産業組合法による最初の名称は、無限責任郷村信用販売購買組合で、設立は明治四十五年三月十三日だった。組合員八十六名、初代組合長 福田三次氏。
大正四年九月より販売事業をも開始した。
大正七年生産事業を行うに当たり、購買のあとに生産の字句を入れた。
大正十二年に生産を変更して利用とした。石川県でも宮保村をはじめ、十数ヶ村に組合が誕生したのである。
昭和七年六月には郷産業組合創立二十周年記念をみた。時の組合長は五代清水与三郎氏である。
昭和十三年に清水氏の任期満了により、第六代組合長に小堀栄氏が推され、村長兼任のもとに組合発展に努力された。
昭和十七年八月、創立三十周年記念誌を発行しているが、その前年はわが日本にとって、永久に忘れることの出来ない歴史的な事件―いわゆる真珠湾の攻撃がはじまり、対米宣戦布告が行われたのも昭和十六年であった。そして、これを契機として戦運は日に日にわが国に不利となり、国をあげての戦争に突入、減死奉公のもと青壮年は戦地にかり出され、銃後は老人や婦人が守るような悲惨な時代に移行していった。
特に農村では、働き手の青壮年はことごとく戦地に赴き、老人・婦人が田畑を守り、食糧の増産に励まねばならぬことになった。組合もまた戦時体制に呼応して、専ら生産の指導や供出に協力する形となってきたのである。郷村でも、その例外ではなく、米の増産供出は勿論、馬鈴薯や麦の裏作割当もきびしかったのであるが、いつの時も、国の要請に応じて供出完納を遂行していったのである。
当時の役員会の議件に「供出完納者に対する組織、煙草の特配に関する件」など、という記録が残っているのを見るとき、まことに今昔の感に堪えぬものがある。
このように、組合も戦時体制に入っていたとはいえ、産業組合の名称は昭和十八年まで続き、あけて十九年一月、郷村信用販売購買利用組合も創立以来三十三年の歴史の幕を閉じ、戦時農業団体法に基づいて、「郷村農業会」と改称し、小堀組合長が引き続き農業会長となり、戦時下食糧増産の要請に応えて供出その他の事業に専念された。
昭和二十年八月十五日に終戦となり、敗戦の混乱はその極に達したのである。街に浮浪者が彷徨し、財閥は解体され、一切の工場施設はその生産をストップした状態の中にあって、ひとり農業の増産は続けられ、農村天下などといって農民の存在がひと際大きく見えた頃、郷村農業会では、終戦と共に小堀氏が辞任し、かわって藤田氏が就任した。越えて二十二年藤田氏の辞任のあとを受け、松田伊三郎氏が会長に就任した。
そして、農業会も連合軍総司令部の指令に基づき、僅か五ヶ年の歴史を終わり、昭和二十三年、その名称も農業協同組合と改称されることとなり、堀新助氏が松田氏のあとをついで、新組合長に就任した。
昭和二十七年十月、創立四十周年を迎え、記念誌「組合の歩み」を発行している
昭和三十五年堀氏の辞任に伴い、北村利一氏が組合長となる。
郷農協では、かなりの特記すべきことが実施された。その第一として昭和二十八年に農協婦人部が出来、また三十三年には青壮年部が誕生している。青壮年や婦人による協力は青壮年部などの誕生以前から、その前身組織があり、組合の協力態勢は見事なものがあった。しかも郷農協の場合、両部ともに野々市地区・松任地区の二つにそれぞれ組織され、お互いに協力する態勢が出来ていたことも他に例をみない特徴である。また信用事業面では、昭和三十年収穫代金の貯蓄化競技運動で県下一の優勝旗を与えられ、三十一年度には大蔵大臣表彰、四十年度には、貯蓄増強により農林中金表彰等、数々の成果をあげている。また、購買面でも、昭和三十一年郷村の廃止により旧役場をゆずりうけて改修し、購買店舗を新築し、越えて四十二年に内容を近代的に改装してセルフサービスの新方式を採用して、生活の高度化に応えており、三十七年には購買現金決済制度を採用して計画購買をはかり、三十九年には肥料の年間特約契約計算制をとり入れて、供給の円滑化と価格の安定化に努めるなどの努力を払っている。一方、指導面をみると、昭和三十六年をピークとする共同防除の強化、各部落に受検組合を結成して、計画出荷を促進したり、三十八年前後より、鳥取県の稲刈移動班の受入を強化し、当時百数十名の労務者を迎えて、その配置、その他に万全を期したのである。
