稲荷町は、以前は、戸数十四戸の純農村の集落だった。明治、大正から、昭和三十年代の中頃までは、おいしい米・麦・じゃがいも・なす・さやえんどう・白菜・キャベツ・大根などの豊かな産地として知られた。特に、なすは、「稲荷なすび」として金沢の町人から美味を賞され、有名だった。
稲荷神社のすぐ南側を、金沢から、松任、福井へと通じる北国街道(加賀街道)が通っていて、その道路ぞいに、北陸鉄道の松金線の電車が、チンチン、ゴーゴーとのんびり走っていた。街道には、大きな太い松並木が、遠く離れた田んぼからもきれいにならんでいるのが眺められて、春のしろかきや、田植え、秋の稲刈りと、四季を通して、美しく楽しい農村の風物詩が展開されていた。
昭和三十年代の後半、村上精工と高井製作所の工場が稲荷へやってきたのを先頭に、昭和四十年代はじめ、二日市町に、野々市駅ができ、稲荷から駅に向かって、駅前道路が開通した。そして、石川県原糸織物工業団地(二万坪)が稲荷の地へやってきた。更に昭和五十年代になると、金沢市の都市ドーナツ化現象により、多くの住宅・工場・事業所などのビルが建ち並び、今は、戸数四〇〇をこえる金沢市郊外の田園都市に変貌(へんぼう)した。二十一世紀の都市型社会へ向って、いち早く移行をはじめたのが稲荷町である。
昭和六十三年から、数て八八四年前、平安時代の後半、長治元年(一一〇四)加賀の国の国司である富樫家第九代の家近公が、この地に稲荷大明神を勧請(かんぜい)し、稲荷神社を創建された時に始まる
……豊受比咩命(トヨウケヒメノミコト)をまつる……
富樫家近公は、加賀の国府を今の能美郡国府村の地から、石川郡野々市に移し定めた富樫家第七代家国公の孫にあたる人である。
家近公は、身長一八〇cm、胸の厚さ四五cmもある大きな体格の人で、眼光も鋭く、ひげは針金のようにかたく、力の強い、すぐれた武人であった。しかし、住民には情け心のある、やさしい人であったという。
応徳二年(一〇八五)七月、時の帝(みかど)、白河天皇が、京の南の鳥羽(とば)の里に離宮(りきゅう)を造営されるにあたり、諸国の国司(こくし)に工事を命ぜられた。家近は、富樫家第九代の加賀の国司として、家来や人夫をつれて京にのぼり、工事に従事しているとき、こわれた石垣の下で、苦しんでいた三匹の仔狐(こぎつね)を助け出して、放してやった。その夜、夢に稲荷大明神があらわれ、「白狐(はくこ)を助けてくれた恩に感謝する。末ながく富樫家が富貴(ふうき)になるであろう」とのお告げがあった。それからというもの、加賀の国は作物が多くとれ、病気も少くなりました。また時々、稲荷大明神のお告げがあったので、家近は、長治元年(一一〇四)この稲荷の地に、りっぱな社を建立し、稲荷大明神を京都から勧請(かんぜい)し、狐の大好物の小豆飯を供えて、ていねいに祭りしました。これが、現在の野々市町稲荷の地名の由来である。
これから後、村で、めでたい時には赤飯をお供えするという風習が、加賀の国一円に広まったのである。
家近は、神仏を厚くうやまい、一層武を磨き、神仏の加護を信じて仁政をしいたので国は富み、人々の暮しは豊かになり、平和を楽しんだ。家近は、加賀の人々に、心から慕われて、一一七歳の長寿を全うし、惜しまれて世を去った。保元元年一一五六年のことである。
