第一節 教育委員会

 昭和二十三年七月、教育委員会法が公布され、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対して直接に責任をもって行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により地方の実情に即した教育を行う機関として都道府県と市町村とに教育委員会が設置されることになった。

 これが新憲法下、民主的にして文化的な日本国建設のため教育行政の民主化、地方分権、教育の自主独立をめざす公選委員が、合議制により執行する、地方公共団体における独立した機関である。

 市町村教育委員会の全国必置は、二十五年度を目標にしていたのであったが、財政など諸般の準備不十分のために、二年間見送られることになり、二十七年十月日本の教育史上に画期的な教育委員会制度が全国の市町村に全面設置を見るに至ったのである。

 従って、三十一年九月までは公選制の教育委員会組織であるが、同年十月法の改正によって、

  ① 公選制度が廃止され、首長の議会同意の任命制となる。

  ② 市町村立学校教職員の人事権は都道府県に、市町村教委は内申権とする。

  ③ 文部大臣の地方行政に対する関与権が強化された。

 このように、昭和三十年四月一日野々市町と富奥村の合併当時は、公選制教育委員会組織のもとに教育行政が出発し、同年八月一日専任教育長を置いて統合中学校の建設に着工した。翌三十一年十月一日法の改正と共に、初の任命制教育委員会組織によって、町村合併完結による新生野々市町の発展計画に基く教育の諸条件整備に必要な教育行政が展開されているのである。

 

 歴代教育委員

     (自昭三〇・四・一公選制~至昭三一・九・三〇)

 委員長  中島 栄治

 委 員  北市 永作、粟生木芳男、窪  三省、西村 康賢

 教育事務取扱 中川末子吉…教育長、松崎 時哉

 

        (自昭三一・一〇・一~現在、任命制)

 委員長  中島 栄治、西村伸一郎、中川 直二、中野 久男

 委 員  福田 栄正、中山 知之、小柳 正明、宮前 和夫、岡田 一郎、魚住 正元、河村好一郎、中野 栄吉

 教育長  松崎 時哉、長田  健、竹内 保之、中田  哲

 社会教育委員(昭五〇・三・三一現在)

   大森 玄衆、千間利太郎、藤多  隆、藤垣 健一、喜多真佐子、藤多 敏子

 スポーツ振興審議会委員(昭五〇・三・三一現在)

   西尾 松夫、西尾他嘉志、館  惣吉、半田 利男、中村 忠男

 

 

第二節 町立学校

 

一、中学校

 

 統合中学校の完成

 町村合併促進法に基づく合併後の適正人口規模は八千人以上である。従って野々市町としても隣接の郷村・押野村と、どうしても合併する必要があった。そして、その場合どうしても必要なのは、統合中学校あるいは統合小学校の新築であった。

 昭和三十年四月一日、合併により新野々市町が誕生、合併後の建設計画として本町地内に統合中学校の新築を決議した。財政多端な中でその財源を確保することはたいへんな困難であったが、野々市山の山林伐採によって一部をねん出するなど努力を重ね、昭和三十一年十月、第一期工事の鉄筋コンクリート三階建ての近代的校舎が落成した。さらに、第二期工事の体育館も同三十二年十月初旬に完成した。

 これらの総事業費は九千七百二十八万八千八百九十九円である。

 また、第三期工事として計画されながら、財源の関係で延期されていた特別教室の建設も、町民の深い理解、とくにPTAの積極的な協力により、同三十六年十月に完成、統合中学校の全建設計画は五年ぶりに完了した。

 

 校歌、校旗、校章の制定

 

 

 統合中学校校舎落成と同時に、先に広く募集されていた校歌が選定され、生徒の心の寄りどころとして今日も歌われ、親しまれている。

  野々市中学校校歌

          作詞 藤田福夫、作曲 石本一雄

 (一)

