第一節 沿革

 

一、町名の由来

 養老元年(七一七)、泰澄大師が白山を開き、その帰りにこの地に留錫して大日如来の大仏を創建されたというのが、もっとも古い歴史とされている。

 従って地名は記、紀、志、国史に布市、野市、野々市と記されているが、元慶七年(八八三)加賀国司の任にあった菅原道真公が白山比咩神社参詣の途中、布市川畔に休憩して、「疲驂布水に嘶く」の一詩を詠んでから、この地名が広く知られるようになったと伝えられている。

 

 

二、富樫氏の開府

 延喜十五年(九一五)、藤原鎌足の玄孫魚名六世の孫利仁は、鎮守府将軍のとき、二男叙用を加賀の「土無加之」(富樫の郷)に派遣、領守としたことが、加賀における富樫氏の始祖である。

 永延元年(九八七)、富樫四世忠頼卿が一条天皇から加賀の国司に任ぜられ、この地に赴任して用務をとった。そのすぐれた仁政は広く尊敬の的となり、民衆は敬慕のあまり忠頼がこの地に留まることを熱望し、朝廷に訴願するにおよんだので、永住の勅許が与えられた。忠頼は平安の地京都をしのび、野々市の近郊を、伏見川・高尾山・山科・住吉の里などと名づけ、この地に第二の京都を見いだそうとしたという。

 康平六年(一〇六三)、第七世家国が加賀の国の守護職に任ぜられてこの地に館を定め、布市を野々市に改め、住吉の宮(現在の布市神社)を創建した。

 富樫氏は第一世利仁から第二十四世政親に至るまで善政を行い、住民の信望を集めて家系を継承した。が、長享二年(一四八八)六月九日、政親が一向一揆のため敗死、約五百有余年もの間、加賀の政治、文化の中心地として戸数数千を擁した加賀の旧都野々市も、ついにその輝く歴史を閉じた。

 文治三年(一一八七)二月十日、兄源頼朝の誤解から追捕の身となった義経は、京都の久我邸で妻静御前と別れ、弁慶らとともに主従山伏に扮して北陸路に潜行、同二月二十九日、一行は安宅の関にかかった。

 すでに頼朝から逮捕の命を受けていた安宅の関守富樫泰家は、一行が義経主従であると見抜いたものの、白紙の勧進帳を読み上げ、主君を打ちすえてまで義経の無事通過を図ろうとする弁慶に、同じ武士の立場から同情して一行を通過させた。

 虎口を脱した義経主従は、それから白山に参詣、三月三日の桃の節句に野々市の富樫館に立ち寄って弁慶が勧進を請い、奥州の藤原秀衡をたよって落ちて行ったという。

 

 三、一向一揆と富樫氏の滅亡

 政親の死後、元亀元年(一五七〇)頃まで、泰成、植泰、泰俊、晴貞が富樫家の再興を図ったが、晴貞が伝灯寺で滅ぼされて成らなかった。

 この間、一向宗をひきいる蓮如は、山崎山(今の金沢城跡付近)に本源寺を建て、城郭を築いて「御山」とよび、およそ九十年間、全国にも例のない大坊主と土豪門徒の共和政体による政治を行った。

 こうして富樫氏滅亡後の野々市は、一向宗徒の治下にあったが、天正八年(一五八〇)三月九日、織田信長は本願寺僧兵一揆に対して、柴田勝家、佐久間盛政らをして激しい討伐を行った。この戦いは火攻めとなり、神社仏閣、民家ことごとくが焼き払われ、中世の国府として繁栄を誇った野々市もついに焼け野原と化したのである。

 

 

 四、藩政時代

 藩政時代にはいって前田家の統治を受けることになった野々市は、もはや政治の中心をはなれ、北陸道の一宿駅にすぎない存在となった。純農村としての形態もこの頃に固まり二百八十年の平和のうちに大政奉還を迎えた。

 

 

 五、明治以後

 明治四年(一八七一)の廃藩置県で野々市は第五区五番組に編入、同九年には石川郡第一区五小区に属し、同十一年には郡区編成法施行により民選戸長の役場が置かれ、太平寺、馬替の地区を合併、同十七年から官選戸長に改められた。

 ついで同二十二年四月、町村制施行とともに戸長が廃止され、村長が置かれた。以来三十五年、挙村一致の努力により躍進的な発展をたどり、大正十三年七月一日に町制をしいて由緒ある地名を生かし、野々市町が発足して昭和に入り、町村合併にと結びついて行く。

 

第二節 地勢

 

一、位置

 野々市は石川郡のやや東部(北緯三六度三〇分ないし四〇分、東経一三六度三〇分ないし四〇分)に位置し、山、海に接する地点がなく、全く平たんな田園地帯である。東北部は金沢市に、南部は鶴来町に、西部は松任市に接している。

 

 

 二、面積

 東西四・五㌔、南北六・七㌔、面積一三・四五平方㌔、標高は最高部で海抜約五〇㍍のところもあるが、ほとんどはそれ以下の平たん地で、隣接市町との境界も一見してわかりにくい。町の中は手取川からの七箇用水のうち五用水路が南北に貫流し、旧国道8号線が町の中央部を東西に貫通、北陸本線が北端部を東西に走り、野々市駅から旧国道8号線に幹線が通じている。

 さらに国道157号線は南北に走り、鶴来町を経て、福井県勝山市より岐阜県に通じる。また、金沢市野町と鶴来町、白山下を結ぶ北陸鉄道石川総線が、町の東部、工大前駅から南へ走り、七本の県道は東西に六路線、南北に一路線があって、そのすべてがバス路線になっており、金沢市の衛星都市として飛躍的に発展している現況である。

 

第三節 人口と世帯

 昭和五十年三月三十一日現在の人口は二万四百四十二人、六千二百六十二世帯で、石川県内の町村では津幡町についでいる。昭和三十二年四月一日の町村合併完了当時は一千三百八十二世帯、人口八千二百九十八人だったので、世帯数増加率は四・六倍、人口増加率は二・五倍と県内第一位になっている。これは町村合併後、国道8号線バイパスの完成、国道157号線の拡幅にともない、県内外の企業、工場進出があいつぎ、加えて金沢市の近郊都市として住宅建設が急増しているためである。

 

 

 

野々市町20年のあゆみ