第一節 「愛と和」の都市宣言

 

 一、町の花木に「ツバキ」を選定

 野々市町議会は四十九年六月十九日の定例議会において、町花木指定の「椿」(ツバキ)を通じて新しい共同社会づくりを目指す「愛と和の都市宣言」を満場一致で決議した。

 

 宣言文

 歴史が人間に求め続けてきた課題、その一つに「愛と和」がある。この問いにこたえ、われわれは新しい時代を開拓してきた。

 今わが国内外の情勢は非常な変動に直面している。これは物質的に繁栄をとげたその半面、種々の弊害を生じたためで、ややもすれば「愛と和」の欠如となることをうれえざるをえない。

 本日、町の花木として「椿」を選定、決議した。これを機にコミュニティ(共同社会)の一環として、美しい町づくりの願いをこめて、花と緑の町、われらすべての町民がうるわしい町になることを宣言する。

 

 野々市町には古い椿が多く、周辺の地域にも椿が見受けられる。これは富樫政親が加賀一国の守護として野々市に本拠を置いた室町時代に、第二の京都をこの地に築くために近郊を伏見・山科・高尾と名付け、構築や環境の整備の折に京都から移し植えたのが理由と伝えられている。

 そのヤブツバキの種類の中でも「野々市ツバキ」は他種と違った特徴を持っていて、白に薄い紅をさした清楚な感じをもつ花である。

 緑をかねそなえ、四季を通じて酸素を供給してくれる椿、しかもこの野々市町の歴史の上にも意義深い椿を、町の象徴として選び、町づくり運動の一助としたわけである。

 

 

第二節 環境保全条例の制定

 

 町当局は昭和四十六年九月二十三日、定例議会において「環境保全条例」を提案、譲決した。

 これは清潔な生活環境を保存するとともに、犯罪、火災発生、汚物の投棄、病虫害の発生を未然に防止し、町民生活の安全を図り、住みよい豊かな町造りのために制定されたものである。所有者の完全な管理の責任、町長の勧告、措置命令、立ち入り調査の権限を認め、最終的には雑草の除去命令を出すこともできる。さらに技術的に除去できない所有者には、町が委託して草刈りを行うことになっている。

 同条例は当分、市街化区域のあき地に限り適用することになっていて、その成果は着実に実行にうつされている。

 

 

一、し尿処理場建設

 

 ゴミ処理と並行して、し尿処理が自治体において問題になって来たことは、周知のとおりである。

 当地方は下水道が完備していない関係で、汲み取り式が多く、従ってこの処理について処理場の建設を余儀なくされ、当時の松任町・美川町・野々市町において広域的に建設計画がたてられた。

 もちろん、ゴミ焼却場の設置よりも早く計画されたことは事実であり、完成も早かったのであるが、問題は建設場所の選定であり、その承諾がきわめて至難であったことも事実である。そのため組合当局、ことに当時の松任町としては町長はじめ関係課長の努力が必要以上に要請された。

 幸いこの努力が実を結び、建設予定地の松任町倉部町の住民の理解と協力により、承諾を得られることとなったのであり、われわれ野々市町民としても感謝するものである。

 建設内容としては一日処理能力四〇㌧とし、近代的な消化式処理場が昭和三十九年十月三十一日に竣工した。

 現在は松任市の石川衛生株式会社に委託して、三町のし尿処理を行っているものの、三町の人口急増によってその量も増加し、昭和四十五年十月中に酸化式二〇㌧の処理能力の施設を増設し現在に至っている。

 しかしながら松任市・野々市町の人口はその後さらに増加し、処理能力も限界となり、昭和五十年度に六〇㌧増設することが決定している。敷地面積七、六七七・二五平方㍍で、海岸近くの環境の良い場所である。

 

 

二、ゴミ処理場建設

 

 

 高度成長政策が起因となり、極度に生活様式も変わり、各家庭のゴミの量が非常に多くなって来たのは事実である。どの市町村もこれらゴミの処理に頭をなやましていることはいうまでもない。

 当野々市町においても、放出されるゴミに対し、あらゆる方法で処理にあたってきた。即ち、既設の堀を利用して捨てる。あるいは空地で焼き捨てる一方、町民に呼びかけて出来るだけ放出量を少なくすることに努力した。が、量は多くなるばかりで協議の結果、ついに松任町・美川町・野々市町の三町が広域的に処理すべく一部事務組合を設置、処理場、即ち焼却場の建設を計画するに至った。

