== 富樫氏ゆかりの石川郡神社 ==  昭和三十九年に発足した富樫卿奉賛会は、平成十六年に創立四十周年の記念事業として「加賀国守護 富樫氏ゆかりの神社写真展」を野々市町郷土資料館で開催しました。
 この写真展は、地元の郷土史家舘残翁氏の著作『冨樫氏と加賀一向一揆史料』に所収の「冨樫氏崇敬の石川郡神社」四十一社について、各神社の写真と富樫氏との関係について解説したパネルを展示したものです。

 富樫卿奉賛会の会報「とがし卿」では、[http://tiikijiten.jp/~digibook/togasi54_64/?openpage=23 第60号(平成18年7月)]、[http://tiikijiten.jp/~digibook/togasi54_64/?openpage=30 第61号(平成19年7月)]に分けて四十一社を掲載しました。
 現在の野々市町内八社のほか、金沢市内十二社、白山市内十四社(旧松任市内十四社、旧鶴来町内七社) が含まれ、富樫氏との関わりを持つ神社の広範な分布をうかがい知ることができます。

1 日吉神社
(金沢市大野町五丁目)
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 天平五年(七三三)近江国滋賀郡日吉神社の御分霊を奉祀し山王権現と称する。
 寿永二年(一一八三)木曽義仲の先鋒樋口次郎兼光が、平軍を襲い火を放ち、その為社殿講堂皆焼失した。同年五月富樫泰家が社堂を再建した事により、富樫氏の崇敬厚く年々供米三十俵、布十疋を寄進するのを恒例としたという。
2 大野湊神社
(金沢市寺中町)
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 延喜式内の古社。神亀四年(七二七)大野庄真砂山の宮地に、神明宮に次いで猿田彦神を合祀する。建長四年(一二五二)社殿炎上により現在地に遷座する。
 その後長享二年(一四八八)、富樫政親方に味方したと考えられ、一揆の兵火に遭って社頭の破壊が甚だしく、茅茨の生えるに任せ放題となる。社司には両家があって、布施氏は長享年中断絶し、河崎氏は復興に尽くし今に栄える。
3 高鞆神社
(金沢市藤江北二丁目)
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 創立年月は不詳である。富樫氏の支族藤井氏がこの地を治める。ことに藤井重継が加賀掾 (官位)に任ぜられ、藤井松磐が加賀権少目に任ぜられたことなどが、「史書」でうかがえる。
 藤井の氏人達は本社を崇敬したという。社蔵の野見宿彌の木像は、藤井守安が祈願の為に納めたものと伝えられる。
4 八幡神社
(金沢市十一屋町)
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 創立の年代は不詳であるが、本社の縁起として「この八幡宮の本地仏は(中略)平実盛北国下向の砌、守本尊と成給ふて安宅浦(小松市)に勧請あり、その後富樫家に安置の尊像となり、それより十一屋大藪鎮守と成給ふ(後略)天正十三年(一五八五)五月 富樫家臣政重」の記録がある。
5 長坂野神社
(金沢市長坂一丁目)
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この神社は、文治二年(一一八六)曹洞宗大乗寺の支房清立坊の鎮斎社として、当国城主富樫経鎌公の建立とされている。
 また、加賀守護富樫晴貞が病気平癒を祈願し、社領を寄進したと伝えられている。
 はじめは長坂社と称していたが、明治十五年(一八八二)現社名に改称した。
6 諏訪神社
(金沢市山川町)
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 創立の年代は不詳。守護富樫氏の重臣山川三河守がこの地に館を構えていた時に創設したと伝えられている。
7 八坂神社
(金沢市寺地町)
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 正応元年(一二八八)富樫家尚が越前(福井県)永平寺より、僧徹通を請じて大乗寺を開いたとき、鎮守として牛頭天王を祠祀したのが本社であると云う。後に大乗寺は今の地に移り、祠堂だけが残ったが付近の村人たちが尊敬し、産土神として仰いだと伝えられている。
8 御馬神社
(金沢市久安一丁目)
