昭和二十一年九月、日本民主化の一環として、府県市町村の制度がかわり、昭和二十二年五月三日新憲法の施行と共に、中央集権主義から地方分権主義に切り換えられた。地方自治法が施行されて、府県市町村の役割は従来に比べ極めて大きくなっていったが、このために地方自治体ごとに規模の小さい町村に於ては、新制中学校の建設あるいは社会福祉施設の充実等の必要から全面的に財政上の行き詰りを来たしていた。こうしたことから、基礎的な地方公共団体の機能を充分に発揮し、住民の福祉を増進させるために適正な町村合併の必要に迫られていた、という事情があった。
昭和二十四年、連合国総司令部の招きによって、シャウプ税制使節団が来日し、地方財政の実態を調査した結果、町村合併が必要であることを知り、そのことを日本政府に勧告した。
政府もその必要性を知っていたので、地方行政調査委員会を設けて町村合併の研究を始め、昭和二十八年九月一日「町村合併促進法」を公布し、十月一日から施行されるにいたった。
この法律は第一条の目的に「町村が町村合併によりその組織及運営を合理的且つ能率的にし、住民の福祉を増進するように規模の適正化を図ることを積極的に促進しつつ、もって町村における地方自治の本旨の充分な実現に資することを目的とする」とあるように、地方自治本来の意義の達成を目的としてつくられたものであり、施行後三年間に標準人口八千人に満たないものを整理し、町村数を三分の一に減少することを目標としたものであった。
これまでの市町村の区画は、明治二十二年の市町村の施行によるもので官製合併であり、いわゆる天下り的合併であったのに比べ、これは地方自治の本旨に則った自主的合併であり、町村自体が自らの意思に基づいて行う町村規模の再編成であるところに特色がある。
しかしかかる進歩性は一面において別の困難さを伴ない、むしろ旗を押し立てあるいは乱闘まで演ずる波乱が全国的に見られ、明治以来六十数年にわたる町村の歴史が大きく書きかえられ、石川県では数年間で三市三十六町百四十一村もあったものが、昭和三十七年一月一日迄に七市二十九町村に至るまで統合された。
現在の郷地区は、堀内、稲荷、二日市、三日市、蓮花寺、長池、田尻、柳町、徳用、下田中が結集し提携して、旧野々市町に合併編入したのが昭和三十一年である。それから三十余年を経過した郷地区は現在明るく平和で活気がみなぎっている。しかし今日、三十年という一つの節目を迎えるにあたり、純農村地帯として歩んできたこの地区が、三十年たって大きく都会型へと変わった今日、昔のことが忘れ去られようとしており何とか郷土史に書き残しその姿を後世に伝えることが出来れば、地域の発達の証ともなり、後世の方々の郷土史を知る上の助けにもなることと思う。現在郷地区を知るには、何をおいても三十年前の編入合併当時のことを知ることが重要である。静かで平和であった純農村地帯の旧郷村に、昭和二十八年より町村合併促進法という時代の波がおしよせてきたのである。
当初石川県が示した昭和二十八年十二月の第一試案では、一七七町村を三十四町村に整理統合するもので、野々市ブロックの構成は野々市を中心に富奥・額・押野・安原の一町四ヶ村で、人口一三、二六二人を有する合併構想であったが、当時の金沢市は市独自の発展的見地から、いち早く野々市ブロック全町村に、金沢編入の働きかけをしてきた。旧野々市町にも独立派と編入派に分かれて対立する時期もあったが、町議会において独立派が多数であり、金沢編入派議員をつぎつぎ独立派へ融合し、独立派一本の線にほとんど纏めていった。しかし、額村は二十九年三月、金沢編入を議決し、六月一日、安原と共に金沢へ編入し、野々市ブロックから脱落した。
