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出典: ののいち地域事典
じょんから
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==じょんから== 「じょんから」の名称は、古くから諸説があるようで、「自安和楽」(じあんわらく)の読み方が転訛して「じょんから」(自から安んじて和やかに楽しむ)になったともいわれているが、定かではない。<br> ---- 野々市の「じょんから」節は、「自安和楽(じあんわらく)」のなまり言葉で、富樫氏第四代忠頼(永延元年=987=加賀国加賀介に任ぜらる)の政治理念である。<br> 当時、貧富の差と階級制度のきびしい封建時代にあって、「武士も町人も百姓も手を取り合い、ひとつ輪になって踊り明かした」という祭事から、じょんから節という踊りが生まれた。<br> その後、幾多の政変、戦乱の渦中にありながら民衆とともに生き、受け継がれてきた貴重な文化遺産である。<br> 昭和27年3月29日に文部省の無形文化財に選定された。<br> 昭和41年6月11日、金沢市観光会館(現金沢歌劇座)において三笠宮ご夫妻にじょんから踊りを披露した。<br> (「野々市町20年のあゆみ」より)<br> <br> <br> 野々市の盆踊は、昔ジョンカラ踊と麻木返踊と二種あって、毎年八月(昔の七月)の盆に踊っている。昔はこの盆踊の外に御贄踊と云って、毎年八月十六日(今の九月)の祭礼にも踊ったそうである。この御贄踊が承応年間(昭和二十八年ヨリ凡三百年前)に至って盆踊に改められ、ジョンカラ踊と同一の踊になったようである。<br> ジョンカラ踊は仏道より出でたる踊にて、彼の目連尊者の母が八万地獄より浮び上った時、歎喜の踊を踊ったと謂う縁起に基き始まったものらしく、大和国、壺坂寺の伝記に依れば、目連の母は女ばかりに蓮の葉の笠にて顔を隠くして踊ったとあれば、野々市の踊も、その伝統を引いてか昭和の始めまで編笠を冠って踊ったもので、古来伝わる盆踊であることが窺われる。<br> (「野々市町小史」より)<br> <br> <br> この民謡の名称を含めた由来については、古くから諸説あります。室町時代にこのあたりで踊られていた「御贄踊り(おにえおどり)」に由来するという節、江戸時代に富樫氏の徳を讃えつつ、武士や町民、百姓などの区別なく盆に踊り明かしたという説、古浄瑠璃と都都逸系の真宗と関係した歓喜嘆、くどき節が加わったという節、長崎県平戸に伝わる国指定無形民俗文化財の豊年を願う念仏踊りの由来ともされた「自安和楽」(自ら安んじて和やか楽しむ)という意の転化したものであるという説、上様(じょうさま=蓮如)から教えられた説などがあります。 <br> (「野々市町ホームページ」より)<br> [http://www.town.nonoichi.lg.jp/sangyoshinko/jonkara_festival_what.html 野々市じょんからまつりについて]<br> [http://nono1.jp/modules/myalbum/viewcat.php?cid=423 2009年の模様]<br> <br> <br> '''野々市じょんから節(CDのジャケットより)'''<br> 野々市町は中世における加賀国の政治・流通経済・文化の中心地として栄え、富樫氏が守護所を置いたところです。富樫氏は累代にわたって思想の善導と仏教文化の導入を盛んに行いました。<br> こうした中で、仏教から出たといわれるじょんから節は、富樫氏の徳を讃えるものとして、武士・町人・農民の区別なく一つの輪のなかで踊られ、今日に受けつがれ、民衆の安らかな生活をしのばせる素朴さをもっています。<br> じょんからとは、自安和楽の転化であると解され、自ら安んじて和やかに楽しむ、この心と姿こと私達が大いに学ぶべきであって、この「じょんから節」踊りを末永く後世に伝えねばならないと思っております。<br> <br> '''■地域のじょんから節'''<br> [[野々市じょんから節]] [[富奥じょんから節]] [[御経塚じょんがら]] [[郷じょんから]] <br> [[category:伝統文化|しよんから]]
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