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page=15 :野々市の名をとどめたが、明治期に入ってからは、周辺の農村地域の中に息づいてきた。
二 新しい町の誕生
昭和二十八年に「町村合併促進法」が公布され、野々市を中心とした近隣市町村にも、町村合併の波が押し寄せてきた。当初石川県の示した合併試案では、野々市町を中心に富奥村・額村・押野村・安原村の一町四か村の合併構想であった。これに対して金沢市は独自の見地から、この野々市ブロック全町村に、金沢市への編入を働きかけた。この呼びかけに額村・安原村が応じたために、以後は野々市町・富奥村・押野村・郷村による一町三村の合併という、独自の構想が打ち出された。
そして先ず昭和三十年四月一日、野々市町と富奥村の合併によって、新生野々市町が誕生した。郷村は、経済圏が松任と野々市であったために、松任派・野々市派と、村を二分するようになり、県当局等の調停によって、松任町と野々市町へ分村編入した。押野村においても、金沢市からの強い働きかけに、村は大ゆれにゆれた。一旦金沢市へ編入したが、一部住民からの分市要望が強く、結局住民投票により昭和三十二年四月、押野町等の四町が、野々市町へ編入した。
こうして昭和三十二年、現在の野々市町の町域が確立したのである。