末松廃寺

出典: ののいち地域事典

目次

白鳳の伽藍 末松廃寺

(図説 野々市町の歴史 より)

 末松廃寺は、手取川扇状地開発の発展段階を背景として、7世紀後半に造営された石川県最古の寺院である。野々市町末松地内に所在するこの寺院は、江戸時代には存在が知られており、天保11年(1842)、加賀藩士津田鳳卿が塔心礎の計測を行っている(「石川訪古游記」)。近代に入ると、大正11年(1922)に、石川県史蹟調査嘱託の上田三平が、初めて考古学的な所見を報告し、昭和14年(1939)にこの報告が基礎資料となって文部省史蹟に指定された。

 昭和40年・41年(1965・66)には、伽藍の確認を目的とした発掘調査が行われ、塔を東に置き、金堂を西に置く、法起寺(ほっきじ)式の伽藍配置をもつことが明らかになった。7世紀後半に全国各地で造営された寺院は、官営寺院の伽藍配置に規範を求めることが多く、末松廃寺も大和の法起寺や川原寺といった大寺の影響を強く受けたものとみられる。

 創建時から、初期律令体制に呼応してその伽藍を維持してきた末松廃寺は、8世紀後半でいったん姿を消している。その後は、1世紀の空白期間を経て、9世紀後半から、掘立柱建物を堂宇とする再建末松廃寺がいちなまれているが、創建時とは規模を異にする、仏堂的な施設となっている。

 末松廃寺は、北加賀における、仏教の受容を示すモニュメントで、営造者の権威を誇示する巨大な建造物でもあった。造営の主体となったのは、郡領層を中心とする在地の豪族と推定され、その候補として、古墳時代以来北加賀を本拠地としてきた道君(みちのきみ)をあげることができる。


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掘り出された石川平野の遺跡と末松廃寺

(ふるさと歴史シンポジウム より)

位置と環境

 末松廃寺跡は、石川県のほぼ中央に位置する野々市町の南西端、末松2丁目地内に所在し、標高38m 前後を測る手取川扇状地の扇央部にあたる。発展著しい当町にあって、周辺は農村住環境活性化事業の施行等により緑豊かな景観を保持している貴重な地区であり、国道157号線鶴来バイパスや石川県立大学の整備を経た今も町域のオアシスとしてどこかやさしい空気を醸し出している。史跡公園として整備された本遺跡も、遠足を含めた課外学習の場として活用されており、特に春は隠れた桜の名所として近隣住民に親しまれている。

これまでの調査

 末松廃寺は、江戸時代からその存在が知られており、加賀藩士津田鳳卿が1840(天保11)年までに本遺跡を訪れ、塔の心礎を計測し、これが地元では「唐戸石」と呼ばれていたことを記録に残している。  その後、1888(明治21)年には、この心礎は末松の大兄八幡神社に運び込まれ、手水鉢に転用された。

 1911(明治44)年より始まった耕地整理事業では、多くの瓦や土器が出土したと伝えられている。しばらく時をおいて、大正時代に入ると石川県史跡調査嘱託として赴任していた上田三平が1921(大正10)年に現地調査をおこない、心礎の計測などをおこなっている。  昭和に入ると、1937(昭和12)年に鏑木勢岐(石川県立金沢第一中学校教諭)を担当者として、塔周辺の発掘調査をおこなっており、同年上田三平が瓦散布地の試掘をおこなった。この結果を受け、富奥村長小林千太郎が内務・文部両大臣に史跡指定の要望書を提出した。  翌1938(昭和13)年には上田三平が史跡指定に必要な書類、図面、写真などの作成を指示し、1939(昭和14)年9月7日に文部省から「末松廃寺阯」として史跡に指定され、永く後世へ守り伝えられることとなった。

 石川県では加賀市法皇山横穴群や狐山古墳、七尾市七尾城に次ぐ4番目のことである。

 その後、1961(昭和36)年に地元の高村誠孝氏により、金堂推定地の西側水路より銀製の和同開珎が採取され、「廃寺の全容を解明したい」という機運が一気に高まった。これを受けて、1963(昭和38)年には、石川考古学研究会により試掘・測量がおこなわれ、1966・67(昭和41・42)年には奈良国立文化財研究所技官を担当者とする末松廃寺調査団により内容確認のための本格的な発掘調査がおこなわれた。

 その結果、白鳳時代の創建とみられる塔、金堂、築地などが確認され、これがいったん廃絶されたあとしばらく間をおいて再建された可能性が高いことが指摘された。  また、東に塔、西に金堂を配する法起寺式の伽藍配置を採用した寺院であったことも判明した。この発掘調査の成果を受けて、1969(昭和44)年に史跡の追加指定が行われ、総面積は21,235.5㎡となった。

 調査終了後の1968(昭和43)年から1971(同46)年にかけて、指定地の公有化や公園としての整備、収蔵庫の建設が行われ、本遺跡の整備が完成した。

まとめ

 末松廃寺は、創建伽藍がその威容を保っていたのはわずか半世紀ほどのことであり、7世紀第3四半期~8世紀第1四半期までのことである。この時期は周辺の集落遺跡が隆盛を極める時期にあたるため、その事情の理解を困難にしている。


 建立した主体については、従来「道の君」であるという説が半ば定説化していたが、今回の検証によって加南・能美地域産の須恵器が多くみられること、これまで青戸室石であるといわれていた塔心礎が手取川の転石を加工した安山岩である可能性が高いこと、周辺の集落遺跡に近江・丹波からの影響が存在したことなど、ヒト・モノの動きに財部氏などの南加賀の勢力が大きく関係していることがうかがわれる。

 もっとも、当時の道の君の権勢を考えた場合、その存在の大きさを無視してこの周辺の開発を含めた大事業を成し遂げられるはずはなく、その関与のし方が注目される。


ふるさと歴史シンポジウム「いまよみがえる末松廃寺」

 ・平成21年11月15日(日)

 ・野々市町情報交流館カメリア ホール椿

 ・シンポジウム資料

 このシンポジウムは、末松廃寺跡の発掘調査終了から42年を経てまとめられた調査報告書の刊行を記念して開催されたもので、末松廃寺の建立に関してこれまでの定説のほか新たな知見を加えた、それぞれの報告などが展開された。

 基調報告では、末松廃寺と前後して建立されたとされる富山県や福井県などの扇状地に掛かる寺院調査の結果をもとにして、その用水の開発や地割りなどから、手取川扇状地の開発と末松廃寺の地理的状況を推測した。

 個別の報告では、塔や金堂などの配置が、白鳳期、天平期、平安期と時代とともに変遷しており、その姿を少しずつかえていたことや、末松独自の瓦が使われていたことなどの報告がされた。  また、末松廃寺の建立は、国家的プロジェクトとして進められた可能性が高いことが紹介されたが、僧房など寺院に備わっているとされるいくつかの建物跡が見つかっていないことなどから、その建立の意味合いや、塔が実際に建っていたのか、その大きさは?などの「ロマン」については、更に今後の研究が必要とされた。

 いずれにしても、発掘調査から20年以上を経た場合、報告書が発行される例はこれまでにないとのことで、末松廃寺の発掘調査に係わった研究者や地元の熱意が賞賛され、パネリストからは、シンポジウムの定期的な開催や歴史博物館の設置などが要望されていた。

末松廃寺の再現映像です

 パネルディスカッションの背景に流れた末松廃寺の再現映像。この映像は、金沢工大の学生が約1年間かけて制作したもの。(Windowsメディアプレーヤー)

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