 黎明の 風吹きわたる

 はてしなきみどりの加賀野

 見上げ立つ 高き学び舎

 すこやかに 日々を集いて

 わきあがる 若き歌声

 意気もゆる 学徒ぞわれら

 (二)

 しずかなる さとしをこめて

 藍深く 続く山なみ

 見上げ立つ 高き学び舎

 新しき  光をしたい

 共に汲む 真理の泉

 誇りある 学徒ぞわれら

 (三)

 石川の かなめ野々市

 絶ゆるなき 大路の往来

 見上げ立つ 高き学び舎

 祖たちの  いさをのあとに

 つくりなす 豊けき郷土

 明日を呼ぶ 学徒ぞわれら

 

 新校舎の建設

 

 

 合併当時、八千人余りだった町の人口は、四十八年七月に一万七千人を突破してなお増加の一途をたどった。このため、小中学校も増改築を重ね、果てはプレハブ教室で急場をしのぐという状態になった。

 この結果、四十八年度から三ヵ年計画で新たに中学校を建設して当面の問題解決を図ることに決定、同年十月から三納、位川地内に敷地を求めて着工した。

 三ヵ年計画による新中学校舎完成と同時に、中学生は新校舎に移り、旧中学校舎は小学校として高学年の五、六年生を受け入れることになった。

 四十九年十月に新中学校舎と体育館が同時に完成した。その規模は、校舎が鉄筋コンクリート四階建て、建築延べ面積四、六七一平方㍍、十八学級、生徒数八百人。体育館は鉄筋コンクリート一部二階建て、建築面積一、九七七平方㍍ (四〇㍍×三〇㍍)で、総事業費は七億七千四百万円の巨額となった。なお、新中学校の設計監理は山岸建築設計事務所、施工真柄建設、電気工事米沢電気、給排水工事菱機工業である。

 

  歴代学校長

  竹内保之  昭三一・四・一 ~昭三七・三・三一

  長田勲   昭三七・四・一 ~昭三八・三・三一

  南 丈夫  昭三八・四・一 ~昭三八・七・一〇

  西村正三  昭三八・七・一一~昭四一・三・三一

  守田敏夫  昭四一・四・一 ~昭四二・三・三一

  寺田正夫  昭四二・四・一 ~昭四九・三・三一

  千間利太郎 昭四九・四・一 ~現在

  よい歯のモデル校に野々市中学校

 

 第八回よい歯の学校運動石川県大会(県学校保健会、県歯科医師会、北国新聞社主催)は、四十二年十月八日、金沢市本多町三丁目の県社会教育センターで開かれ、野々市中学校がモデル校(県第一位)として表彰された。また、野々市小学校も優良校に選ばれた。

  野々市中学校創立十周年記念式

 

 新しい野々市町が誕生してから十年、中学校はその産声としての記念すべき表徴であった。その意義深い創立十周年の記念式典は四十一年十一月三日、中学校体育館で行われた。

 式典にはかつて本校で教べんをとられた先生や卒業生の代表育友会、町議会議員、公職者ら多数が出席して盛況のうちに行われ、町出身の人たちから次の品が学校に贈られた。

 

  一、木工工作機械一式(時価百万円以上) 浜松市 庄田 和作

  一、一六㍉映写機一台          横浜市 北村 正則

  一、顕徴鏡七台             東京都 松下 省三

  一、電気冷蔵庫一台           大阪市 竹内 信吉

  一、テープレコーダー一台        東京都 塚岸 昭二

  一、自動印刷製版機一台          中学校育友会

  生徒数の推移

 昭和三十七年前後に生徒数が多くなっているのは出生増によるものであり、その後徐々に減少しているが、同四十五、六年頃から人口の増加にともなって急速に増加している。

 

 中学校(昭和五十年の生徒数)

 一年生  二二六名  二年生  二〇四名  三年生  二〇九名     計  六三九名

 

 年次別生徒数(中学校)

 

