第一節 行政施策の基本方針

 中島町長の町造りの構想は「愛と和」。ほんとうに協同の心で結ばれる睦じい町、産業を盛んにして豊かな町、人も町も健全で明るい町、民主的で情操豊かな住みよい町、日進月歩の文化の世代に遅れをとらない幸福な日暮らしの出来る楽しい平和な町造りに励むことである。

 しかしながら、さきに統合中学校の建設、国道八号線の改良、新農村の新興事業、公民館や保育所、通学道路の整備と河川の改修、無電話地域の解消などにより、きわめて多額の経費を投入し、従って財政全体の構造を破壊するおそれもあった。このため、今後は健全財政の確立を基本的な方針とすることが必要となり、財政の建て直しが当面の行政施策とされた。これにより合併後行政の一端を受け持っていた富奥出張所を、昭和三十四年三月三十一日をもって廃止することとした。

 

 

第二節 町章の制定

 

 新しい野々市が誕生してから五周年を迎え、町の建設も第二期に入り、民生も安定していよいよ発展の機運がみなぎって来た。この意義ある五周年を記念して、町の表徴となる「町章」を制定し、ますます町民意識を高め、協和一致、町の飛躍的伸展を図るため、三十五年六月十日までに野々市町章募集制定要項を発表し、応募を受けつけた。

 その結果、応募作品は総数五六二点の多きにのぼった。その内訳は、野々市町二七点、石川県二〇一点、東京三一点、愛知二九点、熊本二八点、岐阜二一点、群馬一八点、京都一七点、兵庫一七点、静岡一六点、福岡一六点、岩手一六点、山形一五点、広島一三点、大阪一二点、長野一一点、宮城一〇点、秋田一〇点、千葉九点、大分八点、佐賀八点、神奈川七点、福井六点、滋賀六点、山口五点、栃木五点、鹿児島五点、岡山四点、三重四点、茨城四点、福島三点、愛媛二点、北海道一点、の一都一道二府二八県である。

 この審査は県工芸指導所長高橋勇、金沢美大教授米田重博、野々市町長中島栄治、同議会議長小松時一郎、同教育長松崎時哉の五氏によって行われ、次の入賞が決まった。

  一等 平松敬堂氏 (熊本市薬園町四三)

  二等 岩井正壱氏 (福井県勝山市村岡町浄土寺)

  三等 掘 郁之氏 (金沢市彦三二番丁三六)

  そして一等の平松氏の応募作を町章に決定した。

 

 作者の横顔

 九州熊本市薬園町の目抜き通りから少し小路へ入った静かな裏通りに住まいしていられる。平松さんは入賞作について「第一に丸と和を表し、町名の図案化によって団結と発展を表現し、色も紫地に白のマークを浮き出し、周囲を金でふちをつけた。」と説明される。そこに至るまで、図書館へ行き、地形、風土などの資料を調べたとのことである。

 平松さんは長崎の島原出身で、日大芸術科中退後、東宝美術部に勤務、十年前に現在の仕事即ち商業デザイナーとして独立、マーク研究所も主宰している。常に図案、マークの研究に余念がなく、その間数多くの市町村章、社章を作られ、当時入選作一千個の記念会を開かれたそうである。この氏の努力が現在の理想的な町章として親しまれていることを思う時、われわれ町民として心から感謝するものである。

 

 

第三節 選挙

 野々市町の選挙における投票区は、昭和三十三年まで五投票区で、有権者は四千六百九十一人だった。その後、投票区は四投票区となり、第一投票区を本町と富奥地区の太平寺、矢作、三納、第二投票区をその他の富奥地区、第三投票区を郷地区、第四投票区を押野地区及びあすなろ団地とした。有権者数は五十年四月一日現在、一万三千五百四十三人で、人口増加にともなう投票区の編成替えが必要になってきている。

 

投票区別有権者数(昭三三・九・一五現在)  投票区別有権者数(昭五〇・三・三一現在)