 このように昭和四十年頃から計画に入ったのであるが、一番至難である設置場所が見当たらないまま一~二年が過ぎた。幸い、松任町の努力と設置に適当であるとかねてから交渉を続けていた松任市竹松町の住民の方々の理解と協力により、同町に設置することで承諾を得た。

 当初は一日の処理能力を三〇㌧として建設を計画、昭和四十四年六月一日、待望のゴミ焼却場が竣工した。これらゴミの収集については石川郡衛生公社に委託し現在に至っている。が、その間昭和四十七年、鶴来町ほか五村においてもゴミ処理、ことに粗大ゴミの処理をする場所もなく、ついに同組合に加入することとなり、このため両ゴミの焼却施設を増設することとなり、同四十七年七月一日これが完成した。

 このようにして焼却場の増設により現在に至っているが、当組合加入の市町村が急激な人口の増加を続けているためゴミの量も多くなり、一日三〇㌧では処理できず、近い将来二倍に増設を計画しているとのことである。処理場の敷地面積は当初、六、二一七・七平方㍍だったが、のち三、九〇八平方㍍拡張され、一〇、一二五・七平方㍍となっている。

 

 

第三節 電話の自動化

 電話の自動化のため横宮町に建設中の野々市電報電話局新庁舎が昭和四十年秋完工、翌年春から自動化の営業を始めた。建物は鉄筋二階建てで、総工費は一億七千万円。延べ五四九平方㍍の局舎であり、一階は電池電力室、巡回者室、二階はクロスバー自動機械室、調整室からなっている。完成により野々市電話「四八局」が、四十一年四月一日午前零時を期して自動ダイヤル化された。

 

 電話加入台数

    年度      加入数

   昭和四十一年    五七八

    〃四十二年  一、七一一

    〃四十三年  一、七九七

   昭和四十四年  一、九七〇

    〃四十五年  二、四三〇

    〃四十六年  三、〇一四

   昭和四十七年  四、〇三五

    〃四十八年  四、一八六

    〃四十九年  四、九三二

 

 

 

 

第四節 野々市駅誘致

 昭和三十二年、押野四地区の編入により合併も完了、その直後、野々市駅設置の声が起こり、当時の兵地栄一町長はその運動にのりだした。

 同三十四年、中島町長が就任してから設置運動熱が高まり、同八月五日には野々市小学校で、野々市駅誘致期成同盟会の結成式を挙げた。式には岡良一代議士・柴野和喜夫知事・徳田与吉郎元代議士・作本博県議・神戸世志夫氏ら来賓と町民約五百名が出席、北陸線の複線電化着工を機に野々市町の二日市-御経塚町地内に野々市駅を設置すべきであると気勢をあげた。

 これを機に駅設置予定地の用地買収を終え、設置経費の金額を町負担とすることを決めた。また、予定地と国道八号線を結ぶ道路を新設するなど万全の準備策を構じ、全町一丸となって国鉄本社など関係当局へ設置方を働きかけ、これが実って同四十一年度中に着工の内定を得た。

 

 

一、起工式

 昭和三十二年に野々市駅誘致運動を起こして以来、忍苦十年の悲願がようやく実った。四十一年八月、国鉄は優先して建設を決定したが、それから十ヵ月、自治省の地方財政再建特別法による検討が加えられて、ようやく四十二年十月、起工式が行われるに至った。総工費は四千五百万円である。

 延長二四〇㍍、幅二㍍五〇㌢の上下二本のホームと渡線橋、それに駅舎、駅前広場などが四十三年三月に完成し、四月一日ダイヤ改正と同時に北陸本線野々市駅が誕生し、一日往復十二本の普通旅客列車が停車することになった。まさに歴史的偉業である。

 西金沢駅から二、五〇〇㍍、松任駅から三、三〇〇㍍、この駅を中心に金沢バイパスが駅の東測を南北に横断し、これからの町の総合開発や地域開発の拠点として果たす役割に大きな期待がよせられた。

 

 

 

 

 