野々市町は富奥・押野・郷による一町三村の合体合併と云う独自構想のもとに、運動を展開していった。しかし、同年四月二十二日の第二回町村合併促進審議会の第二次試案では、常に一体で進んで来た富奥村が除かれ、野々市・押野と極めて小規模なものとなってしまい、野々市町にとっては前途暗澹たる情勢に至った。一時的に動揺もみられたが、町民の町村合併に対する意向について町内ごとに常会を開き協議の結果、野々市・富奥・押野・郷の一町三ヶ村による合併方針を再確認した。
昭和二十九年六月三十日午前九時に野々市外三町村長ら三役・議長・副議長らが一堂に集い、野々市ブロック町村合併促進協議会結成準備会を開き、さらに同年七月七日に町長福田三次氏は、「二十九年度中に一町三村の合体合併する」と全員一致可決し、実現に力をつくすことを誓ったのである。
金沢市は野々市町が独立町村結成の方針を強く打ち出してきたことで、逆に大金沢市建設の一角がくずれてゆくので、あらゆる人力物量を投じて、切り崩しの戦いを展開していった。
郷村は県で出された町村合併の第一次試案では松任ブロックに属していたが、まだ実感として村民には意識されていなかった。翌二十九年一月の村議会に初めてこの問題が取り上げられ、問題の方向として村を割らないで一体となって合併することで議会でも合意をみ、研究課題として話が進んでいたが、昭和二十九年二月二十七日、野々市・富奥の議員が郷村公民館に村議区長の参集を求めて野々市町への合併への勧誘を行なった。その後、同年三月に額・安原が金沢市編入を議決してからは、野々市町は郷村を合併させることが出来るかどうかが、死活問題となってきたため、あらゆる手段をつくして、村議区長等有力者層に猛運動を展開するようになった。こうした情勢の中に昭和二十九年六月、野々市・富奥・押野・郷の、町村長ら三役と議員が一同に集い、野々市ブロック町村合併促進協議会結成準備会を開く等、野々市への声が次第に大きくなってきた。一方松任町に地理的経済的に深い関係をもつ集落の中に松任町へ編入の声も高まってきた。議会では、野々市、松任合併促進委員会を設置し、双方の説明を聞き検討に入ることになった。
昭和二十九年六月頃の郷村における議会の勢力分野は、松任編入派と野々市合併派にほぼ二分していた。そこで野々市はさらに情勢を有利にするために、野々市派に対し強力な応援をし、野々市派住民も親類知人宅を訪れ、勧誘説得に当たるなど全力を注いだ。そうしている間に同年十一月一日には、美川・鶴来町がそれぞれ新町の発足をみ、さらに十一月三日には十一町村の合併がなって新松任町が発足した。
こうした中で野々市町は、先に押野・富奥の三ヶ村と二十九年度中に合体合併をすると議会で宣言し、努力を重ねたにも拘らず、昭和二十九年十月二十八日には押野村が村議会で金沢市編入の議決をし、郷村の合併も順調に進展せず苦闘の道を歩んでいた。ここに於て十一月、石川県知事のきもいりで山越石川財政事務所長が就任し、野々市ブロック育成に力を入れだすことになったのである。この動きは、番匠・専福寺・横江等の松任合併派を強く刺激することとなり、十一月二十四日集落公民館に松任派村民が集い、区民大会を開き、「あえて分村を辞さない」と宣言し、議決文を発表し対決の姿勢を強く打ち出してきた。長池・二日市・三日市・稲荷・堀内・田尻・蓮花寺・徳用・柳町など野々市合併派村民は、あくまで分村せず全村あげて野々市町へ合併することを叫び運動を強力に進めていった。
昭和二十九年十一月二十七日午後二時より、郷村役場に於て前に記した村内の事態を収拾するため、全員協議会が開催された。この日両派数百名が役場を包囲し、互いに反目しあったため険悪不穏な空気が漲っていた。
このため役場を会場にして合併の態度を決定することは、両派住民の感情的対立を爆発させる恐れがあるとして、午後四時頃会場を鶴来町の和田屋へ移し、議会を再会し、分村せず一体となって野々市か松任へ合併することを再確認し、これを前提として更にどうするかと、審議を重ねていった。その結果、両派共に自派が勝つと信じていたことと、住民の意向も数的にも不明であったので抜き打に住民投票をして、一票でも多い方へ郷村が一体となって編入することを申し合わせたのである。
