一  太古の北陸

 日本三名山の一つと言われる霊峰白山は、我々が住んでいるこの地域の何処からでも拝まれる畏敬の山である。この白山を水源として流れる手取川の水は、山間部では発電用として使用され、平野部では同じく白山を水源とする伏流水と共に、生活用水として使用される外、農業用、工業用として清らかな水を供給し、流域に住む我々に多大な恩恵を与え続けてきている。

 白山に向かって右手はなだらかな能美丘陵として、近年開発に衆目を集めている。一方、左手は舟岡山から獅子孔高原の山並に続いて、盆を伏せたような倉ヶ嶽や、幾多の歴史を経てきた高尾山、大乗寺山が連なり、その背後に薬草の宝庫と言われる医王山の麗姿を望むことができる。

 我々が住んでいる地域一帯がどうしてこのように出来たのか、又、どのようにして現在のようになったのか、いわゆる手取扇状地帯の起源は何時なのか、これらについては各種の史書によれば次のようである。

 

 

 白山湖

 手取川上流の見付谷や桑島の南方六粁程の右岸から発見される羊歯(しだ)類等植物の珪化石や貝類を集めた化石壁等は、日本が海の底になっていた二億年前のものであると言われている。

 今から約一億八千万年から一億三千五百万年前、即ち中世代のジュラ紀・白亜紀と言われる頃は、福井・石川・富山・岐阜の四県にも跨った巨大な湖で、その広さは琵琶湖の十数倍もあったと言われる。それが一億年程前の造山活動により、無くなったり分断されたりした。この湖は白山湖、又は手取湖と呼ばれている。

 この素晴らしい湖も五千万年の月日が経つと、湖の底が盛り上がってきて遂に峻しい山に変わった。やがてジュラ紀が終わると地球上に火山活動が起こってきた。凡そ六千万年から三千万年前の間と推測される。次いで二千万年前の新第三紀の時代になると、大陸から日本列島が独立して日本海が出来、能登半島の形もくっきりとした北陸の形が出来上がった。このようにして造山活動が繰り返され、山が出来、丘陵地等が形造られて湖は分断され、やがてそれらが加賀三湖となり、河北潟や邑知潟等として残されてきた。

 

 白山

 

 百万年程前、この山の頂きの脇から物凄い火の柱が上った。火山の爆発によって噴出した溶岩は、水成岩の山肌をすっかり埋めてしまい、冷えた岩の山が空高くそびえ立つようになった。このようにして出来た白山は、御前峰・大汝峰・剣ヵ峰等標高二千七百米前後の三つの峯から成っている。又、峯の間には翠が池・千蛇が池・紺谷が池・油が池・五色が池・百姓池・血の池等七つの池があり、これらの池は噴火の跡、或は溶岩で堰止めた名残りと言われている。

 

 手取川と手取扇状地帯

 手取川が流れ始めたのもこの頃で、山間を流れ下った川は鶴来町の舟岡山の傍らを過ぎ、遮るものもない平地に出ると、そこは一面の川原であった。手取川は幾度となくその流れを変え、洪水を繰返し、運び出された土砂等が堆積して手取扇状地帯が出来上がった。現在の形に整ったのは今から約一万年程前と言われている。

 

二  地勢

 

 地形・土質

 南から北にかけて緩やかな傾斜をなしている郷村の土質は第四紀新層であり、その耕土は壌質である。村の南半は亜粘土質壌土、北半は壌土である。又、稲荷(東三日市)地内は大部分細砂質壌土から成っている。

 

 水流

 手取川を水源とした河川は七ヶ用水土地改良区の管理下にあり、各河川はほぼ平行して南北に貫流し、堰を以て縦横に支溝を通じている。水量は常に豊富で、土地の傾斜は適度なため排水も極めて良好である。

 

 

三  郷村の位置

 

 緯度・経度・標高

 田園穀倉地帯と呼ばれる石川平野のほぼ中央に位置する郷村は、松任町と野々市町の中間にある。経緯度及び標高は、旧北陸街道田中地内(現在忠魂碑がある所)の道路脇に、次のように表示されている。