投票区    計      男     女    投票区    計     男     女

第一投票区 一、七八六   九七六   八一〇  第一投票区 七、五一九 三、八九四 三、六二五

第二投票区   六七九   三五一   三二八  第二投票区 二、六二四 一、二三一 一、三九三

第三投票区   六五〇   一五七   四九三  第三投票区 一、六五四   八二九   八二五

第四投票区   九一〇   二四四   六六六  第四投票区 一、七四六   八八三   八六三

第五投票区   六六六   三一五   三五一  合計   一三、五四三 六、八三七 六、七〇六

合計    四、六九一 二、〇四三 二、六四八

 

 主要選挙状況

 
                           投票者数

選挙区分  執行年月日     当日有権者数 総数      男      女   投票率 %

参議院議員 昭和三一・七・八  三、二二一 二、六一二 一、二〇七 一、四〇五 八一・〇九

県知事    三四・二・八   四、五八四 二、六四七 一、一三三 一、二九五 五七・七四

町長     三四・二・一七  四、六三八 四、二九一 一、九一二 二、三七九 九二・五二

参議院議員  三四・六・二   四、六八七 三、六〇七 一、七三八 一、八六九 七六・九六

町議会議員  三五・三・二五  四、七七三 四、四七〇 二、〇〇五 二、四六五 九三・六五

衆議院議員  三五・一一・二〇 四、九二五 三、八八六 一、八三二 二、〇五四 七八・九〇

参議院議員  三七・七・一   五、一六四 三、九八〇 一、八四四 二、一三六 七七・〇七

衆議院議員  三八・一一・二一 五、三三二 三、九〇七 一、八一八 二、〇八九 七三・二七

町議会議員  三九・三・二五  五、六六七 五、二九四 二、四二三 二、八七一 九三・四二

参議院議員  四〇・七・四   五、八二六 四、三五二 二、〇四六 二、三〇六 七四・七〇

衆議院議員  四一・一二・一七 七、九〇一 六、四五六 三、〇四八 三、四〇八 八一・七一

県知事    四二・一・二九  六、三九〇 六、一七一 二、八七七 三、二九四 八二・二一

衆議院議員  四二・一・二九  六、三六一 五、一七五 二、四五二 二、七二三 八一・二〇

町長     四二・二・一六  六、一六六 四、〇七一 一、八六六 二、二〇五 六六・〇二

県議会議員  四二・四・一五  六、四一八 四、八〇七 二、二四一 二、五六六 七四・九〇

町議会議員  四三・三・二四  六、二六九 五、八四二 二、七一七 三、一二五 九三・一九

参議院議員  四三・七・七 全国七、〇四三 五、九四三 二、七九四 三、一四九 八四・三八

              地方七、〇四三 五、九四四 二、七九四 三、一五〇 八四・四〇

衆議院議員  四四・一二・二七 七、九〇一 六、四五六 三、〇四八 三、四〇八 八一・七一

県知事    四六・二・七   八、三七六 三、五八四 一、八〇三 一、三〇三 四二・七九

町長     四六・二・七   無投票

県議会議員  四六・四・二   八、五〇九 七、五一七 三、五九五 三、九二三 八八・三四

参議院議員  四六・六・二七  八、七六六 五、〇八八 二、五二二 二、五六六 五八・〇四

町議会議員  四七・三・二六  無投票

 

衆諌院議員 四七・一二・一〇 一〇、〇三〇  七、九六二 三、九〇九 四、〇五三 七九・三八

参議院議員 四九・七・七   一二、五六七  八、八七四 四、三九八 四、四七六 六〇・九二

町長    五〇・二・二   一三、二一五 一〇、三六七 四、九九九 五、三六八 七八・九九

 

 歴代選挙管理委員

 

  委員長 堀岡喜太郎、中村藤松、福村誠一、平野栄吉

  委員  林義光、喜多弥吉、松本正一、木村尚吉、松野栄吉、中敷政信、布村為吉、初野直吉

 

