野々市町の歴史は、御経塚遺跡が物語るように、三千年前の縄文時代に逆のぼることができ、その後も加賀の国府が置かれるなど、石川県にあって重要な位置を占めてきた。今日も数多く残る遺跡や文化財は、その意味では野々市町だけのものにとどまらず、大切に保護されていくべきである。野々市町でも昭和三十六年六月一日、町文化財保護条例を制定、専門委員を置いて、文化財の探究、保存につとめている。
文化財専門委員(昭和五〇・三・三一現在)
米林勝二、松本三都正、中島康雄、高堀勝喜、瀬尾亮弥
明治四十四年(一九一一)、末松地区で耕地整理が行われたとき、一帯から数多くの土器類が出土した。このため、昭和十一、二年にわたり、部落有志が学識者の指導を受けて発掘調査したところ、地下約一㍍から寺院建物の根石群が見つかったので、これを文部省に報告、同十二年三月、同省の実地調査によって「末松廃寺跡保存会」を結成した。
文部省は同十四年九月七日、同省告示第四一〇号で、末松廃寺跡を国指定史跡に指定した。
その後、昭和三十六年六月、末松の高村誠孝氏が、同地区の用水溝から銀銭「和銅開珎」を発見した。和銅開珎は和銅元年(七〇八)、武蔵国から銅鉱が発見され、国産の銅が献上されたことを記念して発行された日本最初の貨幣で、同三十八年八月、文部省の指示により、予備発掘調査が行われた。
同時に文部省記念物課は現地踏査を行い、同四十一、四十二年度にかけて、国営事業で本格的に発掘調査した。
この結果、末松廃寺は奈良朝前期、すなわち律令制集権国家が完成する八世紀前葉を下らない時期に建立され、平安朝以前に廃絶したものであろうと推測された。とくに塔堂、金堂の規模が予想外に大きいことから、塔は国分寺級の七重塔と想定され、軒丸瓦の文様構成とその様相は奈良朝前期(七世紀末~八世紀前半)と判断された。
野々市町では調査結果にもとづき、昭和四十一、四十二年度にかけて末松廃寺跡、総面積二万一千二百三十五・五四平方㍍(六、四三五坪)を買い上げ、同四十三年度から三ヵ年計画継続事業で、史跡公園環境整備事業に着手した。
第一年度は史跡の中心となる塔跡、金堂跡を復元、第二年度は旧県道以南の地域の築地、中門、南門、園地、園庭、植栽などの復元工事を実施。最終年度は旧県道をふくむ以北地域の講堂、築地、東門、北門、園路、園庭、植栽などの復元を行い、出土品の収蔵庫を建設して、史跡公園としての整備を完成した。
末松廃寺跡は昭和十四年九月七日、文部省によって「史跡」に指定された重要な古代廃寺の遺跡である。この廃寺跡は加賀扇状平野の中央部(末松部落の西端約百㍍)に位置し、霊峰白山を真正面に望む聖地である。
古くから金堂、塔堂その他の礎石、瓦をはじめ、壺、石器類が無数に出土しており、このうち瓦片、土師器、須恵器など約三百点は、昭和三十九年十月十二日に文化財の認定を受けた貴重品である。
昭和三十六年三月二十四日、わが国最古(元明天皇の和銅元年=七〇八=五月に鋳造と推定)の銀銭、和同開珎一枚を末松の高村誠孝さんが発見し、文部省の鑑定をうけていたところ、同四十年十月十五日、文化財として認定されたことにより、ますます学術研究上重要性を加えてきたのである。
廃寺の建築年代は近年までは奈良時代後期(八世紀末)、あるいは平安時代初期(九世紀初め)の創建と見られていたが、最近に至って〝布目瓦″や和同開珎の学問的研究によって、さらに約一世紀古いものと考えられるようになった。
形式について、堂塔の配置は塔に重きをおいた法隆寺式と、塔を装飾的に扱うようになった東大寺式ともいうが文献がなく、寺号さえも判明していない。しかし、北陸地方における古代史、宗教史の究明上、最も重要な意義をもつものであることは、学者のひとしく認めるところである。
千数百年前といわれている遠い大昔に、私どもの祖先が造営したという大きな寺院の跡、このお寺が北陸文化の中心であったと思われる宗教の大殿堂でありながら、一文の記録をも残さぬままに長い幾星霜を地下に眠り続けたのである。
そうした無名の廃寺跡に、いよいよ本格的な探究のメスを入れることになったのが、昭和四十一年九月二十三日である。
中西知事、文部省派遣の坪井技官をはじめ、関係者百余名が参列、発掘式典と鍬(くわ)入れの儀が行われた。
第一年度は予備調査を行ったところ、国の設計よりもはるかに規模の大きい塔柱の跡が発見され、これまで五重の塔と思われていたが七重の塔でなかろうか、また、塔の型式とともに金堂も大規模な建造物であることも確かになった。さらに東側の廻廊跡も発見でき、無数の瓦や土器類も出土してきた。その間の発掘作業日数は二十七日、延べ人員五百数十人であった。
