第一節 保育事業

 昭和三十年に野々市・富奥の合併により新町野々市町が誕生した。当時、野々市町には公民館と併設の保育所があり(所長田村治雄氏)、保母三名で児童九十人の保育に当たっていた。

 一方、富奥村では同様公民館と併設の託児所(所長中島喜寿氏)を開設、児童のしつけに専念していた。

 昭和二十二年に制定された児童福祉法の第二十四条には「地方自治体は両親ともに労働に従事し、これがため児童の保育に欠ける時は、保育所に入所措置しなければならない」と義務づけている。自治体行政で保育事業が重視されて来たのはその後である。

 町当局は無許可の富奥託児所を、厚生省の認可保育所として発足した。従って野々市町の保育所を第一保育所とし、富奥地区の保育所を第二保育所と名づけた。

 合併が完了したのでいよいよ保育行政に重きをおき、本町地区に新たに第二保育所を設置、富奥の第二保育所を第三保育所に改名、押野町に第四保育所、御経塚町に第五保育所をそれぞれ県の認可を得て設置、既設の建物を利用しながら一応保護者の要望に応えた。

 保育行政が重視されると同時に、その内容の充実と施設の拡大が必要となって来た。町当局はこれらのことに重きを置き、昭和三十四年三月、第四保育所(建坪五五・五坪、定員四〇名)の新設、第五保育所(建坪四二坪、定員三〇名)の増設を決定、保育室、遊戯室、ほふく室、調理室、事務室を設け、さらに屋外遊戯場を作り、保育の万全を期すに至った。

 また、同年九月三十日には第三保育所(現在の第二保育所、定員九〇名)を新築するなど保育事業に力をそそいだ。

 しかし、第一保育所は公民館を利用、第二保育所は倉庫を改築した建物であり、危険と借家の不便から新たに敷地を求め、建坪二〇七坪(六八三平方㍍)、工費一千百五十万円、定員一八〇名(保育室七、乳児室一、医務室一、遊戯室一、事務室、厨房づき)の県モデル保育所を三十七年三月竣工、同年四月から第一、第二の児童を収容し、全保育所の新築、増改築が完了した。これに伴い名称を次の通り改めた。

 その後人員の増加にともない、保育児童もふえて第三保育所も狭隘を感じたので昭和四十三年九月、押野町ロ三二〇番地に新築(建坪四三九平方㍍、工費一千百四十九万八千円、定員九〇名)したが、ますます人口が急増し、その影響が全町におよんで第一、第二保育所も狭くなったので、この解決策として堀内町に新しく財団法人隣保館保育所を同四十五年八月建設することにした。そして同四十六年八月全国社会福祉振興会、日本自転車振興会の援助により、鉄骨ブロック造りの保育所を新設、理事長に小堀栄一氏(議会議員)をあてて保育することとなり、急増対策に成功したのである。

 このようにして急増対策に努力したのであるが余りにも人口の増加が激しく、さらに第五保育所を新しく建てなければならないことになり、同四十七年十月一日、菅原町に定員一五〇名の保育所が完成し、引き続き第四保育所の増改築に着工(定員を一二〇名に変更)、四十八年度中に完成した。

 こうして保育所が増設四、新設二となり人口の急増に対処してきたが、昭和五十年度中さらに粟田地内において新設する予算が計上され、近く工事に着工する予定である。

 

 

 

 

 

 

  歴代保育所長の氏名

  第一保育所 田村治雄、小西小二郎、三林 佼、山下貞雄

  第二保育所 中島喜寿、西村康賢、北岡良爾、川越正雪

  第三保育所 木村尚吉、北村喜一、徳田一雄

  第四保育所 市村正規

  第五保育所 蚊谷辰雄

  隣保館保育所 岡田可祝、向 敦子

 

 

  保育所児童数の推移

  合併直後

 第一保育所一七一名、第二保育所六八名、第三保育所三四名、第四保育所二五名、計二九八名、保母一五名

 

  現在

 第一保育所二二四名、第二保育所一二八名、第三保育所八五名、第四保育所一一〇名、第五保育所一六三名、隣保館保育所一五〇名、計八六〇名、保母四九名

 

      表彰状

                野々市町殿

 貴町は多年にわたり保育行政の向上に努められ、児童福祉の発展に尽くされた業績は顕著であります。

 よって県政百周年にあたり、こゝに記念品を贈り表彰します。

     昭和四十七年五月五日

                      石川県知事 中西陽一

 

 

 

第二節 福祉事業

 