二、開通式

 昭和四十三年三月二十五日午前六時二十五分、富山発福井行き上りローカル列車がホームへ静かに到着、乗降客は少ないが、この電車こそ国鉄野々市駅誕生日の一番電車であった。式典は益谷衆議院議員、大谷参議院議員、中西県知事、中原金沢鉄道管理局長ほか多数の関係者が列席して行われた。

 

 

三、松金線廃止

 

 明治時代、野々市町本町通りを走っていた鉄道馬車はその後、北鉄松金線(金沢~松任間)として電車化され、長い間、野々市町民をはじめ大勢の人々に親しまれてきた。が、かつては金沢~松任間の唯一の交通機関だったこの松金線も、自動車の普及によるモータリゼーションについていけず、経営不振となって昭和三十年十月十五日、ついに廃止された。

 

 

第五節 太平寺に郵便局

 町内には、野々市郵便局、富奥郵便局が設置されているが、近年戸数の増加して来た太平寺ではかねて地区住民から郵便局設置の要望があり、その要望書を関係官庁へ提出してあったところ、昭和四十九年七月二十五日、太平寺郵便局(藤村斉局長)が開局することになり、ただちに業務を開始した。同郵便局は集配事務を除く郵便、貯金、保険その他一切の業務を取り扱っている。

 

 

 

第六節 MROテレビ開局

 

 昭和初年、本町地区にNHK金沢放送局野々市送信所が設置され、アンテナは今も人々の目印となっている。

 昭和三十三年十二月一日、当町押野地区に北陸放送テレビジョンが開局された。日本海沿岸最初の民間テレビ局のスタートであった。局舎は延べ一、三〇〇平方㍍、鉄筋コンクリート二階建てで、一四五㍍のアンテナから石川県はもとより、遠く福井は武生・勝山市を結ぶ以東、富山県は富山市以西がその視聴区域となっている。現在は局舎が金沢市本多町に移転されている。

 

 

第七節 住宅団地の造成

 金沢市の南郊外にある野々市町では近年、住宅団地の造成が盛んになり、これまでに規模の大小は別として、あすなろ、あやめ、藤平田、清金、中林、花の木台、押越などの住宅団地が造成されている。

 このような宅地の需要、それにともなう農地転用はやむをえないとしても、町民にとって快適な生活環境はぜひ守っていきたいものである。

 

   住宅確認申請状況

   昭和四十三年度  二五二戸

   〃 四十四年度  一七七戸

   〃 四十五年度  二一〇戸

   昭和四十六年度  三八九戸

   〃 四十七年度  七一七戸

   〃 四十八年度  八八五戸

   昭和四十九年度  五七六戸

 

 

第八節 高層建築物

 

 昭和四十年の金沢工業大学設立以来、野々市町では同大学の学生寮(三~六階建て)をはじめとして事業所、会社寮、マンション住宅、大型店舗、病院の建設があいつぎ、教育関係でもさらに野々市小中学校、県農業短大、県立明和養護学校、県農業試験場などが建設されている。

 これらはいずれも耐火、あるいは高層建築で、野々市町の様相は大きく変わってきている。

 

 

第九節 町営住宅の建設

 野々市町の町営住宅としては十一屋住宅、西住宅、外守住宅があり、旧役場跡にも清和荘を建設して住宅難の一助としてきたが、昭和四十四年には中林地区に五戸の町営住宅を建設、低所得層対策とした。

 

 

第十節 上水道建設工事完成

 

 野々市町の飲料水は従来、各町にある井戸水にたよってきたが、昭和三十八年頃からほとんどの井戸が枯れ、各地区で五十戸前後を単位に簡易水道組合が設立されるなど、上水道対策が深刻化してきた。このため町当局でも昭和四十年から三ヵ年計画、総工費一億一千万円で、上水道建設に踏み切った。

 初年度はまず、水源地の用地買収、水道本管の配置が行われ、建設指定地区に本町一~六丁目、住吉町、菅原町、白山町、若松町、横宮町、高橋町、扇ヶ丘、押野町、押越町、野代町、二日市町、稲荷町、堀内町、太平寺が組み込まれた。

 その後、四十一年十月二十五日には金沢市に対する分水要請が金沢市議会で承認され、金沢市久安町地内の配水本管から同市横川町の野々市町境まで配水管が敷設され、翌四十二年四月一日から通水された。これにともない野々市町の上水道は四十三年四月一日から公営企業法に基づき、特別会計として運用されることになった。当時の上水道加入戸数は八百十四戸だったが、現在は三千九百二十五戸と約四倍にふえている。