第二次発掘調査は昭和四十二年七月二十一日から八月十五日の炎天下に行われた。この調査は文部省の直轄事業として実施されたので、文部省天然記念物課長はじめ十五人の担当技官が来町、調査指導にあたり、石川県からは考古学研究会の鏑木、高堀、金山、吉岡、橋本の各専門学者が協力、作業は順調に進んだ。
発掘作業に要した人員は延べ約六百人、ベルトコンベヤー五台、ブルドーザー一台の機械力も使用された大々的な発掘であった。この結果、金堂の北方三〇㍍の位置に講堂、僧房などの掘立柱建物五棟、西側築地一条の炉跡の遺構を検出した。
なお、これにより寺院の存命は奈良時代前期を創建年代とし、平安時代の後期において廃寺の運命をたどったとすれば、約五百有余年間、北陸一帯にわたる文化の中心として、その発展に大きな役割を果たしたものと想像される。
第三年度に入り環境整備、史跡造成、即ち公園化し、最後に収蔵庫を建設する工事が完了した。
史跡公園の造成には赤松・黒松・ツツジ・ウメ・モクレン・ケヤキ・ツゲ・サンゴジュ・サツキ・サクラなど二千数百本を植樹し、その後も有数十本増植した。
同公園は昭和四十六年九月七日、三笠宮殿下がご視察された。
史跡末松廃寺跡保存整備経過は左のとおりである。
目標 全域史跡公園化
公園用地総面積 二一、二三五・五平方㍍(六、四三五坪)
昭和四十一年度事業
1、用地買収面積一〇、九九八・九平方㍍(三、三三三坪)
2、第一次発掘調査 約八〇〇平方㍍(約二四〇坪)
昭和四十二年度事業
1、用地買収面積一〇、二三六・六平方㍍(三、一〇二坪)
2、第二次本格発掘調査一、二〇〇平方㍍(三六〇坪)
昭和四十三年度~四十五年度事業
1、環境整備(史跡造成)
2、収蔵庫建設(出土品記念館)最終年度
総計費、五千三百八十万円
玄関の大戸につらなる通り庭、紅殻(べにがら)塗りの木むしこ、風返し、袖返しなど城下町商家の面影をよく残している。喜多家は元禄時代(一六八八~一七〇三)から百五十年余り、代々種油屋を業としていたが、明治二十四年(一八九一)での大火焼失、その再建のときから酒造業を始めた。現在の家はそのとき、金沢市材木町から移築したものであるが、金沢の宝暦大火(宝暦九年=一七五九)以後の建造物といわれる。(昭和四十六年指定)
ジョンカラは「自安和楽(じあんわらく)」のなまり言葉で、富樫氏第四代忠頼(永延元年=九八七=加賀国加賀介に任ぜらる)の政治理念である。
当時、貧富の差と階級制度のきびしい封建時代にあって、「武士も町人も百姓も手を取り合い、ひとつ輪になって踊り明かした」という祭事から、ジョンカラ節という踊りが生まれた。
その後、幾多の政変、戦乱の渦中にありながら民衆とともに生き、受け継がれてきた貴重な文化遺産である。(昭和二十七年三月二十九日選定)
なお、四十一年六月十一日、金沢市観光会館において三笠宮ご夫妻にじょんから踊りを披露した。
富樫略史音頭
未熟ながらも 拍子をとりて
唄いまするは 富樫の略史
声はもとより 文句も拙い
拙い処を御用捨あれば
踊りましょうぞ夜明けるまでも
今を去ること千年以前
時の帝は一条天皇
雪に埋れて 開けぬ越路
加賀の司に 富樫よ行けと
勅諚かしこみ 都を後に
下り来りて 野々市町の
地理を選びて 館を築き
神社仏閣 造営いたし
民を愛して 仁政布けば
名僧智識は 四方より集い
是等智識に 道をば聞きて
下は和らぎ 稼穡を励み
上を敬い 富樫を慕い
代々の司に奏上いたし
勅許ありたる良官なれば
一の谷やら 鵯越と
屋島海戦 大功樹てて
兄を名誉の 将軍職に
助け上げたる 義経公が
落ちて来りて 安宅の関所
家来弁慶 読み上げまする
音に名高き 勧進帳に
同情いたして 涙で落とす
実にもすぐれし 名将智主と
後の世までも 歌舞音曲に
貽る徳こそ 白峰と高く
麓流るゝ 手取りの水と
共に幾千代 名は芳しく
唄いまするは 富樫の略史
御経塚遺跡は縄文時代晩期(三、〇〇〇~二、〇〇〇年前)の、北陸地方における代表的大集落跡である。分布の範囲は南北約一六〇㍍、東西約一九〇㍍の円形状をなしている。中心部は共同の祭祀、集会場として使用され、この中に広場を囲むように住居が造られ、さらにその外周に墓地が設けられている。
