第一節 石川県内の町村合併

 昭和二十八年十月一日から施行された町村合併促進法に基づいて、石川県内ではそれ以後の数年間、いろいろな過程を経ながらも、三市三十六町百四十一村が、同三十七年一月一日までに七市二十九町七村に統合された。

 町村合併がこのように促進されたのは、昭和二十二年五月三日に新憲法、さらに地方自治法が公布施行されて、中央集権から地方分権へと自治のあり方が変わり、府県市町村の役割が大きくなってきた半面、地方自治体、とくに規模の小さい町村では新制中学校の建設、社会福祉施設充実などの負担が重荷になってきたことがあげられる。基礎的な地方自治体としての機能を十分に発揮し、住民の福祉を増進させるために、適正規模な姿に合併統合する必要があったのである。

 石川県の試案によると石川郡内については野々市町・富奥村・押野村・額村・安原村を単位とする野々市ブロック案、松任町(現在は市)を中心とする案、鶴来町を中心とする案、美川町を中心とする案、金沢市を中心とする案などがあり、各市町村がそれぞれに思い悩みながら町村合併への道をたどった。

 

第二節 野々市町誕生の背景

 昭和三十年四月一日の富奥村との合併、郷村及び押野村の分村編入してできた野々市町の一帯は、石川県の中でももっとも古い生活史を持つところである。

 すなわち、旧押野村には縄文時代の北陸地方における代表的大集落跡である御経塚住居跡があり、松任市田地町には飛鳥時代文武天皇の頃(七世紀前後)と推定される田地古墳、旧富奥村末松には奈良朝前期(七世紀末~八世紀前半)の建立とみられる国分寺級の末松廃寺跡、松任市横江町には八世紀の初めから後期にかけて東大寺領となっていた横江荘園跡が散在している。

 そして野々市には康平六年(一〇六三)以来四百年にわたって富樫氏を国守とする加賀国府があった。

 いわば現在の野々市町一帯は西暦一千五百年頃まで、石川県の政治、文化、産業の中心的存在であったというわけである。

 それを大きく打ちこわしたのは、金沢の尾山御坊を中心とする一向一揆であった。野々市町の母体となった各村落は軒なみ、この大きな渦の中に巻き込まれ、全国にも例の少ない九十年間にわたる宗教政治を実現させたが、織田信長による激しい一向宗弾圧によって、最終的に石川の沃野は焼土と化した。

 やがて始まった前田家による加賀藩政で、村々に平和が蘇ったが、それは封建社会の経済を支える農業生産を守るためであり、明治以降も兵員の供給源として苦しい時代が続いた。

 野々市町が大きな変革を迎えるのは町村合併後、昭和三十五年以降の高度経済成長時代とそれにともなう都市化時代である。ともあれ、この地区は昔から同じような運命をたどってきた。次に旧の野々市、富奥、郷、押野について小史をひもといてみよう。

 

 

一、野々市

 野々市の古名は布市といった。地名の起こりについては次の二説があるが、いずれともいえない。

 その一昔この地に大徳の人があって、常に白山大権現を遙拝していた。その人が拝むと真夏でも雪が降り、布の幅ほどの白雲が一里あまりたなびいた。これを人々が〝布一里″と呼んだのがなまって〝布市″になった。

 その二その昔、この地で布の市が開かれた。

 布市が野々市になったのは富樫氏七世の家国が康平六年(一〇六三)、加賀の国府を小松から野々市に移したときである。加賀国加賀介だった富樫氏はその後、寿永二年(一一八三)の倶利伽羅合戦に十二世泰家が源氏に味方して加賀国守護に任ぜられ、四百年もの長きにわたって加賀一円を治めた。この間、野々市は加賀の国府として大いに栄えた。

 長享二年(一四八八)、二十四世政親のとき、勢力を強めてきた一向宗が分家の泰高を擁して政親を高尾山に滅ぼした。これにより加賀の治権は実質的に一向宗の手に移り、国府野々市の繁栄は一向宗の本拠・尾山御坊がある金沢へと移っていった。

