第四節 町政を背負って

 

一、新町建設への槌音

 野々市と富奥が合併し、新野々市町が発足してからちょうど一ヵ月目の昭和三十年五月一日に、福田三次氏から全町民の支持を受けた兵地栄一氏へ町長のバトンが渡された。

 そして、郷・押野両村の編入により、大野々市町を建設するというきわめて大きな課題を前に、まず町民の要請に応えるべく、町広報「野々市公民」を通じ兵地初代町長は町民にあいさつと抱負を述べた。その要旨は次の通りである。

 日本再建の基盤を確立せんとする国家的要請に応えるべく、新生野々市町が発足し、その初代町長に各位のご推挙により不肖私が就任しました。誠に身に余る光栄でありまして、衷心より感謝するとともにその責任の重大なるを痛感し、日夜町民各位の負託に添うべく腐心しております。が、私は戦後パージにかかり、政治方面から一切交渉を絶っておりましたので、時代感覚にズレがあり、民主的自治運営に迂遠であると思いますので、果たして町民各位のご期待にそい得るや否や、大いに疑念なきを得ないのでありますが、魯鈍にムチ打ち誠心誠意、町政の刷新に努力する決心でありますから、一層のご支持とご鞭撻を心から御願い申し上げる次第であります。

 町政当面の重要問題は、町村合併の推進、即ち野々市ブロックの完成でありますが、これはご承知の如く押野・郷両村とも紛糾をつづけており、前途なお多難を予想されますので、適確に見通しをつけ難いのでありますが、万難を排してこれが実現に努力する覚悟でありますから、挙町一致のご支援をお願いしたいと存じます。

 次に重要なのは中学校の新築であります。これは野々市ブロック実現の後にした方が理想的でありますが、児童教育の重大性から考えますと、到底それまで遅延を許さないので、ぜひ今年中に起工したい決意に燃えております。町議会でも全員一致で実現の熱意を表明しておられるので、必ずや町民各位のご期待に添い得ることと信じております。もちろんその他の問題も無論等閑に付し難いのであり、全面的な支援を乞う次第であります。

 そして前述のように新町建設の礎石ともなる合併問題の実現を図ったのである。

 

 合併編入に働いた人々

 野々市町と富奥村の合併時

 野々市町長 福田三次  助役 掘岡喜太郎 収入役 竹内弥三男

 富奥村長  村井 次一 助役 田中忠信  収入役 谷勝信

 議会議員(旧野々市町)

 木戸禎七 徳野孫二 北市永作 源野良吉 亀田与作 窪孜郎 角井忠作 石浦隆義 小室伊作 宮岸四作 福田一雄  北川小三郎 小柳正明 小松時一郎 藤井正樹 瀬戸仕一

 (旧富奥村)

 古源栄美 北岡清松 中野太茂次 千田正之 新森義貞 宮岸清 高桑隆次 高橋吉次 東田幸一 中島一孝 宮川隆正 長井太吉

 郷村の編入時

 野々市町長 兵地栄一  助役 小堀栄吉  収入役 竹内弥三男

 郷村長   竹中竹由  助役兼収入役 中村定雄

 議会議員(野々市町)

 福田三次 徳野孫二 高桑隆次 小室伊作 古源栄美 村山一男 木戸禎七 神田直信 田中初治 小松時一郎 窪孜郎 新森義貞 中村精憲 石浦隆義 藤井正樹 北川小三郎 北市永作 角井忠作

 (旧郷村)

 北川清 中田哲 松野栄吉 東叶 北又二 長田貞二 北村仁勝

 押野地区の編入時

 旧押野村三役

 村長 前田祖治  助役 安田孝信  収入役 庄田義栄

 野々市合併派議員等

 議員 西村敬義 吉田栄鈊 松田一男 磯田一造 庄田勘治 広見庄朔 竹田長松

 合併促進同盟会長 西村伸一郎

 

 

二、兵地町長の急死

 兵地町長は昭和三十三年十二月、定例議会全員協議会の席上病魔におそわれ、役場二階で人事不省のまま翌年一月二日死去された。

 氏は昭和三十年五月一日、新野々市町の初代町長に就任、三年八ヵ月の短い期間とはいいながら、郷村・押野村の合併問題、引き続き国道八号線ならびに一五七号線の用地買収、民家の立ちのき交渉、さらに編入合併による条件付き各種事業の施行など山積みしていた難問の処理に日夜心痛の連続であり、これによる疲労の積み重ねが急死の原因になったと思われる。