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 延喜式内の古社である。富樫家国が野々市に居館して以来累代にわたり富樫氏は本社を崇敬したと伝えられている。
 「加賀古跡考」には、富樫泰高が当社に稲荷明神を勧請したと記している。
9 馬替神社
(金沢市馬替三丁目)
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 創立は詳らかではないが、馬替の地は加賀の守護富樫氏の居館していた野々市と地を接し、高尾城の往き帰りには、必ずこの地を通り社参したと伝えられているほど、加賀守護富樫家の崇敬が厚かったという。その通路と思われる付近には、馬場先、塀跡などの地名が残っている。
 もとは白山社と称していたが、明治十一年(一八七八)現在の社名に改称した。
10 大額稲荷神社
(金沢市大額一丁目)
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 勧請は安元年中(一一七五~七六)で、野々市に居館していた加賀国守護富樫家は特に本社を崇拝し、元応以降 (一三一九~)累代にわたり奉幣祈願、社領寄進、社殿の造営などをしたと伝えられている。
 もとは稲荷社と称していたが、明治十三年(一八八〇)現社名に改称した。
11 額東神社
(金沢市額谷町)
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 延喜式内の神社である。創立は神護景雲二年(七六八)で、往古は村の東に当たる額山に鎮座していたものとされる。
 守護富樫家の崇敬も厚く、社頭造営ならびに社領の寄進もあり、額七ケ村の総社と伝えられている。
 後に富樫氏の兵乱に際し社殿が焼失したので、現在の地に遷座したといわれている。
12 額西神社
(金沢市額乙丸町)
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 延喜式内の神社で神護景雲二年(七六八)の創立と伝えられ、往古は藪田明神と称されていた。このことは「加賀国式内等旧社記」にもみえ、朝廷、武将の崇敬も厚く、とくに加賀の守護富樫家の尊敬が深く、社殿を造営したことが「宝永地誌」に記されている。
13 白山神社
(野々市町本町二丁目)
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 高安荘野々市の総鎮守として、富樫忠頼が永延年間(九八七・九八八)に創建したものと伝えられる。
 神仏習合時代は、白山権現、地主権現、十一面観音を安置するが、富樫氏滅亡の際兵火をこうむり焼失した。
 北横宮の地にあった本殿は、十九世紀前半頃に現在地に遷る。明治十四年(一八八一)白山社を白山神社と改称する。
14 布市神社
(野々市町本町二丁目)
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 富樫家国が康平六年(一〇六三)に館を野々市に築き、邸内に社殿を造営し父祖忠頼から崇拝する三柱の神像の安置を始まりとする。
 文治五年(一一八九)には、富樫泰家が住吉三神を合せ祀り、忠頼の木像も安置し護国神社と称した。
 大正三年 (一九一四)八幡社と照日八幡神社を合祀し、もとの富樫郷住吉神社を現社名に改称する。境内には弁慶が投げたと伝えられる「弁慶の力石」(別名「雨乞い石」)がある。
15 稲荷神社
(野々市町稲荷二丁目)
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 富樫家近が鳥羽離宮造営の役夫に際し、稲荷明神の信託によって、長治元年(一一〇四)に稲荷明神を祀ったのが起源である。
 富樫家は累世にわたり稲荷神を崇敬し、五百有余年の隆盛を続けたのである。祭礼に小豆飯を供える習わしが広く伝わり、赤飯の始まりとされている。
16 明治八幡神社
(野々市町堀内二丁目)
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 養老元年 (七一七)、僧泰澄が白山開山のおり神託によって宇佐八幡の分霊をむかえて祀ったと伝えられる。
 加賀国守富樫氏が代々崇敬し、帰依も深かったという。また、当社に合祀された菅原神社は寛治元年 (一〇八七) 富樫家近が勧請したものと伝えられている。
 明治四十年 (一九〇七)、中奥郷の総社として、菅原社及び宇田尻の八幡社を合祀し、現社名に改称する。