     東経    一三六度三五分二七秒

     北緯      三六度三一分四三秒

     標高         一九、七米

 

 郷村に隣接する町村

 郷村に隣接する町村は次のとおりである。

     東    野々市町 本町

     〃   旧富奥村  太平寺・下林

     北   旧押野村  押越・野代・御経塚

     〃    金沢市   上荒屋、中屋、福増

     〃   旧安原村

     西   旧旭村    福増

     〃   旧中奥村  五歩市、徳丸

     南    〃      乾・長竹

 

 

 郷村に所属する集落

 旧郷村に所属していた集落は次のとおりである。

 横江・番匠垣内・専福寺・田中(上田中・下田中)・柳町・徳用・蓮花寺・田尻・堀内・二日市・三日市(稲荷)・長池

 

 道路及び鉄道

 郷村を東西に貫通していた北陸街道には、道の両側に松並木があり、夏は木陰を作り冬は道標となっていたが、その面影は全く見られなくなった。新しく国道、県道、町道等が縦横に通り、しかも舗装された幅広い道路となっている。

 国道八号線は一時、野々市・松任を結んでいたが、昭和四十三年、金沢市及び松任市のバイパスが開通すると共に、バイパスを八号線と称することとなった。この道路は郷村を北東から西南へ大きく弧を描きながら通過している。

 北陸本線は郷村の北部を東西に走り、昭和四十三年(一九六八)三月二十五日には、二日市地内に「野々市駅」が開業されている。

 

四  時代の移り変わり


 

 縄文時代

 今から七千年から二千年程前の原始人達は、鳥獣を狩り、魚を獲って生活をしていた。恐らく手取川流域にも、そのようにして獲物を求めた人々が住みついたものと推測できる。鶴来町の舟岡台地一帯に四千年前頃の竪穴住居跡が発掘されて、当時の住居が復元されている。又、御経塚遺跡は縄文時代晩期のものである。

 

 〈御経塚住居跡〉

 

 縄文時代(五千年~三千年前)の北陸地方に於ける代表的大集落跡である。分布の範囲は南北約百六十米、東西約百九十米の円形状をなしたものであり、中心部は共同の祭祀、集会場として使用され、この中に広場を囲むように住居が造られ、更にその外側に墓地が設けられている。昭和三十一年の発掘調査により出土した土器類、御物石器・石斧・石剣・石棒・石鏃・石皿などは、同じ縄文時代晩期でも西日本的色彩が濃く認められることから「御経塚式土器」と標識が設立された。昭和四十四年の発掘調査では、瓶棺・上坊墓・石冠・管玉・石刀等異形的な石器類が発見され、野々市町指定史跡となっている。

 以上の記録に示されたように、その当時から既に私共の祖先が住み着いていたことがうかがえる。

 

 弥生時代

 五千年に及ぶ長い縄文時代が終わり、弥生時代に入る。この時代は今から約二千二百年前とされているが、この頃から農耕が営まれ、稲作が始まったと言われている。即ち縄文時代は狩猟を中心とした生活であったが、弥生時代は農耕を中心とした生活に変わったと言える。

 土器類の外に中国から伝来した鉄製品などが見られ、金属品が初めて造られて、生活様式もかなり高度に発達している。当地方で発見された土器の多くは弥生時代後期のものである。

 

 大和・飛鳥時代

 このようにして二千年以上も前から土地が開かれたが、そのころには既に大和国家が着々と全国統一に向かって伸びつつあり、北陸を治めるために大和国の代表を送ったと言われている。

 我が国古代国家の形成は三世紀頃、邪馬台国の卑弥呼による小国統合体の成立から始まったと言われ、四世紀に入ると、大和朝廷を中心に大和国家の成立が固められた。

 第十代崇神天皇の代になり、全国を統一して、四道将軍を地方に派遣した。北陸地方へは大彦命が選ばれた。

 第十三代 成務天皇は諸国に国造(くにのみやつこ)を置いて、その国を治めさせた。

 第十六代 仁徳天皇の代になり、素都乃奈美留命が加宜国造に任じられ、第二十一代、雄略天皇の代には、石撞別命の四世孫の大兄彦君が加我国造を命じられている。

 六世紀に至り、蘇我・物部の盛衰を経て、聖徳太子の偉業は中央集権の改革と仏教中心の飛鳥文化を残し、続いて中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・中臣鎌足による大化の改新、戸籍計帳、班田収授法等内政の改革が行われた。