 さらに天正八年(一五八〇)、柴田勝家は織田信長の命で加賀一揆を激しく攻め、戦場となった野々市は灰土と化した。

 そして戦いのあと、住吉の宮の氏子が一日市町・中町・六日町を、鎮守宮八幡社の氏子が西町を、白山社の氏子が新町を、外守八幡社と辻の宮の氏子が荒町をなして、ほぼ今日の野々市町が形成された。

 明治四年の廃藩置県のあと同九年、野々市村は石川郡第十一区五小区に属したが、同十一年には額村字馬替、富奥村太平寺を併合、同二十二年四月町村制実施により単村に復し、大正十三年七月に町制を敷いた。

 

 

二、富奥

 文政(一八一八)以前の調べとみられる三州志来因概覧の図譜村籍によると、のちに富奥村を形成した十四部落は次の郷や庄に属していた。まず、富樫庄には矢作、下新庄、粟田新保、上新庄の四部落、林郷には太平寺・位川・下林・三納・藤平田・藤平田新・中林・上林の八部落、中奥郷には清金・末松の二部落といったぐあいである。

 富奥村の名は藩政時代の組制度にもとづく富樫組の富と、中奥組の奥をとったもので、村の成立は明治二十二年の町村制施行が最初である。

 だが、富奥地区の歴史はもっと古くにさかのぼることができる。すなわち、隣接する旧押野村の御経塚からは縄文時代のものとみられる遺跡が発見されて、一帯が早くから開けていたことがうかがえるはか、富奥村の一部落である末松では奈良時代の国分寺級とみられる末松廃寺跡が見つかっているからである。

 また、部落名からうかがうと、三林ともいわれる上林・中林・下林の林は、和銅六年(七一三)の諸国風土記によると林の一字を拝師、拝志と改めたことが見え、事実三林は拝師と呼ばれていた時期があった。

 さらに矢作は矢矯(やはぎ)からきた名前で、古くは矢作りをしていたことがうかがわれ、太平寺はかつて寺院があったことを物語り、一向一揆の際は戦略上の要所であった。

 富樫、林の豪族につながる子孫が多いことも富奥村の特徴で、地域的なまとまりの強さのもととなっている。

 

 

三、郷

 郷村から野々市町へ編入したのは堀内・田尻・蓮花寺・徳用・稲荷・三日市・二日市・長池・郷(下田中)・柳町の十部落であり、横江・番匠・田中(上田中)・専福寺の四部落は松任市へ編入した。

 郷村という名は、この地域がもっぱら郷用水のかんがいを受け、水害、かんばつともに共通の利害を持っていることと、田中に置かれた小学校名に郷の字が用いられたためで、明治二十二年四月の町村制がその初めである。

 郷村を構成していた部落は江戸時代からあり、寛文十年(一六七〇)、文政四年(一八二一)の十村組織にはその名がみえる。

 文政四年の組織をみると、富樫組に属していたのは横江・田中・徳用・三日市・稲荷・二日市・長池、中奥組に属していたのは堀内・田尻・蓮花寺・専福寺・番匠垣内・柳町であった。この組織は明治五年正月の区制実施まで続いた。

 この区制でほ郷村関係は

 第五区三番横江、長池

 第五区四番番匠垣内、堀内、徳用、田中、田尻、蓮花寺、柳町、二日市、稲荷

 第三区六番専福寺

 となった。その後、明治十一年七月に郡区町村編成法が制定されて戸長役場が置かれたときは、郷村関係では横江だけ独立して単独の戸長役場が設けられ、専福寺は徳丸・倉光・乾垣内・幸明・三浦・五歩市・橋爪の七ヵ村と連合その他は御経塚・矢木荒屋の二ヵ村を加えて、それぞれ一つの戸長役場を設けた。

