堀内の地名の由来は明らかではないが、今から一二七〇年も前の養老二年(七一八)に、泰澄大師が、白山開山の折、堀内に一宇を草創し、……と神社史に記載されていることは実に驚くべきことではあるが、その後の変遷については知るべき術もない。
しかしながら、より深く神社史をひもとくことにより何らかの手懸りが得られるのではなかろうか。何故ならば、神社は集落のお護り、鎮守様として崇敬し、お守りし続けてきた。したがって、先人により語り継がれ聞き伝えられた伝説めいた事柄も、真実により近いものがあるのではなかろうかと考えられる。この観点で明治八幡神社史を基にして堀内町の過去を考えたい。
○なお、堀の内の地名は水に関係し、低地の意味があるのではないか。
○また小堀良英さん宅の南側の用水わきに、常時かれることなく、蒼く水をたたえた淵があり、落ちると死ぬと教えられていたが、耕地整理(明治四十四年~大正九年)の際、数多くの石を投入して埋められたことを憶えている。地下水が湧き出ていたのではなかろうか。
○また、集落内に常時じめじめした湿地も残っていた。
○明治以後になって、人々に苗名が付けられたが、清水・堀・小堀・堀中・沢村・西川等、水に関係した姓が多く、集落の東側に多いのも興味深い。
反面、高桑・岡田・中山・杉本等の姓もあり、集落の地勢が、必ずしも平坦ではなかったのではないかとも思われる。
また、内村・西村・北は部落内に於ける位置からつけられたものか。なお、星場・深谷・星野は新しく来られた方々である。
堀内に鎮座す。社格は村社にして祭神は保牟田別命(誉田別命、後の十五代鷹神天皇)・菅原道眞なり。
明治四十一年九月二日、神饌幣帛料供進神社に指定せらる。当社は養老元年越智の泰澄大師、白山開山の砌神託に依り、翌養老二年(七一八年)一宇(寺)を草創し、その鎮守神として宇佐八幡の(今の大分県にあり)分霊を勤請したるものなりと傅ふ。而して寺院の名は、今に傳はらずといへども三馬村字横川にある慈眼庵はその末寺なりといへり。今堀の内に寺畑、大門跡、寺の腰、などと稱する小字を存す。後 中奥郷の総社として堀の内八幡宮の名高く、守護富樫氏代々厚饌を奉じ歸依深かりしと社記に載せたり。
長享以来(長享二年一四八八年加賀に一向一揆がおこる)兵火に羅りて祀殿寳什、空しく烏有に歸したりといひ、今徴證に資すべき文書又は銘刻あるもの一つも存せず。社殿は元南面したりしを、三十余年前(明治の中頃)北面に改めしなり、元八幡社といひしを、同字、無格社菅原神社、字田尻の村社八幡社を明治四十年四月四日、合祀して、明治八幡神社と改稱せるなり。菅原神社は寛治元年、富樫家近の勸請にして、元慶七年菅原道眞加賀国守として、入國の際、休憩したる霊地なりとし、菅公手植と稱する老桧ありしを、合祀の際伐採せり。又二度咲きの櫻あり。春秋の祭りの頃必ず開花するとて尊重されいしが、今尚社境内に移植してあり。(枯死して現存せず)
田尻に鎮座せし八幡社は、富樫家国の勸請なりといふ。
其の境内に乳の宮とて、安産を祈り、乳汁の乏しき人々の信仰厚き石龕(石の塔)ありしが、共に当社に合祀せり。(現存せず)
社記に田尻の八幡社は鷹神天皇、神功皇后、玉依姫余(神武天皇の生母)の三柱を合祀せりとあり。然るに、今神社明細帳には、神功皇后(仲哀天皇の皇后)玉依姫命の御名なし。蓋し、脱漏なるべし。
境内に菅公御手植えのヒバの大木があり、宮の腰(金石)沖からも望見されて、日本海を航行した北前船の目じるしに役立ったと伝えられていた。その跡地はヒバ宮さんと呼ばれていたが、今は石川県立野々市明倫高等学校の敷地内に含まれている。(第二体育館の建っているところ。)