 大化の改新によって国々に国司が置かれ、都の貴族が長官として任命されたが、石川郡は越前国の一部として郡司が治めた。この地方では「道ノ君」一族がなったのではないかと考えられる。

 農民は六歳になると国家から、男は二反、女はその三分の二の土地(口分田)が与えられた(死亡すると国家に返すことになっていた)。この耕作によって生活を営んでいたが、反面、租(田租)、庸、調(各種の産物を納入すること)の負担や、雑揺といって年間六十日の労役に服さねばならなかったり、又、兵役が課せられる等種々の負担が重かったので、その生活は苦しかった。このため落ちぶれて、村におられなくなる者もできたりして、律令下農民に貧富の差が生ずるようになった。

 天智七年(六六八)頃末松廃寺が建立されている。

 松任市田地町の田地古墳は、文武天皇(七〇〇年頃)のものと推定されている。

 

 〈田地古墳〉

 田地古墳は松任市田地町の西側、町はずれにある。昭和四十四年十月に発掘されたが、飛鳥時代文武天皇の頃、七世紀前後のものと推定され、松任市指定史跡となっている。

 

 〈末松廃寺跡〉

 

 明治四十四年耕地整理の際に、その付近から多数の土器類が出土した。昭和十一年十二月、集落有志が、学識者の指導を得て、発掘調査を行ったところ、地下約一米に根石群を発見し、これを文部省に報告した。同年三月、同省の実地調査を受け、末松廃寺跡保存会を結成した。末松廃寺跡は調査の結果、奈良朝前期即ち律令制集権国家が完成する八世紀前期を下らぬ時期に建立され、平安朝以前に廃絶したと推定され、特に塔堂・金堂の規模は予想外に大きく、塔は国分寺級の七重塔と想定し、軒丸瓦文様の構成や様相は奈良朝前期(七世紀~八世紀)と判断された。

 

 〈横江荘園跡〉

 横江荘園跡は東大寺荘園遺跡であることが確認された。史蹟「横江荘園」は、昭和四十五年九月末、松任市横江町の水田から発掘調査により発見されたもので、埋蔵文化財保護の立場から全国的に高く評価され、史跡として国の指定を受けている。この遺跡は八世紀の始めから後期にかけて東大寺領横江荘園(水田)百八十六町歩余りを管理していた建物で、広さは縦三十八米、横三七米で、その中には住居、物置、土蔵があったとされる完全な柱穴が整然と並んでいる。柱穴の配置から想像される建物は、中央様式を採り入れた堂々たるものであったことがうかがえる。出土品には、八角に面取りした朱塗りの高杯(たかつき)等の高級な什器があり、墨書土器には荘園管理事務所の名を示す「三宅」の文字も見える。又、木器には古代の発火器である「ひきりうす」等も豊富に発見された。

 

 〈加賀国の起源〉

 加賀(加我、加宜)の名は随分古くから、しかも一郡名として記録されている。五世紀の雄略天皇の代には加我の字で現れ、加賀国造とある。以後七世紀の天武天皇の代に三越の国を定めると記されてあり、北陸地方(古代から越の国と称した)を都に近い方から順次、越前・越中・越後と三越の国に分けられた。弘仁十四年(八二三)越前の国の内、江沼・加賀の二郡を割りて加賀の国とした。これが加賀の国の起源である。

 

 〈石川郡の由来〉

 加賀の国の立国にともない弘仁十四年(八二三)六月には、加賀国江沼郡の郷十三、駅四の内、五郷二駅を割いて一郡を造り、これを能美郡と称し、加賀郡の郷十六、駅四の内八郷(中村・富樫・椋部・拝師・井手・笠間・味知・三馬と思われる)一駅、比楽(石川郡手取川の本名)を割いて一郡を造り、これを石川郡と称した。

