当町の公民館は戦後の不安と混乱の中から新しい文化生活を創造しようと昭和二十一年、新時代の要請と住民の要望によって設けられた。続いて、同二十四年の社会教育法制定によって、法に基く野々市・富奥・郷・押野公民館が旧町村ごとに設置され、それぞれ農業地帯の特色を生かしながら、生活文化の向上、社会福祉の増進に寄与するための活動を展開した。二十九年には富奥公民館が全国表彰を受けたのも、生産と生活に結びついた公民館活動のあり方が認められたものと思われる。
合併後の公民館は野々市公民館・富奥公民館を新たに設置し、郷・押野を野々市公民館の分館とし、町民意識の高揚と融和親睦を活動目標に、生産技術の向上と生活改善の一体化を図りながら、新しい町造り運動が行われた。同三十二年に野々市公民館が県表彰されたことによってその成果の一端がうかがわれる。
同三十五年から町民の実生活により深く根を下ろした公民館体制を確立するため、分館を廃し、野々市・富奥・郷・押野にそれぞれ独立館を置いた。さらに三十七年、中央公民館を設置して全町的事業の推進、関係団体の積極的な育成、独立館との連携と調整を図るなど、各地区に対してきめ細かな指導を行った。
野々市町の明るく住みよい町造りを目標とした住民運動は強力に展開され、昭和二十七年文部省選定無形文化財「野々市じょんから節」のもつ「自安和楽」の精神を基盤に、流動する地域社会の実態を学び、互いに郷土を愛する豊かな町民性を養いながら公民館は町の発展に努力している。
町村合併によって組み替えられた社会教育体系は、各地区公民館を拠点に行われて来たが、中央公民館設置を契機に青年団、婦人会、体育協会、PTAをはじめ、じょんから節保存会、老人を対象とする百働会、菊友の会など一本化された全町的組織がつくられた。
さらに青年学級、青年産業教室、婦人学級、家庭教育学級などの実践活動と学習活動のつながりの中に行われる社会教育関係団体と社会教育機関としての公民館活動は、社会教育の振興と郷土建設に大きな役割を示している。
こうした町社会教育路線の上に中央公民館では、明るく住みよい町づくりを願い、豊かな町民性の培養につとめている。主要事業としては、新就職青少年歓迎会、敬老会、野々市じょんから踊大会、町民運動会、町民総参加の文化祭事業、成人式、立志式などの町の重要な事業を展開し、各種学級、講座を通して「愛と和」をめざす町民のコミュニティーづくりの基礎となっている。又、各地区公民館では珠算教室をはじめ数多くの講座、教室およびグループ活動を主体に、地区民の憩いの場としても活用されている。ことに昭和三十年台の青年産業活動はめざましく、水稲裏作の蔬菜園芸の技術・経営研究は、町政施策の中心である田園都市建設の主流をなした。
それは全町的農業組織の強化となり、都市近郊農業、近代的農業の確立に結びつき、一方では町民一体化、町民意識の高揚につながっており、「愛と和」の町づくり運動展開の中心となっている公民館の果たす役割は大きい。
歴代公民館長
・野々市町中央公民館長 中島栄治
・野々市公民館長 越川信次、粟生木芳男
・富奥公民館長 中島喜寿、北岡清松、宮川隆正、竹村 祐、小林孝次、上野由雄、村井幸次郎
・郷 公民館長 北村仁勝、小堀英昭、岡田可祝、辰巳善夫
・押野公民館長 西村外吉、庄田勘治、塚本一雄、清水雄二
野々市町は、中学校二年生を対象に、昭和四十六年三月、第一回立志式を中学校において挙行、その後毎年最善をつくして生きる人間になるようおこなっている。
これは昔の元服にあたる式であり少年期から、青年期に入る精神的にも、肉体的にも、もっとも動揺しやすい中学二年生に「自覚」「立志」「健康」を目標に自らの人生に新しい感激と決意を持つよう祝い、励ます式である。
式には町長、議会議長の激励と記念品を贈り、さらに記念講演をおこない、男女各一名より決意を述べ終了している。
当町は前途洋々たる成人を町民こぞってお祝いする式を毎年おこなっている。