春秋の二回必ず開花したので尊重されたが、合祀の際、今の神社に移植(御手洗鉢の反対側)した。大正から昭和の始めにかけては、まだ開花していたが、大木であり、そのうち次第に枝の出る元気もなく、枯死して今はなし。
田尻の中村家の後方、蓮花寺に通じる道路の横の水田で今でも「お宮さん田」と呼んでいる。
○乳の宮 田尻八幡社の境内にあった石の塔(石のほこら)
安産を祈り、乳汁の出の悪い人が、お参りしたと伝えられた。
尚、乳の宮についての民話が残っている。
野々市町教育委員会発行の郷土の民話、伝説集に掲載されている。
明治八幡神社の春秋の祭には藤田家横の道端に掲げられた。
馬に乗った神功皇后の武装姿、傍に(後の鷹神天皇)をいだいた武内宿彌が描かれている。他に従者一人。現在もこの幟旗は藤田家に保存されている。堀内にもこれと同じものがあった。
全国の八幡社(仲哀天皇、神功皇后、鷹神天皇)を祀った神社にはこの様な幟旗が掲げられた。
樹令三百年以上の大木で、石川平野の群落の中でも一際高く繁っていた。
遠足等で額谷山や、鞍ヶ岳に登った時など我が村落を見つけるのに役立って、自慢の大杉であったが、戦後落雷と地下水位の低下のため樹勢が衰えて枯死し、現在は切株だけが残っている。
金沢の石材店で同時に二基造られていたが、搬入の際どちらの柱か、取違えて搬入されたのか左右の太さが異っているとささやかれた。
ただし、正確に計った人はない。当時は金沢から運搬するのが大変なことで、村の男衆全員参加の大工事であった。柱の太さなどを計ってケチつけることで神のタタリでもあったらと、誰も計定しなかった。
初詣り 一月一日
春祭り 四月一日
秋祭り 十月十六日(以前は九月十五日)
新嘗祭 十二月二日
月例祭 毎月十五日
1、お盆の墓詣り 八月十三日夜
2、内報恩講 十一月二十五日
3、若衆報恩講(青年講) 十二月五日
4、尼報恩講 十二月十二日
5、御消息様の報恩講 十二月十八日
尼報恩講や御消息様の報恩講をじいさん、ばあさんの報恩講と言うのは誤りで以前は働き盛りの男達や、主婦が中心で行われた在所あげての御講であった。
6、月御講 毎月一回順番に当番制で各家庭で行われたが今は殆ど行われていない。
7、御消息は明治六年六月二十一日付で、掘之内・田之尻の専光寺・真教寺門戸に下付されている。
8、地蔵まつり(地蔵講) 八月八日 昭和十七年から欠かさず行われている。
9、勝縁会 二月初旬 昭和二十七年から毎年行われている。戦病死者の追善法要である。
10、彼岸参り 春秋の彼岸の墓参りをする人も多い。
11、その他 お寺さんの御年頭 一月中旬
1、左義長
一月十四日 日暮れ時 長い間行われている。往時はその場所で翌朝朝炊きを行ったこともある。
2、バーベキュー
ことばも片仮名となりグンと近代になるが十数年前から毎年実施している町内の大行事である。新旧町民の親睦の場ともなっている。以前には花見の宴や、海水浴を実施したこともあった。
3、盆踊り 大正期から昭和十四、五年頃までお盆の期間に農家のニワ(土間)、カド(前庭)、道路の広い所で催した。櫓の上での笛、太鼓に合わせ、咽喉を競う男衆に、浴衣姿の女衆の踊りの場は若い衆の嫁さがしの機会でもあった。
4、雨休み(雨やしこ)
田植え後から盛夏の候にかけ、中耕除草時の雨の日、若い衆が、区長に掛け合って、許可を得た忙しい田圃仕事の村中の骨休み日だった。夏の旱天続きで水不足の時は、お祝いの意味もあったのではないか。
5、しょうぶ湯 五月四日