 この間、野々市町上水道の水源は金沢市上水道の分水に依存していたが、金沢市自体も水源難に陥ってきたため、四十八年度から第一次上水道拡張工事に着工、高橋町三-三三に第一号水源地を求めると同時に、管理棟、給水タンクを建設、さらに第二号水源地を押野町に求め、総工費二千三百五十五万六千円で完成、他に水源を依存することなく水不足を解消して現在に至っている。

 

 

簡易水道

 野々市町では上水道敷設前から本町を含む各部落に、ほとんど簡易水道が設置されていたが、その後、上水道建設指定区域以外で急速に宅地化が進んできたため、各部落や団地はそれぞれ簡易水道を設置して、飲料水の確保を図るようになった。

 簡易水道設置届けのある組合は、下林・中林・粟田・末松・粟田団地・位川・新庄・花木・御経塚・三日市・柳町・城南・三納・藤平・藤平田団地・清金・徳用・清金団地・藤平田・矢作・上新庄・田尻・蓮花寺・郷町など。将来はこれら各地の水源も、手取川本流多目的ダムにあおぐことになる予定である。

 

  水道年度別一覧表

         給水人口   給水戸数   普及率   管長    配水量

  昭和四四年度 五、三五二人 二、三〇五戸 四四・八% 二九・九㌔ 三一五、七四〇平方㍍

  〃 四五年度 六、一三〇人 一、五二〇戸 四八・八% 三二・九㌔ 三九八、六六一平方㍍

  〃 四六年度 六、八七二人 一、五五五戸 五一・〇% 三三・〇㌔ 四五八、七六〇平方㍍

  〃 四七年度 八、二二〇人 二、〇六五戸 五五・九% 三九・〇㌔ 六三六、七五六平方㍍

  昭和四八年度一〇、五五二人 三、二四五戸 五六・〇% 四二・六㌔ 八三三、八七〇平方㍍

  〃 四九年度一一、六一八人 三、九二五戸 五六・八% 四七・九㌔ 九四七、七八一平方㍍

 

 

 

 

 

 

第十一節 交通安全対策

 交通の要所にある野々市町の大きな悩みは交通事故の多発である。とくに多いのは国道八号線で、県内の同線全線の年平均約五百件のうち松任署管内が約五〇%、野々市町地内の発生は松任署管内の九〇%を占めている。

 このため、野々市町はいち早く交通安全都市宣言を行い、昭和四十年九月二十五日には町役場で美川・松任・野々市三町合同の交通安全大会を開いた。この大会では、国道八号線など主要道路からの輪禍追放に、全町民が一体となった運動を展開することになった。

 重点項目に取り上げられたのは保育所の児童や小中学生の登下校の安全、老人の保護で、無免許、スピード、飲酒の交通三悪については消防団、婦人会、青年団が協力して、その防止に当たることにした。

 また、道路の拡幅、交通安全施設の整備についても毎年予算化し、照明灯、区画線、標識、カーブミラー、歩道の設置などを行うこととし、これらの交通安全への努力は今日も続けられている。

 

 

 

 

 

交通安全推進隊の結成

 野々市町は昭和三十九年四月一日、交通安全推進隊を結成した。これは町内における交通事故多発に対応したものであり、毎月一日と十五日の早朝には国道八号線や同一五七号線の主要交差点や事故多発個所で、登校の学童を守るなどの活動を続けている。

 隊員は役場職員をふくめた青年が中心で、制服も作られた。四十八年度から隊員を二十人とし、隊長には消防団長の絹川外光氏が選ばれた。

 

 昭和四十六年から四十九年度までの交通安全施設事業調べ

 年度 区分   歩道    照明灯    区画線   フェンスレール 標識  カーブミラー

                            ガードパイプ

 四六数量    -        二本    -      八〇㍍   一〇本   一〇本

   工事費   -     一二八千円    -    四四〇千円 一〇〇千円 二三〇千円

 四七数量     五八九㍍    三本  一、五五八㍍   二〇㍍   一〇本    四本

   工事費 九、四一四千円 一二四千円   二三五千円  四〇千円 一四七千円 一六〇千円

 四八数量     六八〇㍍   -    二、〇〇〇㍍   -     四二本    九本

   工事費 五、八四八千円   -   一、〇八六千円   -   七三六千円 三五二千円

 四九数量     三二〇㍍    三本  二、三九〇㍍  一三〇㍍    七本    七本

   工事費 一、四五〇千円 二三〇千円   六〇〇千円 六五〇千円 一五七千円 一〇〇千円

 計 数量   一、五八九㍍    八本  五、九四八㍍  二三〇㍍   六九本    三〇本

   工事費一六、七一二千円 四八二千円 一、九二一千円 一、一三〇千円 一、一四〇千円 八四二千円

 

