昭和三十二年押野地区の一部編入により合併が完了、その後野々市駅設置の声が、地元御経塚町・二日市町・野代町・長池町・稲荷町より起こり、昭和三十四年二日市出身の中島町長が就任してからますます設置運動熱が高まった。三十四年五月五日に野々市小学校で野々市駅誘致期成同盟会の結成式を挙げ、北陸線の敦賀~金沢間の複線電化着工を機に、野々市町二日市町~御経塚町地内に野々市駅を設置すべきであるとして、式には岡良一代議士、柴野和喜夫知事、徳田与吉郎元代議士、作本博県議、神戸世志夫氏らを来賓として招き、地元町民五百名が出席して気勢をあげた。
それから駅予定地の用地の買収・確保を完了し設置経費の全額を地元負担とすることを決めた。又、国道八号線と予定地を結ぶ一、二〇〇メートルの直線の駅前道路を新設することや、駅予定地にかかる二日市町の共有墓地が設置の妨げになる恐れがあるので、極めて困難な事情を克服して他の適地に移転することにし、万全の準備を講じて全町一丸となって運動にあたることに決める。
そして、中島町長により駅設置に要する用地及び工事費の全額地元で負担する事を申し添えて、昭和三十五年七月十五日に金沢鉄道管理局長に誓願書を提出した。
昭和三十二年に野々市駅誘致運動の話がでて、全町一丸になって国鉄本社など関係当局へ積極的に陳情、設置運動をしたのが実って四十一年五月、全国から設置誓願があった一二〇駅のうちから他の二駅とともに四十一年八月、国鉄は優先して正式に建設を承認、決定。昭和四十二年十月六日に起工式が行われた。
同駅の建設地は北陸本線西金沢駅から二・五キロ、松任駅から三・三キロの地点。
駅の規模は駅舎が鉄筋コンクリート平屋建て、延べ一四〇平方メートル、ホームは幅二・五メートル、長さ二四〇メートルの上下ホーム二本で、線路を渡るための渡線橋も建設され、工事費・用地費とも全額地元負担で、総工費四千五百万円のうち一千五百万円が駅周辺地区(御経塚町・二日市町・野代町・長池町・稲荷町)の寄附でまかなわれた。
金沢市のベッドタウンとして脚光を浴びる野々市町が、十余年来念願してきた国鉄野々市駅が四十三年三月に完成、三月二十五日午後二時から新装なった駅舎前で中原金沢鉄道管理局長ら国鉄関係者、誘致実現に協力した益谷代議士らを招いて開通式が催され、新駅誕生を祝った。
四月一日のダイヤ改正と同時に北陸線野々市駅が誕生し、一日往復十二本の普通旅客列車が停車することになった。
建設省は国道の整備拡張に力を入れ、北陸鉄道が自動車・バスの普及によるモーターリゼーションについていけず赤字路線となった松任~金沢野町間の松金線を廃止するとその軌道の跡を一部買い上げて、現在の八号線(三、三〇〇m)を新設し、昭和三十一年に開通した。(旧国道の面影は現在稲荷町・徳用町・郷町・公民館前に残っている。)
ついで経済の成長と産業の発展に伴い著しい自動車の普及増大によって、昭和四十年より建設省に着工を要望していた金沢バイパス(金沢市柳橋~松任市宮丸間一七㎞幅員二六m)のうち昭和四十三年十月、松任~野々市三日市間五・五㎞が完成、引き続き柳橋に向かって工事が進み、昭和四十五年十月に金沢市藤江~野々市三日市間が完成した。
当時バイパスの用地提供については地域の開発に役立つとして協力した。
このようにして郷地区に於ては野々市駅の設置につづき、国道八号線、さらに金沢バイパスの新設などにより、金沢市近郊の地域として地理的な条件はもとより道路網の拡充整備が行なわれ、急激に発展してきた。