稲荷町に富樫家近公の力で、稲荷神社が建てられて(一一〇四)から、神社への神領の奉納や献穀田(けんこくでん)の開発やらで春秋の例祭のにぎわいが年と共に盛んになっていった。そして、家近死後も、富樫家代々の深く厚い稲荷信仰にささえられ、崇敬と保護をうけ、稲荷神社とその氏子たちは、永く栄えていました。稲荷信仰は、富樫本家はもちろん、分家の押野殿や、久安殿、有松殿も、それぞれ館(やかた)の内に小さな稲荷社を建て、朝夕に崇敬していた。
このようにして、稲荷町と稲荷神社の繁栄は、神社が創立されてから三八四年間の永きに及んだ。しかし、戦国時代のはじめの長享二年、(一四八八)六月、富樫家第二四代、富樫政親が一向一揆と戦い、戦死してから急速に衰えてしまった。国司守護から受けていた保護や神領など、ほとんど失うことになったからである。たけり狂(くる)うような一向一揆の炎は、高尾城を落しただけではすまず、富樫家に関連する館や、神社仏閣及び国府政庁の焼討により、貴重な記録・歴史資料のほとんどと、文化財を灰にしてしまったことは、誠に残念なことであった。この記録が焼けなかったら、富樫家だけでなく、稲荷神社に関するその当時の建物の大きさとか、神領とか、年中行事などの詳しいことが、今に伝えられたであろうに、戦国の世とはいえ、惜しみても余りあることであった。
富樫本家の滅亡後も、その一族である押野殿の子孫(例えば押野の後藤家)をはじめ、縁につながる人々の稲荷信仰と、また、稲荷神社氏子で、昔、盛大だったこの神社を守ろうとする稲荷の家々の子孫に伝える強い力で、細々ながら、命脈を保つこと三八〇年余り、北雪北花幾星霜(ほくせつほっかいくせいそう)、稲荷神社と苦楽を共にした長い年月をすごし、ようやく明治の世を迎えたのである。江戸時代の末頃、天保年間には、稲荷神社の神領は、竹やぶと水田は草高僅かに七石であった。(明治初年の戸数十四戸)いずれにしてもわずかな戸数の農家が、広い広い稲荷の竹薮のかげに藁ぶきの貧しい農家が五~六軒、肩をよせ合うようにして部落をなして、かたまっていた。幸いにも、稲荷神社の横を北国街道が松並木を並べながら通っていたので、その道端で食物をならべて売ったり、旅人に湯茶を供して僅かな銭をもらったり、道の掃除や草刈り、河川の工事の人夫などをしながら田畑を耕作していたのである。春田おこしの力仕事の時だけ男の人は米の飯にありつけた。それ以外は、いつも、雑穀の粟・ひえ・麦など、特に大麦の麦こがし粉(こ)で、いりこをかいて腹をふくらますのが常であった。藩役人の取立ては厳しく、苦しい年貢(ねんぐ)の納め時を過ぎると、どこの家にも米はほとんどなかった。
こうした貧しい暮しの中でも、朝夕に拝(おが)む霊峯白山の雪と、それが解けて流れる水に感謝すると共に、稲荷神社に農作物の収穫の御初穂を供えて、春秋の祭りをおこたりなく奉納してきたのであった。(稲荷村人の耕作範囲は現在の稲荷町地内の全域に及んでいた。)
明治になるまで、素朴で楽しく、そして、つよく暮して三八〇年。稲荷の村人は、稲荷神社の神領を守りつづけたのである。
草高(くさだか)七石(こく)、反別(たんべつ)四反(たん)一〇歩一二一〇坪の最小の神領だけは守った
(一五八歩…耕地 一○五二歩…宅地)九戸……神領外にも五戸か六戸すぐ近くに住んでいた。
稲荷神社の社殿の改築を明治九年頃に行った。戸数は僅かに十四軒であった。それが一致団結し全力をふりしぼって、それこそ命がけで改築したのである。今とちがって、それほど豊かな暮しでない時代であったから大変なことであった。
明治九年、稲荷神社造営につとめた人 ◎印は、宮総代