 また、明治十七年六月、民選戸長を廃して官選にしたときは、横江の戸長役場は徳丸村ほか二十三ヵ村戸長役場の所轄となった。

 明治二十二年四月に郷村が誕生するまで、このような変遷があったのである。

 

 

四、押野

 押野村は太郎田・押野丸木をふくむ押野・八日市・八日市出・八日市新保・押越・野代・御経塚・矢木荒屋・矢木・森戸の十一部落からなっている。

 昭和二十八年、金沢市稚日野町の安村律義氏が、八日市出との村境に近い古府町地内で、約五千年前の村の跡を発見したのがきっかけとなり、八日市新保・御経塚・野代にも大昔の村の跡のあることがわかってきた。

 さらに同二十九年、石川考古学研究会が押野村教育委員会の援助で八日市新保遺跡を発掘、同三十一年には村史編集委員会が御経塚遺跡を発掘した。これによると最初の村は二塚校下と押野村の境近くに作られ、約三千年ほど前に御経塚中心に第二回の村づくりが始まったとみられる。だが、押野・野代・野村(現神野町)などの名前が示すように原野が多かったので、郷の中心になるような村はなかったようである。

 押野村の起こりについてはつまびらかでないが、押野・八日市・太郎田・八日市新保・矢木・御経塚などは南北朝から室町末期ごろまでに、押越・野代・八日市出・森戸・荒屋などは戦国時代から藩政時代初めまでに独立の村になったとみられる。

 また、押野村と一向一揆の関係については長享二年(一四八八)に富樫政親が高尾城で自刃したとき、大野庄、押野庄で組織した六ヵ組門徒の頭である高橋新左衛門が、押野山王林に陣地を構えたといわれているので、押野村の農民門徒もこの一揆に参加していたことがうかがわれる。そして一向一揆の終えんとなる佐久間盛政の金沢御坊占領のときは、押野の十村役である後藤家の先祖弥右衛門が盛政の軍に協力し、感状と土地三百石を与えられた。

 押野村の十一ヵ村は文政四年(一八二一)の御仕法までは全部押野組に属していたが、それ以後は米丸組と改称され、うち押野・八日市・押越・野代・矢木荒屋の五ヵ村は富樫組に属することとなった。押野村が一本になったのは明治二十二年の市町村制施行のときである。

 

 

第三節 野々市ブロックの町村合併

 現在の野々市町は昭和三十年四月一日の野々市町と富奥村の合併と郷村及び押野村の分村、編入でできたが、地域的にも歴史的にもたがいに通い合うものがあったとはいえ、明治二十二年の市町村制以来六十六年間の各町村の結束を破って合併に踏み切るまでは、幾多の曲折があり、分村合併という余儀ない結果も生まれた。

 野々市町を中心とする町村合併の話が持ち上がったのは、昭和二十八年の町村合併促進法制定のあと、昭和二十九年二月のことである。当時の構想では野々市町に額・安原・富奥・押野の四村を加えて、県内最大の田園都市を形成することになっていた。

 ところが、このうち額・安原の二村がいち早く金沢市への合併を打ち出した結果、同年五月になって、両村のかわりに郷村を加えようとの構想が生まれた。だが、郷村がこの合併案に対してすぐに態度を表明しなかったため、富奥・野々市・押野の一町二村はやむをえず同年六月九日、合併促進委員を選出し、合併実現の準備にはいった。

 しかし、このころから郷・押野両村の中にも松任町及び金沢市へ編入したいとの動きが見られ、両村議会が分村という事態に追い込まれて混乱状態に陥ったため、和解の道が遠いと見た富奥・野々市は昭和三十年二月、一町一村の合併を決意し、同月二十三日には野々市、同二十四日には富奥がそれぞれ合併を議決し、野々市ブロック合併の第一段階が実現した。

 新野々市町と郷、押野村との合併交渉はその後も続けられ、郷村については県と石川郡選出県議の仲裁によって昭和三十一年九月三十日、当時の松任町との分村合併が成立、押野村についても同三十二年四月十日、地域住民投票の結果によって金沢市との分村合併が決まった。

