当試験場の設立は明治三十五年であるが、現在の施設は昭和三十七年、当町中林(旧富奥小学校跡)に新しく建設された。施設は建物二三、〇〇〇平方㍍、水田六八、二〇〇平方㍍、畑一三、二〇〇平方㍍からなり、総合研究科、作物科、そ菜花き科、農業機械科、土壌肥料科、作物防疫科、環境保全研究室、企画広報室の六科二室を設け研究に取り組んでいる。
野々市町農業協同組合は昭和二十三年三月一日に創立総会を開催した。出資金は七万七千二百円で、組合員一八九名をもって発足、初代組合長には村山信義氏を選び、その後組合定款に基き事業を推進した。
昭和二十四年十一月二十九日、村山組合長死亡により亀田袖助氏を組合長に選任。昭和三十一年一月二十四日、新事務所が野々市町オ一五番地に新築落成した。
昭和三十三年二月二十三日、押野ほか三部落の集団加入を承認。同年三月十五日、押野町リ一四六番地に支所を設置、これにより正組合員は三三九名となり、支所長に松田一男氏を選任した。同支所は同年八月七日、押野町チ四三番地に落成移転した。
昭和三十七年三月四日、組合長に黒保衛氏を選任。三十九年九月三十日、組合理容店舗完成、十月十二日営業開始。
昭和四十三年八月二日、本町五丁目一八七番地に新倉庫が落成。四十五年三月十四日、吉野長時氏押野支所長に選ばれる。四十七年四月一日、郷農協野々市地区十部落が集団合併加入する。これにより正組合員は五二三名となり、支所長に藤田英太郎氏を選任。その後藤田氏退職により清水卜一氏を選任。現在は西川外喜男氏が支所長として活躍している。
昭和四十九年七月一日、県公金取扱開始。同十月一日、内国カワセ開始、同時にトリックス導入。その間、農協の発展に種々事業を推進、現在に至る。その事業推進がすぐれていたため左記の表彰を受けた。
昭和四十五年九月三十日 農協貯蓄十億円突破表彰
四十五年十二月二日 共済保有高達成銀賞
四十六年二月十八日 貯蓄増強優良組合表彰
四十六年六月七日 自賠責任共済優良農協表彰
四十七年三月十五日 農林水産統計調査優良農協表彰
四十八年五月三十一日 貯蓄優良農協表彰
四十九年四月五日 貯蓄増強特別功労表彰
現在の富奥農協は農業協同組合法が施行された昭和二十三年一月十五日、法に基き初代組合長に古源栄美氏を選び発足した。その後、昭和三十年四月一日、野々市町との合併により、富奥村農業協同組合を富奥農業協同組合と改め、現在に至っている。
石川郡の伝統ある組合としてその事業内容はきわめて充実しているが、昭和二十五年八月から肥料の統制解除とともに部落生産組合と協力、肥料の共同計算方式を県下農協に先がけて採用、消費に見合う取り扱い量を確保し、魚業倉庫の増改築を行ったことは特記さるべきである。
また、生産面においては百台を越える動力耕耘機の導入にあたり、組合はこの購入資金の供給に便宜を与えると同時に、生産品に対する技術的普及、共同出荷、蔬菜園芸の集団栽培など、青壮年達と提携し、生産から出荷、消費へと一貫した組合機能の発揚につとめてきた。
その他各事業を通じ、部落生産組合、婦人会などの助力のもとに金融事業の推進につとめ、昭和二十三年と同二十七年の二回、農林中央金庫理事長の表彰、同二十九年十一月には農協七周年記念式典において県知事表彰、同三十年十二月には全国農業協同組合中央会から表彰を受けた。このほか昭和二十九年十一月、県下でトップに農協青壮年連盟を結成した。その結成にともない、農協事務所が狭くなってきたので鉄骨二階建ての新事務所を建設し、共存共栄の成果を一層発揮した。
昭和三十年に米の売り渡し制度が実施されたあと、同三十七年には鉄骨の大型農業倉庫を新築、全生産米の保管体制を拡充した。その後、昭和四十三年に政府が米の生産調整を実施した結果、組合員は米の生産意欲を失い、農外収入を求めるようになり、昭和四十四年第二倉庫を改廃、大型購買店舗を開設、「ショッピング富奥ホームセンター」として組合員のサービスにあたった。
昭和四十七年から秋の収穫作業も季節稲刈り雇用作業からコンパイン機械化し、それがため田植えも機械化されたので育苗センターを設置し、農業政策の変化に対応しながら組合員の福利増進に努力している。