一、老人福祉

 五十年三月末現在、町の人口は二万四百四十二人で、うち老人(六十歳以上)は一千七百十六人、その中の寝た切り老人は三十六人、ひとり暮らしの老人は十九人、最高齢者は徳用町の中橋とくさん(九十四)である。老人福祉の推進は四十七年頃から叫ばれ、四十九年度において、六十五歳以上の寝た切り老人八百九十一人が医療扶助の対象となり、二千八百二十一万五十円が支出された。

 身障者および精薄者、身障度一級から三級の身障者百十五人に対する医療扶助支給額は百七十五万七百六十四円である。

 乳児、零歳児百三十七人に対する医療扶助支給額は百一万九千五百十五円である。

  老人健康診査

  対象者(六十五歳以上)七百人、受診者 二百七十二人

  うち精密検査、要観察の者 百五十人、精密検査受診者 百三十六人

 

 

二、百々鶴荘

 

 昭和四十七年九月中旬、上林地内に立派な老人アパートが県によって建設された。それが百々鶴荘である。

 この施設はこれまでのような収容保護施設といった考え方のものではない。老人という一定の人達を対象としていることに変わりはないが、老後を心豊かに自由で優雅に暮らせるための集団的な生活の場としたものである。

 

 総工費  五億八千五百万円

 敷  地 一八、一五〇平方㍍

 延べ建坪 六、三九三平方㍍

 鉄筋コンクリート二階建て(一部平屋建て)

 収容人員 二百名(うち独身室一六〇室、夫婦室二〇室)

 管理棟(所長室、事務室、会議室、相談室、図書室、医務室、静養室)

 中央棟(食堂、厨房、売店、理容室、浴場、機械室、乾燥室、洗濯室、療母室、機能回復室、訓練室、集会室、茶室)で全館暖房の設備がある。

 

 

三、老人憩の家(椿荘)

 

 白山町に大きな、しかも古い民家の移転改築工事が三年がかりで進められた。

 これは、太平寺の橋本外茂男氏が私費を投じて老人憩の家として、町に無償提供したものである。この家は約二百~二百五十年前の造り酒屋の商家風建物で、忘れられようとする古いものを残し、また大切にして人々の心の憩の場となればとの願いがこめられている。昭和五十年四月一日にオープンを控えて、多くの老人達、そして各地区老人クラブから、その活用に大きな期待がよせられている。

 名称も町花木「椿」にちなんで「椿荘」とつけられる。

 

 

四、常盤園

 

 医療施設常盤園は昭和四年の金沢市方面委員助成金創立によって発足したもので、同六年二月六日、鈴見保護所として精神病患者十人、行路病者三人を収容して開設された。以来四十六年、この間、二十四年一月に常盤園と改称されたが、施設が老朽化し、用地も狭くなってきたため四十四年五月、野々市町中林地区で用地を取得、四十八年十一月八日に鉄筋コンクリート四階建て(冷暖房完備)、建築総面積五、三二〇平方㍍、収容人員二五〇人の新しい施設を新築した。

 同園は事業奨励のため恩賜の金一封を受けること十一回、優良社会事業として表彰を受けること一回の歴史を持っている。

 

五、老人クラブの活動

 老人クラブの結成は昭和三十四、五年頃から県の指導で行われるようになった。当町においては富奥地区が同三十一年から自主的に結成、その名を「健寿会」と称し、会長に宮岸清氏を選び、活発に運営されている。同三十五年郷地区に合掌会(会長 辰巳善光氏)、押野地区に天寿会(会長 西村伸一郎氏)、同三十六年本町地区に百働会(会長 福田三次氏)が結成され、互いに連携をとりながら運営されている。

 活動はいずれも老人相互の親睦、教養の向上、健康の増進、レクリエーションなどを軸として、研修旅行、法話会、講話会、健康相談、体力テスト、社会見学、奉仕作業などが年間行事として実行されている。

 現在は野々市町老人会連合会(会長 舘宗治氏)を結成、活動している。

 単位クラブの人数などは次のとおりである。

 

 クラブ名 会長名    クラブ員数    歴代会長名

           男   女   計

 百働会 館宗治  一二二 一三七 二五九 福田三次、木戸禎七、徳野孫二

 健寿会 金田亮   七三 一〇六 一七九 宮岸清、長井太吉、山原一郎、宮川隆正

 合掌会 中村与作  四七  六五 一一二 辰巳善光、藤田孝正、小杉徳松、北村信介

 天寿会 庄田義栄  六三  八七 一五〇 西村伸一郎

 合計       三〇五 三九五 七〇〇

 

 