17 池上白山神社
(野々市町位川)
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 創建は不詳であるが、弘安五年(一二八二)に神主岡本氏が当社を兼任したとされる。
 境内には「御手水池」跡がある。大乗寺の主僧明峰素哲(富樫氏の出身)の葬儀を行うにあたり、白山権現の影向ありと伝えられ、村人たちは白山権現がお参りに来て手を清められた池として今も大切に守っている。 明治十二年(一八七九)白山社を現社名に改称する。
18 大兄八幡神社
(野々市町末松一丁目)
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 創建は延徳年間(一四八九~九二)とされ、往古は大兄明神と号し加賀国造大兄彦命を祀ったといわれる。
 富樫氏の老臣である末松信濃が隠居後、泰澄作とされる虚空蔵菩薩の社殿を本社の横に設けたとされている。
 もとは末松社と称し、明治八年(一八七五)末松神社と改める。明治四十年(一九〇七)轟蛭子神社を轟八幡神社へ合祀したものを、さらに明治四十二年(一九〇九)末松神社へ合祀し現社名に称する。
19 中林春日神社
(野々市町中林二丁目)
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 創建は不詳であるが、神主の岡本氏が久安六年(一一五〇)の頃から兼任したとあるので、これ以前の鎮座とみられる。
 富樫政親が毎年奉幣したという。また、富樫稙泰が災厄の無きことを祈願し甲冑一領を奉納したとされる。
 もとは春日社と称したが、明治八年(一八七五)現社名に改称する。現在の拝殿は、明治四十年(一九〇七)に旧鶴来町の金剣宮蛭子社拝殿を移築したものとされている(金剣宮社史)。
20 林郷八幡神社
(野々市町上林三丁目)
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 創建は長和二年(一〇一三)、往古は拝師明神または拝師八幡社と呼ばれ、拝師郷の総社であったと伝えられる。
 元応二年(一三二〇)、富樫泰明が特に崇敬して以後、累代守護神とされ、富樫政親の寄進状が残っている。また、観応年間(一三五〇~五一)上林の地頭、大桑禅門玄猷および土豪林氏(富樫氏と同族)が社殿を造営し、社領・神宝を納めたという。
 明治十八年(一八八五)現社名に改称する。拝殿の横にある椎の大木(町指定天然記念物) は、古来神木として保存されている。
21 白山郷恵比寿神社
(白山市部入道町)
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 養老七年(七二三)土中から一体の神像を得て、村人達が祀堂を建立したのが創始と伝えられる。
 富樫氏の同族林光茂は、常に当社を崇敬して歳事厚幣を奉ったと云われている。しかし、文明・長享(一四六九~一四八八)の頃兵火にかかり旧記を失ったという。
22 神田白山神社
(白山市安養寺町)
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 神亀五年(七二八)僧行基がこの地に安養寺を起こしたのが始まりとも、また大神姓の人が本社を創建し、その祖先を祀ったとも伝えている。
 富樫氏ならびに大久保源左衛門等の、国司武将の崇敬厚き神社である。社蔵に「則国の刀一口、さる社神田明神宝前に奉寄進する」旨の時貞(花押)の寄進状があるといわれている。
23 寺下知気神社
(白山市知気寺町)
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 創立の年代は不詳であるが、あるいは慶長年間(一五九六~一六一四)の創建と伝えられる。
 この地は、富樫氏と同族である林六郎の居館したところとして往古より世に知られ、当社と関係あるものと察せられる。
 はじめは知気社と称したが、明治二十一年 (一八八八)現社名に改称した。
24 森島神社
(白山市森島町[下森島])
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 富樫氏の同族と推察される石川郡福岡の豪族藤原重宗が建立した由緒ある古社といわれている。往古は伊勢神宮の神領であったとの伝承があり、これを物語る俗謡がある。
 もとは神明宮と称し後に森島社となり、明治十四年 (一八八一)現社名に改称した。