今年(昭和五十年)は一月十五日中学校体育館において来賓多数の出席を得て二十回目の成人式をおこなった。
式は君が代斉唱、教育長の式辞、町長の挨拶、一人一人に記念品を贈り成人を祝い、来賓として町議会議長、青年団長の祝辞、成人者代表の答辞、記念講演、感想発表、アトラクション、記念撮影ののち散会した。成人者数は次のとおり。
年 次 成人者数
昭和三一 一五七
三二 一六七
三三 二五〇
三四 二〇〇
三五 二二一
昭和三六 二八一
三七 二八二
三八 二九九
三九 二六八
四〇 二七二
昭和四一 一一九
四二 二八四
四三 四〇〇
四四 四八〇
四五 四〇〇
昭和四六 三五〇
四七 四一七
四八 四六二
四九 五〇二
五〇 五七〇
九月十五日は敬老の日である。この日には各町村においてこれにちなんだ行事が行われている。当町においてもお年寄りの方に毛布や座布団などをお祝いに贈っている。
敬老会はだいたい七月中に、町の主催で婦人会、青年団が協力し、毎年実施している。お年寄りの方を学校の体育館に招き、七十歳になった人に「つえ」を贈り、お祝いの言葉や青年団、婦人会による劇、じよんから踊りなどをお見せし、最後に講演や説教などで慰めている。
その間、婦人会員のお茶の接待、昼食時は手料理を味わってもらうなど一日中楽しく、喜んでもらっている。
初めの頃は招待者二百九十名ほどだったが、四十九年は七百六十三名となり、毎年その数が増している。
新町誕生とともに各地区で青年団が結成された。即ち、野々市青年団、富奥青年団、郷青年団、押野青年団がそれで、これを単位に野々市町連合青年団が組織された。
その構成は団長一名、副団長三名、会計一名の役員のほか、総務部、社会部、文化部、産業部、体育部、家政部を置き、公民館を中心に各部がそれぞれの事業計画に基いて活動してきた。
また、青産研活動、各種研修、体育活動、レクリエーション活動、奉仕活動、あるいは敬老会、盆踊り、町民体育大会なども積極的に援助してきた。
が、三十四年十二月二十日、団員の総意により、愛と和の町民一体化のため連合組織を発展的に解消、野々市町青年団と改組し、力強い青年団活動へと再出発した。
その後今日に至るまで着実に青年の集いの場として、中央公民館を中心に活動を続けているが、後継者が少なく、幹部の頭痛の種となっている。
しかし、率先して町を美しくする運動を起こし、花の種をまき、バス停留所にゴミ入れやたばこの吸い殻入れを取りつけ、保育児童を慰問するなどの活動は、明るい町づくりに寄与するものとして町民の期待を集めている。
また、郷土芸能の伝承にも取り組み、三十五年以来研究会を作って活動、四十年と四十四年の二回、全国青年団大会郷土芸能部門に県代表として「野々市じょんから」をもって参加、四十七年の県芸術祭には「あさぎ返し」を参加させるなど、すばらしい成果を上げている。
歴代団長
三十五年元村和生、三十六年吉本外茂治、三十七年吉野長則、三十八年亀田亮弥、三十九年内村栄一、四十年宮川仁郎、四十一年三納和之、四十二年宍戸範、四十三年松野勝夫、四十四年窪待男、四十五年小堀一雄、四十六年林喜久雄、四十七年北清志、四十八年辰巳善幸、四十九年藤垣健一、五十年宮川渉
野々市町連合婦人会は三十三年四月二十五日、町村合併当時各町村で結成されていた婦人会を統合して結成された。
その目的は「平和な、明るい、住みよい楽土野々市の町造りを啓培するため、地域婦人会相互の密接な連携と協調により、和合親睦し、教養を高め、社会的地位の向上を図り、もって全町一体性を確立、発展の基幹として挺身する」となっている。役員は会長一名、副会長三名、幹事六名、会計一名、書記一名で、任期各一年として発足した。
その後、同年十月一日、野々市町婦人会貯蓄組合規約を制定、生活文化向上のため貯蓄の励行を会員が率先して実行、三十七年五月に貯金高五百万円を達成したあと、さらに目標を一千万円に高めて努力した。
