一  小中学校の動き

 

 旧郷地区の学校状況

 郷地区の学校は、文部省が昭和二十一年に六・三・三制を決定してから、昭和二十二年に郷村立郷小学校と名称を改称し、同時に中学校を併置し、現在の松任市田中町地内にあった。

 昭和二十六年に石川郡松任町外七ヶ村組合立松任中学校が設立され、郷村も加入。中学校の場所は現在の松任中学校で、松任の石同新町地内へ自転車又はバスで通学していた。

 当時の小学校は昭和二十八年には、郷小学校創立八十周年の記念式典をしている。

 

 野々市町の状況

 町村合併促進法に基づく適正規模の人口は八、〇〇〇人であり、富奥村と一足先に合併した新野々市町はどうしても隣接の郷村と押野村と合併する必要があった。そしてその場合、どうしても必要なのは統合小学校と統合中学校であった。

 昭和三十年四月一日、富奥村と野々市町と合併した新野々市町は、合併後の建設計画として本町地内に、しかも郷村・押野村の通学出来やすい場所を選んで統合中学校の新築を決議し、その財源を捻出するために野々市山の山林を伐採し一部充てることとし、昭和三十一年十月迄に第一期工事の鉄筋コンクリート三階建ての近代的校舎の建設にとりかかり、これを完成させた。

 

 分村後の小学校と事務組合

 昭和三十一年九月二十九日に郷村が閉じ、野々市町・松任町に分村しそれぞれに編入合併をしたが、小学校は県の調停案にそって松任町及び野々市町で教育事務組合を設置して運営管理することになり、郷地区の児童は、組合立郷小学校で昭和三十七年三月三十一日に組合立郷小学校が廃止されるまで学んだ。

 ここに明治六年に「郷小学校」として出発した当地区の小学校も九十余年でその名を消してしまう。

 

 野々市町統合小学校と郷地区

 

 野々市町では三十六年七月に町民の総意により、三十年十月に建設された中学校の隣地に総事業費一億五千万円を投じ、三期継続事業で統合小学校の建設が確定し着工された。

 統合小学校の建設が決まるや、松任・野々市の教育組合立郷小学校も三十七年三月三十一日で廃止が決まり、郷地区の稲荷町・堀内町・二日市町・三日市町・徳用町・蓮花寺町・田尻町・長池町・郷町・柳町児童は三十七年四月より全員富奥の小学校へ一時スクールバスを出してもらって一学期の間だけ通学した。

 統合野々市小学校は、昭和三十七年八月に第一期工事の校舎が完成、九月一日の二学期より新校舎での授業が始まった。そして二期工事として管理棟、体育館が昭和三十八年十月に完了したのである。

 昭和三十七年四月、富奥教場に通学していた当時は郷地区の児童百名余りは、町のバスで通学していたが、九月より新校舎に移ってからは、柳町・郷町・徳用町の児童のみ路線バスで通学した。郷地区、富奥地区、野々市町本町地区、押野地区を合わせ、統合小学校の児童数は発足当時八百十二名、十八学級で全国適正規模のモデル校であった。

 ところが、町の急激な発展によってわずか五年後には九百名を超え、教室不足を特別教室の転用で解消できず、昭和四十三年と四十六年に六教室ずつ計十二教室が校舎東側の体育館と本館つなぎに増築されたが、金沢市のベッドタウンとして、また商業地帯として発展した野々市町は、昭和四十九年に完成した新中学校校舎(三納・位川地区)に移転したのを機に、旧校舎に小学校の高学年(五-六年)を受け入れることとした。そのころから、二千名を越える児童数をかかえる野々市小学校は、第二、第三小学校の建設機運も盛り上がる一方で、プレハブ教室も六教室。昭和四十八年、四十九年に校舎西側と東校舎のつなぎの中央に増築して学校運営に当たったのである。

 この間、昭和三十五年には、県健康優良校、昭和四十二年には県健康優良校と全国優良校の表彰、昭和四十六年には創立十周年記念、五十六年には創立二十周年記念式典を町民参加で挙行している。また全町民、ことに小中学生が久しく待望していた町民プールも、昭和四十七年旧中学校南側に完成し、大規模校としても学校設備の充実もはかってきた。