長生きできるということで、根の赤い香りのいいしょうぶと沼よもぎを束ねて、湯に浸し入浴した。翌朝は前夜から床の下に敷いた、しようぶと、よもぎで頭に鉢巻きする風習もあった。=無病息災を祈念する。
6、冬至のカボチャ
中風にかからないというので、十二月の冬至の日には必ず食べた。カボチャに小豆が入っていて程よい甘味は、往時には大変御馳走だった様だ。
7、年越しそば 十二月三十一日の夜
細く長く生きたいという願望のあらわれか。古い時代からの風習でもあったようだが、この辺りではおくれて行われるようになったようだ。
8、お招来
お盆のお墓詣りの時、菜種殻などで、作った松明(タイマツ)を持参して火をつけて、自分の家や親類の墓石の上を、「盆の十三日や、おしょうらい、しょうらい、しょうらい」と唱えながら撫でまわした。先祖の霊を呼びもどし供養する迎い火の行事であった。
9、成木責め
正月の十五日の朝、前夜の左義長でもらって来た焼き残りの竹で(各戸に分配する為わざわざ残した)餅・米・小豆を混ぜた雑煮を炊いて食べる風習があったが、その際お初穂にとった、その雑煮を柿の木など果実のなる樹幹に傷をつけて食べさせる行事。
一方は雑煮、他方は、鎌か斧を持参して、「なるかならぬか、ならぬとかち切るぞ」「なります、なります」と問答して傷口に雑煮を食べさせた(挿入した)。
父子で、兄弟で行ったが果実の豊作を祈る行事。
学に優れ、村一番の物識りとして尊敬されていた。何かの都合で学校には行けなかった当時の子供たちは、読み・書き・算盤を教えていただいた。現代の家庭教師、学習塾の先駆者であった。書き残された文書も多いと聞いている。その中には堀内の歴史を知る貴重な資料もあるだろうと期待される。
堀 俊夫さんの伯父さんである。村一番の伊達(ダテ)男ダンディー、俗に言うハイカラさんでもあった。志を立てて上京され、早稲田専門学校(?)で学ばれ、建築家として活躍された。たまに帰郷される時は、中折帽の洋装で金縁眼鏡にステッキ、黒光りの靴でさっそうとして、在所の人たちの目を引いた。後、渡満されて、新しい事業を始められた。掘 俊夫さんは、少年期を同家で生活された。ある時、自分が設計監督した建物の屋根の銅板が薄いと指摘し、取り替えを命じたところ、怒った職人達に屋根から突き飛ばされた。危険を感じた堀さんはとっさの機転で両手を拡げたところ、転がり落ちる途中、仮設の足場に引懸り、危うく命拾いしたとの逸話が残っている。
小堀栄一さんの祖父である。ちょびさ(忠兵衛)のじいさんは目のお医者さん。仕事上手で園芸技師でもあった。村の子供達が、物もらい=目もらい=麦粒腫にかかるとみてもらった。ネンゴ=ニンゴ稲穂のつく柄で輪を造り、それを眼にあて、何か呪文を唱えた。囲炉裡に捨てるとポンと音がした。すると「これで治るぞ」と言われた。不思議に良く効いた。栄三郎さんはまた仕事上手で手速く、藁工芸品の莚などその製品の優秀さが評判だった。柿の接木の技術にも優れ、頼まれて在所のあちこちで手掛けられていた。
水谷八重子(女優)さん風の色白の美人であった。
私たちと同世代の人なら皆知っている。同家は、今の沢村栄吉さん宅の前の住人であったが、金沢に引っ越しされた。現北国新聞社社長岡田尚壮氏の伯母さんである。同家の墓は現在も堀内の墓所にあり、お盆には一族あげてお参りされている。
家は掘修さん宅の後ろにあったが、今は清水勇治さん所有の竹藪になっている。姓名は高桑市太郎さんだったと思うが、記憶は定かではない。女装を好み、時々姉の着物を着けて、化粧をして家の周りを品を作って歩かれた姿を思い出す。その後どうされたかわからず、今となれば懐かしい人でもある。