一般の事業では生活改善運動、敬老会、野々市山の下刈り、洋裁講習、レクリエーション講習、盆踊り参加、文化祭、芸術展示会出品、皇居清掃奉仕、婦人学級、研修、また農業関係婦人部では農業改善学習、実習などを行い、家庭内で多忙な会員たちはこれらを通じて教養を身につけ、社会のために活動した。
連合婦人会が軌道に乗った三十七年五月、野々市町連合婦人会を発展的に解消し、一本化した野々市町婦人会が誕生した。役員は会長一名、副会長二名、書記一名、会計一名、部長六名からなり、事業内容も時代に即応して、交通安全運動、明正選挙運動はもちろん、とくに婦人学級(若妻学級を含む)を取り上げ、研修に励んでいる。
グループ活動は生け花、手芸、農家学習、商家学習、読書、サークルがあり、さらに料理講習、物品委託販売、廃品回収、新生活運動、看護法などの講習により自らを磨いている。
その後、社会経済情勢の変化によって四十年頃から会員数も減少の一途をたどり、役員たちはその対策に苦慮している。
歴代会長
三十三年藤谷貞子、三十四年宮岸文子、三十八年喜多真佐子、四十二年~現在藤多敏子
町村合併当時、野々市町には本町地区、郷地区、押野地区からなる野々市町体育協会(会長西尾松夫)と富奥地区独自の富奥体育協会(会長米林勝二)があり、ともに体育振興に当たっていた。
三十三年から一本化して規約を制定、野々市町における社会教育団体の中枢機関となり、体育の普及、発展、スポーツマンシップの育成と体位の向上、青少年の非行化防止を目的に活動する一方、県体、石川郡体に出場、また町民体育大会、卓球大会、剣道大会、町民バレーボール大会、レクリエーション大会などの事業も行ってきた。
近年は人口が急速にふえてきたので、これにともない事業内容も一新、町民ソフトボール大会、県、郡体育大会参加、弓道教室、町民卓球大会、少年球技大会、町民野球大会、町民バレーボール大会、少年剣道大会などを開催している。各行事とも参加者が多く、会場不足で各関係団体から体育施設の建設が強く望まれている。
こうした状況の中で四十一年六月二十六日には、美川町で開かれた石川郡体育大会で総合優勝をとげるなど、活動の成果は目ざましいものがある。四十八年、尚道館(師範中川豊吉)が建設され、剣道教室の開設により剣道熱高揚の原動力となっている。
歴代の協会長は次のとおり。
西尾松夫、北村信一、山岸敬信、能登正男、西尾松夫
学校教育、家庭教育を通じ少年の育成に努力していることは周知のとおりであるが、少年団体の育成はややもするとおろそかになりがちである。そこで公民館運動の一環として、昭和四十四年十一月三日の「文化の日」には、ボーイスカウト発隊式が行われ、少年の健全な育成と、スカウト精神の高揚を図った。結成に当たり団育成会長以下の役員を選定のうえ、団員を募集したところ応じた少年は二十名であった。その後認識も深まり、隊員も五十五名となり、二隊に分けて訓練に励んでいる。
昭和四十六年度はカブスカウト隊を新たに結成し、その数四十二名の隊員により活動を始めた。カブ隊も二隊に分け、ボーイスカウト隊員とともに町の行事に参加協力するなど活発な活動を行い、昭和四十六年八月三日には富士の裾野朝霧高原で展開されたスカウト世界祭典(ジャンボリー)に参加、心身ともに意義ある大壮挙を体験するなど、大いにスカウト精神に生き、世のため、人のため訓練、奉仕に活躍している。
発隊当時の指導者は次の各氏である。
団育成会長 中島 栄治
副会長 荒木 斉
団委員長 粟生木芳男
事務局長 中田 哲
団委員 横川与三郎 塚崎 文男
カブ委員 関戸 亀鑑 石倉 勤
ボーイスカウト第一隊長 佐久間由孝(初代隊長)、香城哲丸(第二代隊長)
同第二隊長 平山 義勝
カブ第一隊長 塚本 信書
同第二隊長 木戸 晃
野々市町は今から一千年の昔、富樫忠頼卿が執政を行ってから二十四代政親が一向一揆の騒乱で戦死を遂げるまで実に六百年もの輝かしい政治業績が続いた。これは民衆の敬慕をうけたためで、かつては仁政と讃えられた。
