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page=4 :手取川七ケ用水 百年の軌跡 七ケ用水の由来  古来「手取川は、七たび水路を変えた」との言い伝えもあり、「皇国地記」には「七ケ用水ハ手取川ノ分流」と記されています。  用水の発達は、稲作の普及と取水技術の進歩に並行するのですが、七ケ用水の起源についての古い記録は見付けられない。平安末期の長寛元(1163)年に書かれた「白山之記」に、白山九所小神の1社として「三戸明神、船岡山平等寺境二コレ在り」と、また戦国中期の「大永神書」の中にも、「三戸明神、十八講河原」とあります。この所在地は、ともに鶴来町の上手(上流部)にあるので、富樫、郷用水の取入口の安泰を祈願する神様であったとみられ、手取川からの用水開設は少なくとも平安後期には始められていたものと言えます。近世の用水文書(「岡野家文書」)には富樫・郷・中村・山島・大慶寺用水を「石川方五ケ用水」とし、古代の能美郡にある中島・新砂川用水に対して古格の用水であることを示しています。しかし、大慶寺用水は、古代後期~鎌倉時代には、手取川の本流(「源平盛衰記」)であったから、用水としては、新しい方でありました。 用水の管理と運営  用水の成立以来、用水川筋の村々の農民は、郷村の自治として用水管理者をきめ、用水慣行をつくり上げてきました。それは遠く古代~中世に始まります。  藩政前期には、郡奉行(のち改作奉行)が十村・村肝煎・長百姓を指揮して用水業務を采配しました。万治2(1659)年、十村代官制にしてから、郡内大用水は3~4名の御扶持人が采配し、明治5(1872)年7月、十村(郷長)制を廃止するまで続いた。  七つの用水では、それぞれ上郷・中郷・下郷に分けて、3~4名の井肝煎が用水業務を担当し、用水江下村々肝煎(区長)が、審議会をもって管理運営を図ってきました。  明治13(1880)年4月、区町村会法により水利土功会ないし町村連合会を組織し、委員戸長をおき連合会長が管理者となり、江下用水議員を選挙して、それぞれの用水を管理運営してきました。  そして明治23(1890)年6月20日の水利組合条例により、七つの用水ではそれぞれ創立委員を選任し、組合規約を作成、管理者、委員が用水業務を、用水議員を議決機関として、各用水に「○○用水普通水利組合」を組織しました。
page=4 :明治の大改修と組合の創立  その後、七ケ用水取入口の合口事業が計画されました。その目的は、①手取川の氾濫を防ぐ。②所要の水量を確実に取入れる。③取入操作を軽便にする。④配水操作を便利にし経費の軽減を計る。合口事業は、富山県の常願寺川の常西用水にならい、明治16(1883)年に調査委員会を設置し、流量と用水取入量などの調査が継続的に行われ、明治25(1892)年8月に用水の管理者に合口事業の諮問がなされ、同年12月の県会で論議されました。そして明治29(1896)年7月に起工しましたが、同年7~9月の末曽有の大洪水に見舞われ、水害の甚大さに鑑みて再度調査設計をやり直し、明治31(1898)年7月県営工事として着工しました。 工事の内容は、手取川本流の安久涛ケ淵に大水門を構え、古宮公園の地下に三つの隧道を堀り、隧道出口より7.8kmの七ケ用水幹線水路を設置し各用水への堰・水門等の施設を建設しました。この工事の完成前、明治36(1903)年2月9日に、手取川七ケ用水普通水利組合を組織し、明治36(1903)年5月24日に竣工式並びに通水式を挙行しました。この工事により、各用水とも取水の苦労が軽減され、取水量が安定し、組合の組織により分水・番水の手続きが機構において合理的に行われ、スムーズに進めることが出来るようになりました。また、取水の上で、水上と水下での水争いが緩和されました。 組織変更  昭和24(1949)年に土地改良法が制定され、それに基づき、普通水利組合創立以来49年の歳月を経、昭和27(1952)年7月5日に手取川七ケ用水土地改良区と組織変更し用水管理を円滑に推進するために、七つの各用水を第1から第7の「分区」として設置しました。