25 白山神社
(白山市森島町[上森島])
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 富樫信家が白山長吏として森島に居館した時、日常奉仕する白山比咩神社を勧請して、一社を建立したのが当社の起源であるとされている。
 社蔵の額に「(前略)武運長久子孫繁栄の祈願鎮守府将軍藤原利仁八世の孫 冨樫介藤原信家」とあり、また富樫晴貞画の絵馬額が一面あるという。
26 槻橋神社
(白山市月橋町)
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 富樫政親の代官「槻橋弥四郎」が、御蔵山に居館して当社を崇敬したと伝えられる。
 越登賀三州誌に「富樫氏城糧、倉址、御蔵山とて月橋村領の山上にあり今も焦米土中より生ずる也」とあって、蔵山の地名の起こりとされている。正中二年(一三二五)富樫氏より奉納米ありとの記載がある。
 もとは八幡社で、明治十五年(一八八二)現社名に改称した。
27 白山比咩社
(白山市三宮町)
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 崇神天皇七年(紀元前九〇年)に創建されたと伝えられる延喜式内の名社で、古来より白山本宮として尊崇されている。
 全国三千有余におよぶ白山神社の総根源社で、加賀の一の宮である。
 後醍醐天皇時代の嘉暦三年(一三二八)守護富樫介が神剣神馬を献じたと言われる。 また、上林郷の地頭であった大桑禅門沙弥玄猷が田地を奉じたとも伝えられている。
28 宇佐八幡神社
(白山市横江町)
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 創立年代不詳。横江郷を領していた横江氏は、富樫氏の一族にして、その隆盛時には、横江七郎基光なるもの当社を尊信し社殿を造営し、横江郷の総社としたと言い伝えられている。
 もとは八幡社であったが、明治十年 (一八七七)、現社名に改称した。
29 鎁城八幡神社
(白山市福増町)
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 社記によれば、永延年中(九八七~九八九)富樫忠頼の家臣、布施右兵衛が本村に居館し、八幡神を邸中に鎮斎したのが本社の起源とされる。
 長亨の役(一四八八)に富樫氏が敗れて、里人新に福増村の産土神と崇めて今日に及ぶという。
 もとは八幡宮と称したが、明治十四年(一八八一)地名をとって現社名に改称した。
30 宮永八幡神社
(白山市宮永町)
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 豊勝宮または放生八幡宮とも称した。社記によると弘仁十四年(八二三)既に宮永郷に鎮座せし旧社で、一国一社の八幡宮といわれ、かつては毎年八月十五日に放生会の神事を斎行したという。
 延文四年(一三五九)の富樫氏春の禁制、文明六年(一四七四)の富樫政親の寄進状、その他古文書、社記等を蔵している。
31 東市杵島姫神社
(白山市相川町[東相川])
[[ファイル:guidemap.gif|link=http://gm.nono1.jp/modules/map7/stable.php?op=&lid=6991&w=650&h=450&z=13&lat=36.53832942872818&lon=136.5497589111328&mtype=normal¢er=1&cont=1]]
 富樫泰家が寿永二年(一一八三)五月、安芸国厳島神社の御分霊を勧請したと伝えられる。
 はじめは市杵島姫社と称したが、明治十四年 (一八八一) 現社名に改称し、同四十年(一九〇七)一月に南出戸鎮座の菅原社を合祀した。
32 徳光八坂神社
(白山市徳光町)
[[ファイル:guidemap.gif|link=http://gm.nono1.jp/modules/map7/stable.php?op=&lid=6992&w=650&h=450&z=13&lat=36.53460542245812&lon=136.5322494506836&mtype=normal¢er=1&cont=1]]
 永延元年(九八七)、富樫忠頼が牛頭天王を祀り、その家臣徳光氏を別当として奉仕せしめたのに始まる。
 牛頭天王社、後に祇園社と称し、明治初年(一八六八)に現社名に改称した。浜宮八幡社に徳光八坂社を合祀し大正七年(一九一八)現地に遷宮したものである。