そこで昭和四十年七月一日、こうした富樫氏の仁政を讃えることに賛同した人たちにより富樫卿奉賛会が結成された。
その目的として「本会は一千年の昔からおよそ六百年の間、民主政治の祖として広く民衆の敬慕をうけ、かつ中世の加賀文化を築きあげた富樫氏の偉業を奉賛し、さらに史実の研究を深め、諸行事、諸事業を起こして地域社会の発展に貢献することを目的とする」
事業として、
(一)、富樫氏に関係のある有形無形のあらゆる文化的資料を収集し、研究を深め、一般に公開して広く認識の向上に努める。
(二)、これらの文化的各種資料の完全な保護を期し、かつこれを一般に公開し、あるいは諸事業、行事のために必要な富樫記念館の建設を行う。
(三)、無形文化財「じょんから節踊り」の保存普及に協力する。
(四)、奉賛意義の高揚のため記念日を設け、旗を調製してこれを揚げ、富樫祭りを行う。
(五)、このほかとくに必要な事項を事業として行う。
結成時の役員と会員数は次のとおり。
顧問 木村素堂、会長 中島栄治
副会長 石浦隆義、粟生木芳男
常任理事 九名、理事 二十四名
監事 二名、会員 二一五名
野々市「じょんから節」踊りは、富樫氏六百年の安定した政治の中で、その仁政を表徴する貴重な遺産として生まれ、受け継がれてきた。当時の「じょんから節」は、武士も商人も百姓も御殿女中も、貴賤男女の別なくみんな一堂に集まり、和気あいあいの中に笛、太鼓の調子に合わせて、夜の明けるのを知らず楽しく踊りあかしたという。このように加賀野々市が発祥の地である実情から、付近の部落一円にわたり盛んである。
「節」「踊り」に多少の差異はあっても、それはそのまま地域の情緒ある民謡として保存されてよいと思う。
一千年の由緒ある歴史に生きるこの民主的、平和的な民族理想社会への業績も、明治の後期に風俗びん乱の理由で弾圧にあい、消滅の悲運におちいった。
その後、終戦までは有識者の懸命な復活運動も容易にみのらず、昭和二十五年にようやく文部省の郷土芸能実態調査をもって翌二十七年三月、全国四千三百二十六点のうち十一点、その一つに選定されたのである。
明治二十五年頃、暴挙的弾圧に憤慨した郷土史家木村素堂翁は、それから五十有余年にわたり、ひたすら盆踊り「じょんから節」の復興に献身した。今日ようやく、それがむくいられたことは実に感無量であろうし、特筆すべきことであって、当時、素堂翁とともに専心活動されて今は亡き幾人かの友に対して、感謝のまことを捧げねばならないと思うのである。
親愛と人情に満ちた寓樫歴代の善政をしのび、郷土文化に生き生きとした千古の遺業を伝える「じょんから節」の保護の完全を期すため昭和三十五年七月、町民一同の協力により保存会が結成された。その後、一部の役員は変わったが、今日まで二万町民が、一丸となって「じょんから節」の保存と保護に万全を期しているのである。会員五百人を擁して発足した保存会結成当時の役員は次の各氏である。
名誉会長 木村素堂
顧 問 中島栄治、小松時一郎
相談役 町議会議員全員、教育委員、各農協長、農業委員長、各学校長
会 長 吉田喜久哉
副会長 北岡清松
理 事 庄田義栄(総務企画運営部長)、粟生木芳男(普及宣伝研究部長)、北村癸卯磨(工場代表)、元村和生(青年団代表)、山岸春枝(婦人会代表)
監 事 西村外吉、窪三省
会 計 蚊谷辰男
金沢市の南西に位置し、その表玄関の役割を果たしている野々市町は、古来稲作農業を主産業とした静かな町であったが、国道八号線、一五七号線、金沢バイパスと国鉄野々市駅の開設などの交通網の整備によって、急激な発展を見せてきた。ことに商工業の進出がめだち、宅地の造成にともなう人口の急増により、都市化の一途をたどっている。