 しかし、昭和五十二年には児童数が二千五百名を超え、第二小学校設立の動きが活発となり、昭和五十二年九月には、稲荷町地内に御園小学校の着工に至ったのである。そして通学地域の決定で、第二小学校へは、郷地区の徳用・長池・二日市・三日市・稲荷・堀内新が後に誕生した新町会の三日市新を含めて通学することとなった。また、郷町・柳町・蓬花寺・田尻・堀内は、その後現在までも野々市小学校へ通学している。いわゆる旧の国道八号線で区域分けをしたこととなる。御園小学校は、昭和五十六年に県教育委員会指定の生徒指導推進校として研究発表会を開催し、視聴覚教育の推進と御園ハーモニーバンドの活躍で伝統をつくりあげ、ミニバスケット部や自転車競技大会にも優秀な成績をあげている。

 昭和五十九年には、御園小学校も児童数の増加に伴ないプレハブ校舎解消も含め、通学区域を変更し、押野地区に第五小学校(館野小学校)を建設し、同三月には押野・押野丸木・横宮・若松を分離した。御園小学校はここで郷地区主体の学校として昭和六十二年の十月に十周年を迎え、記念式典を挙行している。

 

 統合中学校と郷地区

 旧郷の野々市地区の中学生は、分村と同時に石川郡松任町外七ヶ村組合立松任中学校を九月三十日でやめ、前述の新築となった鉄筋コンクリート三階建ての野々市中学校へ十月一日より、野々市中学生として通学することになったのである。

 そして、十一月三日には郷地区編入の祝賀式と中学校の落成記念式が、関係者出席のもとに盛大に行われたのである。

 昭和三十一年に郷村が、松任町と野々市町に分村合併し、新しい松任町と野々市町が誕生した。新生野々市町は、更に翌年押野村の分市合併により現在の野々市町が成立したのである。そして、松任町(昭和四十五年十月には松任市となる)と同じく、野々市町にも統合中学校が三十一年十月に、発足したのである。

 統合中学校の校舎、体育館、特別教室と町民の積極的な協力も加わって、完成をみたのは昭和三十六年であった。しかし、小学校のところでも述べたように、合併当時、八千人余りだった人口は昭和四十八年には、一万七千人を突破し、なお、増加の一途をたどったのである。このため、小学校・中学校も増築を重ね、その上、プレハブ教室を建てて急場をしのぐ状態であった。小学校も分離を考えていたが、中学校を一足早く四十八年から三ヵ年計画で、新校舎を三納・位川地内に建設して当面の解決を図ることとした。そして、昭和四十九年十月に新校舎と体育館が完成し、移転した。当時は五百九十名だった生徒数も十年後の昭和五十九年には千名をこえ、一町一中学校を第二中学校建設にむけて進めることとなる。そして昭和五十九年には布水中学校が、第二中学校として押野地区に建設され、野々市中学校へ通学していた郷地区の生徒は全員、新たな通学区域の決定により布水中学生となり、現在に至っている。

 ふりかえれば四十年前、一村一小・中学校であった新学制は今、郷地区の児童生徒に限ってみれば、三中学校、四小学校へ通学したことになる。

 

 

 郷小学校 校歌

          今井松雄 作曲

    郷小学校職員・高田伍輔 作詞

 一、緑波うつ石川の

    うまし野中に生い立ちて

    光と幸に日に伸(の)ぶる

    健児ぞここに集(つど)うなる

 

 二、朝日に映ゆる白山の

    たかきをおのが操とし

    夕べに岸かむ波の音に

    強き心を鍛(きた)えなむ

 

 三、時の潮の荒ぶども

    固く結びて日に進み

    日々に進みて一筋に

    望みの道をたどりなむ

 

 四、天つちのむたきわみなき

    皇御国(すめらみくに)のいしづえを

    いや固めんともろともに

    いざやみがかん身と心

 

 

 郷小学校歴代学校長名

 米林正秋 明治十八・九~明治二五・七  村井文三郎 昭和四・三~昭和九・三

 弓場梵滝 明治二五・七~明治二五・十二 吉村鍵二  昭和九・三~昭和十二・三

 福村秀信 明治二六・一~明治三五・四  待田与三松 昭和十二・三~昭和十四・八

 河原次三郎 明治三五・四~明治三七・三 今本亮   昭和十四・八~昭和十七・三

 小坂義有 明治三七・四~明治四〇・四  柏野加治  昭和十七・三~昭和二一・九

 石黒英吉 明治四〇・四~明治四一・一〇 瀬尾了好  昭和二一・九~昭和二三・三

 水上秀和 明治四一・一〇~大正元・九  村上喜一  昭和二三・三~昭和三一・三

 小鍛冶与三郎 大正元・九~大正五・八  松本喜好  昭和三一・四~昭和三二・三

 高田為久 大正五・八~大正十一・一   高畠正成  昭和三二・四~昭和三四・三

 石坂定  大正十一・一~大正十三・三  守田敏夫  昭和三四・四~昭和三七・三

 桜井純一 大正十三・三~昭和四・三

                        以上

 