 

第四節 名士を招いて町の将来を聞く

 

 産業構造の驚異的な変革とその発展に備え、住みよい豊かな町造りの百年の大計となる総合計画を立てる必要が起こる。各界の名士から率直な意見を聞き、参考にすべく中島町長は、昭和三十七年六月二日、中学校特別教室に名士を招いて町の将来を語る会を催した。

 

 出席は次の各氏である。

 北国新聞社会長      宮下与吉    北陸放送株式会社専務     山本清嗣

 一村産業株式会社社長   山本康二    北陸電気通信局計画部長    蔵本力雄

 石川県米穀株式会社々長  小森直夫    石川県立松任農業高等学校長  吉野進

 

 中島町長  お集まりの各位には公私御多端の折柄、心よくご参会頂きましたことを感謝いたします。当野々市町が新しく合併して、住みよい豊かな理想郷を造り上げようと邁進している過程において、各位には町と深い関係がありますことを幸いに、今後どのように発展すればよいか、率直なご意見をお聞かせ願いたいと思うのであります。

 町の建設計画は半ばたててありますが、近年の発展は驚異的なもので、その進歩に関連した計画を打ち立てることがきわめて重要な課題かと思うのです。そこでご参考までに申し上げたいことは、この町の耕地面積は一、〇〇〇町歩で、約二町歩程度の農家が多く、工場におきましても古い大きい堅実なものがありまして、これが発展のバロメーターとなっています。なお、北陸線の野々市駅新設もうたわれて所要の道路整備もおおかた進められており、今から発展計画を組む上にとくに重要性を感じましたので、本日各位をわずらわし、力強い将来を語って頂くことにしたわけです。

 

 宮下氏  どういうように進めたらよいか、まず町長さんの構想を……。

 

 町長   新産業都市地域の観点から、国道八号線と岐阜線および統合小、中学校を中心として、概要略図の構想を描いています。

 

 小森氏  昔からアンテナの下が文化の中心地帯となって発展している。野々市町にはNHK、MROの二大放送局のアンテナがあり、しかも国道八号線と岐阜線が町の中央を十文字に貫通していて、絶好の発展条件を備えている。金沢市を中心として、都市の発展は常に南進する。そうした発展は自然であるが、楽観はできない。金沢工業港が可能となり、船舶一万トン級が入港した場合、内灘地区に工場地帯が展開することが考えられるからだ。

 本県の繊維産業を中心としての開発を考える場合、現在根上・美川・粟崎となっている。これは地理的条件よりも地価と関連性があるからで、土地問題については野々市町民も賢明な考え方を持たなければならないと思う。

 都市の発展はなんといっても道路の発達である。金沢市の場合は都市計画の悪さが現在どうにもならない状態となっている。その点、名古屋市の広大な道路計画は、当時は意外なことであったが、今日ではそれが最高のものである。当面にとらわれず、将来を計って都市計画をやらねばならない。

 

 宮下氏  野々市町は千年の歴史を有するいにしえの首都であった。近代に入って鉄道の誘致に失敗、発達を阻害したが、中島町長がこれに目覚めて今度野々市駅をとり上げたことは賢明なことだと思う。とにかく、なんといっても、発展は道路計画である。現在の金沢市のようにならないように、まず道路計画では十一㍍以上の路幅をもって整理すれば必然的に工場などの誘致が期せられる。そのような計画はしてあるだろうが、もう一度再考し、しかも金沢市を中心とした道路網、上水道、下水道、通信網をやれば、第二の金沢市になることは疑いなしと思う。このように第二の都市たることはまず大道路計画を思い切って実施することである。

 

 小森氏  路幅十一㍍といっても歩道が絶対必要だ。歩道を考えない道路は今後成り立たない。

 

 宮下氏  住宅街でも自動車が交差できるようにしなければ効果がない。

 