33 安田春日神社
(白山市北安田町)
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 往昔、山鳥郷総社安田保大神と称し、醐醍天皇の延長五年(九二七)二月、国守有佐王が大和国奈良の春日明神を勧請したのに始まる。
 長久三年(一〇四二)、富樫忠頼の支族、安田三郎惟光が当村に居館して社殿を造営したと伝えられている。
34 小白山神社
(白山市小川町)
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 創立は不詳であるが、白山記に神符社とあるのが本社である。規模は宏壮で祭礼は盛大であり、白山の惣門があったといわれる。
 元亀年間(一五七〇~七三)、加賀介富樫政親の遺臣、菱田忠太夫が神主のとき、現在の地に遷座したといわれている。
35 徳丸白山神社
(白山市徳丸町)
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 久安六年(一一五〇)富樫氏の家臣である相州高倉郡寒久村の山上新保之介藤原宗久が加州松任駅に来住し富樫氏の臣となる。
 当村地内に居住し当社を尊信したと伝えられる。
36 南郷八幡神社
(白山市専福寺町)
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 後堀川天皇の安貞年間 (一二二七~二九)に横江庄の領主で富樫氏の一族横江光房が、菩提寺としていた天台宗専福寺の守護神として八幡神を勧請し、八幡社を地内の南郷に創建したのが当神社の創立とされる。
 その後、横江氏が横江庄を去ったため専福寺は廃寺となり、寺の跡に当社が移転した。
 明治十三年(一八八〇)八幡社を現社名に改称した。
37 高田神社
(白山市福正寺)
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 加賀介富樫家尚の家臣に山脇頼之という者がいて、正元・文応(一二五九~六一)の頃、僧侶「親鸞」 の徒弟となり慶念と名乗る。
 家尚はその志を尊び慶念福乗寺を建て慶念に与えた。慶念の死後に一時期廃寺となるが、後に復建して福正寺高田社と称した。
 明治十三年(一八八〇) に高田社から現社名に改称した。
38 正八幡神社
(白山市菅波町)
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 創立は貞観年中(八五九~八七七)。富樫氏と同族の林六郎光明が当社を尊崇し拝師神社と称した。
 境内の大銀杏は神木とされ、銀杏の葉三枚を当社の紋章としている。また、この銀杏の葉三枚を重ねて咬めば歯痛が根治すると伝えられる。
 明治十五年(一八八二)八幡社を現社名に改称した。
39 宇佐八幡神社
(白山市藤木町)
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 村上天皇の天暦中(九四七~九五七)に郷士藤波某の勧請と伝えられる。文明年中(一四六九~八七)富樫一族の園道観がこの地に住み、社殿を造り年中供御料として五石の地を寄進し、神像二体を納めたと伝えられる。
 八幡社と称され、郷民より神社付近を流れる中村用水の守護として崇敬されている。
40 菊理比咩社
(白山市御影堂町)
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 応永五年(一三九八) 山島郷島田村の郷士島田権頭は、近江源氏の一族で富樫政親に仕え、邸内に一祠を営み守護神として崇敬する。
 その後、永正五年(一五〇八)越前の国波佐谷に転住したので、村民は邸内の祠を産土神とし白山社と称する。
 明治十二年(一八七九)白山社を現社名に改称した。
41 白山神社
(白山市上島田町)
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 天安三年(八五九) 加賀権大掾島田忠臣の建立とされる。長元年中(一〇二八~三七)富樫氏の支族墓崎惟重が島田氏を冒して島田権守と称し社殿を造修した。
 応永五年(一三九八)権守は、出家して法敬坊順誓と号し当社の堂守となり社号を白山観音宮と称した。
 明治十三年(一八八〇)白山社を現社名に改称した。
[[category:富樫氏|とかしうしゆかりのいしかわくんしんしや]]