 氏は本町二丁目(当時新町)に住居を有し、北陸毎日新聞社社会部長から、昭和十二年九月野々市町長に就任、同二十一年終戦後追放退職、この間石川郡町村会長、石川県町村会長(当時満州出征兵士の慰問のため渡満)、手取川七箇用水土地改良区理事長を歴任、同三十年五月、再度野々市町長に選ばれた。

 終戦前後の町長就任の約十三年間は私心を忘れ、誠心誠意町政に参与、その間工場誘致の際は私有の田畑を代替の敷地の斡旋に当てるなど町の発展に尽くした。また郷・押野の編入の時はいうにおよばず、国道の新設、拡張については、毎朝五時に起きて調査、交渉にあたるなど自ら率先して問題解決にあたり、これらを実現した。さらに旧役場庁舎の建築の際は、戦争中の人手不足から自ら壁を踏み、竣工に至らしめるなど現在の町発展の基礎を作った。

 このようにして町発展のため尽くされたことは、町民の広く知るところであり、昭和三十四年一月五日の葬儀は、本町照台寺において町葬をもって執行、当日参列した町民の列は延々一㌔におよび、しかもその列は火葬場まで続き別れを惜しんだのである。

 

 

三、町長選挙

 兵地町長の死去により、町長選挙が翌二月十七日に行われた。

 本町から元町長の福田三次氏、助役の小堀栄吉氏、富奥地区から中島栄治氏の三人による三つどもえのきわめて激烈な選挙となり、町が三分され、それこそしのぎをけずって戦った結果、中島栄治氏の当選となった。

 

 中島町長就任の言葉

 長い冬も過ぎ、明るい暖かい春がきて新羅万象ことごとく生き生きと急速度の活動を始めました。

 皆さんも農繁期に入りさぞ御疲れの事と存じます。私はいま新たな気持で皆さんの一人一人にご挨拶を申し上げたいと思います。私は今度温かい皆さん方のご支援によって町長に就任することになりました。

 この感激を胸にきざんで私の全精魂を傾けて頑張りたいと思います。

 愛の協同による豊かな新しい私の町造り構想は、「愛と和」ほんとうに協同の心で結ばれる睦じい町

 産業を盛んにしての豊かな町

 人も町も健全で明るい町

 民主的で情操豊かな住みよい町

 日進月歩の科学文化の世代に遅れをとらない幸福な日暮しの出来る楽しい平和な町

 造りに励むことであります。

 私のこの念願達成の政治理念は「人民による人民のための人民の政治」といったリンカーンの言葉を尊重し、ガラス張りの政治を誠実に具現したいと考えます。

 私は今日から行財政を運営する上に本気で皆さんに真実をぶちまけ、心を空しくして政治を話し合い多数の共通した意思を最も妥当なものとして皆さんのご協力を求め、歩調を合わせて進みたいと思います。

 何卒皆さんの真実のご支援を賜りたいのであります。

 皆さん、汗と油の結晶である貴重な税金、瞬時も休むことなく営まれている皆さんの生活の上に立って皆さんに対し、よりよい社会に改善して行くために奉仕することが私に課せられた使命でありますと共に、その施策と運営の良し悪しは直ちに町の興亡活殺にかかわることを考えますとき、引き締まるような責任感に打たれるのであります。

 常に全体の利益を基調として仕事の一つ一つに慎重な検討を加え、合理性と高い効率を求め総合し調整し一体化して運営の真価を発揮したい所存であります。

 私は就任してから以上申し述べた気持で現在の行財政の実態を調べ、新年度の町の台所経理と取り組んできました。

 財政の事情は想像を越えた困難性を含んでおり積極的な皆さんへの福祉の増進はどうにも望まれないことを第一にお報らせしお詫びを申し上げわはなりません。

 このような苦境期にありますことは皆さんも充分にご理解のとおり私達の町を表象する雄大な統合中学校の建設を最大なものとして国道八号線に新農村の新興事業、公民館や保育所、通学道路に河川の改修、無電話地域の解消など総てが全体の上から施策されバランスのとれた極めて進歩的で積極的な財政投資であり、皆さんに対し直接的永久的に与える公共の利益としては最高のものと思います。

