第一節 新農村建設計画の実施

 

 

 昭和三十一年度から政府は五ヵ年計画をもって、農山漁民の自主的な総意に基く適地適産を基礎とした農山村の振興に関する計画を樹立、事業を総合的に実施することによって、農林漁業経営の安定と、農山漁民の生活水準の向上を図ることにした。このため新農山漁村建設総合対策を講じて全国的に推進することになったが、野々市町も翌三十二年度に地域指定を受けたので、野々市地域農村振興協議会を結成、兵地町長を会長として発足した。

 そこで町当局は計画を進めるにあたり、

 

  第一に野々市地区の農民がもれなく普遍的にその恩恵に浴し得る施設事業であること。

  第二に五年後にその資金の半額を償還する可能性のある団体または施設機関であること。

  第三に当地域の農業の立地条件に即応して、生産の増強と経済の充実に大きく役立つ施設事業であること。

  第四に農業の近代化、合理化、共同化を促進する施設事業であること。

  第五に農村生活の文化的向上と発展を助長、育成する施設事業であること。

 

 以上の五項目による基本的条件を具備した施設事業であること。

 さらにこの計画で一部農民だけが恩恵に浴することなく、その施設事業が広く直ちに当地城の農業の飛躍的進展と、農民の生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与すること。また、町の農商工を主とする産業の有機的関連において総合的開発を助成し、町の財政経済の充実と町民全体の幸福を増進する原動力となることを望み、計画されたのである。

 そしてその実現を目ざして現在に至っている。

 事業内容をみると、野々市地区は共同作業場、農業研修所、富奥地区は乳仔牛共同育成場、共同育雛場、共同集荷所、共同集乳所、農機具修理所、郷地区は共同集荷所、共同集乳所、押野地区は共同集荷所、その他電熱育苗、農機具化学資材置場などとなっている。そこまで進めるために、野々市町長兵地栄一、富奥農協長田中影信、郷農協長堀新助、御経塚町区長市村正規、野々市町青産研会長源野美喜夫、農業委員会事務局絹川孝久、農業委員西尾忠、公民館主事中田哲ら各氏が座談会を開いて広く意見を聞き立案した。

 

 

一、畜力から機械化へ

 

 

 機械化により作業能率と労力の軽減をはかり、水田裏作経営にも活用できる動力耕耘機の普及が昭和二十八年頃より進み、昭和三十二年頃には百台を突破するに至った。その半面、従来の牛馬耕は年々減少し、昭和三十五年頃ついに姿を消した、しかし農業近代化のための経費負担も大きく、農業経営に一段の努力と経営技術の改善が要求され、完全な機械化農業への基盤を確立して行かねばならない。

 

 農機具所有状況(昭四九年一二月現在)

 種類    台数  

 トラクター 一六四 

 バインダー 一九八 

 田植機   二四九 

 乾燥機   一四四 

 コンバイン 二二六 

 防除機   三四三 

 

 

二、共同使用から個人化へ

 従来の共同利用は肩かけ手廻散粉機を備えつけて、各集落に貸し出し、共同利用していたが、昭和三十二、三年頃から各集落で動力噴霧機数台を共同購入して使用した。

 さらに動力耕耘機(古川式スクリュー型)を昭和三十年頃から二~三戸で共同使用、全自動籾摺(モミスリ)機を五~一〇戸ほどで日を割り当てて共同使用していたが、昭和三十三年から三十六年にわたり共同の力で機械化が急速に普及した。

 同三十八年以降、経済の成長にともない、基幹的農業就業者まで他産業に流れ出したため、共同防除体制が崩れ、個人別一斉防除となった。兼業化の進展による農家経済の安定と、小型機械の開発によりますます個人化して来ている。

 

 

三、大農具の使用

 農業労働力が他産業へ流出して、農繁期における不足を補うことと、農業近代化資金等による制度融資の拡充、兼業化による農家経済の安定により、大農機具の普及が目ざましく、とくに集中して労働を必要とする稲刈り作業の雇用難(昭和二十四年頃より能登方面又は鳥取県より移動班の受け入れ)から、同四十二年にバインダーと乾燥機が導入された。さらにその後、同四十三年御経塚地区が農業構造改善事業でトラクター、自脱型コンバイン、籾乾燥調整施設を導入、同四十四年には上林地区が機械化稲作経営実施事業により、田植作業から収穫調整まで一貫した体制を確立、同四十五年から兼業の進展により田植え作業の「ゆい」が崩壊した。同四十六年に共同育苗センターの設置事業により田植え作業の機械化が進み、今や農家労働は殆んど大型機械化し、これによる余力を他産業にふりむけ、施設園芸農業へ、あるいは現金収入獲得に労力を分散するに至った。