宮岸市三郎 松田市三郎(次兵衛) 宮崎長太郎(又三郎)
松本源兵衛 東 市三郎 ◎中野七郎右ェ門
平野長右ェ門 北村 次助 中村 仁三郎
中村権兵衛 ◎坂本 次助(茂助) 村 清左ェ門
◎竹田六兵衛 元村清右ェ門(与太郎) (丹波小三郎)
稲荷神社氏子総代
明治七年十月
中野七郎右ェ門、竹田 六兵衛、坂本 次助(その子=茂助)
明治十五年
平野伊三郎、元村与太郎、東 市三郎
明治二十九年
平野伊三郎、松本源兵衛、松田市三郎
明治三十二年
平野伊三郎、松本源兵衛、村 清左ェ門
明治四十一年
平野伊三郎、宮岸伊三郎、村 初三郎
大正六年
平野伊三郎、宮岸伊三郎、村 初三郎
稲荷神社宮司…野々市本町三丁目一の一
明治二十八年 掘多寿美(男)
明治四十一年 堀彦三郎
昭和 十五年 堀彦三郎
昭和 二十年 堀弘代(男) 戦死
昭二十一~昭三十七 堀美由起(女)
昭三十八~現在昭和六十三 堀 博
明治大帝の下、明治政府のとった文明開化の政策により、僅かながらも、村にも活気が満ちてきた。特に、日清・日露の戦役に日本国が勝利を収めてから、意気が盛んになった。生活はそれほど楽になったわけではなかった。明治九年三月田中にできた郷小学校へ通う子供が増えてきて、文字の読み書きができる人が多くなった。
明治三十年代末には、北陸線が金沢までついた。
僅か十四戸の稲荷部落でも、日露戦争で、二人の若者が戦死した。
明治三十七年七月三十日 歩兵上等兵 北村次作戦死
明治三十八年一月 三日 歩兵一等兵 竹田藤吉戦死
田のあぜがくねくねと曲がっている田を耕作するのは、大変苦労であった。水の灌排水、あぜぬりなど不便で、手数がかかった。それで、明治四十三年から大正四年まで、六ヶ年の歳月をかけ、巨額の費用と村をあげての労働力を投入して完成させた。東西南北に、直線で走るあぜと農道と水路を造った。一枚の田は二〇〇歩の広さにはぼ統一した。七ヶ用水の中の富樫用水から引かれた水路が縦横に走り、灌排水が便利になり、米や野菜の収量が一段と増加した。
この大事業にがんばった稲荷の十四戸の人々。(戸主のみ記す)
平野伊三郎 村 初三郎 北村信介
竹田 竹吉 中野七郎右ェ門 宮崎長太郎
元村 清正 坂本弥三次郎 宮崎又三郎
松田初三郎 中村 庄次 村 市三郎
宮岸伊三郎 松本伊三郎
今日のような土木機械やトラックがなかった昔だから、もっこにてんぴん棒、トロッコに積んだ土を来る日も来る日も押して、押して押しまくって、その労苦は言語に絶したものであった。
町名が、三日市、治〇番地、正〇番地となった。役場の台帳から、稲荷という名前が消えたのは、長い八八〇年の稲荷の歴史の中で、明治八年から昭和三十年までの八十年間だけであった。しかし、人々は稲荷という呼び名を守りつづけた。
耕地整理の完了した大正二年に北陸線が全線開通し、大正四年に、松金電車が開通した。
大正四年から石川県の奨励により、模範共同苗代をつくった。大正六年から、石川郡の奨励により農事実行組合をつくり、農業の共同経営を始めた。この経営には元村清正氏が活躍した。全国各地から参観者が稲荷のたんぼへやって来た。この頃稲荷は農業経営の日本一の先進地であった。しかし、昭和のはじめ、解散した。元村清正は郷村役場で収入役をつとめた。
大正三年から始まった第一次世界大戦は、日本にとって大きな経済的利益をもたらした。農村も豊かになった。
明治末から、大正時代に、兵隊に行った人は、
元村清正、宮崎稲納、松本秀松、宮岸孝次郎
