ年の歳月を経て開墾を完成し、田畑合わせて旧禄高七百五十石を得た。前田藩侯は厚くこれを喜んだ。六左衛門は自分の居住地村井より一里余り離れていたが許しを得て前記の地を村井新と名づけた。現在の海岸沿いの村井新がその名残りをとどめている。同地には村御印も下付された。

  藩侯は六左衝門の功を賞し、七百五十石のうち三百五十石を六左衛門の所有とし、居住地村井のうち四十五石を扶持前として与えた。

  また、享保三年(一七一八)に旧石川村・宮保村など一部を、福留村の十村役六兵衛とともに上願して、この地は手取川の河床として荒廃地だったのを開墾し、旧禄高百石の田畑とした。福留の十村役六兵衛は水内氏より出て他家を継いだ人である。六左衛門と六兵衛はその功により三分の一を与えられた。ついで旧の石川村・宮保村・笠間村・蝶屋村などの一部を開墾し、砂防林を移植し、旧禄高六百七十二石を田畑とした。藩侯またいたくこれを賞し、士分に列しようとしたが、六左衛門が固辞して受けなかったために開墾地を全部賜った。その後、元文五年(一七三六)に加賀藩の命で加賀藩の領有地である琵琶湖付近の村落の荒廃地を開墾し、堤防を設けて藩侯の命にこたえた。藩政以後その子孫は、金沢に移転したが、のちに神職となり、松任市戊の神社に居住していたのが旧一木村の人達の話題となり、先祖の功に報いる意味で前記の県社本村井神社の宮司として迎え現在に至るという。

  以上は石川郡誌と村井町の小林一之氏の助言を得たものである。

  御扶持人は前記のように藩より扶持米を受ける身分で、組支配を持たない十村役である。清金村は当時、中央組に属していたので道路や橋の普請の願いを出したことがこの書類によって残されているのである。わが富奥の他部落にもその頃、これと同じような個所があっただろうと思われるが、現在まで残された書類は前記のものだけである。

 

 

 

 二、耕地整理前の道路

 各部落に残されている耕地整理前の原形地図を見ると、道路と名のつくものは甚しく曲折している。隣部落がすぐそこに見えても、ずいぶんと遠まわりをして用をたしたものらしい。

  わが村の主要道路整備は明治三十五年に統合された富奥小学校が、中央に新しく校舎を建設した時から懸案となっていたが、明治四十年頃から末松・清金・上林・中林などで耕地整理が話題となり始めた頃、時の村長小林栄太郎の提案により、四ヵ年計画で主要道路の改修計画を立案したのである。大正四年に富奥全般の主要道路が完成し、現在の形を整えたという。それまでは町などへ行く場合は一日を費やしたという。もちろん車も自転車もない時代である。

  現在の農協前の道路は、試験場の粟田の方のカーブから真っすぐ保育所の方へ通じていた。東の方の学校の玄関の方にポプラの大きいのがそそり立っていた。

 

 

 三、太平寺往還と松金電車

  現在の国道八号線である。この道路は尾山街道と呼ばれて、石川県の交通の最大道路でもあった。前田侯が参勤交代の時は 「下に、下に」と大名行列が続いたとも聞かされている。富奥村の人達はほとんど太平寺往還と呼んでいた。今から見ると随分と狭い道幅に、金沢から松任までの乗合馬車も通っていた。

  その乗合馬車が大正八年に松金電車の軌道に変わって、待望のチンチン電車が走るようになった。金沢へ用事に行く時の便利さに、当時は珍しさとともに村人達を驚かせた。

  この街道は以前両側にずらりと松の大木が並んで立っていた。いかにも時代的な歴史を秘めた街道のたたずまいであった。太平寺のあたりはごく最近までこの松並木の老木が残っていた。おそらく昔の旅人達は松の根方で腰をおろしながら、手甲脚半に笠(かさ)をヒザ横において、きせるでうまそうにたばこを吸ったであろうし、またにわか雨をやりすごすかっこうの役目もあったのであろう。この道路では動橋の手前の曲りくねった所にも、つい最近まで松の老木がただ一ヵ所残っていたが、いつの間にかなくなってしまった。