  年次   男    女    計    増加率

 昭和三〇  二三一  一九九  四三〇  一〇〇

   三一  二三四  二〇〇  四三四  一〇一

   三二  二五六  二一八  四七四  一一〇

   三三  二〇五  二〇〇  四〇五   九四

   三四  二一八  二〇二  四二〇   九八

   三五  二六八  二三四  五〇二  一一七

   三六  三一六  二八三  五九九  一三九

   三七  三一八  三〇七  六二五  一四五

   三八  三〇七  二八五  五九二  一三八

   三九  二七八  二四九  五二七  一二三

   四〇  二六二  二〇一  四六三  一〇八

   四一  二四三  二〇六  四四九  一〇四

   四二  二三一  二一一  四四二  一〇三

   四三  二一七  二三五  四五二  一〇五

   四四  二一二  二三四  四四六  一〇四

   四五  二一九  二四三  四六二  一〇七

   四六  二三三  二三四  四六七  一〇九

   四七  二四五  二四八  四九三  一一五

   四八  二七八  二五三  五三一  一二四

   四九  三〇三  二八六  五八九  一三七

   五〇  三二八  三一一  六三九  一四八

 

 中学校育友会

 昭和三十二年十月、統合野々市中学校の校舎と体育館が完成し、新しい校舎で中学生が勉強を始めた。と同時に育友会も初代会長の吉田喜久哉氏以下の役員が選任され、新しく発足した。

 育友会の運営は合併直後という事情もあって融和に重点を置き、互いに話し合い、知り合いながら、徐々に活動を活発化していった。即ち、教育懇談会の開催や、小学校育友会と手を取り合ってのバザー、廃品回収などをおこないその益金は学校の教材購入、育友会の活動資金等に当てられた。

 中学校育友会の大きな関心事は、生徒にとっても難関であった進学で、この克服には父母と教師の緊密な連携が必要であり、学級懇談会や授業参観を開いてその機会を作りながら、進学指導を強化していった。また、発足以来十七年間に十四人が育友会長に就任、その推進に当たった。

 四十八年からは新中学校の建設促進について町当局へ陳情、新中学校が完成すると運動場への植樹をおこなった。こうした活動に対して四十八年十二月一日、文部大臣表彰があり、その記念式典も行われた。

 

  歴代育友会長

 (故)吉田喜久哉、(故)栗山信政、舘完治、浦秀雄、山岸敬信、竹内弥三男、小柳小一、中野久男、薮下弥作、西村敬親、(故)塚本為雄、森昌昭、佃栄吉、田中竜之助

 

 

二、小学校

 野々市統合小学校の建設

 

 

 町村合併が完了してから五年間、郷地区の児童は松任町との組合立郷小学校で、富奥地区の児童は富奥教場で学んでいた。その後、三十七年三月三十一日に組合立郷小学校が廃止され、児童は富奥、野々市教場に収容された。

 三十六年七月、町民の総意により中学校隣接地に総事業費一億五千余万円を投じ、三期継続事業で統合小学校を建設することが決まり、着工された。そして三十七年八月、第一期工事の校舎が完成、第二学期の授業が新校舎で始まった。

 また、第二期の管理棟建設も翌三十八年三月に完成、学校運営も軌道に乗った。第三期の体育館建設は財政事情から一時延期が考えられたが、町民の強い要望で同年五月に着工され、十月二十日に完成、二年三ヵ月にわたる統合小学校建設の大事業が完了した。総事業費は一億五千三百二十二万九千円で、その内訳は次のとおりである。

 

   第一期 本館  七千百三十六万三千円

   第二期 管理棟 三千百五十万円

   第三期 体育館 二千四百七十万円

   付帯事業費   七百一万二千円

 (設計監理 山岸建築設計事務所、施工 越田組)

 

 歴代学校長

    西川外喜治 昭三六・四・一~昭三七・三・三一

    守田敏夫  昭三七・四・一~昭四一・三・三一

    松本三郎  昭四一・四・一~昭四七・三・三一

    埜谷博   昭四七・四・一~昭五〇・三・三一

 