こうした町の発展の中で、遠く縄文時代の御経塚遺跡、奈良前期と見られる末松廃寺跡、それに平安の中期から五〇〇有余年のあいだ加賀国を支配し、加賀文化の創造に大きな業績を残した富樫一族の足跡など、県下でも歴史的研究素材の最も多い町として注目をあびている。
しかし、常に新しく変化して行く社会環境では、貴重な文化遺産が破壊されることが心配されてきた。
そこで、祖先が残してくれた郷土の通産を、少しでも後世に伝え、一人でも多くの人達に町の歴史を知ってもらうために昭和四十六年、野々市町郷土資料研究会が発足した。
同研究会は失われていく町の歴史資料の収集、調査にのりだし、同四十七年十一月の町の文化祭で生活民具を展示発表したのを皮切りに、種々の資料調査と収集活動に取り組み、郷土第一集の発表となった。これは町内の農地に古くから名付けられ、農民生活に密着して来た俗称と、昔から伝えられてきた寺院、豪族の居館などの遺跡を中心に集録したものであり、今後さらにこれらの資料の集録に努力していくことになっている。
なお当研究会の会員は、十七名である。
従来当町には単位子供会(現在四十六)が結成され個々に事業を行っていた。その頃は、主として学校の夏休み中にラジオ体操、あるいは海水浴と、健康増進と学習を主として、二学期にそなえ活動していたのである。
その後、昭和四十年七月三日野々市町子供会連合会が発足、ブロックを十三にわけ、その編成は、第一ブロック本町一丁目(一丁目、横宮町、若松町)、第二ブロック本町二丁目(二丁目)、第三ブロック本町三丁目(三丁目、菅原町)、第四ブロック本町四丁目(四丁目、白山町)、第五ブロック本町五丁目(五丁目、六丁目)、第六ブロック本町東(住吉町、扇ヶ丘、高橋町)、第七ブロック富奥東(上新庄、下新庄、粟田、三納、矢作、花ノ木団地)、第八ブロック富奥西 (上林、中林、末松、清金、清金団地)、第九ブロック富奥北(藤平、藤平田、藤平田団地、位川)、第十ブロック太平寺(一丁百、二丁目、三丁目、四丁目)、第十二ブロック郷(稲荷町、堀内町、田尻町、三日市町、二日市町、徳用町、郷町、蓮花寺、柳町、長池町)、第十二ブロック押野東(押野町、丸木)、第十三ブロック押野西 (御経塚町、野代町、押越町、あすなろ団地、あやめ団地)とし、単位子供会に会長を置き、各ブロックから一名理事を選び、各種事業は理事会の議決を経て実行にうつしていた。
連合会の事務所は中央公民館に置き、子供会に関する情報の交換と連絡提携、子供会運営活動に関する研究会、講習会の開催、その他目的達成のため必要な事業を行うことを目的とし、単位子供会の育成や指導をする事となり連合会には会長一、副会長三、書記一、会計一を置き活発な運営に努力しつつ今日に至っているのである。
活動内容は、たこあげ大会、水難救助講習会、カルタとり大会、輪投げ大会、全町一斉掃除、卓球大会、テニス大会、バレーボール大会、ソフトボール大会、作品展示会及び子供会活動の発表等で、この会の会員である地域子ども会の健全な育成と向上発展を図っている。
現在の会長は太平寺の六田俊雄氏で、氏の献身的な努力により各町村の模範となり昭和四十九年三月十七日、太平寺子供会が石川県知事の表彰を受けるにいたった。
歴代会長は次のとおり
竹内弥三男、香城学、山田昭三、藤田友行、中村忠男、香城哲丸、六田俊雄
昭和三十六年三月十一日、野々市町青年研修所において、菊友の会結成総会を開催、ここに野々市町菊友の会が発足した。その目的は、菊作りを通じてよりよい人づくり、よりよい町造りに協力することであり、会長に中島栄治氏を選んだ。
会員は当初二十五名であったが、主旨徹底のため同年十一月一日より四十日間会員の再募集を行った結果四十六名となった。
第一回菊花展覧会を同年十月三十日より十一月四日まで開催、盛会裡に終了したが出品品目は次の通りであった。
厚物一般の部 三八点、競技花の部 一一点、盆栽の部 一八点、花団の部 四点、管八重の部 六六点
終了後、先進地福井県武生市を視察する等、会員の盛り上がりがあり、ますます発展している。