そして昭和四十三年、農協創立以来の三万二千六百八十五俵という史上最高の出荷を示したのである。また、昭和四十四年倉庫不足となって、準低温倉庫を建設し、同時に青壮年による一元集荷が行われた。
かえりみて、産業組合創立以来六十年、われ等の先祖、諸先輩が営々として築きあげてきた「郷の組合は、いま歴史の流れに従い、大松任市農協の発足とともに発展的に解消し、松任地区は松任市農協に、野々市地区は野々市農協に分割合併の余儀なきに至ったものである。」このことは郷農協組合員にとって感慨なきを得ないのである。
農業協同組合が設立されてから二十数年、敗戦から復興への大きな役割を果たして、農村は日々に充実してきた。農産物の栽培技術やそれに伴う機械・農薬・肥料等も急速に進歩し、農村も愈々発展期を迎えてきた。昭和三十六年三月には農協合併助成法が公布されて、農協の組織拡大強化を計るようになり、更に同四十一年四月農協合併助成法一部改正法が参議院にて可決されるに至って、ようやく我々の話題にのぼるようになり、農協役員会の席上や特に農協青壮年部の役員会の議題として賑わうようになってきた。その当時、一般組合員には、合併の長所短所は論議されながらも、まだ合併の前途程遠しの感が強かった。一方、町議会や、農業振興会等でも合併の必要性が叫ばれたが、農協当時者には、時期尚早の気持が強かった。
それが近年になり、農業諸情勢が急激に変化を来たし、特に米の過剰から来る生産調整がなされるに至るや、生産意欲の減退延いては農外収入率の増加等によって、農協運営も逐次その成績が沈滞しだしてきたのである。ここに至って組合農家自体は勿論のこと、農協もこの際大同合併によって組織を拡大強化し、これに対応することの必要性を痛感するようになってきた。農協合併助成法による助成措置も後僅かにして期限切れとなることも手伝い、またその筋の指導もあって松任市に於て、同四十六年初めより数度の会合のすえ、大同合併の気運が急速に高まり、遂に同年五月松任市管内の十三農協が寄り合って、合併促進協議会が発足したのだった。
郷農協に於ては同四十六年四月十三日の役員会に初めて議題として出され、全員一致で松任市合併に関する協議に出席する事を決めた。次いで五月十九日の役員会では合併促進協議会規約の検討に入り、合併促進委員に北村組合長のほか徳田勲氏を選んだ。越えて六月十七日に役員会を、六月十九日には生産組合長会議を招集し、松任市農協合併に関する経過の説明と、郷農協の取るべき態度を検討した。各集落に於ても、それぞれ会合を重ねたが議論百出して容易に纏まらなかった。更に七月五日及び八月九日の役員会でも結論が出なかった。一方、松任市合併促進協議会では着々とその計画が進められ、合併予備契約調印へと接近してきた。問題の焦点は行政区域を異にする組合員が、従来通り郷農協としておるか、松任市合併農協に参加するか、野々市地区が独立するか、野々市町合併を喚起させそれに参加するか、富奥農協、野々市農協のいずれかと合併するか等いずれにしても大変なことばかり、容易に結論の出ないのも無理からぬことであった。
しかしながら大局的には時勢の流れにはいかんともしがたく、この際合併に踏み切ろうとの考えが漸次高まり、松任地区は松任へ、野々市地区は野々市へ合併しようとの考え方から、八月二十八日の役員会には松任市合併予備契約書の調印について協議したのである。
以上の経過が示すごとく全国的にも稀に見るケースであるために、役員会の度に農協中央会からも指導に来られ、実質的に郷農協解散後双方へ同時に合併出来る方法が、事務的にどうすればよいかが論議され、結局は覚書をつけることにして、その内容が検討された。