 山本康二氏 将来を考えて北陸高速道を野々市へ必ず通す。これが最大要件である。世界いずれの都市を見ても、放送施設のある場所が中心点となって発展している。幸い野々市町には北陸有数の施設があるのだから、その中心点として青写真を措くことだ。官公庁、市庁、学校関係、これだけは野々市町に誘致しなければならない。

 工場誘致はそう簡単ではない。地価二、〇〇〇円程度に協力しなければとても望めない。また新たに誘致するというよりも、出来るだけ現在の既存工場を育成し、それを拡張することが大切なことだ。とにかく野々市を中心とした野々市都市を考えて計画をつくることである。

 

 小森氏  北陸線が複線電化になると、驚くほど金沢市に大きな変化が起こる。金沢から大阪まで三時間~四時間ということになると、小売屋は直接大阪・名古屋・京都方面へ買い出しに行く。卸屋はまだそこまで考えていないだろうが、大きな問題になることだろう。産業の発達はまず道路だから、二級国道岐阜線を一級国道に格上げせねばならん。これは野々市町民の総力を挙げてやらねばならないことだ。また、現在石川県庁周辺に建設を進めようとしている国税庁などすべての官庁を、野々市地区に建設することだね。これは緊急の問題である。それとともに金沢市役所も野々市へ持って来て、官庁街を作ることだ。

 

 宮下氏  何を引っぱってくるかということは後々の問題で、まずその条件となる大道路計画をやることだ。これをやれば自然についてくる。ともかくも道路計画の青写真を作ることだ。

 

 山本康二氏 バイパス線、北陸高速自動車道を野々市へ通すこと。野々市は富樫一千年の歴史を有し、往時は北陸の首都として発展していた地理的な要所である。歴史はめぐるというから、それを今日つくらねばならないし、造るように努力をせねばならない。

 

 宮下氏  今それを本気でやればつくれる。

 

 小森氏  手をこまぬいていてはできない。

 

 山本清嗣氏  野々市自体で産業都市、広域都市として考えられるようにした方がよい。NHK、MROは将来もこの位置にあるかどうかということになると疑問である。近く大放送会館を建設する計画も進められているが、土地の協力が得られない限り容易なことでない。野々市町は新しい金沢をつくるというふうに考えることが大事である。もし、野々市が工場地帯になるようだと、MROもいられなくなる。文化都市、住宅地帯となれはたのしい限りである。いずれにしても新しい金沢の中心都市としての考え方は皆さんと同様ですね。

 

 宮下氏  新しい中心都市をつくる計画の上で考えねばならない地域区分の問題は、国道八号線ぞいが商業地域となるようにすることだ。当初に町長が描かれたように、地域計画では農、工、商、住宅、官公庁、学校などよく考えねばならない。

 

 山本康二氏  小松空港から直線コースで野々市へ入るように考え、努力すべきだ。これは実に重要なことである。

 

 小森氏  小松~金沢間専用道路、それとバイパス道路もきわめて重大な要素をもつから、ぜひとも野々市へ通さねばいかん。野々市駅の出来ることは間違いないだろうが、駅の周囲は相当広域にわたり、町が町有地として所有する計画を持たないと、駅が設置されても思うような駅前計画は不可能である。

 

 蔵本氏  電気通信局は将来の発展をよく観察し、その町がどのように発展するかということを考えてやっております。現況では野々市町は余りたいしたことがないとの考え方でいたが、実は最近の野々市町は非常に発展性があるという見方に変えて計画をたてている。道路計画、観光開発、工場誘致などを考えて、通信網の整備を進めているが、人口が出て行く都市は、それを押える対策を考えねばならない。その点、野々市は勢いのある発展を示しているのでたのもしいが、通信網としては金沢市と一緒の方がよい。

 