 

 

 野々市小学校々歌

       作詞 藤田福夫、作曲 石本一雄

 

 一、さわやかな 朝の光り

   目をさます 希望のわれら

   加賀平野 みどりの中に

   はつらつと 歌の輪を組み

   黒土の恵みをたゝえ

   野々市の明日をきずこう

 

 二、山なみの 朝よぶ声に

   目をさます 希望のわれら

   校章の 雪の誇りに

   きよらかに みがく心と

   やまず汲む 知恵の泉に

   学園の 明日をきずこう

 

 三、よみがえる 朝のひゞきに

   目をさます 希望のわれら

   工場の 棟は波うち

   幸はこぶ 車にぎわう

   この町に 明るく育ち

   日本の 明日をきずこう

 教室不足の解消

 

 昭和三十七年九月現在、野々市統合小学校の児童数は八百十二人、学級数は十八で、定員五十人以内の基準は十分守られており、適正規模という点でも全国有数のモデル校であった。ところが、わずか五年有余、町の急激な発展によって、同四十三年四月現在の児童数は百人増の九百十二人となって、学級定員が五十人以内から四十五人以内となった関係で、六学級増の二十四学級編成とし、特別教室を普通教室に転用するなどの応急措置をとらざるを得なかった。

 こうした急場しのぎの措置は、義務教育振興上支障があり、同年七月二十日増築に着工した。増築の内容は鉄筋コンクリート二階建て、六教室、廊下、便所、給食室付属室など、延べ六三九平方㍍、総工費は二千百万円である。設計は山岸建築設計事務所、施工業者は安原建設で、第三学期の始業に間に合うよう工事が進められた。

 この増築工事の設計では、将来の児童増に備えて、三、四階を上乗せできるよう配慮された。

 四十六年度になると児童数は四十三年より二百二十人もふえて一千百三十二人となり、学級数も二十四学級から二十九学級となった。

 このため、再増築を余儀なくされ、四十六年六月十一日から工費二千三百七十万円をかけて、延べ五八一平方㍍におよぶ三、四階積み上げ工事が行われ、六教室の増築が同十月三十日に完成した。

 児童数の増加はその後も著しいものがあり、昭和四十八年度の小学校児童数は一千三百四十四人、学級数は三十五となったため、応急策としてプレハブ三教室を建設し、翌四十九年度もさらにプレハブ三教室を建てて、学校運営の適正化を図った。

 石川県健康優良校に野々市小学校

 

 昭和三十五年二月二十九日、金沢市のアメリカ文化センターで開かれた石川県学校保健大会の席上健康優良校、健康優良児童の審査発表があり、野々市小学校は県健康優良校として県教育委員会、朝日新聞社から表彰を受けた。

 全国健康優良校に野々市小学校

 

 野々市小学校は四十二年度も県健康優良校として表彰を受けたが、四十二年十一月三日の文化の日に朝日新聞東京本社で、全国健康優良校として全国表彰を受けた。また、平素の家庭科教育研究における野々市小教師のすぐれた教育効果に対して、第二十回学研教育賞が茅誠司審査委員長から授与された。

 これらの表彰は野々市小学校が、健康教育の徹底を教育の重点目標に取り上げ、周到な計画のもとに推進してきた成果である。健康教育のための施設や活動状況は次のとおり。

  一、施設整備 完全給食A型実施、教室照明装置整備、手洗い場の施設整備

  二、保健室の整備活動、児童会保健活動、少年赤十字団活動の推進

  三、疫病の予防処置、虫歯早期治療と予防措置の実施、寄生虫検査と駆除実施

 なお、野々市小学校は三十五年六月十八日、よい歯の学校運動でモデル校(県第一位)として表彰を受けている。

 

 小学校創立十周年記念式

 