かくして九月六日は朝から緊急役員会が招集され、予備契約附属書、覚書甲としての内容の再検討に入り、最終的に松任市長及野々市町長立合の上で署名調印することで、円満に話し合いが出来、同日午後、農協連石川支所に於て、松任市農協合併予備契約調印式が行われた。次いで九月十四日には役員会に於て、野々市農協との合併について話し合いが進められ、その促進委員として、北村組合長、藤田専務、清水卜一、古田義明氏等を任命したのである。その後野々市農協との話し合いも順調に進められたことは申す迄もない。
かくて十月十一日の役員会には双方の合併促進の経過が説明され、終始なごやかな雰囲気の中に話し合いが進められた。
さて、十月十八日の役員会はいよいよ財産分割の話に入り、固定資産の分割で野々市地区では、現事務所及びその附属建物(倉庫三、作業場、資材置場、プロパン貯蔵庫等)三日市倉庫を所有したい旨の申し出があり、一方評価については、土地は松任市役所・野々市町役場の固定資産課の方で再評価したものと、鑑定士(一人指定)の再評価したものにより、建物は帳簿価格を基準とする等を申し合わせた。十一月十九日役員会では、野々市地区の申し出を了として、松任地区は購買店舗と準低温倉庫、横江倉庫を所有することとした。
土地の評価については、双方役場の了承は得られず、鑑定士のみの評価の発表があり、十二月十七日の役員会も、双方の合併委員会の経過を聞き、終始組合員に協力を求めながら越年した。
年が明けてからは一月二十九日の役員会で早くも二月二十日に予定される郷農協解散総会に於ける議案の説明があり、いよいよ解散合併の実現の可否決定が身近に感ぜられ、ひとしお緊張感を覚えてきた。
なお、財産分割については、機械数や自動車、備品にいたるまで分割案が示されるようになって、二月四日には役員会に引続き生産組合長と合同会議の機会も設けられ、その後毎日のように最終的な部落座談会が設けられて着々とその準備が進められてきたのである。
かくして二月十七日役員会に於て最終的な財産分割に入り固定資産の分割表が作製され、その附属設備・機械装置・車輌運搬具・器具備品等にいたるまで細部にわたり審議決定された。特に土地については郷農協の野々市町地区へ分割の土地を評価し、簿価を差し引いた評価益一一、六〇九、八三八円を野々市農協と郷農協が売買契約を結ぶことを全員一致で賛成をした。
なお、郷農業協同組合野々市町地区分割合併に関する覚書を了承して、翌十八日に野々市町役場に於いて、その覚書が調印された。同十九日緊急役員会が夕刻開かれ、かねてから話題になっていた酒小売販売権移転について審議され、小委員会を設ける等して、結論的に購買店舗の位置より、事務所の地に移転することを決定することとなり、総会前日の夕、最も困難とされていた財産分割の議が終始なごやかに進められ、酒販売の権利移転の件を最後として、円満裡に終わったことはまことに感慨無量であった。
二月二十日、第二十五回昭和四十六年度通常総会が午後一時三十分より、農協事務所講堂に於て二五六名の出席を得て、いとも厳粛裡に開催された。組合長の挨拶は組合六十年の歴史を閉ずるにふさわしい胸にこみあげるものを感じさせた。
小堀一郎氏の「組合長へ一任」の発言を以て選ばれた松江勇美、北喜一両氏の議長団によって議事が進められた。
第一号議案は異議なく承認され、第二号議案は提案説明が終わった一瞬、何ともたとえようのない一種の悲愴感と思われる沈黙がつづいた。議長が「異議が無いようですから原案賛成の方は拍手を以てお応え下さい」の発言で満場われるような拍手が誰からともなく起こって、遂に松任市農業協同組合を設立することが承認されることとなった。引き続き第三号議案、第四号議案、第五号議案が一括上捉され、その説明があったが、これも一言の質疑もなく満場の拍手を以て原案通り可決され、第六号議案は設立委員に北村利一、徳田勲両氏を選任し、次いで第七号議案、第八号議案もさきと同様拍手を以て、郷農協解散と松任・野々市両合併諸議案が全員満場一致で何の異論もなく可決されるに至り、ついで第九号議案も異議なく可決され、ここにその一切が終わったのは午後三時であった。この日一斉に総会が開催されている十三農協の内で、最も早く可決されたことも何とも他に例をみない感激といえよう。