 宮下氏  いま野々市に一局増設されるという計画らしいが、国道八号線を中心として中学校より南の方がよく、そのように考えられるよう望みたい。また、合併問題に余りこだわらないこと、例えば小松空港を金沢空港と命名するよう小松市長もいっているとおり、合併しなさいというのでなく、このままでどんどん発展計画を押し進めるよう希望する。

 

 小森氏  今度出来る農業高等学校はどこなのか。これは農業センターとしての使命があるから、県農試の附近に建設するよう吉野学校長に積極的な政治手腕を期待する。

 

 宮下氏  野々市は明治九年に農事社が出来てから先進的な歴史がある。農学校は将来農業大学としての構想もあるから、県農試の附近に農学校を誘致するよう努力を望みたい。

 

 吉野氏  これから農業は大々的に機械化される。町長は野々市の平均所有農地を約二家三町歩以上を要します。それで工場やその他に土地を売ったら、その金を企業に全部投資し、株主となってともにその工場に働いてほしい。農家は三六五日のうち二〇〇日以下の労働だから、金沢市近郊の野々市はどうしても園芸的なものや酪農として発展すべきだと思う。土地を売ったその金は町の企業の株主として投資することを何としても望みたいがどうでしょうか。

 

 山本東二氏  それは非常によいことで、企業家も望むところと思う。

 

 宮下氏  北国書籍は今の話のように、その家族全部が会社に入り、その金も会社の資本に入れている。なお、臨時雇用制度も設けているが、状況はよさそうだ。

 

 

第五節 合併十周年

 

 

 昭和三十年に野々市町と富奥村が合体合併してから十周年となる昭和四十年十一月一日、全町挙げて十周年を祝い、記念式典を中学校体育館において行った。

 当日は中西石川県知事、徳田金沢市長、石川郡選出県議会議員、石川郡内町村長、議長、町内官公庁代表、会社、団体代表者三百余名が出席して挙行、その席上自治功労者小松時一郎町議会議員をはじめ町職員に功績をたたえて表彰状をおくり、終了後アトラクションに村上社中の日本舞踊、青年団による無形文化財のじょんから踊りがあり、小中学校生徒千五百名は町内を旗行列し、写真展、菊花展、作品展などを開き、全町挙げて十周年を祝った。

 この記念行事にふれて広報では次のように報じている。

 

 昭和四十年十一月一日を町の合併十周年記念日に定めて意義深いお祝いの記念行事を挙行されたのであります。新しい野々市町が誕生してから十年の歩みをかえり見ると、その発展は驚異という一言につきるかと思うのであります。いわゆる筆舌につくせない躍進でありまして、このことはいうまでもなく全町民の大きな誇りであり、みなさまと共に祝福いたしたいと思います。

 さて、当時の合併運動は、実に困難を極めましたが、新しい町造りへ、その情熱を燃やし続けた地域住民の強固な意志の結晶が「愛と和」の努力によって、今日の進歩を成しとげたものであり、これを勝利の栄冠とでもいいましょうか、みなさまの町政に対する惜しみないご協力の数々に改めて心からの感謝をささげたいと思います。

 このように発展変ぼうした町の十年前と、十年後の現在をどのように表現したらよいか、ちょっと説明に苦しむことで、現実の姿をみなさまの目でご評価いただけば歴然かと思うのであります。しかし行政の上からとらえられる記録や統計の要点について申しますと、その第一は、人口の増加率であります。合併当時の昭和三十一年度は、六、七〇〇人台(世帯数一、四〇〇台)でありまましたが、昭和四十年の国勢調査では一一、〇〇〇人台(世帯数二、三〇〇台)となり、その倍率は実に六割二分という高率となっているのであります。

 

 餌(えさ)の多いところ、環境のよいところに鳥類、獣類、魚類が群集して住いを求めると同様に人々の住居がふえるのもその豊かな生活の条件が備わっているからであり、この町のように、きわめて高い人口増加率の一事をみましても、高い生活文化の水準が注目に値するかと思うのであります。

