町名の由来

出典: ののいち地域事典

町名の由来

 養老元年(七一七)、泰澄大師が白山を開き、その帰りにこの地に留錫して大日如来の大仏を創建されたというのが、もっとも古い歴史とされている。

 従って地名は記、紀、志、国史に布市、野市、野々市と記されているが、元慶七年(八八三)加賀国司の任にあった菅原道真公が白山比咩神社参詣の途中、布市川畔に休憩して、「疲驂布水に嘶く」の一詩を詠んでから、この地名が広く知られるようになったと伝えられている。  


目次

野々市

 野々市の古名は布市といった。地名の起こりについては次の二説があるが、いずれともいえない。

 その一昔この地に大徳の人があって、常に白山大権現を遙拝していた。その人が拝むと真夏でも雪が降り、布の幅はどの白雲が一里あまりたなびいた。これを人々が〝布一里″と呼んだのがなまって〝布市″になった。

 その二その昔、この地で布の市が開かれた。

 布市が野々市になったのは富樫氏七世の家国が康平六年(一〇六三)、加賀の国府を小松から野々市に移したときである。加賀国加賀介だった富樫氏はその後、寿永二年(一一八三)の倶利伽羅合戦に十二世泰家が源氏に味方して加賀国守護に任ぜられ、四百年もの長きにわたって加賀一円を治めた。この間、野々市は加賀の国府として大いに栄えた。

 長享二年(一四八八)、二十四世政親のとき、勢力を強めてきた一向宗が分家の泰高を擁して政親を高尾山に滅ぼした。これにより加賀の治権は実質的に一向宗の手に移り、国府野々市の繁栄は一向宗の本拠・尾山御坊がある金沢へと移っていった。

 さらに天正八年(一五八〇)、柴田勝家は織田信長の命で加賀一揆を激しく攻め、戦場となった野々市は灰土と化した。

 そして戦いのあと、住吉の宮の氏子が一日市町・中町・六日町を、鎮守宮八幡社の氏子が西町を、白山社の氏子が新町を、外守八幡社と辻の宮の氏子が荒町をなして、ほぼ今日の野々市町が形成された。

 明治四年の廃藩置県のあと同九年、野々市村は石川郡第十一区五小区に属したが、同十一年には額村字馬替、富奥村太平寺を併合、同二十二年四月町村制実施により単村に復し、大正十三年七月に町制を敷いた。

 

富奥

 文政(一八一八)以前の調べとみられる三州志来因概覧の図譜村籍によると、のちに富奥村を形成した十四部落は次の郷や庄に属していた。

 まず、富樫庄には矢作、下新庄、粟田新保、上新庄の四部落、林郷には太平寺・位川・下林・三納・藤平田・藤平田新・中林・上林の八部落、中奥郷には清金・末松の二部落といったぐあいである。

 富奥村の名は藩政時代の組制度にもとづく富樫組の富と、中奥組の奥をとったもので、村の成立は明治二十二年の町村制施行が最初である。

 だが、富奥地区の歴史はもっと古くにさかのぼることができる。すなわち、隣接する旧押野村の御経塚からは縄文時代のものとみられる遺跡が発見されて、一帯が早くから開けていたことがうかがえるほか、富奥村の一部落である末松では奈良時代の国分寺級とみられる末松廃寺跡が見つかっているからである 。

 また、部落名からうかがうと、三林ともいわれる上林・中林・下林の林は、和銅六年(七一三)の諸国風土記によると林の一字を拝師、拝志と改めたことが見え、事実三林は拝師と呼ばれていた時期があった。

 さらに矢作は矢矯(やはぎ)からきた名前で、古くは矢作りをしていたことがうかがわれ、太平寺はかつて寺院があったことを物語り、一向一揆の際は戦略上の要所であった。

 富樫、林の豪族につながる子孫が多いことも富奥村の特徴で、地域的なまとまりの強さのもととなっている。

 

 郷村から野々市町へ編入したのは堀内・田尻・蓮花寺・徳用・稲荷・三日市・二日市・長池・郷(下田中)・柳町の十部落であり、横江・番匠・田中(上田中)・専福寺の四部落は松任市へ編入した。

 郷村という名は、この地域がもっぱら郷用水のかんがいを受け、水害、かんばつともに共通の利害を持っていることと、田中に置かれた小学校名に郷の字が用いられたためで、明治二十二年四月の町村制がその初めである。

 郷村を構成していた部落は江戸時代からあり、寛文十年(一六七〇)、文政四年(一八二一)の十村組織にはその名がみえる。

 文政四年の組織をみると、富樫組に属していたのは横江・田中・徳用・三日市・稲荷・二日市・長池、中奥組に属していたのは堀内・田尻・蓮花寺・専福寺・番匠垣内・柳町であった。この組織は明治五年正月の区制実施まで続いた。

 この区制では郷村関係は  第五区三番横江、長池  第五区四番番匠垣内、堀内、徳用、田中、田尻、蓮花寺、柳町、二日市、稲荷  第三区六番専福寺

 となった。その後、明治十一年七月に郡区町村編成法が制定されて戸長役場が置かれたときは、郷村関係では横江だけ独立して単独の戸長役場が設けられ、専福寺は徳丸・倉光・乾垣内・幸明・三浦・五歩市・橋爪の七ヵ村と連合その他は御経塚・矢木荒屋の二ヵ村を加えて、それぞれ一つの戸長役場を設けた。

 また、明治十七年六月、民選戸長を廃して官選にしたときは、横江の戸長役場は徳丸村ほか二十三ヵ村戸長役場の所轄となった。  明治二十二年四月に郷村が誕生するまで、このような変遷があったのである。

 

押野

 押野村は太郎田・押野丸木をふくむ押野・八日市・八日市出・八日市新保・押越・野代・御経塚・矢木荒屋・矢木・森戸の十一部落からなっている。

 昭和二十八年、金沢市稚日野町の安村律義氏が、八日市出との村境に近い古府町地内で、約五千年前の村の跡を発見したのがきっかけとなり、八日市新保・御経塚・野代にも大昔の村の跡のあることがわかってきた。

 さらに同二十九年、石川考古学研究会が押野村教育委員会の援助で八日市新保遺跡を発掘、同三十一年には村史編集委員会が御経塚遺跡を発掘した。これによると最初の村は二塚校下と押野村の境近くに作られ、約三千年ほど前に御経塚中心に第二回の村づくりが始まったとみられる。だが、押野・野代・野村(現神野町)などの名前が示すように原野が多かったので、郷の中心になるような村はなかったようである。

 押野村の起こりについてはつまびらかでないが、押野・八日市・太郎田・八日市新保・矢木・御経塚などは南北朝から室町末期ごろまでに、押越・野代・八日市出・森戸・荒屋などは戦国時代から藩政時代初めまでに独立の村になったとみられる。

 また、押野村と一向一揆の関係については長享二年(一四八八)に富樫政親が高尾城で自刃したとき、大野庄、押野庄で組織した六ヵ組門徒の頭である高橋新左衛門が、押野山王林に陣地を構えたといわれているので、押野村の農民門徒もこの一揆に参加していたことがうかがわれる。そして一向一揆の終えんとなる佐久間盛政の金沢御坊占領のときは、押野の十村役である後藤家の先祖弥右衛門が盛政の軍に協力し、感状と土地三百石を与えられた。

 押野村の十一ヵ村は文政四年(一八二一)の御仕法までは全部押野組に属していたが、それ以後は米丸組と改称され、うち押野・八日市・押越・野代・矢木荒屋の五ヵ村は富樫組に属することとなった。押野村が一本になったのは明治二十二年の市町村制施行のときである。

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