全国に類例をみないという特殊な条件を有する郷農業協同組合が、衆人環視の中に最も円満なうちにまた最も速やかに合併のための解散が可決されたことは誰も予想し得なかったことであり、不思議と思われるほどであった。
これは郷地区組合員が終始真面目に真剣に合併問題を討議し、急速に進展しつつある時勢の流れをよく認識して、新しい時代の建設により積極的に取り組まんとする意欲が極めて旺盛なるあらわれであると感ずるものである。特に財産分割についても、お互いの立場をよく理解し合って、組合長はじめ役員間の終始冷静なる話し合いが進められたこと、それにいたる迄の石川県関係機関の方々、県農協中央会の方々、松任市及び野々市町当局の方々、松任十三農協・野々市町農協の方々等たくさんの方々による並々ならぬ特別の御指導御鞭撻があった賜であると、ただただ感激にたえず、うれしさがこみあげてくるのを押さえきれない次第である。
私共組合員は、ここに組合六十年の歴史を閉じて新しい組織へと袂を分かつのであるが、日常の生活には変わりなく、お互い住む場所も変わるのではなく、農業を営むことには何等変わらないことであって、今後益々お互い組合員の健康とよりよき発展を念じて止まない次第である。
昭和四十九年
理事 西川外喜男 宮岸信三 小堀英昭 黒山茂
監事 中村清勝 塚岸敏夫
昭和五十二年
理事 西川外喜男 宮岸信三 小堀英昭 黒山茂 中村清勝
監事 塚岸敏夫
昭和五十五年
理事 宮岸信三 中田正治 瀬川郁夫 小堀英昭
監事 内田工 岡田昇
昭和五十八年
理事 堀中威 中田正治 市川春男 中山久男 小堀英昭
監事 宮岸信三
昭和六十一年
理事 市川春男 中山久男 堀中威 村外代昭
監事 宮田文雄
平成元年
理事 市川春男 北村幸夫 堀中威 村外代昭
監事 小堀三郎
昭和三十二年十二月、野々市町へ分村した郷地区にいる五十五歳以上の男女及び五十五歳未満の世帯主を会員として郷地区老人合掌会が結成された。吾等は今己に受け難き人身を聞き難き仏法を聞かせて戴きつつ、健康に恵まれて年齢各々還暦に近づき、又これを越えて在る身の幸福の喜びと感謝と奉仕の念を以ておくるを目的としていた。金沢別院竹中輪番より合掌会の名を受け、仏像十字御名号を東本願寺より受け、同時に仏貝を購入した。
昭和三十八年十月老人福祉法公布施行により、野々市町郷地区老人クラブ合掌会となる。
本会は、会員相互の親睦を図ると共に健全にして豊かな生活の建設につとめ、かつ地域社会との交流を深めてその発展に寄与することを目的とし、年齢も六十歳以上とし、該当者のいない六十歳未満の世帯主も会員として迎えることとした。
昭和五十四年三月、名称を野々市町郷地区松寿会と改め会旗を新調した。
昭和六十二年四月、野々市町郷松寿会と改める。
昭和三十五年~三十八年 辰巳善光
昭和三十九年~四十一年 藤田孝正
昭和四十二年~四十三年 小杉徳松
昭和四十四年~四十六年 北村信介
昭和四十七年~五十三年 中村与作
昭和五十四年~五十七年 岡田先一
昭和五十八年~六十一年 岡田一郎
昭和六十二年~平成元年 辰巳善夫
もくせい会(郷村分村の名ごり)
昭和三十一年九月、町村合併により当郷村も心ならずも分村の不幸にさらされた。
当然すべての物が取りこわされ処分された。(忠魂碑は別)東(野々市)西(松任)にたもとを分つ事となった。
当時の有志者は、後世に名を残す記念品をと心をくだいた。そして郷村小学校正面左のぎんもくせい(樹令一五〇~二〇〇年)と二宮尊徳像を東・西両者間で、壮烈な争奪戦を演じ、見事野々市への移転に成功した。
もくせいは現在野々市小学校正面左に移植され、二宮尊徳像は郷公民館前に移転された。(現存)
当時の合言葉に「もくせいの樹の基に集まろう」と、郷地域団結のシンボルとなった。(他地域は無い)
もくせい会は、そのシンボルにちなんで付けられた会名であり、名実共に何世かわれど其の名を残したく思います。