 石川郡の郡名が生まれたのは、今から一千百五十年有余の遠い昔であった。最初は八郷一駅であったが、後に大野・大桑・玉伐の三郷も加わり、十一郷一駅となった。

 三州志来因概覧同図諸村籍には、次のとおり十一郷七庄が記録されている。

   金浦郷   五村 鞍月庄  十六村

   湯涌郷  十三村 長屋庄  十二村

   石浦庄   五村 押野郷   三村

   犀川庄  十八村 中奥郷 二十六村

   富樫庄 五十三村 山島郷 三十五村

   河内庄 二十五村 笠間郷   七村

   林郷   十九村 中村郷 二十六村

   大野庄 二十七村 横江郷  十五村

   戸板郷  十二村 米丸郷   六村

 

 平安時代

 国の規模拡大に応じ、大陸との交流を通じて大陸文明の積極的摂取が行われた。北陸の中位にある加賀国では、日本海を隔てた対岸の高麗国・渤海国からの来着や帰国が特に多かった。

 その文献の一例を見ると、天平宝宇六年(七六二)遣渤海使に伴って来朝した渤海の使節王新福以下二十三人を加賀郡で休養させる(石川県の歴史年表)。宝亀七年(七七六)十二月、渤海国から光仁天皇の即位を賀するために百八十七人も来着し(続日本紀)、宝亀九年(七七八)四月、高麗からの使者等三十八人が溺死して、越前国江沼・加賀二郡に漂流したが、これを埋葬した(続日本紀)とある。

 一方、国内では藤原氏筆頭の貴族政治による形式的政治体制のため、庶民や地方への実質的施策は行われず、華やかな貴族文化と、その財源のための荘園の拡大だけが一方的に発達した。

 国司に任ぜられた貴族が任地に赴かず、専ら私利を貪ったため地方政治は荒廃し、治安の乱れと庶民の生活不安は増すばかりであった。その為に実力によって治安維持と土地農民支配を強化しようとする武士団が頭角を伸ばし、遂に中央支配者の貴族階級をしのぐ勢力を持って、これに代わり権力を振うに至った。その首領が平家・源氏で、互いに相争い、遂に武家政権の鎌倉幕府開設となり、中世期を迎えた。

 

 鎌倉・室町時代

 中世に入り源頼朝による鎌倉幕府が始まるが、当地方は林氏と富樫氏が支配しており、共に、木曽義仲に味方して大活躍をしている。

 特に横江荘は林氏の所領として、横江七郎基光等三代が住んだと言われている。先ず鎌倉時代に於ける富樫氏は守護に任ぜられたこともあるが、大体に於て地頭の有力なものに過ぎなかったようで、長い間に兄弟喧嘩を起こして分裂し、加賀を南北に二分して争うようになり、その争いは絶えなかった。

 鎌倉時代以降、農民は領主への重い年貢や臨時の課役などのため、その生活は楽ではなかったが、農民自身の努力と領主の勧農により、生産力は除々に向上していった。

 技術面では牛馬の使用、輪作栽培、早・中・晩稲の栽培、二毛作の採用等が見られ、肥料も又、下肥の外に緑草・魚肥等が用いられ・潅がい用水の整備と相まって成果をあげつつあった。更に農業の集約化に伴い耕作地は次第に村毎に集められる傾向が強くなり、領主も年貢徴収の便宜のため所領を一ヶ所に纒め、家臣に対しても一村を一単位として知行地を与えるようになった。これが郷村制の成立と言われるもので、今日の村落自治体の源流をなすものである。

 

 〈一向一揆〉

 

 一向衆(浄土真宗)の勢いは次第に高まり、遂に一向一揆となり、長享二年(一四八八)に富樫政親を高尾城に滅ぼすに至った。この時の門徒軍の勢いはまことにすざまじいものがあったが、郷村の人達もこの高尾城攻防に参加したものと考えられる。この前後、富樫歴代の記録や神社仏閣、館(やかた)は、たけりくるう一向宗徒のためほとんど焼き払われた。