大正後期から昭和期の戦争前後までは比較的緩やかに推移していたが、次の諸事業は比較的短期間に数多く行われ、私たちの生活環境を大きく変えた。
・軌道馬車の廃止……金沢・松任間を十人余りの人を乗せて、走っていた。
・松金電車の開通(ちんちん電車)・廃止・そして路面バスの運行
・簡易水道の通水(郷地区は勿論近隣町村での第1号)
・北陸街道→国道八号線の開通
・郷村の分村、野々市町への合併
・堀内住宅団地の造成=兵地町長時代で野々市町最初の団地
・蓮花寺→太平寺間の通学路の開設
・明治乳業の進出
・農免道路の建設=内灘の海浜道路と共に石川県で最初
・堀内保育所(園)の設置 隣保館保育所→町立堀内保育所→町立堀内保育園
・西濃運輸会社の進出
・トヨタカローラ=自動車会社の進出
・加州相互銀行計算センターの進出
・堀内町内道路の舗装
・石川県水道の大水道管埋設工事(農免道路)と通水
・野々市中央公園・町民体育館の完成
・石川県立野々市明倫高等学校の開校
・野々市町民野球場の完成
現代のように縦横無尽に舗装道路を車が走る前は、堀内の人々は、どのような道路を利用して、他町村と連絡していたのか、考えて見た。(大正時代から昭和初期までに利用した道路)
一、出戸(デト)道=馬道とも言った。清水ト一さん前から稲荷の神社後まで通じていた。
二、西手出戸(デト)=西川外喜夫さん方、前から西田自動車工場前に通じる(農道)。
三、田尻道=田尻から三日市出(郷公民館)に通ずる道。
小学生の通学路・役場・農業協同組合への往復に利用した。
四、蓮花寺道(みち)=田尻から蓮花寺に通ずる農道。
五、太平寺までは細い農道(二尺程)……余り利用しなかった。
(太平寺のお宮さんの後へ通じていたが、田仕事以外は余り利用出来なかった。)
六、下林とは川に沿った細い農道があったが、雨天時はぬかったりして歩けなかった。明倫高校の建設で川や通りが大きく変えられた。
遊び宿=明治・大正期
小堀栄一さんの秋作業場の後あたり、若い衆の集会所として、また村人夫等の上がり酒の場として利用された。
堀内交友倶楽部=大正末期から昭和期
沢村栄吉さん宅の敷地内に道路に面して北向きに建っていた。木造二階建であった。
各種集会、藁工品の集荷場、消費組合の倉庫、売り場として利用された。
建物は移動して、沢村家の現車庫等に利用されている。なお、当時掲げられていた「堀内交友倶楽部」の看板は現公民館に残っている。
堀内公民館=現在の建物
〈消防〉
○郷消防器具置場
・大正から昭和前期
堀内交友倶楽部に隣接して建てられていた。俗称ポンプ小屋と呼んでいて、ポンプははじめ手押しポンプで後に三輪自動車ポンプが購入された。
・昭和後期
掘修宅の敷地内に南面して建てられていたが、後、郷消防組が堀内単独の組織から郷村全体(横江は除く)の組織に変更になり、郷農協横に移転した。
自警消防器具置場=現在
一、大正十年前後の冬だった。御経塚の踏み切り付近で吹雪のため列車が立ち往生した。蒸気機関車の水が無くなったのである。そこで堀内消防組は救助のため、ポンプをソリに乗せて、出動し、給水して、列車の急を救い感謝されたことがあった。
二、それと前後して、軽便列車(現北鉄石川線)の蒸気機関車からの飛火で野々市町(現本町一丁目)で大火があった。風の強い日であったが、男の子供もポンプの先引きをして駆けつけ、消火にあたった。堀内の消防組は真っ先に到着し、消火に大いに活躍し感謝された。
1、食用として利用していた山野草