 

 

一、野々市と富奥の合併

 野々市ブロックの町村合併では、三十年四月一日付けでまず野々市町と富奥村の合併が実現した。押野村・郷村をふくむ同ブロックの中では、野々市と富奥が地縁的にももっとも近い関係にあり、トップを切って合併したのは自然な成り行きともいえるが、実際は多少の曲折があったようである。というのは県側が発表した第一次試案では同ブロックの合併計画が野々市町・額村・富奥村・押野村・安原村の一町四村となっていたのに、額村と安原村が早くから金沢市と合併の意向を打ち出したために流産。続く第二次試案では富奥村と林村・舘畑村・山島村・林中村の五村、野々市町と押野村の二町村と二つのブロックにわけた計画が出されたが、野々市町は第一次試案より規模が小さくなるとしてこれを見送った、といういきさつがあるからである。

 もっとも富奥村自体は最初から野々市町との合併を望んでおり、野々市・富奥・押野・郷の一町三村案が打ち出されると、押野・郷の態度を待たず、野々市町との合併を決議した。

 合併の条件を見ると▽議員の任期を合併後の三十一年三月末日まで延長する▽合併後初めて行う選挙に限り二町村をそれぞれ一選挙区として、野々市地区十四人、富奥地区八人の議員配分で行う、など十九項目があるが、基本的には対等合併の方針が貫かれており、このへんに両者のスムーズな歩み寄りがあったものと思われる。

 富奥村の閉村式は合併前日の三十年三月三十一日に行われたが、式に先立って、合併を記念して架設された多数共同電話の開通式があり、合併のメリットを早々に味わった。

 なお、合併時の人口は野々市町三千九百一人、富奥村二千十九人で、合計五千九百二十人と六千人にあと一歩だった。新しい町の町名は旧野々市地区が本町、旧富奥地区が中林・上林・新庄(旧上新庄・下新庄)・粟田(旧粟田新保)・矢作・三納・藤平田・藤平(旧藤平田新)・下林・位川・太平寺・清金・末松とされた。

 新町は農村地帯であるが、戦後は工場の進出も目ざましく、丸一紡績、東和織物、北陽繊維、大日製作所、住吉工業、大北工業、北国漁網、金沢紡織など二十七工場があり、工業生産高は二十二億円を数えて将来の発展に期待を抱かせた。

 また、組合員三百八十三人、預金高四千五十万円の野々市農協、組合員六百十三人、預金高六千万円の富奥農協はそのまま存続された。両町村の合併のもようは合併の翌四月二日に北陸放送ラジオを通じて放送された。

 

 合併祝賀式

 町全体が喜びに満ちあふれているこの日、すなわち昭和三十年四月一日の朝、旧野々市小学校の講堂には石川県知事代理総務部長関盛吉雄氏、県議会議員今西恒氏、杉原杉善氏、浜上耕三氏、石川財政事務所長山越茂雄氏、石川郡町村会長中田重三氏、松任町長正見二郎氏、金沢市額出張所長山田秀喜氏、押野村長南市太郎氏、同議会議長清水仁孝氏、郷村長竹中竹由氏、同議会議長北又二氏その他の来賓および合併町村の関係者ら約三百余人が集まり、午前九時四十分の花火を合図に、新野々市町発足祝賀式が開催された。

 式典は開式の辞、「君が代」斉唱のあと、野々市町長職務執行者福田三次氏による式辞、合併功労者に対する感謝状の授与の順序で行われた。この間、各戸では喜びの日の丸の旗が風になびき、桜の造花が飾られ、その日の午後、小中学校の児童生徒一千三百人は手に手に日の丸の旗をもって町内に喜びの新生〝野々市町″のうたをうたって旗行列を行った。また、町体育協会の主催で午後一時から合併記念部落訪問駅伝競走を六千町民声援のもとに行い、旧小学校運動場では町商工会主催で祝賀の吹き寄せ会が行われ、ともどもに新町の発足を祝った。