 五百年有余の間、加賀国を支配してきた富樫一族に代わって、本願寺が支配権力を伸ばすに至ったところに一向一揆の特異性がある。しかし、一向宗が尾山御坊を中心に本願寺の支配態勢を固めていた頃、既に足利幕府も衰退を辿って、世は戦国の渦中にあり、寄り合い合議制・志納金等、本願寺の施策はもはや通じなくなっていた。

 戦国大名中、群を抜いて天下統一の野望を進めてきた織田信長は、先ず執拗な一向集団の本願寺撲滅を図り、元亀元年(一五七〇)、石山本願寺に攻撃を加え、天正元年(一五七三)、越前の朝倉氏を滅ぼして、加賀国に対して柴田勝家、佐久間盛政を向かわせた。一方北越の雄者上杉謙信は既に越中を攻略し、天正五年九月、「越山併せ得たり能州の景」と吟じた七尾城を陥れ、その勢いに乗って松任の鏑木氏を攻めた。この両雄相撃つ戦乱の巷、あわやこの戦いで郷土は焼土と化すかと思われたが、和睦することで解決した。天正六年三月(一五七八)、謙信は春日山城で没した。

 天正八年(一五八〇)、加賀に侵入した織田方の将勝家・盛政は容易に加賀国の平定が出来た。この時林郷の大豪士三林善四郎父子は苦戦の果て無念にも戦死し、その他国内の首領の豪族も多数勝家・盛政の欺し討ちで倒れた。勿論尾山御坊も焼き打ちされた。特に一向宗徒に対しては先入観による警戒のためか、至る所で放火焼き払いを行った。

 倉ヶ嶽に籠城した新庄村の杉谷四郎左衛門も遂に盛政のために焼き打ちされた。

 郷土の百姓達はあの一向一揆に於ける強力な抵抗を示さなかった。平和な世を願望する百姓達は決して織田軍に心服したわけでなく、無駄な抵抗を避けたにすぎないと考えられる。古老の伝承の中に「仏敵信長、鬼玄蕃」の呼称があり、絶えずこれを耳にしたことを覚えている。

 約百年間に及んだ本願寺の加賀支配も終わり、織田氏についで豊臣の桃山時代を経て、徳川の天下と共に加賀藩の時代を迎えるに至った。

 

 江戸時代

 藩政で第一に重要なのは租税の根源である米作り百姓の村支配であった。前田利家・利長は能登の一角から新たに加賀国へ封じられた。入部すると先ず、土着の領民を巧みに掌握することが急務であった。個々の領民である百姓は既に過去の一向一揆に見るとおり、村・郷の組織で固く結集されており、その村組織を巧みに支配することが重要であった。これらの村や郷にはこれを支配してきた地方の土豪や長百姓がいたので、これらの有力な者には扶持を給し、戦禍で退散した百姓は村へ帰属させ、亦、領民の信仰対象である寺・社へは寄進をして、藩主の支配権が領内の末端迄届くようにすることが大事であった。そしてこれら百姓が生産する年貢米を少しでも多く取り立てる手段として村役組織に意を注いだ。一方領民の結集による一揆動向も警戒し、寺院の監視や刀狩りも行い、又、年貢米の公平を期する検地も厳しくなった。村の支配は、米を基礎として等級別にして草高による頁租の確保を計ろうとしたものである。

 村の組織には肝煎を長として、組合頭及び百姓代を村方三役として決められた。各村々は更に十数ヶ村を合わせて組に纒められていた。

 石川郡について見ると、寛文十年(一六七〇)には九ヶ組三一二村が見られ、各組はそれぞれ十村(他の藩では大庄屋等と称する)の名とその所属する村名によった。郷村の集落は次の組に入っていたものと思われる。

     押野村 太兵衛組 三七ヶ村

     野々市村吉兵衛組 四四ヶ村

 