昭和三年から昭和六年頃、世界的不況のあおりで、農村も、かなり影響をうけた。
昭和六年から、中国との戦争が、満州で始まり、昭和十二年には日中全面戦争となった。稲荷からも、兵隊に、満蒙開拓義勇軍にと若者が多く出かけた。戦争が拡大するにつれ人手不足となり、食糧増産・軍需物資増産に全力をあげて努力したが、思うようにならず、物資不足のため、村人は苦しい生活をしいられた。
満蒙開拓義勇軍 - 平野栄政 現役兵 - 平野良一(近衛師団)
坂本六郎(第九師団歩兵第七連隊)
召集されて兵隊に行った人 - 宮崎次納 北村義信
中村好雄 平野栄政
この頃、石川郡郷村の村議会議員として、平野伊一氏が活躍した。
昭和十六年十二月八日、日本は遂に、米国や英国までを相手とする世界大戦に突入した。そして、ソ連までが不可侵条約を一方的に破って侵入するに及び、昭和二十年八月十五日、日本の有史以来初めての、無条件降伏という大敗北の日を迎えた。
この戦争中、北国街道の美しい松並木も切り倒されて木造船の材料とされ、根は松根油を採るために掘り起こされた。
稲荷の戦死者 昭和二十年八月十三日 陸軍歩兵曹長 平野良一(近衛師団)
ソ連は敗戦後の日本兵を大量にシベリヤへ連れて行き、苦しい強制労働にこき使ったので、多くの兵隊が異国の丘で死亡した。このことを日本人は、永久に忘れてはならない。
昭和二十年八月、十五年間にわたる長い戦争が、無残な敗戦をもって終りをつげた。国内の都市は、すべて焼野が原と化し、人々は疲れはてた。戦場から兵隊が帰ってきたが、物資不足の中で苦しい生活を堪えねばならなかった。
アメリカ占領軍が、日本中をいばり歩いた。
昭和二十二年、マッカーサー占領軍指令官の命令で、農地改革が行われた。稲荷町では、小作地、一二五筆、八・二haが自作地になった。
村人は、朝から晩まで働いて、敗戦後の復興に力をつくした。
昭和二十五年に起ったお隣りの朝鮮戦争で、日本は軍需景気のために急速に経済的復興をなした。
昭和三十一年九月三十日、郷村の東半分が野々市町へ合併し編入された。稲荷は、この時、明治八年から八十年間続いた三日市という呼び名を脱して、野々市町字稲荷町〇〇番地となり、稲荷という本来の名称を回復した。まことにうれしいことであった。戸数は十四戸であった。
昭和三十年には、大正四年から四十年間、稲荷の人々から親しまれた松金電車が廃止となり、北陸鉄道バスに代わった。
昭和三十年代の後半から、日本の経済は高度成長期に入り、村人の生活は豊かになりはじめ、大きく変化しだした。昭和三十七年に、稲荷へ移転して来た高井製作所(豆腐製造機械製作の全国トップメーカー)へ勤務する人が、稲荷十四戸中、六戸になった。-竹田、平野、宮崎昭、宮岸、村規、松本-そして、専業農家はなくなり、全部が兼業農家になった。藁(わら)ぶき屋根の農家は、瓦ぶきの都会風の住宅に建てかえられた。
昭和三十八年、北陸線は複線電化が完成し、昭和四十三年、野々市駅が設置された。駅設置資金を稲荷の人々は負担し協力した。
昭和四十年代から五十年代にかけて、多くの会社・工場・住宅が稲荷町へ移転してきた。戸数も、十四戸から戸数二〇〇に近づいた。
昭和四十七年、郷農業協同組合は、東半分が野々市農業協同組合に合併、編入した。
昭和五十年代に入ると、ますます多くの住宅や、工場、事業所が、無秩序に稲荷町へやってくるようになり、これでは土地が虫喰い状態となり、乱開発を防止するために、市街化土地区画整理組合を、稲荷・野代・押越の三町と三日市の一部が共同して結成し、大事業を遂行することにしたのである。昭和五十二年末のことである。(昭五十二・十二・七~昭六十・六・八)