 

 

 

 

 

 

 合併祝賀式々辞

 野々市町長職務執行者福田三次

 本日の佳き日に知事代理総務部長さんをはじめ、来賓各位のご臨席のもとに、富奥村および野々市町の合併による新町発足の祝賀式を挙げますことは、私の最も光栄に存ずるところであります。

 わが国は戦後、依存経済から脱却して、真の自主的経済を推進すべき時であり、これがためには国家ならびに地方財政の健全化政策が必要なので、今回政府が勧められている町村の適正合併もその一環であると存じます。

 わが野々市ブロックの合併は、昨春より四ヵ町村を目標に今日まで進んできたのでありますが、その第一歩としてここに二ヵ町村合併がきわめて円満裏に運び、すらすらと新しい町が誕生いたしましたことは、誠にめでたい限りであります。事ここに至りましたのは、県・郡ご当局、ならびに県議会郡選出議員各位のご指導ご鞭撻(べんたつ)のたまものでありますと同時に、両町村当局ならびに一般住民の不断の熱意とご理解のしからしむるところで、ここに心から感謝の意を表する次第であります。

 そもそも、私どもの郷土は、今から三百五十年前、富樫時代には旧富奥村の太平寺および位川部落は野々市の区域であったそうで、今、旧両町村が合併することは、すでに三百五十年前に宿縁が結ばれていたともいえますので、一層意義深く、めでたく感ずるのであります。

 この両町村は今さら申すまでもなく、人情、風習、文化のほか交通、経済、産業などの立地条件をひとしくし、旧富奥村は前後二回にわたり、優良農村として農林大臣より表彰せられたほどの模範農村であり、旧野々市町は天の恵みと地の利を得て、工場地帯として発展し、いわゆる農工併立の将来性強い地域で、災害も少なく、この合併により長く住民の福祉を増進すべきことは、期して待つべきものがあると存じます。

 そして私どもはこの合併を基盤として、さらに押野村、郷村のご参加を得て、当初の目標であります四ヵ町村合併が実現します暁は、その規模において、その立地条件において、その財政において、その発展において、誠に他に類例のない理想の合併ケースになると自負しているのであります。これにより、懸案の中学校の建設をはじめ、諸般の施策が自主的に具現されることは申すまでもありません。

 かくして新時代に即応した強力な自治態勢が整い、国の要請にこたえたいと思いますので、一層私どもの責務が加重されたことを自覚するとともに、この上とも各位のご指導とご鞭撻をたまわりたいものであります。

 まことに粗辞ではございますが、開町に当たり一言述べて式辞といたします。

 昭和三十年四月一日

 

 

二、郷村の分村編入

 郷村と野々市町との合併は難航の末、昭和三十一年九月一日、野々市町と松任町(現在市)への分村編入というかたちで解決した。郷村十四部落のうち野々市町へ編入したのは柳町・徳用・蓮花寺・田尻・堀内・稲荷(旧東三日市)・三日市・二日市・長池・郷町(旧下田中)の十部落で、人口八百二十二人、面積三平方㌔。

 残る番匠垣内・専福寺・横江・田中の一部(旧上田中)の四部落(人口六百十九人、面積二・二五平方㌔)は松任町へ編入した。

 郷村は東は野々市町に、西は松任町に隣接しており、合併についてはきわめて困難な事態が起こる可能性が十分あった。しかも、県の町村合併第一次試案も松任町ブロックに属しており野々市ブロックの額村、安原村がすでに金沢市への編入を議決していたので、野々市町としては郷村に対し野々市合併への強力な運動を展開した。これにより郷村における野々市合併への声が次第に大きくなってきた。しかしながら、松任町と地理的、経済的に深い関係をもつ部落の中には野々市への合併に反対し、松任町へ編入する声も高まっていた。