田圃や山に出かけ採取したもの。戦中、戦後の食糧不足時に利用したもの様々である。
アケビ・クルミ・バライチゴ・木イチゴ・クワの実・スベリヒョウ・セリ・ゼンマイ・ノブキ・フキノトウ・ヨモギ・ヨメナ・オオバコ・ワラビ・グミノ実・サツマイモノ葉や柄・ノビル……等
2、食用にした動物(鳥・魚介類・昆虫)
スズメ・ツグミ・ドジョウ・フナ・グズ・ナマズ・ウグイ・川ギス・川エビ・シジミ・タニシ・八ッ目ウナギ・イナゴ……等
3、薬用として利用した植物
ドクダミ =生の葉、はれものに(葉根を生のまま、乾燥して化膿性のはれもの利尿剤として)
ユキノシタ =薬、はれもの、むくみ、せき
ニワトコ =葉、打ち身
ツワブキ =葉、打ち身
ゲンノショウコ=茎葉、下痢、便秘、整腸
イタドリ =茎葉、はれもの
ヘチマ =汁液、化粧水
ネムノ葉 =煮だし汁を女性の洗髪剤として
ツバキノ葉 =煮だし汁を女性の洗髪剤として
ユズノ実 =風呂に入れる。保温のため
4、薬用とした動物
ミミズ=生のまま。乾燥して解熱剤として
柳虫 =枝に寄生した昆虫の幼虫を照焼きにして夜尿症の子供に食べさせた。
5、私達の生活を楽しませた動物
○ウグイス・ツバメ・ヒバリ・ヒワ・カッコウ・ヨシキリ・トビ・フクロウ・ミミズク・キジ・カモ・ガン・キツツキ・セキレイ
○イタチ・テン・カワウソ・コウモリ
○モンシロチョウ・アゲハチョウ・カブトムシ・カミキリ・コガネムシ・イナゴ・カマキリ・ミズスマシ・ゲンゴロウ・ケラ・へコキムシ・セミ・イトトンボ・ヤンマトンボ・ジバチ・カメバチ・テントウムシ・クモ・ジグモ
○トカゲ・ヤモリ・イモリ・トノサマガエル・アマガエル
○アオダイショウ・シマヘビ・マムシ・イシガメ
○川魚(前記)マス・アユが遡上したこともあった。
(以上の動物名は正確な学名ではなく、俗名や方言で呼んでいたものでもある。)
6、季節の移り変わりを感じさせてくれたもの
○春を告げるウグイスの鳴き声
○空高く舞い上がるヒバリのさえずり
○低空をせわしく飛び交うツバメ
○田植えの頃川面を泳ぎ廻ったミズスマシ(早乙女(サオトメ)とも言った)
○遠く近く鳴き競ったカッコウ
○初夏の夜さわがしいが、それでいて眠気を誘ってくれたカエルの声
○夏の暑さをかきたてるヨシキリの鳴き声
○夜の川辺を飛び交うホタルの光
○夏の暑さを一層あつくして鳴くセミ、(アブラゼミ)
○晩秋の夕空を鳴きながら飛び去ったかり(雁)の渡り
○冬近い夜、何故か物寂しく聞いたフクロウの声
○冬の夜の静けさを打ち破るキツツキの樹幹をくちばしで叩くキツツキの音
7、堀内の俗信・迷信等
1、夜爪を切ると親の死に目に会えない。
爪は体内に入ると有毒(のどが乾く)だが、夜切ると食物に混ざっても分からないから食べて親より先に死ぬような事態にでもなったら大変だという戒めの意味があったのではないか。
2、お宮さんの境内で小便すると罰が当たってチンポが曲がる。
お宮さんは神聖な場所であるから無礼があってはいけないと戒め、親が塩を持参してその跡に撒き清めた。
3、北枕・西向きに寝ることは不吉である。
お釈迦様の臨終の姿で吉凶に関係ない。
一 サツマイモの出作り
仕事の間食や(タバコ=コビリ)子供のおやつ用に高尾町の山畑を借りてサツマイモの栽培をした。
耕起・施肥・さし苗・蔓返し・収穫のために数回出かけたが、収穫の時は荷車で畑に近い山道を登り下りしたが大変なことであった。イモは持ち帰り、土間にあけた穴(ムロ)に籾殻(モミガラ)と共に入れて保存した。借地料や苗代等は屑米を持参して賄った。現区画整理の中で高尾・掘内線が計画着工されているが、不思議な縁に感無量である。