野々市西部土地区画整理組合 (事務所…稲荷町集会所内)
理事長 村外代昭(稲) 理事 松島俊治(押) 理事 西川新一(野)
副〃 北村俊雄(野) 〃 坂本六郎(稲) 監事 村規久男(稲)
副〃 松下武文(押) 〃 宮岸信三(稲) 〃 西川省造(野)
理事 竹田宏行(稲) 〃 北勉(三) 〃 小畠定成(押)
〃 宮岸喜信(野) 〃 小林和雄(押)
この大事業に参加した稲荷町の旧農家の十四戸の人々(戸主のみ記す)
宮岸信三 宮崎昭次 宮崎次納 松田吉次 村規久男 中村一好
村外代昭 松本和夫 平野栄政 竹田宏行 坂本六郎 元村和生
中村久雄 北村義信
八ヶ年余の歳月と、二二億二〇〇〇万円の巨費を投じた。並木の植えられた立派な街路、そして巾六m、九m、十二m、十六m、二十mの完全舗装道路、その下には、上水道の導管が埋められており、水路排水は、すべてコンクリート三方護岸で、東西、南北に整然とした市街区画が完成した。住宅一戸分の面積は、約七五坪を標準とし、公園は、西部全体で六ヶ所、その中、稲荷地内には三ヶ所設置された。(旧集落のすぐ北隣に稲荷第一児童公園、旧墓地に、墓地公園(第二児童公園)、御園小学校の南に、御園公園……ここに工事完工碑あり)
稲荷町十四戸の農家の耕作面積は、半分以下になった。
昭和三十二年……二〇・五ha(二十町五反)
昭和四十六年……一二・九ha(一二町九反)
昭和 六十年…… 八・三ha( 八町三反)
昭和五十二年に稲荷町集会所がつくられた。初代所長、元村和生氏。
昭和五十四年四月、稲荷町から野々市町議会議員に、平野栄政氏が当選した。昭和五十八年四月には、二回目当選。昭和六十二年四月には、三回目の当選を果たし、現在、三期目で、稲荷町及び、郷地区発展のために大きく活躍してもらったが、平成元年六月病気でなくなった。六十二歳、誠に残念なことであった。
昭和五十三年四月、稲荷地内に野々市町立御園小学校が開校した。
また、そのすぐ南隣の地に、野々市町立働く婦人の家が開設された。(館長…中原信子)
昭和五十九年、稲荷町の土地区画整理事業の完成記念事業として、また、広く町民一般からの協賛を得て、新しく荘厳な稲荷神社々殿が完成した。(費用は一億円余り)屋根は、銅板葺きの総ひのき作りで、社務所と、御手洗所、おみこしまで備えた華麗なもの。昭和五十九年十月二十一日には、盛大な慶賀祭が挙行され、完成を祝った。第一回目のおみこしワッショイが、にぎやかに、町内を廻った。
第九代富樫家近公が、稲荷神社を創建された長治元年(一一〇四)から数えて、八八〇年目のことである。家近公も、心から喜んでくれていることと思われる。
稲荷神社建設委員
委員長 竹田宏行 委員(氏子総代)松本和夫
委員 村外代昭 〃 〃 中村久雄
〃 宮岸信三 〃 〃 北村 義信
稲荷神社の歴代の氏子総代(大正末頃から昭和五十八年まで)
(村 権次郎、坂本弥三郎、平野 伊一)
(宮岸孝次郎、北村 信介、宮崎 稲納)
(松本 秀松、中野 政一、村 正行)
(村 正行、松田 吉次、村 市三郎)
(宮崎 次納、坂本 六郎、平野 栄政)
昭和五十八年十一月から町内を、稲荷一丁目~稲荷四丁目とし、稲荷神社は、稲荷二丁目一番地とされた。(町役場台帳)(五十八・十・二十九)