 二十九年六月頃の郷村における議会の勢力分野は、野々市合併派と松任編入派の二派にほぼ二分されていた。同年十一月一日に鶴来町、美川町がそれぞれ新町を発足させ、さらに十一月三日には十一町村の合併がなって新しい松任町が発足した。

 ここにおいて同年十一月から石川県知事は、山越石川財政事務所長を任命、同氏が野々市ブロックの育成に力を入れることになった。この動きは番匠垣内・専福寺・横江などの松任編入派を強く刺激するところとになり、同年十一月二十四日、部落公民館に松任編入派村民が集まり、区民大会を開いて気勢をあげるとともに「あえて分村を辞さない」とさえ宣言し、野々市合併派との対決の姿勢を強く打ち出してきたのである。

 一方、これに対し、長池・二日市・三日市・東三日市・堀内・田尻・蓮花寺・徳用・柳町・下田中など野々市合併派部落民は、あくまで分村せず、全村あげて野々市町へ合併することを叫び、運動を強力に進めていった。

 昭和三十年十一月二十七日午後二時から郷村役場において、村内の事態を収拾するための全員協議会が開かれた。

 しかし、この日は両派住民数百人が役場を包囲し、互いに反目しあい、険悪不穏な空気がみなぎった。このため、役場を会場にして合併の態度を決定することは、両派住民の感情的対立を爆発させる恐れがあるとして、午後四時頃、会場を鶴来町の和田屋へ移し、そこで協議を始めたのである。この協議会における両派議員の話合いで、郷村は分村せず一体となって野々市町および松任町のいずれかへ編入することを再確認し、これを前提としてさらにどうすべきかという点について審議を重ねていったのである。

 この結果、両派議員はともに自派が勝つと信じていたことから、住民の意向も数的には不明であったので、抜き打ちに住民投票し、一票でも多い方へ郷村が一体となって編入するということを申し合わせたのである。

 翌二十八日、抜き打ち住民投票を行った結果、野々市へ合併する票が四百七十二票、松任編入を支持する票が三百十八票で、野々市町へ合併する票が百五十四票も多かった。住民投票のこうした結果は、松任編入派にとって事態の悪化を意味していた。

 そこで「この投票は単に村民の意向を知るために行ったものであって、決して拘束力をもつものでない」とし、翌二十九日、横江など松任編入派は十一月三日の決議を再確認し、郷村永遠の平和確立のためにあらゆる障害を排除して、松任町編入にまい進するとの区総会での決議文を内外に宣言し、大会を開いて編入のため分村すると決議した。

 一方、野々市合併派である部落民約二百人は、松任派村民大会の二日後の十四日午後二時半から郷村の公民館に参集し、野々市町合併村民大会を開いた。この大会で「野々市町へ挙村一致の合併をする。松任派の分村に反対する」ということを決議し、青年部、婦人部を結成、合併促進本部を徳用の中川直二氏のところに設け、応戦態勢を整えたのである。

 こうした両派の極度の緊張した空気の中で、翌十五日午前九時十分から役場において合併問題を中心とする定例村議会が開かれた。

 議会は十五日午後一時から合併問題に入り、村長が「野々市町ほか二ヵ村合併促進協議会規約」を上程したところ、たちまち「郷村を廃し、松任町に編入することを石川県知事に申請する。編入の際、野々市町に編入を希望する区民はこれを認める」との提案が松任編入派より緊急動議として出され、その先議をめぐって紛争を始めた。そこで竹中村長は郷村が二分される成り行きになって来たのを見て、「もし郷村が二分されるなら郷村にとって最大の不幸だ」と考え、提出議案を撤回するやすぐ議場から退席してしまった。

 しかし、この日の議会は村長不在のまま協議を続け、分村も止むを得ずとして野々市合併派九部落、百二十八世帯と、松任編入派三部落、百九世帯に二分する議決をしたのである。このようにして紛争の中で同三十一年九月十六日、分村編入が決まったのである。