 一つでもこのようにして出来た財政の窮状には何等の矛盾も恐れも要しないのでありますが、この上の投資事業は財政全体の構造を破壊するおそれなしとはしないので、何はともあれ健全財政を確立することが施策の重点とも考えられるのであります。 このような悪条件のもとに本年度の予算を組むことになったのですが、「無い袖は振れない」の諺どおり皆さんには甚だ魅力のないわずかに町の台所経理につきるかのような消極的予算にもかかわらず、どうにか議会の協賛をえて決議の運びとなりました。

 皆さんの心からなるご協力を切にお願いしたい次第であります。

 館報を通じてさらに予算の内容と借金の返済方法などお知らせしますが、皆さんの一人一人がよく目を通されて財政の事情を特に認識下さるよう望みたい。もとより私はこの財政難にいささかの不安も躊躇も感じていません。

 より新興発展的な建設譜を気強く意図しその構想を楽しく描いておるのでありますが、この辺で一応の財政締めくくりが急務であることの必要度を痛感したからであってそのことがそのまま「町の政治を、住民のものにしなければならない」という地方自治の根本原理を尊重したい私の気持のあらわれと、私の課せられた最大の使命である行政責任の完全なる遂行が真意であることに他ありません

 どうか皆さんの全幅のご理解とご協力をお願い致します。

 

 

四、町長の交代

 四期十六年の永きにわたって町政を担当し輝かしい実績を残した中島町長も、三月の任期満了にともない五期目の立候補となり、これに新人黒保衛氏、菅原光男氏の三氏によって逐鹿の戦が進められた。

 投票は県知事選挙と同日の昭和五十年二月二日に行われた。その結果、黒保衛氏が当選し町長交代がなされた。

 

 黒保新町長就住のあいさつ

 この度、皆様の格別の御懇情と御支援をいただき町政を担当することになり、二月十七日就任致しました。私は就任と同時に、平和で楽しい町造りに専念致そうと決意致しました。

 町政の発展は、まず融和からであり、お互いに社会生活を営んでいる我々は、いろいろと生活環境や立場等のちがいがあっても、これらを超越した町民の和の意識が大事であると思っております。二万町民が融和の下に平和で楽しい野々市町を建設する事が町政の目的であると確信し、皆様方の御協力と御援助を頂き、是非実現につとめたいと考えています。

 御存じのように、当町は金沢市のベットタウンで、人口の急増地帯で現在では、一㌔四方に千五百十一人の人口密度であり、県下で七塚町に次ぐ密度の高い町であります。千百数十町歩の農耕地も、今では八百町歩に満たないほどの急減で、転用地には最近では六階建ての高級マンションや、金沢工業大学の学生寮、アパート、一般住宅、倉庫、各事務所等が新築されて、急速に市街化が形成されつつあります。指定工場も多く、工業生産も盛んであります。

 また半面、農業振興地域も数百町歩あり、肥沃な土地に機械化農業も進み、優秀なる技術による米作や蔬菜園芸も盛んであり、米は約五万袋が自主流通米とされております。

 このような実体の中で、野々市町は大都市近郊の田園都市として発展すべきであります。私は今後の町政については、まず野々市全町を知ることであると共に、町民の方々の声を聞くためそれには、町の声を聞く会合を持つことも考えております。全町くまなく公平平等に町政の恩恵を与えるのが私の信念であります。

 先ず、社会福祉の充実、学校教育施設の整備拡充、人口急増地帯として、保育所新設の早期実現、そして全町民待望の社教センターの計画も進めたいと思っております。道路の整備や補装、下水道関係とも取り組むつもりです。

 今後の町行政は、町民サイドを基本行政として、議会を中心として執行に当たって、事務的担当者と共に万全を期したい所存でありますので、町民の方々の御協力と御援助を賜らんことを重ねて御願い申し上げまして就任のあいさつと致します。

 