 昭和四十六年十一月二十日午前十時から体育館で記念式典が行われた。会場には高学年児童五百五十名をまん中に町公職者、歴代育友会関係者、町内有志、事業所、会社などの来賓、旧・現学校職員、記念事業推進委員など約二百名が列席し、ともどもに十周年を記念して喜びを分かち合った。

 統合した野々市小学校が、現在の校舎に移って授業を始めたのが昭和三十七年九月一日で、この年がちょうど十周年にあたるので七月六日、育友会が中心となって、創立十周年記念事業推進委員会が結成され、かずかずの記念事業を企画、全町民の協力を得て式典を行ったのである。

 式は「君が代」斉唱のあと、学校長の式辞、記念事業推進委員長のあいさつがあり、新しく寄贈されたエレクトーンの披露演奏に耳をかたむけて、なごやかな雰囲気のうちに進められた。

 このあと、記念事業に貢献された方々に対する感謝状の贈呈があり、中島町長、宮前町議会議長、岡村金沢地方教育事務所長、木野初代育友会長の祝辞があり、校歌を全員で斉唱して終了した。

 

 小学校児童代表の喜びの言葉

 わたしたちは、きょうよろこびの日を迎えました。楽しいことも、苦しいこともたくさんあったこの十年、風雪にたえて、たくましく歩んできたこの十年、ぼくたち、わたしたちはこの学校に学んで、ともに、この日を迎えたことをよろこびます。思えば十年前、三つの学校が統合してスタートした時からりつばな校舎でしたが、たくさんの友だちでおたがい不便を感じて学びました。

 だが、二度にわたる増築工事もめでたく完成しました。また、たくさんのおとうさんや、おかあさんのお力で、すばらしい放送設備や、りっぱな教材をととのえていただきました。

 楽しくうんと勉強ができます。ほんとうにありがとうございました。ぼくたち、わたしたちは、すでに巣立っていかれた千三百五十名の先輩が残されたよき伝統を受けつぎ、きょうのよろこびを第二の出発点として、野々市小学校に学ぶ誇りをもって、明日を築くりっぱな人間になるよう努力します。

 野々市小学校児童数の推移

 小学校児童生徒数は合併直後の昭和三十三年から見ると、徐々に減少の傾向をたどり、同三十六年には二百三十七名減の七九三名となった。これは出生数の減少のためである。

 その後人口の増加にともない、ことに四十二年頃から急速に多くなり、現在では左記のような数となり、さらに増加の一途をたどっている現況である。

 

  小学校(昭和五十年の児童数)

      一年生 三三三名

      二年生 三一九名

      三年生 二九六名

      四年生 二七二名

      五年生 二五〇名

      六年生 二四七名

      特殊学級  五名    計 一、七二二名

 

 

 小学校育友会

 

 昭和三十七年四月、統合育友会設立総会を野々市教場と富奥教場で同時に開き、初代会長に木野仕農氏を選任して本格的な活動を開始した。

 まず、当時は野々市小、中学校とも水泳プールがなかったのでこの建設を取り上げ、町当局などに対して早期実現を働きかけた結果、四十年七月一日、中学校南側に建設された。

 次の大きな課題となったのは統合小学校の建設で、育友会あげての努力の結果、三十八年十月までに校舎、管理棟、体育館の全計画が達成、全生徒が同一校舎で学ぶことができるようになった。

 大事業の完成にともない育友会は三十九年六月、総務部、教養部、厚生部、補導部の四部に組織替えし、各部ごとに強力に事業の推進を図った。そして同年七月にはPTA文庫を設立したほか、同年十月には中学校育友会とともにバザーと廃品回収を行い、益金を学校の教材購入助成育友会の活動費などに当てた。また、町当局ともたびたび懇談会を開いて学校運営への協力体制を強め、四十一年十一月には石川県PTA連合会から優良PTAとして会長表彰を受けた。