六、ホームヘルパー

 長い人生を苦労を重ねて生きてこられた老人の方々が、安心して余生を過ごしていかれるよう、全国的に老人福祉即ち敬老年金制度、税金の免除、老人健康診断、医療費の免除、老人ホーム入所などの施策が講じられるようになったのは昭和四十五年頃からである。

 町当局もこれらのことに意をそそぎ、施策の実行に努力しているが、とくに一人暮らしの老人、あるいは寝たきりの老人に対し、安心して余生を送っていただくよう、四十七年度から連絡員を置いてたえずその家庭を見守り、保護に努力する一方、ホームヘルパー(奉仕員)を専属に置き、毎日これらの家庭を訪問し、世話をしている。

 当町は人口増加にともない、老人やこれらに該当する方が増えている現状であり、昭和五十年度から二十一人の奉仕員により巡回サービスを計画している。

 

 

第三節 民生委員協議会

 昭和三十二年町村合併の完成当時、すでに厚生大臣、県知事の辞令によって委嘱されていた民生委員十名に新任の四名が加わり、民生委員総務を中心に再発足した。昭和四十六年十二月に人口の増加と福祉充実のため二名の増員となり、現在では合併当時の約二倍に近い民生委員の数となり、福祉活動の重要な一助を担っている。

 

 歴代民生委員総務

  (一)中島喜久雄 (二)舘宗治 (三)駒井捨次郎

 現民生委員

 宮川貞次、高橋正子、矢木知二、粟生木武男、駒井捨次郎、山口 治、小松よ子、前田秀男、魚谷礼子、西尾アヤ、高野弘、鶴越外喜二、竹村祐、佃栄吉、山田由次、上野由雄、小林喜一、平井庄八、中島百合子、塚岸又一、北喜一、高田作次、朝倉進、吉田 正信、田辺助郎、家栄治

 

 

第四節 野々市町社会福祉協議会

 当協議会は昭和二十七年四月一日に発足した。当時は民生委員が主体となり、役場係員の指導により運営してきたが、予算額もきわめて少なく、町民にPRすることに専念した。

 その後、合併完了により同三十二年四月一日新たに発足、本町三丁目の中島喜久雄氏が会長となり、各地区から理事各一名を選任、運営にあたった。同三十四年には内容充実のため会長に町長中島栄治氏、副会長に遺族会長の中村藤松氏(本町三丁目)、保育部会長中島喜寿氏(太平寺)を選んだ。重点目標は「地域社会における社会環境を刷新し、環境衛生の改善を行い、地域住民の融和を図り、経済の合理化を進め、明るく豊かで健全な町づくりをもって野々市を福祉都市とする」と定めた。事業内容は、

 

 一、心配ごと相談所の開設。 二、生活保護世帯の自立更生。 三、低所得世帯の指導助言(経済、住宅、医療、保健など)。 四、母子世帯に関する問題。 五、老人福祉の問題。 六、交通事故の問題。 七、家庭不和による離婚の問題。 八、その他。

 

 である。運営は順調で、とくに心配ごと相談所の開設にあたっては相談員を民生委員が担当するなど積極的なスタートを切った。このため事務も繁忙をきわめ、専任事務員として西尾アヤ氏を任命、事務所を中央公民館(旧隣保館)の一室に設け、生活保護世帯の指導、世帯更生資金の貸付などを主とし、関係官庁との連絡その他事業内容に対する事務処理に当たり、現在に至っている。

 協議会の関係団体は、民生児童部会、保育部会、遺族部会、身障者部会、傷痍軍人部会、母子福祉部会、里親部会、老人部会などで、ほかに心配ごと相談所がある。これらの団体が協議会を通じながら個々に活動し、福祉の発展に寄与するとともに、自らの研修により一人一人が目的にそうよう努力している。

 協議会の予算は再発足当時二十七万四千二百八十二円だったのが現在は百五十一万九千九百六円となっている。

 

  歴代会長 中島喜久雄、中島栄治

  歴代副会長 松本長吉、北又二、中村藤松、中島喜寿、舘宗治、駒井捨次郎

 

   心配ごと相談所取り扱い件数(昭和三七~四九年度)