第一条 本会ハ進展スル時代ニ対応シ現代生活ニ落伍スルコトナク、会員相互ノ親睦ト教養ノ向上ヲハカリ地域社会ノ発展ニ盡スヲ目的トス
第二条 本会ハもくせい会ト称シ事務所ヲ野々市町郷公民館ニ置ク
第三条 本会ハ会ノ目的ニ賛同スル四十五歳以上ノ男ヲ以テ組織スル
第四条 本会ハ目的達成ノタメ毎年度、初メ事業計画ヲ作成シ、ソノ実践ニ努メル
第五条 本会ハ左ノ役員ヲ置ク
会 長 一名
副会長 一名
会 計 一名
監 事 二名
第六条 役員ハ総会ニ於テ選出スル
第七条 会長ハ本会ヲ代表シ副会長ハ会長ヲ補佐シ会長事故アルトキハ其の職務ヲ代行スル
第八条 役員ノ年期ハ二ヶ年トシ再選ヲサマタゲナイ
第九条 本会ノ決議機関トシテ総会ヲ開キ左ノ決議ヲ行フ
1会則ノ変更
2事業計画
3予算及決算
4役員ノ選出
第十条 総会ハ代議員会ヲ以テ代エルコトヲ得
第十一条 総会ノ議事ハ出席者ノ過半数デ決シ可否同数ノ場合ハ議長ガ決スル
第十二条 本会ノ計費ハ会費及寄付金ヲ以テ充テル
郷校下青年団は昭和三十一年九月三十日の野々市町編入により、野々市町連合青年団の一員となり、分村合併による団員の減少にも屈する事なく新生校下団として出発し、翌年の一月十三日高岡町中学校で行われた青年産業研究大会石川県大会には、元村和生氏の「私の電熱育苗による研究」。東茂氏の「酪農経営による私の体験」、福田喜代美さんの「私の作業衣について」の各三氏を町の代表として県大会に派遣し、それぞれの部門でおのおの一位に入賞するなどして大いに気をはいた。又公民館を建てた翌年の三十三年、八月には郷公民館前にて納涼盆踊りを行っている。
当時は、校下団より町連合青年団の文化、社会、産業、体育、家政の各部へ委員を選出し、各部が中心となり青年団活動を活発に行っていた。
昭和三十四年度には、校下より東茂氏を石川郡の連合青年団長に選出し、皆んなで盛りたてた。東氏は翌三十五年には、石川県青年団協議会の副会長にも選出され、当時の青年団は県下のリーダー的存在ともなり、団活動も活発に活動いたし、地域の活性化に大いに貢献したものであった。
しかし、昭和三十四年十二月二十日町連合青年団組織の発展的改編により、野々市町青年団に統一し、郷校下の青年団は郷支部となった。昭和三十七年には黒山茂氏を郡連の団長に選出し、青年団活動に大いに気をはいたものであった。
昭和三十九年度野々市町青年団の主な事業を見ると、公明選挙運動、バス旅行、支部対抗ソフトボール大会、キャンプ、県白山美化運動、東和盆踊友情出演、八ッ尾盆踊り視察、野々市中学校での第一回青年文化祭、白山公民館においての合宿講習会、クリスマスパーティー、保育所訪問があげられ、又町事業においては青年学級、成人式、八月十五日の盆踊り大会参加と数多くの活動があった。又、上部団体事業の郡青年体育祭、文化祭、県青年体育祭、文化祭にも参加し、優秀な成績を納めている。又、東京で行われた全国青年問題研修集会には、内村栄一氏が県代表として参加している。
さらにこの年には、東京オリンピックがあり、聖火が国道八号を通過するため、婦人会と合同の美化運動が行われた。
又、グループ活動も盛んでレコード、ダンス、歌声、演劇、写真、生花、料理、手芸、日本舞踊などがあった。
昭和四十年代に入っても活動は盛んに行われ四十年及び四十四年の全国青年大会の郷土芸能部門に「野々市じょんから」をもって参加、四十七年の県芸術祭に「あさぎ返し」で参加している。
しかし、四十年代も後半になってくると、高度成長化の波が青年団にもおしよせ、産業基盤の変化等により、団員の減少、リーダー不足に悩まされ支部もなくなっていった。
しかし、青年独自の新しい発想と力で、五十年代に入ってからは、少しずつ活発となり、五十三年には青年団組織をふたたび連合青年団とし、郷地区、押野地区は御園青年団となった。
さらに六十一年には町の発展、住民層に対応し、校下制とし、郷地区でも御園小学校下は御園青年団、野々市小学校下は野々市青年団となった。