翌二十八日、監視付きで、辰口温泉に移動した議員は、朝六時先発議員が村に帰り、七時から正午まで郷公民館で住民投票するという布告をし、残り議員は同日八時過ぎ公民館へ帰り、そこで投票の立会人となって集落へ帰さぬという徹底した抜き打ち住民投票を行った。
一方、突如住民投票の報に接した村内両派は有権者の狩り出しに狂奔し、オート三輪をくり出して老人・病人までも運ぶなど激しい競い合いとなった。また投票所には、分村しても松任合併を主張する番匠の五十名が押しかけ、抜き打ち投票の理由を説明しろと迫り、当局より拘束力のないものだと聞かされて解散するなど騒然たる様相を呈したのである。
投票は有権者総数九五〇名に対し、七九五名という八割七分の投票率を示し、野々市四七二票、松任三一八票で野々市へ合併する支持者が一五四票も多くあった。
この投票は単に村民の意向を知るために行ったもので、拘束力を持つものでないとの前提で行われたのであるが、野々市派はこの勝利で大いに気勢を上げ、野々市へ早晩合併が実現するものと歓声をあげたのであった。
住民投票の敗北は、松任編入派にとって事態の悪化を意味していた。
翌二十九日、横江区はこれに関して急遽総会を開き、決議文「横江は十一月三日の決議を再確認し郷村永遠の平和のため、あらゆる障害を排除して、断固松任編入に邁進する。右決議する。」を発表した。
郷村議会は十二月十一日野々市ブロック合併促進協議会参加を決定。翌十二日、横江・番匠・専福寺は、郷公民館に一五〇名の住民が参集して松任町編入村民大会を開いて、「(一)、野々市合併絶対反対 (二)、松任町編入 (三)、編入実現のため分村」の三点を決議して戦闘態勢を整えた。一方、野々市派である二〇〇名は、十四日午後二時半より郷公民館に参集して野々市合併村民大会を開いた。「一、野々市町へ挙村一致の合併をする 二、松任派住民の分村に反対する」を決議し、青年部・婦人部を結成し、本部を徳用の中川直二宅に設けた。
十二月十五日午前九時十分より、役場に於て合併問題を中心に定例議会が開かれた。議会の成り行きを心配した松任派村民が、早朝よりむしろ旗を押し立てて役場を包囲すると、野々市派も参集し、双方の住民が対立した険悪な空気の中で議会が始められていた。この日松任派の住民は、竹中村長の座席の壁を丸太で突き破ろうとする実力行動をする者もおり、互いに相手方を罵倒し合うなど全く騒然たるものであった。
こうして寒風にさらされ、みぞれ降る中を、両派住民約三〇〇人は翌十六日議会が終わるまで、役場を包囲し議会の成り行きを見守っていた。
さて、議会は十五日午後一時より合併問題に入るや、村長は「野々市町外二ヶ村合併促進協議会規約」を上程したところ、「郷村を廃し、松任町に編入することを石川県知事に申請する。野々市町に合併を希望する区域は認める」との代案が松任派より緊急動議として出され、先議をめぐり紛争を始めた。竹中村長は郷村を二分する成り行きになってきたのを見て、それは郷村にとって最大の不幸だと考え、提出議案を撤回するやすぐ議場を退席してしまった。
しかしこの日の議会は、村長不在のまま会議を続け、分村止むを得ずとして野々市派百二十八世帯、松任編入派百九世帯に二分することを決議したのである。だが、田中の二十六世帯は中立を主張したため問題は後に残され、又、村内の一部にも分村を避けて一本貫徹の根強い希望もあり、議会の決議は再び棚上げとなった。
昭和三十年四月一日、先に、富奥、野々市が合併し新野々市町が発足し、郷村に於てもいつまでも遅延は許されない状態となった。四月十一日に村議会が開かれ、早々に、合併問題が取り上げられ野々市・松任のいずれへ合併するかと協議になると、五対五の同数となって行き詰まり一歩も進まなかった。