稲荷町は、平成元年末には戸数四〇〇をこえ、工場や事業所なども五十をこえ、新旧町民仲よく、融和親睦して、平和と繁栄を享受する日々を迎えている。そして、日本国は敗戦後四十年で、世界の経済大国にのし上がっていた。
町内会組織。十二の班にわかれ、班長会は毎月一回、十五日の夜、稲荷町集会所に於て開催される。町内諸行事、役場や連合町内会からの案件、問題案件の審議、対応を相談し決定し、実行にうつす大事な組織機関である。昭和五十五年に、それまで成文化されていなかった稲荷町町内会規約を、竹田宏行氏が中心になり成文化し、稲荷町内会会則とした。この会則に基づく年一回の町内会総会に於て、町内会会長が選出される。町内会には、防犯部・体育部・青壮年部・婦人部・子供会の五つの部会があり、それぞれ多くの年中行事をもっている。
稲荷町々内の多くある行事の中でも、稲荷第一児童公園で、七月末に行われるサマーフェスティバルと、御園小学校のグランドで九月に行われる稲荷町大運動会には、町内の四〇〇世帯の老若男女のすべてが参加し、盛大に催されて親睦の実をあげている。
旧農家十四戸は、稲荷町第一班二十二戸の中に含まれ、旧区長のかわりに第一班班長をおき、別に農業関係は、従来通り生産組合長をおいて処理している。
第一班、特に旧農家十四戸の昭和六十三年(六十二)現在の主な役職者は次の通り。
野々市町議会議員 平野栄政 稲荷町担当民生委員 中村久雄
野々市町教育委員会委員長 坂本六郎 稲荷町集会所所長 村規久男
野々市町農業委員会副委員長 竹田宏行 稲荷町生産組合長(63)村竹治
野々市町水道審議委員長 宮岸信三 稲荷神社氏子総代 松本和夫
野々市町農協理事 宮岸信三 〃 〃 中村久雄
〃 〃 村外代昭 〃 〃 宮崎昭次
野々市町働く婦人の家長 中原信子 稲荷神社奉賛会会長 宮岸 信三
野々市町第三消防団団員 村竹治 第一班班長(62) 元村和生
野々市町 〃 中村茂 〃 (63) 平野政昭
野々市町 〃 村上市 稲荷町体育部長(63) 竹田茂継
野々市町郷公民館運営審議委員 元村和生 稲荷町防犯部長(63)松本勇
次に、ここ数年の稲荷の町会長を記す。
昭・五十五・竹田宏行、昭・五十六・坂本六郎、昭・五十七・坂本六郎、昭・五十八・平野栄政、昭・五十九・村上長松、
昭・六十 ・柴 久雄、昭・六十一・野崎時昭、昭・六十二・本山竹夫、昭・六十三・清水 弘、平・ 元 ・藤村政喜
主な事業所 ( )の中は、稲荷に開設された年
高井製作所(昭三十七年七月)村上精工(昭三十六年七月)石川銀行野々市支店(昭四十五年十月)国土開発(昭四十六年五月)米原レッカー(昭四十四年十月)是則運輸(昭四十七年三月)丸和製作所(昭四十二年二月)東原装飾(昭四十一年七月)柴電気(昭四十六年十月)ダスキン(昭和五十二年五月)米屋(昭和六十二年)村工務店(昭和三十八年)北陸ナショナル家電販売(平成元年)
江戸時代から明治にかけて、稲荷の墓地は集落の北方にあった。
その後、稲荷集落の西北、三日市集落の東に当たる地に両集落の墓地がいっしょになって、明治末、耕地整理後、共同火葬場とそれを囲むように各家の墓が集っていた。昭和三十年代に火葬場をとりこわし、昭和五十三年には土地区画整理のため今までの墓地は公園となり、その西隣りに、田一枚分西へ移動して新しく墓地が造られた。新町民の墓地もうけ入れ、墓が倍増した。