 編入にともなう財産処分について、編入後の問題として財産処分および小学校児童の問題があり、いちおう、両町において次のとり決めが行われた。

 イ、郷小学校および郷公民館は松任町と野々市町で一部事務組合を設置してその財産を帰属せしめ、運営管理することとする。従って小学校児童は、組合立の学校すなわち元の郷小学校でそのまま授業を受ける。

 ロ、消防格納庫および消防車、巡査駐在所の建物は、これらの属する地域の町に属せしめ、これらの財産ならびに基本財産およびその他の財産は換価して両町に配分するものとする。

 ハ、イの一部事務組合を解散する場合の財産処分、およびロの財産配分の割合は次のとおりとする。戸数割四割、固定資産税割三割、村民税割三割。

 

 郷編入祝賀式

 昭和三十一年十一月三日午前十時から野々市小学校の講堂において、郷編入の祝賀式が関係者多数の出席のもとに盛大に行われた。また、この日の午前には郷小学校児童が編入を祝して郷地区一巡の旗行列をし、さらに商工会、体協主催、北国新聞社後援のもとに、金沢市押野地区をまじえた合併地区一巡の自転車競走を行った。午後一時からは野々市小学校講堂で演芸吹き寄せ、午後六時からは青年団演劇部出演の演芸大会を行い、記念バザー、写真展、生花展、中学生徒作品展、文化展を行い、翌十一月四日には郷地区編入祝賀駅伝競走が行われ、編入を全町挙げて祝ったのである。

 

 

三、押野村の分村編入

 押野村に合併問題が出てから一年数ヵ月も紛争が続き、野々市町と富奥村が合併してもなお見通しがつかず、南村長は金沢派と野々市派の板ばさみの苦悩から、ついに昭和三十年四月十七日の村議会で辞職することになった。そのため同年四月三十日、村長及び村議の改選となったのである。

 この選挙戦は大金沢市を目指す金沢市と、独立町村結成の悲願に燃える野々市町との、天下分け目の大合戦となった。だが、選挙の結果は金沢派の大圧勝となった。即ち、押野村長は金沢派の前田氏が当選し、村議会は金沢派十一名に対し、野々市派はわずか五名という勢力分野となったのである。

 この大選挙戦で勝った金沢派は六月二十七日、村議会で押野村の金沢市編入案及び財産処分を議決し、一方、金沢市は押野村の金沢市への編入案を議決したのである。こうして昭和三十一年一月一日、押野村は金沢市へ編入した。

 

 住民投票による分市編入

 野々市派即ち分市賛成町民と分市実現に努力しているいわゆる合併促進協議会長及び議会議員、野々市町長らは再三再四、金沢市長、石川県知事に対し、石川郡選出県議会議員の応援を得て、分市実現のためあらゆる策を構じ、要望あるいは陳情を行った。が、なかなか聞き入れられず、やむなく分市実現のレジスタンスとして三十一年四月二日には中学生七十五人、同五日には小学生百四十五人を野々市小学校へ集団転校させた。この結果、金沢市議会は全員協議会で野代・押越・御経塚の三町の分市を申し合わせ、八月二十日の金沢市臨時議会で三町の分市を議決した。

 しかしながら押野町の分市の解決がいつまでもつかず、知事は新町建設法に基いて石川県が任命した合併調整委員の調停に付託し、再三再四協議の結果、昭和三十二年二月二十五日、調整委は「御経塚・野代・押越の区域を野々市町に編入する。押野町の区域のうち農業区域については住民投票により帰属を決定する」という第二次調停案を出し三月五日には金沢市も野々市町もこれを受諾し、調停が成立した。第二次調停案の結果、三月三十一日に住民投票により決定することになったのである。

 住民投票の日までは両者ともにしのぎをけずり、有利に戦うべくあらゆる作戦をとりその日を待った。投票は警官二百名余りの警戒の中で実施され、開票の結果、分市賛成派二百七十四票、反対百十一票で分市賛成派の勝利となりここに四年間の長い紛争も終止符を打った。