  太平寺から往還までは百?以上もあった。往還の左角(現在の研修所)に石尾という家があり、右角には平島、平井清さんなどの家が往還のすぐ横にひっそりと並んでいた。

  松金電車の太平寺停留場もすぐ前にあった。太平寺停留場の次に野々市西口停留場(現在の城南センターの近く)があった。いずれも昭和二十九年十一月、松金電車が廃止されると同時に姿を消した。現在は太平寺バス停として利用されている。この道路も昭和三十九年頃から拡張され、国道八号線となって昔日の面影を全く失い、現在のような自動車騒音公害に悩まされる道路に変わってしまった。太平寺村から往還に至る両側の水田もすっかりつぶされて、太平寺に道路とともに都市化されてしまった。

 四、鶴来街道

  現在の二級国道を当時は鶴来街道と呼んでいた。野々市から鶴来に通じる山手山村にとっての重要な道路である。粟田の在所内はまことに狭い道路で、部落の北の方のはずれには宮岸の石灰納屋があった。当時は富奥のほとんどがこの宮岸の石灰を水田に使っていた。

  荷車など引いて金沢へ行った帰りは、必ず粟田の竹村か浅井の豆腐屋などで一休みするのが楽しみであった。竹村の横に竹内という居酒屋もあった。現在の荻田鮮魚店の場所に後寺(済世寺)、その南の方に米かち所があった。

  街道に面して、石灰庭、おけ屋、たばこ、駄菓子、雑貨屋、居酒屋、塩物屋、げた屋、豆腐屋、薬星、精米所など粟田の通りは、古くから富奥村でもただ一つ街の形態を保っていた懐しい思い出の部落であった。

  昭和四十七年に交通安全協会の長い間の要望と、地元粟田区民と有志一同の熱意によって、道路の拡張がなされ、見事な道路として面目を一新した。

  下新庄の部落の南の方の左角には、大きなケヤキの老木が道路のふちについ最近まで残っていた。樹齢五百年以上もあったろうか、太い〆縄を張って、真ん中ほどに大きな穴があり、そこに神棚を祭って、いつもお花とお供え物が絶えなかった。が、昭和三十八年頃、道路拡張とともに伐採されてしまった。

  上新庄に入ると越田のコンクリート屋などがあって、この鶴来街道もまたわが富奥村を通る重要道路の一つであった。

 五、犬の糞(くそ)街道

  矢作から西の方へ向けて松任に通じる道路で、後になって県道に昇格している。縁(えん)の木曽街道といわれ、それが犬の糞(くそ)と呼ばれるようになった。県道とは名ばかりで実に狭い草だらけの道路であった。それでもわが富奥村の中の県道として自慢された。昭和四十六年から改良されて見違えるようになった。

 六、粟田・末松線と石川総線

  この道路も県道である。正式な名称は額谷・三浦線と呼ばれている。道路幅も県道とは名ばかり、実に狭い道路であったが、やはり富奥村としては重要道路の一つであり、二つある県道の中の一つでもあった。同時に石川総線の電鉄が出来て、粟田停留場へ通じる主要道ともなった。大正四年頃に野々市駅(現在の西金沢駅)から鶴来へ石川電気鉄道が開通した。この電車は金沢から野々市を経て鶴来、白山下に至り、山間部を結ぶ資材運送や交通上きわめて有効な電車であった。

  この電車が開通するとき最初は野々市駅(現在の西金沢駅)から矢作の西、粟田の神社の横あたりを通って、下新庄・上新庄を経て鶴来に向かう計画だったらしい。ところが、が然反対の声があがった。その理由は株券を持つこと、田んぼがつぶれる、春耕の際馬が暴れてケガをする、若い衆が便利がよくなって鶴来遊郭などへ飲みに行く、などだったらしい。せっかく当時の富奥村に対して協力方を求めたこの計画路線も、上記のような猛反対にあって進まなかった。

  それが当時、四十万に寺田という酒造家がいて「そんなら私の方で株を全部持ちましょう」ということで、話は急転して四十万の方へ移り、現在の石川線になったという。その後、石川線電車の利用客は年々増加する一方となった。