明治三十五年十一月、松金馬車鉄道㈱が松任町に置かれた。翌三十六年(一九〇三)九月、工事施工の認可がおりたが資金不足のため用地買収が進まず、国道上にレールを敷設した。郷村地内も同様で、北陸街道脇に敷設された。明治三十七年(一九〇四)十一月一日、松任町八ツ矢から金沢市泉間が開通し、十五人乗り程度の車両で営業を開始した。翌三十八年には金沢市野町四丁目まで軌道を延長し、朝夕には金沢へ通う生徒や商人で満員の盛況であったと言う。
明治四十年には朝六時始発、夕方五時四十分終発で、一日十八往復の鉄道馬車が走り大変便利であったと伝えられている。
馬車鉄道を電化する構想は、明治四十三年頃から始まった。大正三年(一九一四)六月、松金馬車鉄道㈱を松金電車鉄道㈱と改称し、電化工事に着手し、大正五年(一九一六)三月には松任・野町四丁目間が開通した。徳用・三日市地内は北陸街道を僅かに離れて軌道が敷かれた。
松任を起点として、東町・八ツ矢・徳丸・番匠・田中・三日市・稲荷等に停留場が設けられた。
当初計画では「田中停留場」は、徳用村と田中村の境界付近の田中地内に設けられる予定であったが、電車が交差するに必要な土地の提供もあって、約一〇〇メートルばかり金沢寄りの徳用村に停留場が設けられたが、停留場の名称は当初計画のとおり「田中停留場」と名付けられた。
金沢市の市内電車は大正八年(一九一九)七月に初めて運行されていることから見ると、松金線沿線の人々は、それより三年も前から電車の恩恵を受けていたことになる。
大正九年十一月に至り、松金電車鉄道㈱は金沢電気軌道㈱と合併したが、松金線の名称はそのまま残された。
松金電車は昭和初期には二十分間隔で運行され、野々市・有松・泉を経て野町から金沢市内に乗り入れ、香林坊・広坂・公園下・石引町を経て大学前まで行っていたため、通学・通勤には大変便利であった。また、使用された車両は市内電車と共通運用されていた。
戦争中の昭和十七年(一九四二)一月、北陸鉄道㈱となり、同十九年十月には松金線の野々市・泉・野町間は廃止され、野々市駅から石川線に乗り入れて、新西金沢駅経由で野町駅に至った。この運行方式は戦後も続いたが、自動車やバスの急速な伸展には勝てず、昭和三十年十一月十四日には逐に廃止され、翌十五日からバスによる営業に切り換わり現在に至っている。
古来稲作を主産業としてきた静かな郷村であったが、野々市町に分村合併し、金沢近郊の近代化された明るい豊かな町づくりをめざして、町当局はもとより全町民あげて計画を立て、将来性のある行政の運営にみんなで努力してきた。
以来郷地区に於て北陸線野々市駅の設置に続き、昭和三十一年国道八号線の改良整備、更に昭和四十三年十月金沢バイパスの新設、昭和三十三年度迄に国道八号線より駅建設予定地に至る一、二〇〇mの直線道路の新設など交通網の整備により、又、企業の誘致条例も手伝って駅周辺にトナミ運輸、明治乳業を初め、近郊に石川ヤクルト・扇興運輸等の大手会社の誘致に成功、更に地元の熱意によって昭和四十年度総面積六六、〇〇〇平方メートルの金沢原紙織物団地の用地として稲荷町の土地提供(現在の御園小学校敷地及び稲荷団地の一部)も確定し、合併当初より全く一新され、早くも新産業都市の息吹が濃厚に感じられるようになっていった。
一方、住宅の方も前述の国道八号線の拡張整備、バイパス道の新設などの交通網の便利さと自動車・バス等のモーターリゼーションの普及により、大都市を目指す金沢への通勤可能な立地条件も伴って金沢市の、ベッドタウン化へと急激な様相を見せるようになっていった。
野々市駅前を通る県道一〇一号線(野々市町字押野丸木~松任市宮永間八㎞)の沿線でも住宅が殺到し、近隣の金沢市八日市町、野々市御経塚町(あやめ)には八、〇〇〇坪の住宅団地が出来、二日市には県営のアスナロ団地が造られた。
又、野々市駅前にも住宅が数十棟建ち、沿線住民は昭和三十八年四月一日北陸鉄道へ公園下~横江間のバス路線新設を誓願、同年バスが運行され、後に松任迄延長された。