 文政四年の組替

 これは文政四年(一八二一)に組替えられて八ヶ組三二九ヶ村となった。郷村はこの時、富樫組四一ヶ村、中奥組三七ヶ村に入れられていた。

 富樫組

 倉部・打木・八田・八田新屋・宮永・福増・宮永新・八田中・中新保・下福増・八木荒屋・横江・田中・徳用・三日市・稲荷・二日市・長池・野代・押越・八日市・押野・野々市・太平寺・位川・下林・三納・矢作・額新保・馬替・高尾・久安・横川・有松・寺地・円光寺・窪・平栗・清瀬・坪野・倉嶽

 中奥組

 四十万・額谷・大額・額乙九・三十刈・下新庄・粟田新保・中村・藤平田・藤平田新・清金・末松・福正寺・五歩市・徳丸・橋爪・長竹・町・幸明・倉光・乾垣内・堀内・田尻・蓮花寺・専福寺・番匠垣内・柳町・相木・宮永市・成・北安田・平木・竹松・相川・相川新

 

 天保の制

 天保十一年(一八四〇)の制に於ける十村組付属村名及び草高、免歩合は次のようであった。

 天保十一年の組  石高(草高)  免歩合

  富樫組 横江  一五一五    四、八

      田中   六四〇    五、八

      徳用   三二三    五、六

      三日市  七九九    五、二

      稲荷     七    五、二

      二日市  五四八    四、五

      長池   一三〇    四、五

  中奥組 堀内   六五四    六、〇

      田尻   一二三    五、〇

      蓮花寺  三一二    五、四

      専福寺  三九三    五、三

      番匠垣内 六四五    五、〇

      柳町   二〇六    五、七

   註 草高とは検地により算出されたもので、田畑の生産高を石高に換算したものを言う。

     免とは税率のことで、草の何割との意味を表わす。

 

 村御印と租税

 藩政時代の特徴としては、村御印と租税を挙げることができる。加賀藩は改作法による新しい形を農民に明示するため、各村々に対して藩主の黒印を押した一枚の書き付けを与えた。これが村御印(徴税令書のようなもの)と呼ばれた。

 明暦二年(一六五六)八月一日に発布され、次いで寛文十年(一六七〇)九月に新しく書き改められたが、これは桐の御印箱に入れられ、更に麻の袋に包んで肝煎の家の大黒柱に吊るされ、村に於ける最も大事なものとして神聖視され、再交付されなかったので、風水害や火災の時には先ずこれを運び出して安全を図ったと言われている。村の重要な話し合いもこの下で決めた以上は絶対の物だとする程の大きな意味を持っていた。

 宝永四年(一七〇七)に書かれた「耕稼春秋」には、五十石の高持ち百姓であっても、年貢諸掛りを払うと残米は無くなって、裏作の麦によらなければ生活ができなかったことが記されている。これから見てもいかに負担が過重であったかを知り得よう。特に農民の心を痛めたのは年貢米の納入であった。俗に追い詰められた状態を「年貢の納め時」というように、全く切羽詰まった気持ちにかられたのであった。米俵は五斗俵であったが、俵装を始めとして米の品質や量目検査が厳しく、少しでも籾が混っていたり、不正をしたりしていると不合格になると共に罰則が加えられ、あるいは係りの役人が不正をする等、容易なことではなかった。これらは泉の米蔵へ納めたのであるが、個人納入ではなく一村連帯制がとられていたので、一戸でも滞納すると皆で代納しなければならず、一村全部が完納できるまでは、嫁取りや家の建築、商人の出入り、米の異動等すべて厳禁され、生きた心地もなかった状態であった。従って年貢米不足の農民は、家財や牛・馬・あるいは垣根の竹木を売ったり、又は家族を奉行に出したりしてでも皆済しなければならなかった。こうして一村全部完納すると、皆済状が与えられてようやく正月を迎えることが出来たのである。