 

 

 野々市小学校 校歌

          藤田福夫 作詞

          石本一雄 作曲

 

 1、さわやかな 朝(あさ)のひかりに

   目(め)をさます 希望(きぼう)のわれら

   加賀平野(かがへいや) 緑(みどり)の中(なか)に

   はつらつと 歌(うた)の和(わ)をくみ

   くろつちの めぐみをたたえ

   野々市(ののいち)の 明日(あす)をきずこう

 

 2、山(やま)なみの 朝(あさ)よぶ声(こえ)に

   目(め)をさます 希望(きぼう)のわれら

   校章(こうしょう)の 雪(ゆき)のほこりに

   きよらかに みがく心(こころ)と

   やまずくむ 智(ち)えの泉(いずみ)に

   学(がく)えんの 明日(あす)をきずこう

 

 3、よみがえる 朝(あさ)のひびきに

   目(め)をさます 希望(きぼう)のわれら

   工場(こうじょう)の 棟(むね)は波(なみ)うち

   幸(さち)はこぶ 車(くるま)にぎわう

   この町(まち)に 明(あか)るく育(そだ)ち

   日本(にっぽん)の 明日(あす)をきずこう

 

 

 御園小学校 校歌

          密田良二 作詞

          石本一雄 作曲

 

 1、 加賀(かが)のひろ野(の)に 風(かぜ)わたり

   なびく青雲(あおくも) 朝日(あさひ)かげ

   ゆたかな露(つゆ)の 恵(めぐ)みうけ

   花(はな)の御園(みその)の 学(まな)びやに

   やさしい児(こ)ども 手(て)をつなげ

   やさしい児(こ)ども 手(て)をつなげ

 

 2、 つらなる山(やま)の 空遠(そらとお)く

   仰(あお)ぐ明星(あかほし) 澄(す)むひかり

   かわらぬまこと たずね行(ゆ)く

   智恵(ちえ)の御園(みその)の 学(まな)びやに

   かしこい児(こ)ども よく励(はげ)め

   かしこい児(子)ども よく励(はげ)め

 

 3、 北(きた)の海原(うなばら) 波(なみ)とよみ

    野山(のやま)を白(しろ)く 雪降(ゆきふれ)ど

    新(あら)たないのち もえ上(あが)る

    清(きよ)ら御園(みその)の 学(まな)びやに

    雄々(おお)しい児(こ)ども いざ起(た)とう

    雄々(おお)しい児(子)ども いざ起(た)とう

 

 

 野々市中学校 校歌

          藤田福夫 作詞

          石本一雄 作曲

 

 1、 れい明の 風吹きわたる

    はてしなき みどりの加賀野

   見さけ立つ 高き学び舎

   すこやかに 日々を集いて

   わきあがる 若き歌声

   意気もゆる 学徒ぞわれら

 

 2、 しずかなる さとしをこめて

   藍(あい)深く 続く山なみ

   見さけ立つ 高き学び舎

   新しき 光をしたい

   共に汲む 真理の泉

   誇りある 学徒ぞわれら

 

 3、 石川の かなめ野々市

   絶ゆるなき 大路(おおし)の往来(ゆきき)

   見さけ立つ 高き学び舎

   祖(おや)たちの いさおのあとに

   つくりなす 豊けき郷土

   明日を呼ぶ 学徒ぞわれら

 

 

 布水中学校 校歌

          木戸逸郎 作詞

          木戸博也 作曲

 

 1、 天そそる しろがねの嶺

   白山の 雪解の水に

   潤いて ゆたけき加賀野

   この土に 生い育ちたる

   若き友 手を取り集う

   あたらしき 学びの庭よ

 

 2、 学び舎の 高きに立てば

   眼に親し 青垣なして

   野を限る ふるさとの山

   見返れば 海も青めり

   手をのべて 世界を呼ばん

   あたらしき 学問の道

 