この時、野々市派の北又二議長は議長裁決で、野々市へ合併を議決したため、議場は騒然となり混乱した。翌四月十二日に松任派村民は大挙県庁へおしかけ、知事に対して十一日の決議は不当なる旨を陳情した。一方、村長は議会議決決定に関する報告書を未捺印のまま県当局へ捏出したが、県は前回同様これを取り上げなかった。
郷村に於ては、議員の任期切れに伴う改選の日が近づいてきた。互いに自派の運命を賭けてのものであると、その覚悟を決め互いに決戦態勢を整えていった。選挙は四月三十日と決定するや、それぞれの集落には反対派の住民の侵入を防ぐための歩哨がたち、主婦たちは、みはり達に炊き出しをして集落への反対派の住民の進入を防いだ。このため反対派の集落へ用事ですら行けぬ事態にまでなっていった。しかしそうした激しい厳しい警戒にもかかわらず、手紙で呼びかけたり他町村の親類知人に頼んで反対派の集落に潜入させたり、一票を得るための苦肉の策がとられた。四月三十日の投票日は激しい選挙戦の疲れも見せず、最後の決戦日だと意気込みも高く、老人・病人に至るまで、リヤカーで投票所へ運んだ。その結果投票率九九%の好成績で、得票数では野々市派四八一票、松任派四一一票、無効二票で野々市派が七〇票多かったが、二票の差で一名は落選した。
議会勢力は六対六の全く同数となったため、議会に於て合併の議決は不可能に近い状態になり、しばらくの間休戦の形となっていった。
昭和三十一年二月には、分村阻止の鎹として野々市派東議員の提案により、公民館の建設が発議され、予算措置も行われて、その決定をみている。
郷村の議員選挙から四ヶ月後の八月二十二日、県議事堂にて石川県合併促進審議会が開催され、まだ人口八千人に達しない未合併町村の合併基準計画を審議し、合併計画の最終的決定をした。その時の決定は郷村について、野々市又は松任に合併させることになっているが、野々市を適正規模の町に育てるため住民が賛成するなら、野々市に合併させるという見解を明らかにして、野々市に有利な決定がなされた。このことが、郷村に伝えられると、翌日八月二十三日午前十時半、横江・番匠・専福寺・上田中の松任派の住民百名が「野々市合併絶対反対、松任合併」の幟旗を数本押し立てバスに分乗して県庁に押しかけ、田谷知事・小林副知事・中西総務部長と会見し、野々市との合併反対、松任との合併達成の陳情を行なった。これに対し、小林副知事は 「野々市を適正規模に育てるため一応野々市町との合併計画を立てたのだ」と答えたため、激昂した代表者らは「それでは我々を野々市町を適正規模にするための犠牲にするのか」と詰めよるなど大いに反対の気勢をあげたのであった。県の合併最終案と松任編入派の動きによって、早急に村当局の態度の決定を迫られたことから、竹中村長は八月二十四日午後二時から郷小学校で、村議・区長の合同協議会を開き、合併問題について意見を聞いた。この会合では、松任派は分村しても松任編入を主張し、野々市派は一体で野々市合併とそれぞれ譲らず、結論に至らなかった。
こうしたことから竹中村長は、この日の夜行で東京へ出発し、地方自治庁を訪ねて、町村合併について疑問のある点を聞いて帰り、八月二十八日午後四時半から郷小学校で、村議会全員協議会を開いて合併問題の協議をした。竹中村長は自治庁の合併方針を説明し協議に入った。「早く分村の結論を出せ」との松任派の主張に対し、「急いで態度を決めなくともよい」との主張の野々市派とが対立し、結論が出ず午後七時半散会した。
しかし、松任派にとっては情勢の楽観が許されぬため、松任派三集落の区長、村議連名で九月一日に松任町当局に編入嘆願書を出し、さらに同月三日に開かれた県議会総務委員会へ、松任町当局と共に松任編入についての陳情をした。