 厳しい税金の取り立てが農民の生活を窮乏の中に追い込むようになると、我慢がしきれなくなった農民達は、藩に対して年貢減免を嘆願する強訴をしたり、村を捨てて他領に逃散を企てたり、更に厳しくなると、竹槍や鎌鍬等を持って代官宅を襲ういわゆる百姓一揆を起こすようになった。こうした農民の抵抗は江戸時代の中・後期と下るに従って数も多く、かつ規模も大きくなった。加賀藩に於ては、現在判明しているだけでも三十七回になり、そのうち石川郡は十一回を数えていると言われている。

 第二次大戦中及び戦後の食料難時代にこの百姓の後継者が担った供出米制度も、現在の減反政策も農民統治の施策としては全く同様なことに思われる。

 

 明治維新と廃藩置県

 封建藩制度の解体、これが明治維新である。徳川慶喜が慶応三年(一八六七)十月、大政を奉還した。鎌倉幕府以来七百年にわたる武家政治が終りを告げ、政治の大権が幕府から天皇に移ったことになる。日本の政治もこれを境として一新したのである。

 加賀藩第十四代藩主前田慶寧、大聖寺藩主前田利鬯は明治二年六月、版籍を奉還し、金沢藩知事及び大聖寺藩知事にそれぞれ任じられた。

 明治四年(一八七一)七月には廃藩置県が行われ、同年八月、前田家は東京に移住された。この時城内金谷御殿に奉祀されていた八幡社を、第十三代藩主前田斉泰の特別のお取り計いで徳用村に御譲与頂いている。

 一ヶ月後の九月には金沢県大参事として内田政風が着任した。同年十一月に至り加賀一国が金沢県となった。

  大聖寺県は金沢県に合併された。同時に金沢県から能登と越中射水郡を分離して、七尾県を新設した。なおこの時、越中の砺波・新川郡も金沢県の管轄から離れ、婦負郡の富山県と合併して新川県が設置されたから、金沢県の区域は加賀一国(白山麓を除く)に縮小された。

 金沢県の県庁は金沢市にあったが、この管轄区域縮小に伴い金沢は北によりすぎるという理由で明治五年(一八七二)二月、県庁を美川(石川郡本吉村)に移した。同時に県名も郡名にもとづいて石川県と改めた。県庁が美川にあった明治五年には、天領であった白山及び白山麓十八ヶ村の所属をめぐって、福井の足羽県から大蔵省に指示を求めた。大蔵省は足羽県及び石川県に対して実情を調査の上報告することを命じ、これを受けて両県は打合わせの上同年七月に白山麓の調査を行い、それぞれ大蔵省に報告した。この時石川県から草薙尚志(大属)、森田平次(出仕)が出張し、測量のため長田順二(旧加賀藩測量調役)が随行した。その結果、大蔵省は明治五年十一月に、白山及び自山麓十八ヶ村を石川県に含めることを決定した。

 明治五年九月、七尾県は分解されて、越中の射水郡は新川県へ、能登の四郡は全部石川県へ合併された。

 県庁は明治六年(一八七三)一月、美川から再び金沢に復帰するが、一年間で金沢は火の消えたように衰え、回復は容易なことではなかった。

 県域の変動はその後も続き、明治九年四月、まず、新川県が廃止になって越中全国が石川県に合併になった。そこで再び旧加賀藩のときと同じように加越能三国がすべて石川県の区域になった。

 これより先、明治六年に越前五郡の足羽郡と若狭一国に越前三郡からなっている敦賀県が合併して新しい敦賀県になっていたが、新川県が廃止されたと同じ年の八月、敦賀県も廃止され、越前の大野・吉田・坂井・今立・南条・丹生・足羽の七郡が石川県に属することになった。

 明治十四年(一八八一)、越前七郡が石川県から離れて福井県となった。二年後の明治十六年には富山県が設置された。石川県の区域が最終的に決定を見たのは明治十六年(一八八三)である。

 郷村は加賀藩時代の十村支配の頃、前述のように中奥組と富樫組に属していたが、この十村組織は明治以降も承け継がれることとなった。明治三年九月、十村は郷長と改められ、更に同年閏十月に里正と呼ばれるようになった。