二 堀内のナスビ
堀内産の茄子は果皮が薄く、果肉が柔らかくて、市場(当時金沢の泉にあった)では他所産のよりも一~二割り高で取引された。今、区画整理で表土の壤土層が厚く、適当な深さに砂利層があることがうかがわれる。夏の乾燥を防ぎ、かつ排水も良く、ナス・トマト等の栽培に好適地であるからだろう。積み重ねた栽培技術も大きな要素であった。掘正「ホリマサ」のトマトは有名だった。
三 共同田植え
田主に関係なく、水田全体を六班(?)に分けて、苗採り、枠廻し、苗の運搬、さし苗(田植え)等、班単位で実施した。(但し育苗(苗しろ)はそれぞれ個人で)
四 稲の刈り倒し
刈り取った稲を束立てから刈り倒しに改め、作業能率化を図った。
農林一号の導入とも関連し、近隣町村の先がけであった。
当時の郷農業組合長だった堀新助さんが、新潟県の視察の土産として持ち帰られた方法だと聞く。
五 子供の当て仕事
○あぜ草むしり(除草)
○らち打ち(中耕)
○俵編み(石灰ごも)
○縄編み(縄ない)こもの細い縄
○稲刈りの手伝い(結束の為に刈り倒してあるものを集める。手を置くと言った)
○当て仕事が終わらないと遊べなかった。
○春の江掘り(村人夫)の手伝い
六 子供達の遊び
○グーパー遊び(じゃんけん)
○石けり
○輪廻し
○コマ廻し=(買ってもらったもの。手製のたたきゴマ)
○カルタ取り=兵隊カルタ・いろはガルタ・花ガルタ、時には若い衆に入れてもらって百人一首
○竹馬遊び=その高さを競いあった。
○竹下駄遊び
○そり滑り(そり=ずり)
○パチ遊び(ペッタ)
○落とし穴遊び=雪道に薄い蓋をして、上に雪をかけた。
○雑魚(ザッコ)とり=特に用水の停水の時。
○大豆の実・イナゴを焼いて食べた。
○地蜂の蜜とり
○地グモの袋抜き
○用水での水遊び
○手製の板のラケットでテニス
私達の小学校、高等科の頃、軟式テニス、野球が先生方によって教えられた。
○あやとり
○お手玉(オジャミ)=小石入りのオジャミから小豆屑・豆屑をいれた。
○段とび・縄とび
○チンペ=今のソフトボール様のもの(ゴム球を手で打って塁をまわる)
○かくれんぼ・鬼ごっこ
○城とり=二軍に分かれて、城を守り相手方の城をとる。
七 村の四季の風物史
1、猿まわし
2、乞食(ものもらい)年末や年始に来た。(もちの切れ端やダンゴをやった)
3、カチ割り=氷を割ったものを売る。(自転車でラッパを吹きながら来た)
4、薬売り(オイチのアンマ)と言った。手風琴をならし、今の板チョコ状の薬を売る(銀色の小粒仁丹を板状にしたもの)
5、魚売り(サカナ売り)=八田の浜あたりから、ざるに入れて、棒でかつぎ売りで鰯のとれた時など。
6、火の玉(ひ玉)=(ヒトダマ)
梅雨期から初夏にかけて日暮れ時に見かけた。青白い炎が尾を引いて、音もなく、ふわふわ村の上を通り過ぎたことを何回か見かけたことがある。火玉、人魂(ヒトダマ)と怖がられ見かけると家の中に飛び込んだ。
発生源は火葬場、墓地であったが、川に捨てられた犬や猫の死体からのものもあったのではないか。
学校の何年生の時だったか、担任ではなかったが島野先生が燐を使って、その正体を説明して下さったので安心したが、気持ちの良いものではなかった。
のきじょう次郎兵衛
いつの頃か、堀の内に、のきじょう次郎兵衛と言う豪族が住んで居た。身の丈人に勝れ、力持ちで近隣を支配していた。今堀内に残る小字に、ノキジョ(現深谷自動車の敷地)。バンバ(馬場)などはその馬術の練習場の跡と言われていたが、今は明倫高校の敷地に入っている。