現在、活動は低迷気味ではあるが、地区運動会、成人式、敬老会、盆踊り指導等にはなくてはならない存在となり、地道な活動を展開し町の発展に寄与している。
昭和31年 9月30日 郷校下青年団町村合併により野々市町へ編入
野々市町連合青年団の一員となる
昭和34年12月20日 野々市町連合青年団の組織を発展改編、名称を野々市町青年団とする
郷支部、野々市支部、押野支部、富奥支部となる
昭和53年 7月 6日 野々市町青年団の組織を発展改編、名称を野々市町連合青年団とする
郷地区、押野地区は、御園青年団となる
富奥地区は富奥青年団となる
本町地区は中央青年団となる
昭和61年 4月 1日 野々市町連合青年団は校下制となる
御園小学校校下は御園青年団とする
野々市 〃 野々市 〃
館野 〃 館野 〃
富陽 〃 富陽 〃
菅原 〃 菅原 〃
大日本帝国(愛国)婦人会の名のもと、ひたすら従え従えと聞かされ続け、夫に、家に、国に、姑にと尽くし続けて大和撫子日本の女性を目指した婦人会にも、戦後十年間のドサクサ生活の中から、そろそろ自分たちの生活に疑問を抱きはじめたのが、昭和三十年代に入ってからだろうか。僅かに残された記録簿をたどりながら次のようにまとめた。
昭和三十一年、町村合併による郷村解消に当り、郷村の農業委員会の存続の要が無くなった時に、委員達により親睦団体として存続したのが七夕会である。その名付け親は北村敦丸氏。毎年一回七夕祭の日に懇親会を催していたのが、年月の経過により生存者が少なくなり、開店休業状態になっている。
会員名 住所 (順不同)
堀新助 ・堀内 徳田久他・田中
杉本秀吉・堀内 中川直二・徳用
○清水ト一・堀内 竹村勇次・専福寺
村正行 ・稲荷 塚岸又一・蓮花寺
○北村仁勝・二日市 ○柳田由巳・田尻
副田政一・長池 ○内田工 ・柳町
○竹本清次・横江 水野弘 ・番匠
宮江友吉・横江 (○印は現存者)
北村敦丸・横江
第一章 総 則
第一条 本会は郷忠魂碑保存会と称し、事務所を郷農業協同組合に置く
第二条 本会は戦歿者の霊魂を顕彰するを目的とし併せて会員相互の親睦を計るものとする。
第二章 組 織
第三条 本会は会員組織とする
一、会員 郷在住者にして本会の趣旨に賛同せらるる方
第三章 事 業
第四条 第二条の目的を達成する為、左の事業を行う
一、郷忠魂碑を永久に保存する為の奉仕活動
二、戦没者の霊魂を顕彰し、国民道徳実践の為の活動
第四章 役 員
第五条 本会に左の役員を置く
一、会長一名 二、副会長二名 三、会計係一名 四、庶務係一名 五、監事二名 六、委員若干名 七、顧問若干名 八、参与若干名
第六条 役員の職務及び権限は左の通りとする
一、会長は本会を代表し且会務を総理する
二、副会長は会長を補佐し、会長事故あるときは之を代理する
三、会計係は本会の経理を処理する
四、職務係は本会の庶務を担当する
第七条 役員の任期は二年とし毎年総会に於て改選する。但し再選は防げず
第五章 会 議
第八条 会議は左の方法に依る
一、総会は毎年一回之を開催し必要に応じ、臨時開くことがある
二 委員会は委員を以て組織し必要に応じ会長之れを招集する
第六章 会 計
第九条 本会の経費は会費及び寄付金を以て之れに当てる
第十条 会計は毎年三月三十一日を以て決算し、其の状況を総会に於て報告する
第七章 其 の 他
第十一条 本会会則の変更は総会に於て之れを決定する(昭和二十七年八月十四日設立)
歴代会長名簿
就任年度 会長 就任年度 会長
昭和二十七年 市川多吉 昭和三十年 竹沢伍生
昭和三十二年 杉本秀吉 昭和三十四年 徳田与三次
昭和三十六年 本田好 昭和三十八年 竹本清次
昭和四十年 堀中市三郎 昭和四十二年 宮下与真
昭和四十四年 副田政一 昭和四十六年 徳井外信
昭和四十八年 清水ト一 昭和五十年 宮西三郎
昭和五十二年 小堀英昭 昭和五十四年 北村剛
昭和五十六年 辰巳善夫 昭和五十八年 中村定雄
昭和六十年 北村義信 昭和六十二年 飯田茂樹
平成元年 内田工
郷の今昔