 

 

四、田の草取りから除草剤

 

 農家労働で除草作業が占める割合はきわめて高く、昭和三十年頃までは除草体系として、田植え二週間後に第一回の「らち打ち車」による「らち打ち」と手による荒草取り、六月上旬ごろに第二回の「らち打ち」、六月中旬に除草機を縦横に押して、さらに手取り除草を行った。さらに第二回目に六月下旬頃「2、4D」が使用され、八月上旬に手による「ヒエ」技き作業を行ったのである。が、三十五年から四十年頃になると、田植え前後に「PCP」による「ヒエ」防除が新たに入り、五月下旬の手による荒草取り、六月上旬は除草機またはパンコン粒剤をまき、六月中旬は手によるヒエ取り、またはMCP粒剤をまき、八月上旬「ヒエ」抜きの手順で作業が行われていた。

 それが四十八年頃からは田植え前にMO粒剤による初期除草、五月中旬~下旬にかけて「サタンS」粒剤による中期除草、さらに六月中旬の粒状水中MCPによる後期除草の三段階となり、手による除草作業もなくなって、除草作業が一新され、労働力がきわめて減少したのであるが、これ等の薬剤は身体に悪影響を及ぼすため取り扱いに充分注意を要するのである。

 

 

五、米づくりから土づくりへ

 

 

 

 

 

 

 昭和四十一年から四十四年にかけ、増収と省力を目標に「米づくり運動」が全国的に展開され、生産意欲の高揚、生産技術の高位標準化を旗印に大いに研鑽に励んだ。

 四十一年には当町においても中堅的青壮年を営農推進員に委嘱して、米づくり技術の研修を重ね、末端農家の積極的な指導に当たった。気象的に恵まれたことも大きいが、このため四十一年から四十四年は多収穫農家も増し「米づくり運動」が功を奏した。(米づくりが農政の柱であった昭和三十年前後は、富奥地区において石川県稲作共進会に上位入賞者があいついででた)

 しかしながら四十五年から米の需給緩和による自主流通米制度の導入により情勢が変化、「うまい米」に対する消費者の要望が高まった。一方では兼業化の進展による有機質を控えた「あらし作り」が行われ、生産力の低下などに対処するため「土づくり」運動が展開された。同四十七年に良質米生産対策事業の実施により、「生わらカッター」が導入され、稲わらの還元による土づくりが進められ、さらに四十九年に銘柄品種の作付け拡大による産地としての声価の向上が叫ばれている。

 

 

六、青年研修所の建設

 

 政府の意図した農村自立経済の達成を目標におく農業新興事業のひとつに、青年研修所の設置がある。それは農業相談、土壌の調査研究、生活改善の研修および農業振興に必要な研究などを行うとともに、有能練達の講師と技術により講義、講習、討議、実習の方法で成果向上を期すものである。

 敷地面積四七五・二平方㍍、延べ三六三平方㍍の木造二階建てで、一階には農業相談室、土壌研究室、農業図書室、生活改善研究室、管理室、物置、便所、二階は展示室、協議研究室を設けてある。きわめて時代に即応した建築物である。

 

 

七、青年建設斑

 農業は昭和二十九年を境として比較にならぬ進歩を遂げて来た。これは驚異的な科学の進歩であり、これからは勉強する農民であり、研究し実践する農業人であり、考える農民でなくてはならない。そのためには近代農業の建設が急務であり、若い指導者の養成が先決である。このような意味において昭和三十四年十一月一日左記のような青年建設斑が発足した。

 

 生活信条三項

  一、吾々青年建設員は自己完成を目指し、共同精神を体得し、知識技能の修得および実践力を養う。

  一、吾々青年建設班は、町を愛する精神を養い、豊かな住みよい町造りを目標とする。

  一、吾々青年建設斑は、明日のために今日考え合いましょう。

 

 

 〔教育計画〕

 l、農業技術教育、稲作、畜産、裏作、農業経営、農業土木、農業加工、土壌肥料、植物生理、病虫害、農薬、農機具、農協法、農業振興計画、測量

 2、一般教養

 

  政治(地方自治と選挙、町政を語る会) 経済(日本産業の現状と経済の動向、農業簿記と税) 時事(最近の世界情勢、憲法と自衛) 社会

 (日本の社会教育、社会生活と道徳、視聴覚教育による研究討議) 普通学(現代用語とかなづかい) 保健(生活と栄養、保健衛生) 体育(保健体育、各種競技実習、音楽、レクリエーション)

 