このような概要であるが、これらの事業を側面から助長したのは農協青壮年連盟であり、十四の生産組合であり、農協婦人部の活躍であることは論をまたない。即ち、昭和三十年に富奥白菜が関西市場で名声を高めたこと、農協共済事業の推進運動を起こし、当時として二千万円の契約を果たしたことなどである。そしてこれらが起因となり、役職員一体の推進と組合員の協力により、同四十九年末には生命共済二十八億二千八百万円、子供共済四千四百六十万円、建更共済六億三百万円という契約高に伸展した。
一方、部落生産組合の活動は、農家組合員の生産資材の予約注文、はては農協から配達された資材を組合員に配分するなど、組合と農家のパイプ役となってきた。
販売購買については昭和四十三年から農機具SSセンターを開設、春耕から収穫まで農機具の技術指導、故障修繕などアフターサービスにも余念がない。加えて農協ホームセンターの利用などにより、婦人部を主とした生活物資の販売で各農家の生活費の削減に協力し、豊かな町造りの一助となっている。
こうして田中影信組合長を先頭に、もっぱら組合員の福利増進に努力、組合員七三〇人が一丸となり、今や県下農協のトップにのし上がってきた。
農業委員会は昭和二十六年、農業委員会法の制定によって、従来からあった農地委員会、農業調整委員会、農業改良委員会を統合して発足した行政委員会である。
農業委員会発足の背景には次のような事情がある。すなわち、農地委員会は戦後の農業行政における農地改革の目的をいちおう果たし、農業調整委員会も米麦などの供出割当についての市町村の諮問機関であったのが、供出割当の緩和にともなって制度的に再検討を迫られていた。
このような情勢から、農地委員会と農業調整委員会に、農業改良普及事業の推進を図る組織的な役割をになっていた農業改良委員会を加え、一本化したわけである。従って農業委員会は三委員会の所管業務を継承し、さらに農地改革から農業改革へという目標をになった。
農業委員会法はその後、二十九年、三十二年に改正されたが、野々市町でも同法に基いて農業委員会が設置され、今日まで二十四年間八期にわたって活躍している。当町の場合、農業委員会は急速な都市化現象にともなう農地転用の問題が、重要な課題となった。
委員数の変遷
一期 二期 三期 四期 五期 六期 七期 八期
委員会数 四 二 一 一 一 一 一 一
委員数 五八 三二 二八 二一 二一 二一 二一 二一
(注=選挙は全国統一選挙日で無競争当選)
歴代会長、役員
第一期 会長小西小二郎(野々市)、竹内一郎(富奥)
第二期 同右
第三期 会長竹内一郎、会長代理宮川隆正、農地部会長黒保衛、農政部会長庄田勘治、県委員福田良一
第四期 会長黒保衛、会長代理作田庄一、県委員庄田勘治
第五期 会長黒保衛、会長代理庄田勘治、県委員中島栄治
第六期 会長黒保衛、会長代理庄田勘治、県委員中島栄治
第七期 会長黒保衛、会長代理庄田勘治、県委員中島栄治
第八期 会長庄田勘治、会長代理横川泰正、県委員中島栄治
現在の農業委員
横川泰正 本町二丁目 西村定吉 新庄 矢野喜一郎 押野
山口治 本町三丁目 小林孝次 上林 庄田勘治 御経塚
竹内正喜 本町四丁目 中村安栄 末松 兵地政与 本町二丁目
福村誠治 本町三丁目 竹田宏行 稲荷 田中影信 粟田
中島栄治 太平寺 中山久男 徳用 黒保衛 本町四丁目
新森晃 下林 高田作次 二日市 堀俊夫 堀内
三納博 三納 西野保 押越 北村孫次 押野
工場設置奨励に関する条例の廃止
町村合併後、「工場設置奨励に関する条例」を制定、工場の誘致に力を入れて来たが、金沢市に隣接しているほか国道八号線など立地条件のよさから、工場、事業所の進出が著しく、報償金まで出して工場を誘致する必要がなくなり、昭和四十三年二月の定例議会において同条例を廃止した。
この条例は昭和三十四年に、産業振興をねらっての町発展策の一環として制定され、投下資本三千万円以上、従業員三十人以上を誘致対象としてスタートしたが、工場群の進出が急増しはじめた三十九年になって、資本金五千万円以上、従業員五十人以上に改正した。この間、適用をうけた工場、事業場は三十余で、これまでに町外から進出してきた工場、事業場の半数以上を占めている。