   相談内容      三七年度  四五年度  四九年度   

    一、生活苦の相談   六     五     九    

    二、生活改善    ―     ―     ―

    三、仕事の相談    一     三     六

    四、住宅の相談    三     三     一

    五、健康の相談    三     四     四

    六、家族計画    ―     ―     ―

    七、家庭不和     二     四    ―

    八、結婚相談     一     一     二

    九、児童福祉     一    ―      四

   一〇、教育相談    ―     ―      一

   一一、青少年問題   ―      二    ― 

   一二、精神衛生相談  ―     ―     ―

   一三、更生保護    ―     ―     ―

   一四、法律相談    ―      二     二

   一五、人権問題    ―     ―     ―

   一六、苦情相談    ―      二    ―

   一七、老人福祉     二     二     八

   一八、その他     一三    二四    一三

      合計      三二    五二    五〇

 

 

第五節 国民健康保険のあゆみ

 国保制度は、相扶共済の精神にのっとり、一般市町村民を対象として、病気、けが、出産および死亡の場合に保険給付を行う制度である。国保制度は、昭和十三年の国保法の制定(同年四月公布・七月施行)に始まる。この法律は世界的な恐慌の影響をうけた農漁民の窮乏と、医療費負担が過重になっている現状を打開し、医療の普及、保健の向上、生活の安定に市町村などを単位として任意の自治的な国保組合を組織させ、地方の実情に応じた保険事業を運営させることとしたものであった。その後、健民健兵の政策にそってこの制度は強化されていったが、終戦後の激しいインフレの波にもまれ、事業を休廃止する組合が続出し、制度の存続が危ぶまれるに至った。

 このため昭和二十三年に制度の根本的な改正が行われ、任意の国保組合から市町村公営の体制に切り換えられ、その後も財政健全化と、給付内容の充実改善のため、国の財政援助を強化するなどの措置が相ついでとられた。

 昭和三十二年度に至り、いわゆる国民皆保険計画が策定され、健康保険を主軸とする被用者保険と、地域を単位とする国保の二本建てでこの計画が推進されることとなり、国保事業を市町村の義務的事業とするとともに国の責任を明確にし、事務費および療養給付費に対する国庫負担制度の改善と調整交付金制度の創設、また法律上事業内容を統一させるなどの内容をもった新国保法が昭和三十三年十二月に公布され、三十四年一月から施行された。(皆保険は三十六年四月一日達成)新法施行後も療養給付費補助金の補助率を四割に引き上げるなどの数々の改善が行われた。なお四十九年四月一日より高額療養費支給制度が実施され、国保制度は、今やわが国の医療保険の二大支柱のひとつとして重要な役割を果たしている。

 本町の国保の推移について、別表の資料を参照されたい。

 

 

 

 

 

 

第六節 国民年金

 

一、制度の成立

 古くは恩給制度から、厚生年金保険、船員保険、各種共済組合など、わが国の年金制度は、いずれも被用者を対象とするものであり零細企業従事者、都市農村の自営業者などは長く年金による保障の外に置かれていた。

 しかし、終戦を契機とする家族制度の崩壊、人口構造の老齢化等の社会的諸要因を背景に、昭和三十年代に入ると医療の面で国民皆保険が進められるのと対応して、これら所得保障の網の目から落ちこぼれていたものに対しても、年金をという、いわゆる国民皆年金への要請が強い世論となって高まってきた。

 これらの世論を背景に、国民年金法は、昭和三十四年四月十六日法律第一四一号をもって公布され、無拠出の福祉年金に関する部分は、同年十一月一日に、拠出制年金の準備事務は、昭和三十五年十月一日から、保険料の納付その他拠出制年金の実体部分は昭和三十六年四月一日から実施された。

 一方、各種年金制度の資格期間を相互に通算し、各制度にわたって加入した者にも、それぞれの期間を通算して年金を支給する通算年金制度も制定され、ここに、いわゆる国民皆年金体制が達成された。

 

 

二、その後の動き

 

 

 国民年金制度は、このように制定、実施されたが、その後、各方面から種々の改善要望が寄せられるとともに、実施の経験から、早急に手直しする方がよいと思われる箇所も次第に明らかになってきた。

 他方、その後におけるわが国経済は著しく成長し、国民の生活水準は上昇し、国家財政の規模も大きくなってきた。

 このような国民的要望や国民経済、国家財政の進展に即応して現在までに自発的改正、他発的改正を併せて、四〇回を超える改正が行われている。主なものは次のとおりである。

 

 (1) 昭和三十六年法律第一六七号改正では、国民的要望の面から、老齢年金の繰り上げ支給、特別老齢年金の支給、準母子年金制度・死亡一時金制度の創設、障害年金の受給資格期間の短縮、廃疾の併合認定などの改善と手直しが行われた。

 また、障害年金の支給範囲については、昭和三十九年法律第八七号改正、昭和四十年法律第九三号改正及び昭和四十一年法律第九二号改正をもって内部障害、精神障害にも適用拡大された。