 その第二は、財政の豊かなことであろうかと思います。昭和三十一年度の決算報告では、わずかに二、五〇〇万円程度でありましたものが、昭和三十九年度の決算報告をみますと一億三、八〇〇万円台に膨張しているのであります。その増加率は、実に五・五倍となっています。

 こうした豊かな財政は、安定した産業の発達と所得の多いことを示すものでありまして、まことに喜ばしいことと思います。

 主幹産業である農業所得の増加もさることながら、工業の伸展は飛躍的に高く、現在では大小合わせて六〇余工場を数え、従業員三、四〇〇名、そのうち約一、〇〇〇名が他から通勤となっており、十年前に比べると、これまた七倍という増加を見ているのであります。

 これら工業の振興を促進した原動力は、地理的な条件はもとより道路網の拡充、整備でありました。まず昭和三十一年の国道8号線(三、三〇〇㍍)の開通が、町の発展に画期的な影響を与えたことは申すまでもありません。ついで二級国道四、四二〇㍍の拡張舗装、県道(七線九、九〇〇㍍)町道一四二、〇〇〇㍍を保有し、北陸本線野々市駅の誘致を見越しての新設道路も実現のあかつきは、産業の一大躍進に寄与するものとして注目される次第でございます。

 その第三は、教育諸条件の整備であります。民族の繁栄と国家社会の発展を根本理念とし、人づくり、人間開発を信条において学校施設の完備を政治的生命として取り組んだ中島町長の業績は、幼にして保育所、幼稚園から小、中学校の義務教育施設の近代建築を成しとげ、私立普通高校に技術専門学校を、そして最高学府の技術大学校まで誘致開校し、その数三、一〇〇名の教育活動が進められているのであります。

 自他ともに高く評価しうる、文字どおりの文教の町であることはみなさまのお認め通りかと思うのでございます。ご承知のとおり保育所、小、中学校の建設費は総額二億円以上の巨額にのぼりますので、財政の投資的経費としては、全力投球であったことは申すまでもありません。それだけに苦心のほども察せられるかと思うのであります。

 しかし車の両輪という、学校教育、社会教育と、わが国教育二法のうち、学校教育の点では、まず完壁の体制が整えられたけれども社会教育の点においては、車の両輪とは申しがたく、財政事情これを許す時期にいたっては、バランスの調整に急迫するものと信じて疑いません。

 さらに文化の面では、わが野々市町に「自安和楽」(じあんわらく)読み方が転訛して「じょんから」(自から安んじて和やかに楽しむ)という、富樫六〇〇年の仁政、いまの民主政治の理念ともいわれる貴重な祖先の遺産が国の文化財に選定されており、そしてまた国の指定史跡となっている末松廃寺址から千二百年も昔に造られた「和銅開珎」(わどうかいちん)という、本物の銀銭が発見されて関係機関や学界の注目を浴びているのであります。

 廃寺址であるだけに、いまは礎石や屋根瓦など多数の器物が出土しているのみですが、この建物は奈良時代初期のものと推定されており、千古の歴史的ななぞを秘めているのであります。

 来年は米の収穫後発掘に取りかかる予定となっていますが、当時の大寺院であれば、名僧高僧の住む大学院であり、霊峰白山を南方正面に望む聖地でもあります。したがっていにしえは、この最高学府を中心に北陸の大文化圏を形成していたものとも想像されていますが、期待に相応する資料が出るかどうか、発掘調査によってその全容が解明されるのであります。

 いずれにしても、こうした国家的な祖先の輝かしい文化遺産が宝蔵されていることは、わたくしどもの大きな誇りでありますとともに、これらを顕彰し、保護の万全を期して、その活用をはかることこそ課せられた責務であると思うのでございます。

 どうか発足十一年の新春を迎えるに臨み、誇り高く、希望大きくより栄えある町づくりに、みなさま方のたゆみなきご健闘をお祈り申し上げたいと思います。

野々市町20年のあゆみ