 班の活動

 二十名を単位として班を編成して、研修所で約二ヵ月間、合宿生活で起居を共にする。その間、働きながら学ぶことを建前に自主的日課を定め、全員がそれぞれ生活、学習、作業の責任を分担する。

 炊事当番に始まり体操と駆け足、学習では講義、討議を通じて蔑業技術の習得、一般時事、社会問題、あるいは土壌検定や十六ミリ映写技術の資格修得、さらに実習等。作業は野々市山の植林事業、土木工事の請負などで、夜は交歓会やレクリェーションが主な日課である。

 これらを通して農業後継者としての若い創造力の養成につとめている。研修末には、県外先進地視察を兼ねての研修旅行で大いに見聞を広めた。昭和四十七年、この修了生の同志が結束して現在の七八園芸組合を組織、体得した高度な技術を生かして、都市近郊農業の先端を行くまでに発展している。

  第一期生(三十四年)二十名、第二期生(三十五年)十六名、第三期生(三十六年)十四名。

 

 

八、中林青壮年の酪農共同経営

 中林地区の青壮年十一人は昭和三十五年三月、敷地一、七八二平方㍍、建物三三三平方㍍、諸経費五百六十万五千円、搾乳牛二十頭で酪農の共同経営に踏み切った。

 それは、当時の国民所得倍増論は農民所得を置き去りにしたものであり、農産物の自由化は価格を圧迫するだけである。生活改善による家庭電化や農具の機械化は時代の要求であるとしても、農家の所得を根こそぎにしてしまう。農業の体質改善や近代化は叫ばれているが、理論や評価はどれだけやっていても物にならない。要は実行あるのみであるとの考えから出たものであり、近郷農村でも初の試みであった。

 

 

九、農業構造改善事業

 

 御経塚地区の農業構造改善事業は、近郊盛業の振興を目ざし三ヵ年計画、総事業費八千万円を投じ、昭和四十二年九月末日から着手され、四十五年に完成した。

 金沢市郊外の同地区は近年、住宅や工場の進出で人口が増加の一途をたどる中で農地がせばめられ、米作の飛躍的増収が望めず経営を改善する必要に迫られていた。このため転換期に直面している農業経営改善策のモデルケースとして、機械化による集団栽培を確立、稲作の省力化を図って裏作の野菜部門にその余剰労働力を振り向けて、生産の拡大を図ろうというものである。

 この事業による受益農家は四十五戸で、耕作面積五五・三㌶、作物は稲作と源助大根、フキを主とし、これら野菜類を関西市場に共する。これにより従来の年平均生産額九百十五万円を一挙に三・五倍の三千二百六十万円にし、米作とあわせ年間六千六百三十三万円の生産額とする。

 基廃盤備事業の昭和四十二年度は機械運転や、出荷、収穫に必要な農道の拡幅(幅員六・五㍍)、道路整備、二年目にはかんがい、排水用路の改修、トラクター防除機各二台の導入、三年目はバインダー六台、高性能自動脱穀機十台、モミ乾燥調整機設備の機械導入と野菜集荷所一棟建設で、現在これらの利用により着々成果をあげている。

 

 

十、農免道路の完成

 

 農免道路は農林業用機械に消費された揮発油税財源の一部を、農漁村に還元して農業生産の近代化に役立つ農道づくりに当てるものである。昭和四十年十二月十二日、野々市町堀内から鶴来町井口まで延長六千六十㍍、総工費九千八百万円の道路新設工事に着工、幅員六・五㍍の農免道路が同四十三年五月完成した。

 この工事の完成により、堀内・中林・鶴来町安養寺・知気寺・井口などの農地六百七十㌶が受益し、大型農業機械の導入が可能になり、農業総合センター、畜産センター、そ菜団地づくりとあわせて農業近代化に役立っている。

 

 

十一、施設園芸農家へ転換

 

 

 稲作の省力化と保温資材の開発により、昭和三十四年にビニールトンネル、同三十六年に竹中晃式ビニールが導入され、技術的には未完成であるがいちおう野菜農家で試用され、さらに同三十八年に施設野菜栽培指向農家で木竹による連棟式ハウス栽培を行った。これは技術的にも比較的定着し、近隣農家に波及した。

 その後同四十三年、農業構造改善事業によりパイプによる野菜ハウスが導入され、面積規模も三㌶となり、これと並行して四十五年から政府の稲作転換特別対策事業をとり入れたので、飛躍的に生産も拡大された。加えて四十七年に施設トマトが国の野菜指定産地となり、四十八年から二ヵ年継続で野菜ハウス団地造成事業として、鉄骨による大型単棟ハウス、連棟式アングルパイプハウスを導入、本格的な施設園芸農家の増大を図った。

 