 

 (2) 国民年金制度は拠出制を基本としているが、発足当初においては、社会保障制度審議会の答申、厚生年金保険の基本年金額とのカラミなどから、保険料を二十五年納付した場合の老齢年金の額が月額二、〇〇〇円とされた。

 しかし、その後、国民生活水準の向上、経済情勢の変動に応ずるために、三回の財政再計算が行われ、給付水準が大幅に引き上げられた。すなわち、昭和四十一年法律第九二号改正による俗称、夫婦一万円年金、昭和四十四年法律第八六号改正による夫婦二万円年金及び昭和四十八年法律第九二号改正による夫婦五万円年金の実現である。

 とくに昭和四十六年五月に拠出制老齢年金が支給されたこと、また近々、現存老齢者の生活保障を求める声が高まっていること、現存老齢者と現役勤労者の生活水準のバランス維持という見地から、生活水準の上昇等に対し速やかな調整の必要があったこと、物価の急上昇に対し、年金制度の機動的な対応が要請されていることなど、制度の構想された時点との客観的状況の変化に対応して、年金給付水準の引き上げと併せて、年金額の実質価値の維持を自動的に図る、いわゆる自動スライド制の導入という画期的な改善がなされ、昭和四十九年度法律第六三号改正、及び昭和五十年度法律第三八号改正では、これの実施を繰り上げる措置がとられる。

 さらにこの状況変化に対応して、自動スライド制導入が実現した同じ時点では、創設時の十年年金、昭和四十四年法律第八六号改正による五年年金創設に加えて、再開五年年金による受給権付与の措置が拡充され、また、谷間老人対策として老齢特別給付金制度の創設が講じられた。

 

 (3) 昭和三十四年十一月に月額一、〇〇〇円としてスタートした福祉年金についても毎年のように年金額が引き上げられてきた。

 とくに最近においては、敬老的なものから、生活保障的なものへの質的転換の要請の中で大幅に引き上げられ、昭和四十八年十月及び昭和四十九年九月には、ともに五〇%の増額改定があり、昭和五十年十月からさらに月額一二、〇〇〇円支給することに改正される。

 

 三、今後の課題

 以上のように国民年金制度は種々改善され、国民の年金に対する期待と関心が非常な高まりを示しているが、未だ解決すべき幾多の今日的課題を残している。

 今後は、財政再計算に伴う法改正が予定されているが基本命題として、給付水準の改善、各制度間の通算措置の遺族年金、障害年金への導入など各制度間の不均衡是正、福祉年金の基本的性格と位置づけの問題があげられている。

 

 

 

 

 

 

第七節 医療と保健

 保健については、乳幼児にはじまって小中学校児童生徒、中高年並びに老人に予防接種、健康診断、成人病検査や成人者の健康調査と、町在住の医療機関の絶大なる協力によって実施し、町民の健康管理に効果を上げている。協力を得ている町内医療機関は次のとおりである。

 

 松任市、美川町、野々市町

     保健衛生施設組合富奥診療所       中林チ一〇八   所長 米 林 梅 子

 斎 藤 医 院(外科、内科)          本町一丁目二四-二   斎 藤   斉

 小 野 木 医 院(内科、小児科)       本町二丁目一八-二   小野木 豊 茂

 野々市産婦人科医院(産婦人科)         本町二丁目一八-二二  炭 谷 治 郎

 喜 多 医 院(内科、外科)          本町三丁目八-一四   喜 多 悌 三

 (指定)大倉外科医院

  (外科、胃腸科、整形外科、脳神経科、肛門科) 本町三丁目七-一二   大 倉 永 央

 荒 木 医 院(内科、小児科)         本町四丁目一三-二二  荒 木   齋

 中村産婦人科医院(産婦人科)          高橋町二四-二     中 村   彰

 (指定)白山病院(外科、脳神経外科、内科)   太平寺四丁目四五    飯 森 又 郎

 新井田産婦人科医院(産婦人科)         押野町一〇六一     新井田   毅

 中 島 医 院(皮膚科、泌尿器科)       扇ヶ丘三-一七     中 島 啓 雄

 吉村眼科医院(眼  科)            本町二丁目一六-四   吉 村 卓 也

 塚本歯科医院(歯  科)            本町一丁目二四-一〇  塚 本 二 郎

 瀬尾歯科医院(歯  科)            本町三丁目九-一二   瀬 尾 永 樹

 谷本歯科医院(歯  科)            若松町二二-一五    谷 本   門

野々市町20年のあゆみ