又、郷地区内でも昭和三十六年~三十九年以降は住宅団地の造成が盛んになり、これまでに規模の大小は別として、堀内新団地・稲荷団地・三日市新団地・田尻団地・徳用団地・長池団地・柳町団地というように総ての町内に住宅が造成されている。
このように宅地の需要、それに伴う農地の転用はやむをえないものとしても、郷地区民にとって今後とも明るくて活気ある住み良い町づくりが望まれる。
昭和三十年から三十二年にかけて、一町三村が合併編入して新しい野々市町が生まれた。以来金沢市の衛星都市として急激に住宅や工場、大型店舗等の進出が見られ、どんどん水田が埋立てられてきた。このままだと無秩序な開発が行われ生活環境の悪化をまねくので、このようなことを防ぎ合理的な土地利用を計るため、昭和四十五年、新都市計画法に基づき市街化区域、市街化調整区域の設定を行い、都市開発を優先的かつ計画的に行い市街化する区域(市街化区域)と当面できるかぎり市街化を抑制すべき区域(市街化調整区域)とに分けて道路交通網の充実、公園・排水施設等の公共施設と宅地や工業地などの用途地域の指定等、総合的な土地利用の方針を定めることとした。
土地区画整理事業には地域の地権者が集まって組合を作って行う組合施行と、少ない地権者で行う共同施行とがある。
○昭和五十二年十一月に野々市町西部土地区画整理事業として認可(組合施行)された施行地域(稲荷・押越・野代・三日市)
施行面積 四二・七三ha
施行期間 昭和五十三年一月十三日施行始 昭和六十年十二月二十五日完了
総事業費 二二億二、二二〇万円
組合員数 一五九人
理事長 村外代昭
副理事長 北村俊雄 松下武文
理 事 竹田宏行 坂本六郎 宮岸信三 北 勉 宮岸喜信 西川新一 松島俊治 小林和雄
監 事 村規久男 西川省造 小畠定成
○昭和五十二年十二月、市街化区域及市街化調整区域見直し変更により、昭和五十三年二月徳用土地区画整理事業認可(共同施行)
施行面積 四・五〇ha
施行期間 昭和五十三年二月六日施行始 昭和五十五年三月三十一日完了
総事業費 一億八、九一一万六千円
地権者数 十八名
施行代表者 中山久男
○昭和五十九年十一月、市街化区域及市街化調整区域見直し変更により、昭和六十年七月徳用第二土地区画整理事業認可(共同施行)
施行面積 〇・九一ha
施行期間 昭和六十年七月十九日施行始 昭和六十三年三月三十一日完了
総事業費 六、六五〇万円
地権者数 二名
施行代表者 中山久男
○昭和六十年十二月、堀内第一土地区画整理事業認可(組合施行)され、現在施行中
施行面積 一九・〇一ha(太平寺地区〇・八六haを含む)
施行期間 昭和六十年十二月十日施行始 平成五年三月三十一日(完了予定)
総事業費 二〇億二、六〇〇万円(予算)
組合員数 一〇六名
理事長 清水外司英
副理事長 小堀良英 岡田忠夫
理 事 岡田 昇 堀中 威 内村栄一 西村又一 清水 剛 堀 裕之 村田武嗣
監 事 杉本健造 清水勇治 沢村初雄
○昭和六十一年九月、御経塚第二土地区画整理事業認可(組合施行)され、二日市地区長池地区を含めて現在施行中
施行面積 六〇・一ha
(内訳) 御経塚町 四〇・八七ha
二目市町 四・〇九ha
長池町 三・一六ha
施行期間 昭和六十一年九月十九日施行始 平成十一年三月三十一日(完了予定)
総事業費 六〇億六千三〇〇万円(予算)
組合員数 二一六名
理事長 塚崎吉信
副理事長 杉林敏信
理 事 荒川清成 副田輝雄 塚崎昭夫 塚崎恒男 塚本省司 塚本利昭 塚本義明 中敷進一郎 中村清勝 北川三郎 市村雅春
監 事 塚本 稔 北村茂人
郷の今昔