十二、休耕田から兼業農家へ

 

 

 

 昭和三十四年頃から農業と他産業との所得格差が現れ、経済の成長とともにこれが拡大し、同三十八年から農業基幹労働力が他産業へ急速に流出し、農業労働力の老齢化、女性化が進んできた。そして同三十九年をピークとして兼業農家が急増してきたのであるが、不安定な臨時的賃労働であった。

 同四十一年から四十三年の豊作により米は生産過剰となり、緊急措置として四十五年に米生産調整が実施され、さらに四十六年から五年間にわたってその対策が強化された。このため米価の据え置き、生産意欲の減退、労働力の不足から休耕へと進む農家がふえた。加えて休耕田の管理不徹底から水田への復旧が困難となり、耕作放棄が起こり、市街化区域では水田の転用が促されてオール兼業となり、アパート貸家業や、恒常的な賃労働で安定した兼業農家として定着している。

 その後四十九年には兼業農家に対して積極的に請負耕作や農作業の受委託が進められ、稲作の生産形態が変化してきた。

 

十三、農外収入の魅力

 昭和三十五年頃から農外就業の機会が多くなり、農外収入が伸びてきた。が、稲作収入に依存していることにより、四十五年からの米生産調整によって農業収入が減少、四十四年からは農機具の個人使用により過剰投資を余儀なくされ、加えて四十九年の農業生産資材等の値上がりのため、農外収入の依存度が高くなるとともに稲作と兼業が結びつきやすくなった。しかも稲作機械化体系の確立による上層農家における安定兼業と、都市化による農地の減少とがあいまって農業収入減となり、ますます農外収入に依存する者が多くなったのである。

 

 

十四、農地の転用

 

 昭和三十三年頃から政府の経済成長政策が軌道に乗り、全国的に工場の新設、増築、これにともなう住宅の新築などのため、農地の転用がきわめて盛んになった。ことに当町においては金沢市の衛星都市として会社、事務所の進出、町政の一端である学校の建設に要する敷地、新興団地の造設など驚くべき発展に伴い農地の転用が活発化した。過去十六年間の転用件数二、八一二件、転用面積実に三〇、五七一㌃となり、これがため町の様相は全く一変し、人口の増加率は県下一位となり、これらにともなう施策の実現に四苦八苦している現況である。

 町内の農地転用さかんとなる

 人口は、昭和三十三年の合併当時八、四三一人であったのが、十五年後の四十八年七月一日現在一七、〇〇〇人を突破、二倍を軽く超え、したがって農地の転用も激しく、四十七年中だけでも三二㌶が住宅、倉庫、資材置場敷地に転用された。建築確認申請数をみると住宅の新築四五五件、アパートなど四一件、その他店舗、作業所、倉庫など六九一件をかぞえている。

 

 

十五、酪農経営

 

 

 

 野々市町の畜産は、終戦後から県の先進地として、押野地区でホルスタイン種の乳牛を飼育していた。当時の飼料は濃厚飼料と稲わらで、管理も未熟だったため、繁殖障害や栄養不良からくる病気が多く、経営も不安定で、飼育頭数は一戸当たり一~三頭にとどまっていた。

 しかし、水稲の苗代技術の普及で早期栽培が可能となり、水田裏作粗飼料の道が開かれ、青刈りトウモロコシ、イタリアンライグラス、レッドクローバ、燕麦などが作付けされた。さらに田畑輪換牧草田方式による飼料の自給率向上が図られ、そのため酪農経営は急速に伸びて、水田を基盤とした全国的な水田酪農経営の先進地となった。

 昭和三十五年には国のモデル地区に指定され、国有牛二十頭が貸し付けされたほか、三十六年には県有貸し付け乳牛事業により、飼育農家二十六戸、飼育頭数百頭に達した。この頃、押野地区の飼育乳牛は全国的に加賀ホルスタインの名で呼ばれた。

 農業の専門化や共同化による経営規模の拡大、近代化が全国的に叫ばれたのは三十五年頃からで、三十六年には酪農部門の共同経営が確立され、酪農経営改善事業、畜産共励会により酪農家の意欲向上が図られた。中林地区の共同酪農経営もその頃に発足した。

 四十年と四十三年には畜産の多頭飼育推進のため家畜導入事業を実施、多頭化につとめたが、四十五年頃から都市化の影響を受けて酪農家は次第に減り、規模を拡大する農家も出てきたもののその数はわずか六戸、飼育頭数は百二十頭となった。加えて近年の飼料高騰と多頭化にともなう糞尿処理の問題など、酪農経営ほ苦しい状態に追い込まれており、体質改善を迫られているのが現況である。

野々市町20年のあゆみ