お地蔵さんの話
堀内の地蔵さんは、耕地整理の際に、今の場所に移されたと聞いているが、元はどこにあったのか解らない。かつては村に出入りする人、総てがこのお地蔵さんの前を通ったものである。(村の中は一本道で他の道は細くて歩きにくかった)お堂は一度建て替えられて今に至っているが、その前は木造の低い作りであった。
お地蔵さんの中に大乗寺開山灰葬塚と刻んだ石碑があるが、堀内地内のどこかで見つかった物を持ち込んだものと思われる。近くお地蔵さんの移転が計画されているが、お地蔵さんの体の前面にかすかに浮かぶ文字や、灰葬塚が堀内町の歴史解明をするのに役立つのではないか期待される。
八 禅宗門戸の多い堀内町
○堀内町には禅宗の門戸が多い
清水(三戸)沢村(二戸)堀(三戸)高桑(二戸)小堀(一戸)の計十一戸で、かつて杉本建造方もそうであったと聞いている。
この事実は近郷に見られない堀内の特徴である。大乗寺とのつながりが考えられる。
○堀一二家(今は堀内に家は無く大阪に在住)から禅僧が三方出られ、うち一方は金沢の八坂(東兼六町)の雲竜寺。一方は馬坂(宝町)の高源院に住職としてそれぞれ迎えられた。
前記した様に西村友忠家の文書の他に小堀良英家にも期待される文書が有るのではないかと思います。
尚、堀内の小字名の調査、記録も大事なことである。
明治乳業、西濃運輸、トヨタカローラ、堀内新町、中央公園、町民体育館、町民野球場、明倫高等学校などの敷地内の小字名は今調査しておかなければ永久に失われてしまいます。
小字名は堀内町の歴史、地形、植物相の移り変わりの見えざる記録であると思います。町内一致で実現したい事業だと思います。
今日現在の「堀内新町」という町名は俗名であり、昭和四十三年六月十日に町住民課において町丁コードを別立てとして処理されているが、正式には、依然としてその南に存在する堀内町の集落に元を発する堀内町の一部である。
昭和三十二年、郷地区を東西に横断する幹線道路の築造工事が施工された。これまでの細い蛇行道路を解消し、新しい国道八号線として整備されたのである。今、我々が生活する地は、当時の国道築造のための資材・機材置場として町(兵地町長)が地域住民から借り上げ、建設省に貸与していた所である。その跡地利用として、翌年、太平寺地内とともに野々市町での最初の民間業者の手による宅地造成が完了したのである。昭和三十三年開発当時は二氏二軒で出発し、その後、順調な戸数の伸びを示し、昭和三十八年独立した。とは言うものの、郷地区連合町会への加入もなく、地域民の単なる小さな親睦団体であった。所帯が大きくなるにつれ、正式な組織体として活動したい気運が強まり、昭和四十四年、当時の世話人が中心となり「堀光会」の名前のもとに再出発を期することとなった。その団結の象徴ともいえる「町会旗」が、会員の永年の積立金が功を奏し、昭和四十八年七月に披露することができ、一町内自治体としての活動もより飛躍したと自負しているところである。この間、昭和五十年には郷地区連合町内会にも加入し、名実ともに一人歩きをしたのである。
平成元年三月末現在の世帯数は四十二世帯百四十六人を数え、一町内自治体としてはまとまりもあり、新年度総会及び懇親会を年間行事の初めとして多数の参加のもとに一段と親睦と融和が築かれているところである。ただ、わが地域史の概略を振り返ってみた時、既に半数に及ぶ世帯がこの地から転出・転居をしていることを知り、改めて、野々市町の特徴を浮かび上がらせているような感がしているところである。
郷の今昔