昭和三十一年の発掘調査で出土した土器類、御物石器、石斧(いしおの)、石剣、石棒、石鏃(いしやじり)、石皿などは、同じ縄文時代晩期でも西日本的色彩が濃く認められることから、「御経塚式土器」と標式が設定された。
昭和四十四年の発掘調査では、甕棺(かめかん)、土壙墓、石冠、管玉、石刀など、異形的な石器類が発見された。
(昭和四十五年三月十日指定)
富樫氏領内の総社で、歴代の守護神を祭る。永延元年(九八七)第六十六代一条天皇の勅命により、富樫忠頼が加賀国司として着任し、仁政を行ったため正暦四年(九九三)永住の勅諚を受けた。
そのとき一条天皇は忠頼に対し、上筒男命、中筒男命、底部海津児神の三神を賜った。忠頼はかしこみて拝領し、同年石川郡武松に社殿を造営、神霊をそこに奉祀し、それ以来富樫氏の守護神とした。
康平六年(一〇六三)、第七世家国が加賀の国府を野々市に移し、ここに社殿を造営、武松から遷宮し、同時に忠頼の霊をも合祭して領内の総社とし、護国神社とも称した。
その後大正三年(一九一四)、照日八幡神社、外守八幡神社を合祭して布市神社と改称した。祭神は天照大神、応神天皇、天児屋根命、上筒男命、中筒男命、底部海津児命、菅原道真、富樫忠頼の九柱である。(昭和四十二年二月十一日指定)
曹洞宗太平寺の境内にあり、大乗寺開山徹通義介和尚の灰塚である。太平寺は富樫泰平(法躰して名心という)の開墓で、もとは泰平寺と書いた。(昭和四十二年二月十一日指定)
富樫氏歴代の居館としたところで、富樫城とも言い、九艘川と新兵衛川を外壕とした区域である。
康平六年(一〇六三)の頃第七代家国がここに館を創建し、加賀国府を移し、布市を野々市に改め、以来第二十四代政親が一向一揆により戦死した長亨二年(一四八八)まで、約四百年間ゆるぎなき加賀の治政が行われた。(昭和四十五年三月十日指定)
明治九年(一八七六)十二月、旧加賀藩士杉江秀直が創立し、近郷の篤農家を集めて田地の区画整理農具の改良などを教導したところで、当地に於ける洋式農業の発祥地である。
明治二十一年(一八八八)、この農事社を石川郡模範農場と改名し、渡辺譲三郎を場長とした。
本県の耕地整理は全国最初であり、偉業を遺した高田久兵衛等もこの農事社で学んだのである。(昭和四十五年三月十日指定)
長享二年(一四八八)四月、分家の富樫泰高を総大将とする一向一揆の軍と戦って敗れ、高尾山で自刃した富樫政親の筆になるもの。富樫家伝来「文明十七天仲秋上旬富樫某図之」とあり、政親が自刃する三年前、三十一歳のときの作品。富樫某としたのは時世をはばかったものとみられる。(昭和四十五年三月十日指定)
今度永々逗留申候 然者馳走不申候 而心之外に候 仍見事之虎毛猫一疋持給候 一入喜悦至侯 穴賢々々 尚々一段厳敷侯 爰元自然囲候事可承侯 顕尊(花押)
証大寺 殿
藩医山崎左京衛の祝儀について、小姓頭に指示した書状である。
利長は前田利家の長男で、慶長二年(一五九七)四月二十日、加賀藩第二代藩主となり、同十九年五月二十日、五十三歳で亡くなった。法号は瑞龍院聖山英賢大居士。(昭和四十五年三月十日指定)
側近の者への病気見舞いの書状。
利常は前田利家の四男で、慶長十年(一六〇五)六月二十八日、加賀藩第三代藩主となり、万治元年(一六五八)十月十一日、六十六歳で亡くなった。法号は微妙院一峰充乾大居士。(昭和四十五年三月十日指定)
慶長二十年(一六一五)布市村肝煎、惣百姓中宛のものである。公用の荷物運送は伝馬であるが、士人の乱用があるので、同年三月五日、初めて藩用の印鑑を各駅に下附し、これを携行しないと人馬の徴用ができないようにした。(昭和四十五年三月十日指定)
寛文十年(一六七〇)野々市村宛のもので、慶安元年(一六四八)前田利常が領内の総検地を行い、同三年(一六五〇)初めて下附した。草高、免合、小物成の種類を定めたものである。(昭和四十五年三月十日指定)
御物石器は飛騨地方を中心として出土する磨製石器で、明治天皇へ献上されたことからこの名称がつけられた。市村氏蔵のものは縄文時代後期(紀元前一千~五百年)のもので、御経塚七七九番地の古代集落跡から出土した。
石器の用途は明らかでないが、原始時代の祭礼用具あるいは呪術的儀式に用いたものと考えられる。(昭和四十五年三月十日指定)
(高さ二三・四㍍、目まわり四・九五㍍、野々市町布市神社)
木村九郎左衛門孝信の墓標といわれる。孝信は一向一揆の首領、松任城主鏑木右衛門大夫常専の配下で、騎馬戦随一の武将と称され、野々市の出城を預かってここに城を築いていた。(昭和四十二年二月十一日指定)
野々市町20年のあゆみ