第五節 町議会

 当時の議会の改選は昭和三十年三月であるが合併促進法に基く合併完了に全力をそそぐため、一ヵ年延期となった。従って旧野々市町の議員十六名、旧富奥村の議員十二名の計二十八名で議長に古源栄美議員、副議長に木戸禎七議員を選任した。

 議員の氏名は次のとおり。(昭三〇・四~昭三一・三まで)

 古源栄美、木戸禎七、北岡清松、中野太茂次、窪孜郎、千田正之、宮岸清、亀田与作、北市永作、東田幸一、藤井正樹、北川小三郎、小松時一郎、宮川隆正、小室伊作、宮岸四作、徳野孫二、新森義貞、角井忠作、高桑隆次、源野良吉、高橋吉次、中島一孝、福田一雄、瀬戸仕一、小柳正明、石浦隆義、長井太吉

 次に小選挙区制により翌年三月改選の結果次のとおり当選が決定、議長に古源栄美議員、副議長に徳野孫二議員を選び強力に活動し始めた。定員二十二名(昭三一・四~昭三五・三まで)

 古源栄美、徳野孫二、福田三次、小松時一郎、高桑隆次、窪孜郎、新森義貞、小室伊作、中村精憲、石浦隆義、村山一男、藤井正樹、木戸禎七、北川小三郎、神田直信、北市永作、田中初治、角井忠作、北又二、北川清、中敷政信、山田一雄、西村文司(山田一雄議員の死亡により昭和三十三年十二月十五日補欠選挙に当選)、北村仁勝(北又二議員の死亡により昭和三十四年五月二十五日補欠選挙に当選)

 

 

 

 

 

 合併完了後の選挙とその結果

 町議会議員選挙の執行に当たり昭和三十四年十二月二十三日の定例議会において、議会議員減員条例を可決、定員を十八人とする。

 合併完了後、初の議会議員の選挙が大選挙区制により、昭和三十五年三月二十五日に執行された。

 その結果次の人たちが当選し議長に小松時一郎議員、副議長に中村精憲議員を選ぶ。(昭三五・四~昭三九・三まで)

 小松時一郎、中村精憲、窪孜郎、田中初治、宮前茂信、喜多芳朗、小室伊作、村山一男、堀正弘、中島一孝、北村仁勝、石浦隆義、畠栄太郎、北川義正、西村文司、岩田栄吉、徳野孫二、小林信夫

 昭和三十九年三月二十五日町議会議員の選挙執行の結果次の人たちが当選し、議長に石浦隆義議員、副議長に田中初治議員を選ぶ。定員十八名(昭三九・四~昭四三・三まで)

 石浦隆義、田中初治、小室伊作、粟生木芳男、小松時一郎、福田良一、喜多芳朗、西本敏雄、西尾忠、北村仁勝、徳野与四男、西村文司、村山一男、畠栄太郎、塚進一、窪孜郎、中島一考、樋木耕治、宮前茂信(畠栄太郎氏の死亡に伴い次点の同氏が繰り上げ補充により四月四日当選となる)、田甫敬作(村山一男議員の死亡により昭和四十二年二月補欠選挙に当選)

 昭和四十三年三月二十四日町議会議員の選挙の結果、次の人たちが当選、議長に石浦隆義議員、副議長に宮前茂信議員を選ぶ。定員十八名(昭四三・四~昭四七・三まで)

 石浦隆義、宮前茂信、竹内恍一、作田庄一、小堀栄一、西村文司、亀田弥作、山下貞雄、徳野与四男、喜多芳朗、西本敏雄、西野敦、田甫敬作、塚進一、西尾忠、窪孜郎、粟生木芳男、宮前定相

 昭和四十五年六月十五日議長に宮前茂信、副議長に喜多芳郎議員を選ぶ。

 昭和四十七年三月町議会議員の選挙の結果、次の人たちが当選、議長に喜多芳朗議員、副議長に竹内恍一議員を選ぶ。定員十八名(昭四七・四~昭五一・三まで)

 喜多芳朗、竹内恍一、西野敦、白井寛邦、小杉久夫、宮前茂信、塚本一雄、西村康賢、松村功、西村一義、樋木耕治、田甫敬作、小堀栄一、作田庄一、高橋庄男、吉田憲司、山下貞雄、亀田弥作、山本正男(田甫敬作議員の死亡により昭和五十年二月二日補欠選挙の結果当選)