ところで誘致条例の対象をふくめた工場群の増設、これにともなう住宅急増によって町税が著しく伸びた。即ち、昭和四十二年度には一億二千二百六十五万円だったのが、四十三年度にはこれを上回る一億四千七百万円の税収が見込まれ、町財政に占める割合は実に六割近くとなっている。
金沢市郊外の立地条件に加えて、国鉄野々市駅の設置、国道八号線、一五七号線の道路整備が進み、誘致条例の有無にかかわらず工場群の進出に十分確信がもてるとして、廃止することになったのである。
当町の商店数は現在、卸売業四五店(従業員七九五名)小売業一七〇店(従業員一、三〇四名)飲食店八一店(従業員三〇九名)合計二九六店(従業員二、二二八名)となっている。これを四十七年に比べると、店数で四二店、従業員で五五四名の増となっている。
業種別に見ると、卸売業では食料、飲食卸売業が最も多く二五店、化学製品卸売業が一一店となっている。小売業では飲食料品業が六九店と全体の四〇・六%を占め、その他の小売業(医薬、化粧品、書籍、文房具、中古品などの小売業を含む)が五〇店で全体の二九・四%となっている。これも四十七年に比べるとその他の小売業一一店増がめだっている。
また従業員の規模別に見ると、卸売業で五~九人、小売業では一~二人の商店が多くを占めている。
年間商品販売額は卸売業が百七十億六千万円、小売業が百八億九千万円、飲食店が六億二千万円となっており、四十七年に対する増加率は卸売業六二%、小売業三七%、飲食店七六%である。このように人口の増加に比例して店舗数もふえ、ますまま都市化が激しくなっている。
なお、これらの統計調査について通商産業大臣から次の表彰を受けた。
表彰状
貴町は多年にわたり商業統計調査の実施について格別の努力をされ、その成績がきわめて優良と認められますよってその協力を感謝しここに表彰します
昭和四十六年三月三十一日
通商産業大臣 宮沢 喜一
昭和三十二年四月の町村合併完了以来約十年、町の人口も次第に増加して来た。
そこでいち早く国道八号線と一五七号線が交差している横宮町に、昭和四十二、三年頃から白山麓特産館、大和ハウジングがオープン、引き続き金沢生鮮市場、あるいは城南食品センターなどいわゆる商業資本が進出、商業部門の再認識と質転換を余儀なくされた。
その後数年を経ずして人口も二万を越えようというほどになり、金沢市の郊外という立地条件からボーリング場、パチンコ店等、即ちレジャー産業も進出してきた。ボーリングは斜陽となったが、その他は交通の便も良く、近隣市町村から多くの利用者があり、終日にぎわっている現状である。
政府は中小企業の振興対策として、商工業の総合的な改善を図り、国民経済の健全な発達に寄与するため、商工会の組織等に関する法律を昭和三十五年五月二十日付で施行した。これによりそれまで任意の団体であった商工会も、この法律に基く早期の改組を迫られた。そこで町の商工会としては、全員の加入申し込みと事業計画、収支予算など設立総会に必要な事項につき決定、同年九月に設立総会を開催、これを契機に野々市町一体の商工会となし、未加入者、各会社の加入を促進、強力な商工会として商工業の総合的な改善と発展を図った。
商工会の二部会組織
商工会法が施行されて満一年有余を経たとき、当町商工会は旧態を脱皮して近代的な商店街の建設に大きく前進しようと、事務局を設置、改良普及員を専任し、根本的な発展計画に着手した。その後会員の加入も二〇〇余になったので、その組織を商業、工業の二部会に編成、積極的な活動を展開した。
現在は会員数も四〇〇余となり、町の発展にともない意欲的に事業推進にとり組んでいる。
具体的な事業内容は
一、商工業にかかわるいろいろな相談と指導(金融のあっせん)
二、講演会、研修会の開催
三、展示会、共進会の開催およびあっせん
四、商業者の委託をうけて行う一切の事務(火災保険、各種社会保険の手続き、借入金の償還手続き事務代行)
商工会歴代会長 北川小三郎、能登正男