 ついで四十二年から子供会指導者講習会を開催、子供会とPTAの重要性を再認識することに努めるとともに、女子児童の制服を定め、全児童の服装一定化を図った。

 この頃から児童、生徒の増加が著しくなり校舎が狭くなってきたため増築を陳情してこれを実現した。こうした活動に対して四十三年八月二十六日、文部大臣から優良PTAとして表彰された。

 四十六年十月、野々市小学校は創立十周年を迎え、町民、児童、父兄、先生が一体となって記念行事を繰り広げて祝った。町民多数による寄付は五百五十余万円にのぼり、教育の実を上げるための備品購入に当てられた。記念行事にはNHKテレビ「こんにちわ奥さん」で人気のあった鈴木健二アナが訪れ、講演を行った。この時の育友会長は白井寛邦氏、学校長は松本三郎氏であった。

 金沢市の衛星都市である野々市町の人口はその後も増加の一途をたどり、モデル的存在であった統合小学校も十年を経ずして狭隘となり、プレハブ教室の建て増しで急場をしのぎながら、最終的に中学校を新築、旧中学校へ小学校高学年を収容するとの方法で問題の解決を見た。

 歴代育友会長は次の各氏である。

 

  木野仕農、北村信一、塚本一雄、魚住正元、内田 工、佃 栄吉、白井寛邦、西村一義

 

 

三、町営プール完成

 町民、ことに小、中学校児童生徒が久しく待望していた水泳プールが昭和四十年七月一日、中学校南側の一角に工費一千二百二十五万円で完成した。長さ二五㍍、幅一五㍍、深さ一㍍一〇㌢で、別に児童用として長さ一五㍍、幅一〇㍍、深さ七〇㌢のプールがある立派な施設であり、その後毎年七月一日から夏季の間開放され、約一万五千人の利用者でにぎわっている。(設計者 山岸建築設計事務所、工事施工、日本海建設)

 

 

 

 

第三節 その他の学校

 

一、金沢工業高等専門学校

 

 第二代中島町長は町政のビジョンとして「文化都市建設」を掲げ、そのために次々と布石を進めた。その第一は北陸電波高校に対する旧野々市小学校校舎の売却で、昭和三十六年十一月一日から北陸電波高校の野々市分教場が発足した。

 その北陸電波高校を母体として三十七年一月二十五日、金沢工業高等専門学校(電気工学科)設立の認可があり、初代校長に青山兵吉氏が就任、同年四月十日に旧野々市小学校の仮校舎で開学式、入学式が行われた。

 金沢工専は三十七年十二月十五日、機械工学科増設の認可を受け、三十八年六月一日本校舎の完成と合わせ開校式を行った。引き続いて学生寮の建設も行われ、三十九年三月三十一日に完成した。同年七月三十一日、学校法人理事長に益谷秀次氏(故人)が就任している。

 

 

二、金沢工業大学

 

 

 

 昭和四十年一月二十五日、金沢工業大学工学部(電気工学科、機械工学科)に設立認可があり、学校法人金沢工業大学が誕生した。

 初代学長には青山兵吉氏が就任、同年四月に第一回入学式が行われた。また、同日付けで北陸電波高校は金沢工業大学付属高校と改称、初代校長に室橋隆三氏が就任、同十二月一日付けで金沢工専校長に竹村重武氏が就任した。

 金沢工業大学が開学してから十年、同大学の内容はすばらしく充実した。即ち、四十一年四月一日には経営工学科を、四十二年四月一日には土木工学科を増設、四十四年六月一日には益谷記念館(大学本館)が完成した。同館はわが国建築界の権威、東京大学工学部都市工学科助教授、設計連合顧問の大谷幸夫氏によって設計されたもので当地方圧巻の建造物として注目を集めている。

 金沢工業大学が野々市町扇が丘で開学してから十年余り、現在の学生数は全国からの五千人余りにのぼり、同大学は地域にも大きな影響を与えている。

 即ち、これら学生の寄宿のため、大学周辺には四~六階建ての民営寮約三十棟が林立し、下宿も広域にわたっているほか、学生を対象にした飲食店、その他の商店が軒を並べ、一帯は学生の町の様相を呈している。