  昭和十二年頃、当時粟田新保の竹内一朗氏がリーダーになってここに粟田停留場の設置を決意し、関係部落の署名賛同運動やら村議会に働きかけるなど猛運動を起こし、乙丸部落の田んぼを購入し、ついに昭和十三年に粟田停留場設置に成功した。富奥村はこのお蔭で実に便利がよくなり、利用者は石川線電車の駅の中でも常にトップクラスに入っていたという。富奥村だけでなく額村もほとんどこの駅を利用していた。

  昭和三十七年頃になると、自動車がふえてきたので、駅も改築されたりして名称も乙丸粟田口などと変わってしまった。

  太平寺の松金電車停留場と、粟田新保の石川線電車停留場は、その頃の富奥村の重要な道路と交通機関を結ぶ二大停留場であり、玄関口でもあり、村の自慢でもあった。

 七、中央道路

  太平寺から農協に至る道路をいつの間にかそう呼ぶようになった。この道路は太平寺の国道から富奥の役場、小、中学校、農協、消防舎、駐在所、診療所、保育所、公民館など心臓部に通じる動脈ともいうべき道路である。学校の北側の方から入ってくると、すぐ横は大きな堀であり、道路ぶちには大きなポプラの木が四、五本並んでいた。また現在の忠魂碑の前の運動場の方にもポプラの古木が二、三本並んでいた。実にポプラ並木のなつかしい道路であった。運動場の拡張や道路の拡張などで昭和の初めにポプラは伐採されてしまった。 昭和三十四年頃に、当時の富奥役場出張所長の谷勝信氏らが発起世話人となって、太平寺から上林を経て、能美郡の中島から鶴来へ行くバス路線を設ける猛運動を起こした。富奥村の真ん中へバスを通すのだとして、バスが通ればよけることも出来ないほどの狭い道路に、ついに北鉄など関係機関を動かして待望のバス路線を実現した。(川北村中島に至るバス路線で中島線と称する)昭和三十九年には宮川隆正氏が会長となり、中央道路拡張舗装の運動が起こされ現在の道路に完成された。

  農協前と保育所の前の道路中央にあった消防の鉄骨製警鐘台も交通激増により、昭和四十七年に公民館北側の現在地に移転された。

 八、時局救済事業と道路

  昭和七、八年と続いた米の不作と、世界的な恐慌とで、農村もまた極度に疲弊因ぱいしてきた。わが富奥村ではこの対策として収穫が終わった十月頃から、農家の救済事業として道路拡張工事などの事業に着手し、村の青壮年達にその工事を請け負わせて現金収入の一助とした。

  主な道路として清金から中央の小学校に至る七町二〇間(八〇〇?)の拡張工事と、農協の東側(現在の事務所と農機具場の間)から上林に向かって上新庄に至る一一町二〇問(一・四?)の拡張工事が主な事業であった。工事は二年継続事業として、清金線は中林・末松・清金の青壮年達で区分を決めて分担工事とした。

  いまならダンプカーで一日も運べばすむだろうが、若衆連中はこぞって朝七時頃から夕方七時頃暗くなるまで土運び人夫に出動した。土運びが終わると次は砂利バラスを運んだ。いずれも重労働であった。三日に一ぺんは夕方、酒を汲みかわして談笑するのが若い衆のささやかな肉体重労働の報酬でもあった。

 上林・上新庄線もこうして付近の若い衆が出て道路拡張に農閑期をがんばったものである。

 九、その他の道路

  農免道路

  昭和四十年頃にできた堀内地内から下林出村・中林・上林を経て鶴来町に至る画期的な道路である。田んぼのど真ん中を幅員十一?の道路がつくので、当時は随分と思い切った道路として村人達を驚かせたりしたものである。二級国道のバイパス的存在として、いまでは重要道の一つとなった。中林交差点に待望の信号機も取りつけられた。

  その他新しい道路は数限りがないが、主なるものを記して見よう。

  太平寺  野々市小学校通り   太平寺   野々市新村線

  太平寺  掘内線        粟田、三納 野々市小学校線

  堀内   下林西の方線     上林    上新庄線

  上林   木津線        清金    福正寺線

  清金   中村酒造線      清金    末松線

  中林農免道より上林道出口線   末松    木津線、福正寺線

  末松轟  上林線

  昭和四十年頃から急速にこれらの道路が新設、拡張、舗装され、かつての砂ほこりの道は面目を一新した。

 

 

 

 

 

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