その後毎年公民館主催の文化察(十一月一日~三日)に出品、点数も昭和四十九年には一八一点と、極めて多くの数となり、展示場も狭いくらいの盛会であった。
近年いよいよ技術的に練磨され、優秀な出品物が多く町民の目を楽しませている。
昭和四十九年六月十九日、定例議会において町花木に「椿」を選定、決議した。これを機会に「椿に親しむ会」を作る準備を進め、同年十二月二十二日、中央公民館で設立総会を開き、椿いっぱいの町づくりをめざし発足した。会長に中島栄治氏を選び、入会費を年一、〇〇〇円と定め活動することとした。会員は三十五名である。
椿の十徳
一、不老の徳 年月を経ても老衰のようすを見せない。
二、公徳を守る徳 四季を通じて落葉しないから、木の下はおのずから汚れない。
三、相互一致の徳 つぎ木をすれば容易に合着し、たがいに別個の新樹を作る。
四、謙遜の徳 平常は人目につかない薮かげに生えて、春がくれは花容勝絶、人は庭内に移植したいと思うようになる。
五、清浄の徳 椿はもっぱら清水を楽しみ、ひとえにけがれを禁ずと記し、水清き土地によく生育することを示している。
六、矜持の徳 庭の中央に植えられても、片隅に植えられても、あるいは名園に植えられても、狭い庭に植えられても、その境遇にかわりなく立派に成長し、みごとな花を開くことを述べている。
七、常緑不変の徳 葉は常に緑濃く、秋になって他の木々の葉が色づいても、椿だけはいつも変わらぬ緑色に輝いている。
八、節操を守る徳 冬になっても、霜枯れということがない。花のつぼみは春にそなえて日ごとにふくらみ、そのいとなみを休むことがない。
九、奉仕の徳 毎年よく花を開き、しかも園芸品種は年によって花の大きさ、形、色あいに、いくぶんの変化を生じ、栽培者の労にむくいて、よく奉仕の心を発揮する。
十、厚生の徳 種子から椿油をしぼり、燈油また食油として用い、頭髪や皮膚の栄養にも好適である。材は椿炭・家具、日用品などの木工素材に適する。
県知事が先頭に立ち、健康、明朗、積極的でしかも進取の気風に富んだ県民づくりを目標に、中央歩こう会が発足してから数年になり、県下の市町村に多くの歩こう会が誕生し、その実践活動は盛大なものになっている。
野々市町では昭和四十六年五月十日に、有志によって「歩こう会」が結成(会長、福明外喜雄)され、第一回の五月十六日は布市神社に参詣し、健康の増進と町の豊かな発展を祈念し、実践活動に入った。
毎月第一、第三日曜日の二回、県から受領の早起き鳥をあしらった会旗を先頭に、豊かな心身づくりと生涯美容をモットーに、毎回百人を越える参加者が健康増進に努力している。
野々市ライオンズクラブ
〝自由と信頼と叡智のきずな″で人とこの世に奉仕の誠を尽くし、平和な世界を築こう――。こうしたライオンズクラブの趣旨に心から賛同した町内の各界名士三十三名があい集い、昭和四十三年十月二十七日、役場三階ホールで結成式が行われた。
このライオンズクラブは全国で一、三四二番目の誕生であり、県内で八四番目の結成である。当時、事務局は白山麓特産館内に設置して、事業の推進を図った。その後、四十四年六月八日、同クラブの国際協会認証状伝達式が、金沢工業大学体育館で開催され、エバンス国際協会長から中島栄治会長に伝達された。
以来六ヵ年、町役場へミュージックチャイム、青年団へ輪転謄写機、県立養護学校へトースターを贈ったほか、善行児童の表彰、小、中学校へ教材、交通安全標識の寄付、さらに献血運動に自ら協力するなど奉仕の精神にのっとり、着々と実績を上げている。
また、結成五周年には町の消防ポンプ自動車購入に当たり、二百万円の寄付をして、町民は等しく敬意を表している実情である。このクラブは毎月第二、第四の木曜日に例会を開き、活発な運動の展開を図っている。
歴代の会長は、中島栄治、荒木斉、能登正男、粟生木芳男、西尾松夫、高崎幹夫、小野木豊茂の各氏である。
野々市町20年のあゆみ