町村合併法もあと暫くで失効するから、県より九月十七日までに、議会で合併の議決をするよう郷村に対して要請が来たため、九月十日午後から合併問題について村議会協議会が、郷小学校作法室で両派村民多数が見守る中で全議員出席の下に開かれた。同五時三十八分から緊急村議会協議会に切り替えられ、村長より松任町編入の件が提案された。議会は直ちに時間を延長して休憩し、全員協議会に入ったが、松任派は議案即時議決を主張し、野々市派は会期延長を主張して譲らず、紛糾は続いた。午後九時頃には、両派傍聴者が百人を超え、不測の事態の発生を心配した松任警察署は、署員三十名を出動させて警戒に当たる等険悪な空気が漲ったのである。
この日松任派は早くから、議場の小学校作法室前廊下を占領していたので、階下にいた野々市派は我々も二階へ上げろとわたり合い、警官隊とも小競合いをしようとしたが、松任派が全部階下へ降りたため、争いは寸前で避けられた。こうした中に議会は午後十時五十二分再開、北議長は閉会を宜し、同議長ほか野々市派議員五名は退場した。待ちうけた野々市派住民は松任派の動きを封じ得たものと歓声をあげたのであった。この退場直後、松任派議員だけで議会を再開し、竹中副議長が議長となり、松任町編入を可決して閉会とした。これを聞いた松任派住民はこれまた我が事成れりと歓声を上げた。野々市派の「長が閉会を宣した後の議会続行は無効である」に対し、「地方自治法百十三条によって定員の半数以上出席あれば議会は成立する。また同法には議員の半数以上の者から請求があって開いた議会は、議長は議会の議決によらなければ閉会することができないと
規定されているから有効との見解。相対立した解釈である。この協議会でも結局結論はもち越されたのであった。
九月十一日、郷村の事態を憂慮した県当局は、午後県庁に正見・松任、兵地・野々市の両町長を招き、「郷村の挙村合併は無理と思われるから何とか円満に分村できないか」と両町の善処方を要望した。これに対し両町長は、郷村側とも相談して検討のうえ、十三日に県庁で会うことを約したのであった。
九月十二日、野々市派議員六名と婦人をも交えた同派村民約三百名は竹中村長にも同行を求め「松任編入絶対反対」「野々市合併完遂」の大のぼりをつけたバス三台に分乗して、午前十時半抗議のため県庁におしかけた。
この日松任町では、午前十一時二十六分より松任保育園で緊急議会を開き、郷村の松任町編入を議決したのである。
野々市派村民は県陳情の前に町議会開催中の松任保育園前に乗りつけ、「編入決議反対の陳情書」を提出し、横江・番匠・専福寺集落に乗り入れて気勢をあげた。野々市町も役場で町議会合併促進委員会を開いて、郷村分村に対する同意を決定した。この日の午後、紛糾する郷村合併問題の成り行きを憂慮した石川郡選出の県議団は、これの調停を決意し、杉原県議が代表となって野々市町役場に同町長を訪ね、「我々、選出県議四名は郷村の合併を円満に調停するため、同村を松任町と野々市町に二分して分村することを考えた。そこで分村の件と更にその境界線の設定に関し、県当局と郡選出議員団に白紙一任を願いたい」と申し入れを行ったのである。
九月十三日、十一日の話し合いに基づき、この午前県庁に於て、松任・野々市両町長および郷村長は中西県総務部長らを交えて懇談した。その結果「郷村内には合併に関し、意見が対立しているから、もはや分村もやむを得ない。分村についての境界線をどこに引くべきかについては、同郡選出の浜上・杉原・長谷川・大岸の四県議に一任する。四県議は十分に住民の意思を聞いた上定例県議会の最終日である十九日までに解決案を出す」ことに意見の一致をみたのであった。
またこの日の午後、野々市町は議会全員協議会を開き、郷地区及び押野村の合併促進について協議し、適正規模達成のため邁進するとの基本線を再確認したのである。
九月十四日、前日の決定に関し、郷村は午前十時半小学校で村議・区長合同協議会を開き、この問題について話し合うことになった。
一、野々市・松任いずれか全員一致で合併することを「クジ」で決めるかどうか。
一、分村の境界線を四県議に白紙一任する。
一、一任するとすれば、野々市と松任とどちらへ合併を希望するか。