 昭和五十年第二回野々市町臨時議会を二月二十八日午後二時から開会され、議長に小堀栄一議員、副議長に山下貞雄議員をそれぞれ選出した。

 

 

 

 野々市町議会表彰される

 町議会は地方自治の本旨にそって議会運営の向上に努め、住民福祉を増進した功績が認められ、昭和四十四年二月七日全国町村議会議長会長から表彰された。

 

 

第六節 町行財政の変遷

 

 

 

一、役場機構

 合併と同時に旧野々市町役場を新町の役場とし、旧富奥村役場はその出張所となった。

 役場内の機構については三役のほか、総務、財務、戸籍、厚生建築(国保を含む)、統計、衛生、保育所、農地配給の八係制として、出張所には所長のほか、財務、戸籍、農地、配給、国保の五係制として発足、本町役場と緊密な連絡をとり、事務の敏速化を図り、町民サービスにつとめることとした。

 出張所長には村井次一氏を任命した。

 さらに教育委員会(委員長中島栄治、教育長松崎時哉)、選挙管理委員会(委員長中村藤松)、農業委員会は二委員会制とし野々市地区農業委員会(会長小西小二郎)。富奥地区農業委員会(会長竹内一郎)、公平委員会(委員長角永一郎)、監査委員を設置、それぞれ事務局を置く、その他の施設として、野々市公民館(館長越川信二)、富奥公民館(館長中島喜寿)、第一、第二保育所(所長田村治雄)、民生委員会(総務中島喜久雄)を設置、町政を強力に推進するとともに郷、押野地区の合併に全力を尽くすことになった。

 その後、昭和三十二年四月一日合併編入が完了したので同年五月一日課制条例を制定、機構を次のとおり改正した。

  総務課   課長  庄田 義栄

  戸籍課    〃  前田  良

  厚生課    〃  小柳 小一

  土木経済課 課長  田中 忠信

  保険課    〃  小柳 冨雄

  財務課    〃  徳野 武雄

 の六課制とする。

 同三十四年三月三十一日富奥出張所を廃止する。

 同三十六年四月一日土木経済課を分離。

 土木課長に吉田芳男助役が兼任。

 経済課課長に西尾修を任命する。

 同三十八年四月一日課制条例の一部改正により、戸籍、保険の両課を統合、住民課と改め、サービス本位の窓口改善を計り課長に小柳冨雄を任命する。

 同四十二年一月土木課を土木水道課とする。

 同四十三年四月一日土木水道課を厚生水道課に改める。

 同四十三年十月一日係長制を実施し現在に至る。

 同四十四年二月一日総務課長に小柳小一を任命。

 同四十四年四月一日厚生水道課長に竹内弥三男を任命。

 同四十六年六月二十一日土木課と経済課を統合、産業建設課に改め課長に西尾修を任命。

 同四十七年九月一日、教育委員会に教育課を新設、課長に塚本松男を任命。

 同四十八年四月一日厚生水道課を分離し福祉課(課長東谷弘)、水道課(課長竹内弥三男)とし、同四十九年四月

 一日、産業建設課を二分、都市開発課(課長西尾修)、産業振興課(課長東谷弘)と改め、教育委員会の教育課を分離して庶務兼学校教育課長に塚本松男、社会教育課長に佐久間由孝を任命した。

 なお、同日付で、総務課長に竹内弥三男、福祉課長に北市信夫、水道課長に山口彰を任命、現在に至っている。

 

 

 二、役場職員の推移

 当町役場職員数は合併直後六三名であったが、人口増加にともない徐々に多くなり、現在一四九名となっている。

 これは町民一四四名に対し一人の割合である。

 

  

 町三役及び課長名一覧(昭五〇・三・三一現在)

 町長  黒保  衛   助役  瀬尾 亮弥   収入役  橋場 雄次   総務課長 竹内弥三男

 住民課長 小柳 冨雄   税務課長 徳野 武雄   福祉課長 北市 信夫   産業振興課長 東谷  弘

 都市開発課長 西尾  修  水道課長 山口  彰

 教育委員会  教育長  中田  哲   庶務兼学校教育課長 塚本 松男   社会教育課長 佐久間由孝

 