 又、村には触次・肝煎・組合頭等が置かれた。次いで明治五年正月には従来の組を廃して区を置いた。石川郡は十三区に分けられ、各区には会所を置き、区長・副区長・租税調役を設け、その下に戸長があり、区長・副区長の事務を分担することになった。区長は郷長を兼ね、副区長は副郷長を兼ね、更に区長は官治行政を、又、郷長は自治行政を司ることになっていた。これを郷村関係について見ると次のようであった。

    第五区三番  横江・長池

    第五区四番  番匠垣内・堀内・徳用・田中・田尻・蓮花寺・柳町・二日市・三日市・稲荷

    第三区六番  専福寺

 明治九年十一月、金沢市を第十大区とし、石川郡は第十一大区と呼ばれた。その行政事務を行う所を区役所といい、区長・副区長が置かれ、更に大区は八小区に分かれ、小区毎に戸長を置き、村毎に副区長が置かれた。

 郷村では専福寺が第十一大区小五区の内に入れられ、他は同小三区に属した。その後明治十一年(一八七八)七月、郡区町村編制法が制定され、大区、小区の制を廃し、郡には郡長を、町村には民選戸長を置くことになった。郡の行政事務を執行する郡役所が、初めて松任に設けられたのもこの時で、その下に単立又は数村連合の戸長役場が置かれて町村の行政事務に当たることとなった。郷村関係では戸長役場は横江だけ独立して単立の戸長役場が設けられ、専福寺は徳丸・倉光・乾垣内・幸明・三浦・五歩市・橋爪の七ヶ村と連合し、その他は御経塚・八木荒屋の二ヶ村を加えて各々戸長役場を設けることとなった。

 明治十七年(一八八四)六月三十日には、民選戸長を廃して官選戸長とすることとなったが、横江の戸長役場は徳丸村外二十三ヶ村戸長役場の所轄となった。なお、二十三ヶ村の内訳は次のとおりである。

  堀内・田尻・蓮花寺・柳町・橋爪・幸明・倉光・町・乾垣内・徳丸・専福寺・橋爪新・三浦・五歩市・田中・三日市・徳用・長池・番匠垣内・長竹・平松・上二口の各村(但し三日市村はもと稲荷、三日市の二村であったが、郡区制の施行に先立ち、合して一村となった。)

 次いで明治二十二年四月、町村制が施行され、従来の村落十ヶ村内外程が一町村に編成されることになった。戸長を廃して新町村毎に公選町村長及び収入役を置き、旧村を大字とし区長を置き、総代に代えることとなった。このようにして郡内が五町三十九ヶ村に区画され、郷村が誕生した。

 この町村制施行に伴う新しい行政区画は大体に於いて同一地域の村々を集めて作られたものであるが、藩政時代の十村組や明治以降の組と必ずしも一致しているものではなかっただけに、随分と思い切った面も見られたのである。なお、郷村という名称は、この地域が専ら郷用水の潅がいを受け、水害干害に共通の利害を持っていることと、今一つは田中に置かれた学校名にも「郷小学校」として郷の名が用いられていたことから、この名前が付けられたと言われる。

 

 大正・昭和時代

 郷村はそれ以後六十数年にわたり行政単位としての歴史が続き、昭和三十一年、町村合併法にもとづき松任町・野々市町へそれぞれ合併し今日に至っている。両町に分かれた村名をここに記す。

   松任町編入    横江・番匠・(上)田中・専福寺

   野々市町合併   堀内・田尻・蓮花寺・徳用・稲荷・三日市・二日市・長池・郷(下田中)・柳町

 有史以来このように私達の住む郷地区並びに周辺に於ける変遷、波瀾を経た歴史のあることを識るにつけ、この所に住んだ私達の先祖が、想像を絶するところの生活を闘い、かつ守り抜いてきた事跡を高く評価したいと思う。それと共に、貴重な平和を享受し自由を謳歌する現在を生きる者として、後世に何物を受け継ぎ残すべきか、国を守り、地球を護るためにはいかなる生き方をすべきか、深く考える必要があるのではなかろうかと思う。

郷の今昔