 3、 名も床し 清き流れに

   晒す布 その白妙を

   こころとし 優しく強く

   愛と和の 友垣むすび

   いざ共に 学び鍛えて

   あたらしき 世代拓かん

 

二  公民館


 

 ①公民館の誕生

 昭和二十二年、連合軍総司令部は「日本教育制度改革に関する極東委員会司令」なるものを発令し、その中に社会教育の必要を強調している。

 続いて昭和二十四年には「社会教育法」が制定され、今日全国的に整備された公民館活動が法的に設置され、学校教育と共に成人教育を行う日本が誕生したのである。

 旧郷村に於ても昭和二十四年に郷小学校に公民館が併設され、創立当時は地元に信頼のある人ということで安原医院のお医者さんを館長に、主事を役場の書記に委嘱してあった。

 当時の公民館は青年学級、各種団体の会合、裁縫塾などによく利用され、成人式なども行った。

 

 ②分村直後の郷公民館

 松任・野々市の両町へ分村合併という事態を招き、昭和三十一年九月三十日に新しい野々市町民となったわけである。今迄郷小学校の校舎を改造して、公民館として利用していた村民が、町村合併問題が当初は郷村は分村せずということで一体となって松任町及び野々市町のいずれかへ行くということで、公民館を田中町地内にある役場の後に新築中であったが、ついに分村ということで県議の調停案どおり決着がつき、建築途上の公民館はもとより、小学校の敷地も田中地内ということで、これら財産処分は調停案にしたがって松任町に帰属することとなった。

 そのために急遽野々市地区住民は公民館を適当な場所に求めなければならなくなり、地区住民の要望で当時の野々市町長兵地栄一氏の紹介で、金沢市の大手町に元石川県織物検査所であり、後に金沢保健所に変わった建物が譲渡されることに決まったのである。それが平成元年七月二十六日取り壊した旧木造の野々市町郷公民館である。

 この建物があった所といえば、金沢大学の構内の大手門近くの、NTT金沢電話局の駐車場のあたりと思われる。

 現在でも同じであるが、当時は公民館を住民の結集する学ぶ・結ぶ場所とし、一日でも早く建てようとの区長の指示で、地区民は荷車を持ち寄って、壊した材料運搬の奉仕作業に汗を流した。思い出の場所である。

 取り壊し作業の土ぼこりを押さえるために、消防自動車による放水をもした。

 現在公民館が建っている場所は、当時松並木のある旧国道の傍らで、地域の真ん中ということで、田尻町の中村与作氏に土地を提供していただいた貴重な水田であった。。

 当時は、分村当時のエネルギーの持続で、分かれた松任地区の人々に負けまいと義理合いも多分にあって、みんな一致協力して手弁当で奉仕作業をしたもので、二年数ヵ月にわたって紛争した郷村の状況だから出来たものと思われる。

 解体作業は田植えの終わった五月、八月迄の農繁期に延べ千百人の奉仕作業で、炎天下婦人会員の細かい配慮ある釘抜き作業などもあり、真に郷地区民総ぐるみの館づくりであった。そして、七月三十日には野々市町長を初め、多くの来賓の方々を招き盛大な落成式をあげた。

 この公民館の建設には、野々市町合併促進協議会の会長である二日市町の北村仁勝氏が中心となって当時の区長会の方々と共に尽力され、又、三日市町の北幸朔氏を棟梁として新進気鋭の職人達と共に手腕を発揮された。

 このようにして、三十二年前に築かれた歴史ある郷公民館の伝統を永遠に保ち続け、地域の連帯感を強めていきたいものである。

 

 ③公民館の活動

 町村合併により現在の公民館が建設された当初、野々市町郷分館として発足し、昭和三十五年に地区館として独立し今日に至っている。

 今振り返ってみると二年数ヵ月いがみあって分村した当時、公民館を寄り所として地区住民は何事も一致協力し合い、松任地区に負けじと、地区の振興発展と各種団体の組織活動の充実を図るために、今より以上に活発なものがあった。

 当時、公民館活動には青年団・婦人会・体育協会・青産研グループが主軸となって参加、活躍したものである。

 一方、教養娯楽面では視聴覚教材のナトコの映画を、公民館の施設を利用して上映したり、又、集落へは巡回映画としてテレビの普及する迄数多く上映して歩き、教育材料として大いに受けたことを記憶している。