 歴代町非常勤特別職員名

 監査委員  定員二名(議会推せん一、学識経験者一)

  白井政信、北岡清松、新森義貞、田中初治、徳野与四男、小柳正明、宮前茂信、粟生木芳男

 公平委員  定員三名(任期三年)

  舘 宗治、転正小一、小林孝義、福田栄正、仏田次信、藤井正樹、中川直二

 固定資産評価審査委員  定員三名(任期三年)

 

  白井政信、福田栄正、栗山信政、田中初治、宮前定相、福明外喜雄、大西又雄

 

 

三、町の財政

 町村合併完了後の昭和三十三年度における野々市町の歳入決算は別表のとおりで、歳入不足は四千六百七十三万四千円の赤字だった。その後、財政再建団体に指定されたが、自治省の指導により三十六年にそれが解除され、三十七年度からどうにか決算が組めることになった。なお、赤字財政の原因は、町村合併にともなう統合中学校建設によるものであった。その後の町財政は別表のとおりであるが、四十九年度の歳入は十八億三千九百三十八万六千円、歳出は十七億六千二百三万六千円、差し引き七千七百三十五万円の黒字(繰り越し)であった。これは町の発展と高度経済成長政策による町税の増収によるもので、三十三年度の歳入歳出を一〇〇とすると、四十九年度のそれは歳入において実に三、〇〇〇、歳出において一、六三一となる。

 

 

 

 

 

 

 

第七節 消防行政

 

 

 合併後四個分団として発足したが、種々検討の結果三個分団とした。

 即ち第一分団は本町地区および押野町・野代町・押越町、第二分団は富奥地区全域、第三分団は郷地区・御経塚町とし、第一分団に消防車二台、団員三十九名、第二分団に消防車一台、団員二十名、第三分団に消防車一台、団員十五名を置く。(団長、副団長を含め計七十六名)

 各分団にそれぞれ小型動力ポンプ一台を備え付ける。

 その後消防車の更新があり、四台とも新車を購入した。しかし昭和四十八年、当町は世帯数四、七五一、人口一六、六〇九人と合併当初の二倍強となった。加えて高層建築物百有余、危険物の取扱所百有余、民家は密集し、火災発生の危険性と延焼の危険性がふえて来たので、これらの状況を考え、同四月一日に水槽付き消防ポンプ車を購入、さらに消防常備部を設置、日夜警備にあたっている。

 救急業務については金沢市に委託し、心配のないよう措置している現況である。

 しかしながら今後の消防行政および救急業務は、人口の増加とそれによる交通事故などの多発にともない、再考を要するものと思われる。

 当町消防団は石川県消防協会などから数々の表彰を受け、とくに昭和三十七年二月一日には日本消防協会から団員の団結および機械器具の整備優秀の理由で表彰された。

 

 

 

 松任・石川広域消防組合の設立

 多年懸案になっていた松任市と石川郡内町村とで広域消防の組合が設立され、昭和五十一年四月一日の発足を目ざして準備が完了している。

 消防業務に貢献された歴代の団長以下幹部の氏名は次のとおりである。

 団  長  藤井 正樹   能登 一男   絹川 外光

 副 団 長  五香 益喜   酒井 庄一   高納 友春   東谷  武   横川 泰正   絹川 外光   黒保 竹吉

 第一分団長 石浦 隆義   能登 一男   北川 弥作   横川 泰正   絹川 外光   黒保 竹吉   蚊谷 辰男   熱野 秀男

 第二分団長 高納 友春   五香 益喜   北村 信一   中村 憲造   沢村  衛

 第三分団長 本田  好   塚岸 又一   塚本  稔   市川 春男

 

 環境を良くする条例

 新町発足以来、数多く制定された条例の中で、生活環境の保全はもとより、犯罪、火災の発生、汚物の投棄、病害虫の発生などを未然に防止するなどの対策を決めたのがこの条例である。

 これは、住宅、工場、事業所の建設のため農地を転用しながら、その目的に使用しないで放置されている土地が、環境保全上問題になってきたことから制定されたもので、適切な管理を指導、勧告する一方、とくに火災の発生防止に重点を置いている。