 編入時の戸数、人口は次のとおり。

 押野町一三四戸六四八名

 御経塚町四八戸二八〇名

 押越町一四戸七三名

 野代町九戸六七名

 

 押野地区の編入を祝う

 野々市町長兵地栄一

 天下の視聴を集めた押野地区編入問題が、字押野町の住民投票という最悪の事態を経て、四月一日をもって一応めでたく解決したことは誠に感慨無量である。

 四ヵ年にわたる苦難を突破して悲願を達成した押野地区住民の歓喜はいうも更なり。われら町政の局に当たるものは、野々市の興廃に関する重大事件であっただけに、その喜びは筆舌につくし難いものである。

 押野町民がこの長い間、鉄よりも固い団結と、郷土愛をもって一糸乱れぬ行動の下に、目的を達成されたことは、まことに感謝に堪えないところで、新生野々市町の歴史の第一頁を飾る快事として、子々孫々に伝うべきである。もし、この投票に敗れたならば、適正規模の町としての存立は危うくなり、独立の自治体としての生命を失うことも、時間の問題とされたであろうことを思えば、真に危機一髪であり、顧みて慄然たらざるを得ないのである。

 われらはこの尊い試錬を永久に忘却することなく、渾然一体となり、町勢の発展と民生の安定に努力すべく、覚悟を新たにする次第である。新生野々市町の人口は、前の国勢調査の数字によると八千に少々満たないが、本町四月の現況調査によると既に八千を突破しているから、国の要請する人口に事欠かぬのみか、今後十年を出でずして一万を越えることもそう難事でない実情である。しかも、農工商それぞれの分野で相互扶助、有機的活動をなし得る立地条件を具備しているから、まことに恵まれた客観情勢にあるといわねばならない。

 新町の一体性を急速に実現するため、国道改修の促進、中学校設備の完成、町内道路網の整備策をまず重点的に取り上げ、この間、社会保障の諸施設を織り込んで、町当局、町議らが一丸となり、鋭意努力している。

 ここ当分、財政的に苦難の道は続こうが、町経済力の基盤が堅いから、将来はこれらを克服して、理想的田園都市を築き得る底力の十分なることを確信するものである。要するに町政の前途は洋々たりで、やがて天下の模範となる日も近いであろう。

 ここに押野地区編入により、わが野々市町が画期的に飛躍し得る不動の諸条件を獲得するに至ったことを、心から祝福するとともに、押野町民各位の熱烈なる郷土愛に満腔の敬意を表し、同町民の変わらぬご協力を心からお願いする次第である。

 

 押野地区編入にあたりて

 押野地区合併促進同盟会長西村伸一郎

 われらの悲願でありました野々市町編入も、四年越しで去る三月三十一日施行の最も民主的方法の住民投票により、野々市町編入が確定し、私達の主張の真実性が立証されましたことは喜びに堪えません。

 私達はなぜ野々市町へ編入を望んだか、それには次の二つの理由がありました。その一つは自治体は自主性が無くてはダメで、町会議員を送り、発言権を有すること。その二は旧野々市町・富奥村・郷村・押野村は農業が主体で、経済、文化、人情、風俗ともに相似て、交通、人事の交流も頻繁、かつては四町村はともに富裕町村で、地方交付税は僅少に過ぎなかったのであります。

 ですから、この一町三村が合体合併すれば、鬼に金棒で、全国でも稀なモデル農村の町造りが出来たのであります。今はそれも過去の夢となりました。が、今般、押野地区の編入により小さいながらも新野々市町の基盤が出来ました。

 これからの数十年は建設の期間で、道路網の整備、営造物の整備など苦難の道を歩まねばならんと思いますが、臨時費の膨張は事業のためでやむを得ないのであります。

 私達も今日からは野々市町の善良なる町民として、良き町造りに努力致したいと存じますので、よろしくご指導とご援助の程を押野地区民一同に代わりくれぐれもお願い申し上げます。

野々市町20年のあゆみ