稲荷集落の中央で、平野栄政宅と松田吉次納屋の間に、古い井戸があった。明治、大正、そして昭和二十年代まで、十四戸の農家は、この井戸の水を朝に夕にバケツに汲み、せっせと家へ運ぶのが日課だった。水汲みに集まり、順番をまつ間に、色々な情報が得られる。打ち合わせがなされる。相談がはじまる。井戸端会議ということになる。運ぶ量も子供は小さなバケツで、大人は大きな手桶で、てんぴん棒をつかう。家へ運んで水瓶(がめ)に入れて、木のふたをしておく。大切な飲料水となるわけだ。その頃は、洗濯は川水で、ジャブジャブ、風呂の水も川水であった。今のようにきたない川でなかった。昭和二十年代になると、井戸の水をモーターで汲み上げ、パイプを通して家々の台所へ導く簡易水道がはじまった。しかし、それも昭和三十年代になると、野々市町の上水道が入るようになり、簡易水道の使命は終わった。それは、近くに明治乳業はじめ大工場が多くできて、地下水を大量に汲み上げてしまい、集落の昔からの小さな浅い井戸など、みんな干(ほ)し上がってしまった時期でもあった。
稲荷町は、野々市町上水道が各家に入り所々に消化栓が設けられ、旧集落の西と東の二ヶ所に大きな防火用水地下槽が造られた。
稲荷集落の中央で平野栄政宅の傍に、可愛い地蔵さまが祀(まつ)られている。四季の花々が絶えることなく供えられ、平野栄政氏の主催で地蔵様の前に、信心深い村人が年に一度集まり、坊さんにお経をあげてもらう地蔵祭りを行っている。この地蔵様は、江戸時代には、稲荷の竹薮の端で、北国街道ぞいの道ばたに置かれて、旅人を見守っていたそうだ。明治の末頃には、稲荷と三日市の共同火葬場の建物の入口の脇に据えられて、明治、大正、昭和と死者の旅路を見送っていた。そして、昭和三十年代に火葬場が取りこわされてから今の地に移り祀られている。
昭和六十一年六月六日の第一回地蔵祭の日に、この地蔵様の背中を平野栄政と坂本六郎が調べたところ、次のような文字が刻まれていることがはじめてわかった。
諸願成就(しょがんじょうじゅ)、為御恩(いごおん)、施主(せしゅ)、不破氏(ふわし)、内(ない)
「不破という人の奥さんが、いろいろなお願いを申し上げたところ、すべてお聞きとどけ下さって、願い事が成就(じょうじゅ)いたしましたので、その御恩報謝(ごおんほうしゃ)のために、この地蔵様を刻(きざ)んでいただきました。このように、めでたい、願(ねが)い事(ごと)のかなう地蔵様ですから、これからも大切にして、朝夕おがみますよ」。……という意と解する。
さて、この不破氏とは、どこの誰で、いつ頃の人だろうか。どうしてこの地蔵が稲荷の地へこられたのか。朝夕おがんでいる村人は、「おかげで、子どもらも交通事故に遭わないね」。とささやかれている。あゝ、ロマンの地蔵さまに、幸多かれ。
古い昔から云い伝えてきた土地の名称は、その土地の歴史をあらわすので、参考のため、そのあらましを記載する。
シマ、桃ノ木田、中野、川又、杉田、四塚、ノノ下、キジ山、西田、無常堂(ムジョドウ)、七反、草木、八枚田、桜田、引ギ田、タバコ田、オカネ田、山色(ヤマイロ)、又平、ナガ田、古苗代、アヅキ田、上ノ爪、五斗田、影割(カゲワル)、ホネ田、ゴマジマチ、鴨来田(カモキダ)、洞ノ口、砂田、ドンブリ、小山、畑田、御園(ミソノ)田、ヤブ下、大桜、ビンニヤ田、クゾ田、シマミチ、トモサド、馬(ウマ)ソ田
都市化の波でいつの日か、この地名が忘れ去られると思うので、稲荷の地図に名称を書き込んだくわしいものを今のうちに作っておいてもらいたいと願っている。
郷の今昔