 火災の件数と損害額

  年度   出火件数   損害見積額

  昭和四一年    二件     三、〇〇五千円

  〃 四二年    三〃    三〇、〇〇五 〃

  年度   出火件数  損害見積額

  昭和四三年    一件       五〇〇千円

  〃 四四年    二〃       三〇〇 〃

  〃 四五年    一〃     五、〇〇〇 〃

  〃 四六年    三〃     六、三五〇 〃

  〃 四七年    四〃     七、七〇〇 〃

  〃 四八年    二〃       一〇〇 〃

  〃 四九年    二〃       五〇〇 〃

 

第八節 警察行政

 

 町内では本町二丁目と中林に巡査駐在所が設置されていたが昭和三十七年四月、本町二丁目の巡査駐在所が野々市巡査部長駐在所に昇格、同三十九年四月駐在所を派出所と改称した。そして同四十二年三月中林巡査駐在所を統合して警察官四名に増員され、その陣容の強化がなされた。また、同時に若松町の国道八号線沿いに野々市検問所が開かれ、人員二名を配置し、交通事故防止の拠点となり、大いにその効果をあげたが、同四十八年、県警機動隊分駐所として松任市内に移転された。その間町人口の急増と住宅、企業所等の進出はめざましく、国道八号線、一五七号線を中心に数多くの主要道路を持つ関係上、盗難、交通事故多発地帯として注目され、現在人員九名の配置をもってその万全を期している。

 

 

第九節 町内会行政

 合併終了の昭和三十二年四月、町区長会が組織され、同四十年一月町内会長設置内規、町内会規約が成立、同四十六年五月規約の一部改正により、野々市町連合町内会と改称し現在に至っている。

 

 

町内会長設置内規

 第一条 本会は、町民に対し連絡、広報の徹底を期し、町行政の円滑と融和を図るため事務嘱託員を兼ねる。

 第二条 町内会長の定数は、各町一名とする。但し、世帯数の大なる町については、別に定めるところにより二名以上とする。

 第三条 町内会長の担当区域は、特別の定めのない限り町の区域とする。

 第四条 町内会長は、概ね次のことを協力する。

  一、徴税令書の配布及び徴収並びに納税思想の普及

  二、町道橋梁等の小規模の修理

  三、掲示物件の掲示、張り替え及び掲示板の管理

  四、伝染病予防に関する事項及びこれらに伴う予防注射の伝達

  五、明正選挙の普及並びに各種選挙に関する末端事務

  六、公報の配布連絡

  七、町内の各種事件の処理及び取りまとめ並びに具申

  八、その他町長が依頼する事項

 第五条 町内会長の任期は一ヵ年とする。但し、再任は妨げない。任期の起算は委嘱の日からとする。

 第六条 町内会長の給与は、特別職の職員の給与に関する条例の規定にかかわらず毎年度予算の定めるところによる。

 附 則

 この内規は、公布の日から施行し、昭和四〇年一月一日より適用する。

 

 

連合町内会規約

 (目  的)

 第一条 本会は、住民自治の本旨を体し、町行政の運営に協力し、且つ、会員相互の親睦を図ることを目的とする。

 (名  称)

 第二条 本会は、野々市町連合町内会という。

 (組  織)

 第三条 本会は、野々市町の各町内会長をもって組織する。

 (事務所)

 第四条 本会の事務所は野々市町役場総務課におく。

 (会 議)

 第五条 本会は、毎年二回総会を開く。但し、特別な事情があるときほ臨時総会を開くことができる。理事会は、毎年六回開くことができる。会議はすべて会長が招集する。

 (役  員)

 第六条 本会には、次の役員をおく。

  一、理  事  一三名

  押野、郷の各地区から三名、本町、富奥の各地区より四名を町内会長互選により選出する。理事のうちから会長一名、副会長三名、会計一名は理事会において互選する。

 (会計年度)

 第七条 本会の会計年度は、毎年一月一日に始まり十二月三十一日に終わる。

 (運営の内規)

 第八条 本会の運営に関する内規等については、理事会においてこれを定める。

 附  則

  一、この規約の改廃は、総会の決定を得なければならない。

  二、この規約は、昭和四〇年一月一日から施行する。

野々市町20年のあゆみ