の三点について、各集落ごとに意見をまとめて、十五日午後八時から、さらに協議会を開くことに申し合わせが行われたのである。
九月十五日、前日の申し合わせに基づき、村議、区長合同の協議会を小学校で午後八時半より傍聴者を入れずに開かれた。
竹中村長より前日の申し合わせとおり集落の意向を発表してほしいとの提案があって、まず松任か野々市かの発表は行われないことに決め、他の二点について発表した結果、クジ引きで合併を決めることには一集落だけ賛成、他は反対し、次の四県議への一任は野々市合併派の長池・二日市・三日市・堀内・田尻・蓮花寺・徳用・柳町・稲荷の九集落長がそろって反対を、横江・番匠・専福寺・田中の四集落区長が賛成の意向をそれぞれ明らかにした。そこで村当局は、「県は村内に反対があっても、十三日の三町村長協定の方針で分村を進めるかどうか」の点につき、明十六日直ちに県の意向を確認し、各集落へ文書で通知することを約して九時四十分散会した。
九月十六日、郷村の合併問題を一任された四県議は、中西県総務部長・篠崎県地方課長らと共に金沢市柿木畠の県集会所で会合し、七時間半にわたり協議の結果、郷村を二分する調停案が成立し、三町村も納得の上「それぞれ十八日中に合併を議決して、直ちに県へ申請する。県は十九日の県議会に提案して議決を行う」ことが決まり、これでようやく円満解決をみることとなった。
一、松任町への編入区域及び人口
横江・番匠・専福寺・田中(上)で百二十八世帯七百名
一、野々市町への編入区域及び人口
稲荷・堀内・田尻・二日市・三日市・長池・蓮花寺・徳用・柳町・田中(下)百三十六世帯 八百二十二名
一、田中は国道八号線で上田中、下田中と分離
柳町は飛び地になるので、専福寺の北端から約六十間田中地内を野々市町区域に換地処分して蓮花寺と柳町をつなぐこととした。
一、財産の処分
郷小学校・郷公民館は松任町と野々市町で一部事務組合を設置して運営する。
消防格納庫・消防車・巡査駐在所はその所属の集落に払い下げして、代金は松任町と野々市町で分配する。
郷小学校・郷公民館などの財産を分配するときの割合は、戸数割四割、固定資産割三割、住民税割三割とする。
九月十八日、三町村は県から松任・野々市両町建設計画に対する知事意見書の到着を待って、一斉に議会を開くことになった。
郷村の緊急村議会は午後四時小学校に十二名の全議員が出席して開かれ、成り行きを見守る住民傍聴のもとに、北議長は町村合併の申請、財産処分、議会議員の任期、松任町建設計画、野々市町建設計画、農業委員の任期について六件を一括上程、討論をはぶいて原案通り野々市・松任両町への分村編入を可決し、四時五分閉会した。松任・野々市両町も同四時半よりそれぞれ緊急議会を開き、郷村の編入を調停通り可決した。こうして、二年数か月にわたる郷村の合併分村の紛争は終止符を打ったのである。かくして郷村は円満に分村することになった。
九月十九日、第三回定例石川県議会最終日の十九日、県議会は郷村を分村して、松任町と野々市町にそれぞれ編入の議案を全員一致無修正で可決した。これによって明治二十二年の町村制施行以来、六十七年にわたって続いてきた郷村は、完全に消え去ることになった。
九月二十九日 この日午前十一時半から、義務教育を共に学んだ心の故郷である郷小学校に於て、六十七年の歴史と二年余にわたる紛糾に別れをつげる閉村式を行った。
昭和三十一年十一月三日午前十時より野々市小学校の講堂に於て、郷編入の祝賀会が関係者多数の出席のもとに盛大に行われた。
また、この日の午前には郷小学校児童が郷地区一巡の旗行列をし、さらに商工会・体協主催・北国新聞社後援のもとに押野地区を交えて、合併地区一巡の自転車競走を行った。
午後一時には、野々市小学校講堂で演芸寄席、午後六時より青年団演劇部出演の演芸大会を行い、記念バザー、写真展、生花展、文化展も開かれ、翌十一月四日には、郷地区編入祝賀駅伝競走を行った。
郷の今昔