 運営面においては基本的に当時も今もあまり変わっていないが、各種団体長及び学識経験者でもって運営審議会を開き協議決定している。又、現在は事業推進委員の意見等も取り入れ、これら委員の方に積極的に協力をいただき、公民館を中心とする社会教育活動は軌道に乗り今日に至っている。

 

 ④公民館 新館の建設

 昭和五十年代に入り日本経済の高度成長に伴い、都市人口の農村部への流出が盛んになり、郷地区においても人口が増大し、老朽化した公民館を近代的な設備の充実したものに、建て替えをしてほしいと言う地区住民の要望として、毎年催される「町政を聞く会」で発言があり、その都度学校その他の整備増築が終わればと言う町当局の返答であった。昭和六十一年六月に小堀三郎郷連合町内会長と公民館長の連名の上、平野栄政、黒山茂両地区選出町会議員を通じて西尾町長、東谷教育長に早期改築の要望書を提出、町当局も郷地区の現状を察し、町の長期計画に組み入れ、昭和六十四年(平成元年)度町予算に郷公民館の建設予算が計上され、ここに平成元年度内に建設が決定されたのである。

 建設の場所は郷地区の中心であると言う事で現状のままで、第三分団の消防の格納庫を現状のとおりに併設、三〇台収容出来る駐車場を田尻町の藤田外喜男氏の好意により提供していただいて、予算化されたものである。

    設計監理   ㈱土倉建築事務所

     建築工事             丸石建設㈱

     給配水衛生空調設備工事  稲垣産業㈱

     電気設備工事          西部電気興業㈱

 の右三社に於いて請け負う事になり、公民館の総計費は駐車場も含めて一億八千二百六十一万九千円である。

 建築工事概要及び平面図は町当局と公民館運営審議会、郷地区連合町内会三役、消防第三分団長と最終的な協議を得て上記図面のように決定いたしたものです。

 旧公民館の解体は七月二十三日の参議院選挙の投票終了後の二十六日より取り掛かり、起工式は八月三日午前九時三十分より、西尾野々市町長、助役、収入役、町議会議員全員、教育長、教育委員全員、町公民館関係者、郷地区連合町内三役、田尻町々会長、駐車場用地提供者の藤田外喜男氏、工事関係者約六〇名の参集で行われた。竣工は、平成二年三月下旬の予定である。

公民館地鎮祭(平成元年7月16日)

 

 

 

 

 ⑤旧公民館サヨナラ懇親会

 新しい公民館の改築が決まり取り壊しの日がちかづくと、連合町内会と公民館の関係者で、歴史ある公民館の解体をなごりおしみ盛大にサヨナラ懇親会を催す事に話が決まり、七月十六日午後七時よりの「町政を聞く会」の後に、野々市町町長・町議会議長・教育委員長。竹内県議・地元関係者多数(約百名)が参集して盛大に、公民館にまつわる昔話に花を咲かせ、当時の事を話あった。当日席上、東現公民館長より初代館長の北村仁勝氏、二代館長長田 健氏、三代館長小堀英昭氏、四代館長岡田可祝氏、五代館長辰巳喜夫氏、六代館長内田 工氏に感謝状と記念品を贈呈して、当時の公民館の役職の労をねぎらった。

 

(仮称)野々市町生涯学習センター概要

  敷地面積  七一三・四一㎡

  建設面積  四二一・六一㎡

  延床面積  八二〇・四〇㎡

  一階床面積 四一四・二九㎡

  二階床面積 四〇六・一一㎡

  駐車場面積    六九八㎡

 (一階)   

  集会室   一二三・一五㎡

  相談室    二六・四六㎡

  事務室    一一・五〇㎡

  玄関      

  ホール     

  ロビー    

  湯沸室    

  男子・女子便所   

  管理人室      

  消防車庫   四八・四二㎡

  倉庫

 (二階)

  和室     六九・九三㎡(三五帖)

  図書室    三五・三四㎡

  料理実習室  四二・六九㎡

  学習室    三〇・五五㎡

  研修室    五一・〇〇㎡

  湯沸室

  男子・女子便所

  倉庫

  消防休憩室  三三・二〇㎡

 

 

 公民館お別れ会(平成元年7月16日)

 

 

 

 

 公民館の行事

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

郷の今昔