当町の工業は昭和五十年現在、工場総数九〇ヵ所、従業者総数三、一六八人、製造品出荷額二百八十二億四千四百一万円である。この数字を五年前と比べると、工場数では七ヵ所増、従業者数では三四四人減、製造品出荷額では百六億七百六十万円増となっている。
工場の内訳は一般機械二六、食料品一四、金属製品九、出版印刷及び関連産業八、繊維工業と木材製品七、窯業、土石製品と電気機具四と続く。が、従業者数および製造品出荷額のトップはなんといっても繊維工業で、全体に占める割合は従業者数の三九・一四%、製造品出荷額の三九・九五%を占めている。
金沢市の衛星都市として発展している当町には、住宅、事業所が年々増加し、土地売買代金、事業資金等の預貯金融資と金融機関の使命は重要になってきた。
各金融機関は建物を新築し、その陣容を整え、この使命達成に努力し、経済面において大いに貢献している。
郵便局並びに農協関係については別項に記載する。
1、普通銀行
北国銀行 若松町二二ノ九
大正九年九月五日、松任銀行野々市支店として野々市村オ一四九に開設。
昭和十五年三月一日、合併により加能合同銀行野々市支店と改称。
昭和十八年十二月十八日、北国銀行野々市支店と改称。
昭和二十八年一月七日、野々市町オ六ノ六に移転。
昭和四十九年八月五目、若松町に新築移転。
建物 鉄筋コンクリート二階建て、延べ面積八〇四平方㍍。
2、相互銀行
加州相互銀行 稲荷町三二六
昭和四十五年十月十四日、稲荷町三二六に新築開店。
建物 鉄筋コンクリート二階建て、延べ面積二三五六平方㍍。
3、信用金庫
北陸信用金庫 本町三ノ七ノ九
昭和三十五年十二月十三日、松任信用金庫野々市支店が本町二丁目十六ノ四に新築開店。
昭和三十九年八月八日、石川信用金庫に小松、美川信用金庫が合併して北陸信用金庫と改称。
昭和四十七年十二月四日、現在地に新築移転。
建物 鉄筋コンクリート二階建て、延べ面積五九八平方㍍。
野々市町の土地改良区は、昭和二十九年に設立され、町合併後は各町内、または地区土地改良区が加入、合併し、昭和三十九年三月に全町を対象とした土地改良区ができあがった。
そして全町一体化された土地改良区は強力な組織力のもとに、農業生産の合理化と食糧増産をねらいとする事業が盛んに行われてきた。昭和四十五年五月二十八日、全国土地改良事業団体連合会からの表彰を受けたことによっても、農業の町、野々市の基盤を築いた役割は非常に大きなものといえよう。
設立時から昭和四十九年度までの事業概要
水路 延長 三二、二八二m 工事費 二一〇、〇三一千円
農道 延長 六九、八五二m 工事費 三二九、二五七千円
組合員数及び総面積(昭和四十九年度)
組合員数 七七四名 総面積 六九五ヘクタール
歴代理事長 徳野 徳次、亀田 袖助、小西小二郎
現在役員名(昭五〇・三・三〇)
理事長 徳野与四男
理事 徳野与四男、絹川 善雄、村太 武範、佃 栄吉、栗山 直次、小林 修、庄田 義栄
小堀 栄一、市川 春男、中薮 三郎
監事 木戸 穣、西村 信一、小堀 三郎、南 正弘
農業共済組合は農業経営の安定を図るため、農業災害補償法にもとづき、水稲・家畜・建物を事業内容として昭和二十三年に設立したもので、町では昭和三十一年三月二十九日、野々市と富奥の組合が統合して発足した。つづいて昭和四十七年六月一日、鶴来、野々市、河内、吉野谷、尾口、白峰の各組合が合併して、石川地区農業共済組合が誕生し現在にいたっている。
歴代組合長 中島 栄治、田中 影信、黒保 衛
年別事業概要(野々市町関係分)
昭和四十一年度 昭和四十五年度 昭和四十九年度
引受面積 九〇、四二八アール 七二、二二五アール 六三、七三一アール
共済掛金 二、三〇八、四六六円 二、八七〇、七七六円 三、七一四、八八三円
共済賦課金 一、三三七、二四九円 一、二五一、一七〇円 六六四、二六五円
共 済 金 三九六、五二〇円 一〇九、二〇〇円 七三、八〇〇円
組合員数 七〇〇名 六七〇名 五九二名
昭和四十九年度野々市町関係役員名
副組合長 黒保 衛
理事 北岡 良爾、 宮川多喜蔵、 藤田英太郎、 南 章
監事 亀田 勇
野々市町20年のあゆみ