 

第十二節 社会開発青年隊

 昭和四十一年三月二十日、激増する青少年の非行や交通事故など社会悪に対して、自発的にこれらと対決、改善していこうと結成された。

 隊員は自主的に賛同したもので編成、隊長一名、副隊長二名、事務長一名、支部隊長四名、理事班長若干名が置かれ、隊員数は四十三名である。隊員の誓いと事業は次のとおり。

 

     隊員のちかい

  一、私達は、正義に基いて道徳の高揚に努めます。

  一、私達は明るい住みよい町造りに努めます。

  一、私達は常に姿勢を正して青年の使命を全うします。

 

     事 業

  1、青少年の不良化防止活動。

  2、交通安全対策活動。

  3、生活環境浄化活動。

 

 

 開発青年隊に感謝状

 開発隊が結成されてから毎月一日、十五日の交通安全日、十日、二十日の青少年を守る日には、街頭の要所拠点を巡視して安全交通の指導に努め、捕導活動による非行化の防止に対処し、また土曜、日曜の夜間パトロールを積極的に実施するなど、献身的に社会活動を進めていることが関係当局に認められ、昭和四十二年六月二十三日、松任地区交通安全協会長、松任警察署長から感謝状、表彰状が授与された。

 

 

 

 

 

第十三節 公害対策

 高度成長のひずみともいうべき公害の多発は、町民の最も憂慮し関心のあるところで、この防止対策については単独自治体では、とうてい成し得ない大事業である。

 当町は住宅、事業所は年々増加しているが幸い公害発生源となる事業所はない。だが下水道がないため汚水、水洗便所の排水が用水に流れ汚染が甚しく、臭気や蚊の発生源となっている現状である。

 下水道の整備は都市化に対し必須の条件ではあるが、その設備に要する経費は莫大であり、金沢市を中心とした中央広域圏において、国からの調査費もつき、計画を進めているところである。町では公害防止条例を制定、町内会長を生活環境連絡員に委嘱し、また生活環境審議会を発足させるなどの措置を講じて万全を期している。

 

 

第十四節 町にマイクロバス導入

 

 野々市町は四十七年七月九日、マイクロバス一台を導入した。婦人会、敬老会、身体障害者の会、民生委員会、農業委員会、消防団、老人会などの集いに利用しているほか、町へ視察に訪れた人たちの案内にも使われて、各方面から喜ばれている。

 

 使用のきまり

  一、教育委員会の管理とする。

  二、使用目的は町各課が企画した事業、県および町が主催する事業、その他必要と認める事業。

  三、使用希望者は原則として十日前に、使用願いを教育委員会に提出する。

  四、毎週水曜日を点検日とする。

  五、原則として日帰り、県内の運行に限る。

 

 

第十五節 全史協大会開催

 

 昭和四十六年十月二十六日、未松の石川県立農業短期大学で第六回全国史跡整備市町村協議会大会が開催された。

 大会には全国から史跡に関係する市町村長二百余人が参加した。中田社教課長の司会で開会が宣言され、地元開催町を代表して中島町長(副会長)があいさつ、荻野静岡市長、石川県加盟市町村を代表して前田金沢市教育長があいさつ、中西知事、内山文化庁保護部長のお祝いのことば、祝電披露があり、続いて奈良国立文化財研究所長松下隆章氏が「文化と伝統」と題して講演。昼食時には青年団が「野々市じょんから踊」を演じて遠来の人々をねぎらった。

 午後からは二分科会にわかれ、開発と保存部会(地域開発に対処して史跡などを保存するにはどうすればよいか)環境整備部会(地域住民により活用され得るような史跡などの環境整備はいかにあるべきか)について、それぞれ熱心な意見がかわされた。

野々市町20年のあゆみ