 

 

 

 扇が丘幼稚園

 

 四十年十一月二日、金沢工大に付属扇が丘幼稚園が開設された。校舎は円筒形の立派な建物で、園長には作田せ津氏が就任、地域の幼児教育に大きな役割を果たしている。

 

 

三、石川県立農業短期大学

 新しい農業人の養成をめざし、末松地内に四十五年五月着工、翌四十六年一月一日から開校した。

 総事業費は三億六千万円、校舎は鉄筋コンクリート四階建てで施設は本校舎、体育館、食堂、農場管理所、農具舎、作業合、温室五棟、ビニールハウス三棟からなる。

 初年度は農学科のみだったのが、その後、農業工学科、畜産科が増設され、三科となっている。

 

 

四、石川県立養護学校

 

 野々市町太平寺地内で四十年から着工された石川県立養護学校は、四十一年四月一日開校した。この学校は肢体の不自由な児童生徒に、小中学校、高等学校に準ずる教育を行うものである。

 

 養護学校教育の目的は、

 イ、日常の生活動作が不自由なくできるようにする。

 ロ、社会の一員として自立するため、必要な職業に耐えうるように、肢体の働きを訓練し、職能を身につけさせることにあり、本人の幸福と社会的寄与に必要な基本的条件を修得させることになっており、寄宿舎も完備している。

 なお、同校の編成は小学部、中学部、高等部からなっている。

 

 

五、石川県立明和養護学園

 

 当学園は昭和五十年四月一日、中林地内のきわめて環境のよい場所に新築され、敷地二九、五六六平方㍍、建物八、三〇〇平方㍍からなり、精薄児の養護施設にあたっている。在籍児童は小学部、中学部、高等科あわせて二一九人である。

 

 

六、石川県身体障害者職業訓練校

 

 未松地内に全国で十一番目日、日本海側では、初めての国立県営身体障害者職業訓練校が建設され、四十五年四月十四日開校した。敷地面積二一、八九七平方㍍、建物面積二、七四九平方㍍で内容の充実した訓練校である。

 その訓練科の内容は、横根製図科、電子機器科、縫製科、陶磁器図案科、軽印刷料であり、それぞれ約二十人を収容、訓練することになっている。

 

 

七、勤労青年学校

 産業の予備軍的存在であった中学卒業生は、経済の成長と産業の飛躍的な発展にともない、第一線産業人として総動員的な要員となってきたが、科学の進歩と産業の技術的水準の高度化は、後期中等教育の必要を迫り、わが国社会教育のもっとも重要なる課題としてその対策が進められていた。昭和三十八年度はその第一次として全国二十校設置のうち、女子を対象とした石川県勤労青年学校が野々市町に設置となり、同年七月十五日開校された。待望久しかっただけに、関係機関の喜びとその期待は大きく、開校以来の学習状況もきわめて良好であり、立派な成果をあげた。

 

 勤労青年学校の趣旨は

 イ、義務教育終了後、高等学校に進学しないでただちに勤労に従事する年少青年に対し、社会の要請と青年の必要に即した組織的、継続的な教育を行う。

 ロ、実 施 者 石川県教育委員会。

 ハ、開設 場所 野々市町中央公民館。

 ニ、教育の対象 高等学校に進学しない十八歳未満の勤労青年。

 ホ、教育の内容 主として職業および家事に関する基礎的な知識、技能の習得、ならびに公民としての教養の向上を図る。なお、公民教育に関するものについては高等学校指導要領の基本的な考え方にのっとり、生徒の実態に応じて指導する。

 ヘ、教育の形態 年間を通じて開設する。生徒数はおよそ百八十人以上、生徒一人あたりの年間学習時間数は三百時間以上とする。

 

 

野々市町20年のあゆみ