[part1]
わが国の封建制度は徳川時代の初期に完成していたが、徳川中期以後の都市の発達と町人階級の進出とは、次第に土地経済を基礎とした幕府、諸藩の財政上の諸矛盾を強く表面化するようになった。幕府、諸藩の困窮の激化は、貨幣の改鋳、藩札の発行、封禄の転売、町人階級からの借金を余儀なくさせ、さらに被支配階級である農民に過酷な重税を課すこととなった。
このような動向に対し、幕府は士風の振興、風俗の矯正、財政の緊縮などを目ざし幕政改革を行ったが、とくに享保の改革、寛政の改革と並んで天保の改革は、幕政最後の大改革として著名であった。幕府の財政は文化、文政期に至ってようやく窮乏を告げ、封建制度の維持、強化のためにその補強が緊急の要務となった。
すなわち、天保の改革は老中水野忠邦により天保十二年(一八四一)五月から二年余にわたって遂行され質素倹約の奨励、風俗の矯正、低物価政策、人口政策、旗本救済策などを内容とする改革であったが、その本質において復古的、反動的性格を持ち、株仲間の禁止などによる商業組織の破壊を導き、所期の目的を達成することができず、水野忠邦の失脚をもたらした。一方、諸藩における財政の失敗も幕末においてとくに顕著となり、藩財政の建て直しによる支配体制の維持確立のために、藩政改革が相ついで行われた。
徳川時代における農業生産は、中期以後、畿内や瀬戸内沿岸地帯を中心としてかなり顕著な発展をとげたが、貨幣経済の進展にともなう商人勢力の伸長の結果「元禄に金銀ふえたるより人々おごりますます盛んになり、田舎までも商人行きわたり、諸色を用いる人ますます多く」というように、商業高利貸資本の農村浸透をもたらした。
土地の質入れ(借金の抵当として土地を金融業者に預けること)土地の移動、売買が禁止令を無視して行われ、一方において農民の土地喪失や零細化、窮乏化に拍車をかけるとともに、他方では土地集中が進行し、地主、小作関係を成立させるようになった。
徳川時代には郷村制度、すなわち大庄屋、名主(庄屋)、組頭(年寄)などの村役人と五人姐制度を一体とした体制が、支配階級により計画的に培養され、とくに年貢の徴収単位としての村の機能を効果的に果たせるように組織されていた。当時の地方行政組織は、将軍直轄の天領あるいは諸藩により一様ではたかったが、一般的には藩内の主要地に代官または地頭が置かれ、大庄星、惣庄屋などを支配せしめ、さらに彼らのもとに庄屋、名主が置かれていた。
村役人層の多くは身分的地位として最上層の家系から選出されることが多く、とくに「直接生産者の自立が不十分な地域では、村役人の系譜は強い力を持っていた」彼らは村治上の責任を負い、年貢の完済のために尽力することが要求されていた。とくに幕末の政情不穏の際における中間的階層としての村役人層の持っていた役割は重大であった。
前述のような商業高利貸資本の農村浸透と支配階級による農民への過酷な課税とは、とくに幕末において、農民生活への重大な圧迫となり、租税負担に耐えられない農民の離村逃散が著しくなり、強訴、百姓一揆などの反抗運動も頻発するに至った。干ばつ、冷害、虫害などの続出もまた農民の苦悩を増大させ、天明、寛政、天保年間などの大飢饉は、とくに農業技術の立ちおくれた、主穀単作の後進地帯ではなはだしかった。幕末の農村諸組合の形成は、以上のような社会的諸矛盾の激化、中でも農民生活の窮乏化と深い関係を持っていた。
※株仲間 徳川時代、江戸・京都・大阪などの商工業者が、幕府の許可を得て結成した。同業組合、新規加入制限、仲間外営業禁止などを行った。特権的な組合で、商品生産、流通の両面にわたる組織であった。明治五年、解放令によって廃止された。
※五人組制度 近世のわが国郷村に普及した相互組織で、平安時代の五保の制度、さらにさかのぼれば中国の保甲制度からきたといわれる。近隣五戸単位で一組とし、連帯責任で吉凶禍福、農事に至るまで助け合った。徳川幕府はこれを都市、郷村に強制し、浪人やキリシタン信者の取り締まりや租税徴収、相互の検察、制裁の制度として行政効果を上げた。
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