地名の由来は明らかではないが、江戸期より明治二十二年の村名(加賀藩領)加賀国石川郡の中奥組内の田尻(天保十年)、手取扇状地の中央扇端部の平野で手取川七ヶ用水の一つの郷用水の分流安原川の流域に位置する。村社八幡社を集落のお護り鎮守様としてお守りしていた。(皇国地誌に見える。)
江戸期から明治二十二年加賀藩領に属し、寛文十年(一六七〇年)に加州石川郡田之尻の村御の村高百二十三石免五ツ、小物成なし、同年の家高二軒で百姓数四人(加州三郡高免付御給人帳)、明治五年石川県に所属し、明治九年の家数五軒人口四十一人(皇国地誌)、明治二十二年の戸数八軒人口四十六人であったと記されている。
明治二十二年に郷村の大字となり、その後六十数年間行政単位としての歴史が続き昭和三十一年九月三十一日町村合併法に基づき野々市町へ合併し、野々市町字田尻町となる。
このように私達の住む田尻町も古い歴史をもち、そこに住んだ私達の先祖も幾多の生活を闘いぬいて築いてきたと思うとき、今昔の感に堪えぬものがある。
昭和六十三年(一九八八年)十一月三十日現在の田尻町の戸数は五十五軒、人口一七二人であるが、これは今後まだまだ増加していくことだろう。
田尻に鎮座せし村社八幡社は、富樫家国の勸請なりといふ。其の境内に乳の宮として安産を祈り乳汁の乏しき人々の信仰厚き石龕(石の塔)ありしが、明治四十年四月四日堀内の堀内八幡宮に菅原神社と共に合祀し、明治八幡神社と改称され堀内に鎮座す。
社記には、田尻の八幡社には應神天皇・神功皇后・玉依姫命(神武天皇の生母)の三柱を祭祀せりとあるが、しかるに今神社明細帳には神功皇后と玉依姫命の御名はない。
田尻村社八幡社があった場所は、中村家の後方、蓮花寺に通じる道路の横の水田通称「宮さま」と呼んでいる。八幡神社は東向であったらしい。
田尻村社八幡社の境内にあった石龕(石の塔)は、おなかの大きくなった人々が安産を祈り、また、出産後の乳汁の出が悪い人々がお参りしたと伝えられている。他村からも多くお参りにこられたとのこと。なお、この乳の宮についての民話が残っている。(野々市町教育委員会発行の『郷土の民話伝説集』にあり)
八幡社の春と秋のお祭りには宮の前に掲げられ、合祀してからは田尻の共同井戸(つるべ)の南を通る道端、藤田家の横に掲げられていた。
その幡旗は馬に乗った神功皇后の武装姿、傍らに皇子(後の應神天皇)をいだいた武内宿彌、それに従者一人が描かれている。外に従者一人。
現在も田尻の守り神として幡旗は藤田家に保存されている。
全国の八幡社にはこのような幟旗が揚げられている。
ほとんどの田は二毛作田であった。
一、水稲作
二、二毛作の種別
一、大麦 二、小麦 三、菜種
三、一般野菜の種別
一、トマト 二、茄子 金沢の市場へ出荷(当時は泉、有松にあり)当地の物は他のものより割高に取引された。栽培適地で、味、その他良く出来たからだろう。
四、稲作の品種は、農林一号、二毛作用には農林六号又は大正もち等であった。
1 慶長六年(一六〇一年)藩主利長の時に植えられた(庁事記載に記載あり)。私共の最も懐かしく思われる北陸街道の松並木にそって、明治三十七年に松任~金沢間を一〇人乗りの馬車が走っていたが廃止され、大正四年に電車(ちんちん電車)が走るようになり、村人は喜び利用していた。しかし、これも時代の流れで昭和三十年に廃止され、路面バス運行となった。
2 新しく北陸街道にそい国道八号線が着工され、昭和三十一年に舗装が完成した。
3 昭和三十二年には、田尻地内に延一、一〇〇人有余の勤労奉仕で建築された郷公民館が完成した。その前に一部北陸街道が残り、この道も舗装された。
4 田尻町から学校へ、役場へ、農協へ、また松任、金沢へと利用した道を昔は出戸道又は、馬道ともいった。この道も野々市町土地改良事業により堀内町より田尻町の郷公民館まで広く改修され、舗装道路となる。
5 田尻町より蓮花寺町間の農道も改修され、現在は広い通学路となり舗装された。
6 野々市地区共同集荷(青果)兼集乳所が昭和三十二年八月に設置(郷公民館横)。
7 野々市町消防第三分団器具格納庫が昭和三十二年に建設された。
8 ゆトピア(サウナ、家族風呂)の進出
9 井桁藤株式会社の進出
10 木地金筬製作所の進出(現在工場は松任市へ)
11 大功商事(家具卸)の進出
12 吉田看板の進出
13 北国銀行西野々市支店進出
14 吉光内科医院の進出
15 ガーデンハイツ(マンション)
16 ローソン進出
以上のように、田尻町の生活環境が大きく変わった。
① 馬道または出戸道ともいった。坂井氏の西側を通り廻りまがって北陸街道へ出る。馬車、電車場(今の公民館)の前、荷車を引き、金沢~松任方面へ出る大事な道路だった。(石な道)
② 蓮花寺道といった。堀内と田尻の境を流れる川にかかる橋(シンケー橋)を渡り、蓮花寺地区への道。ガニ川にかかる橋は舟底橋で荷車もやっとの細い農道だった。
明治年間存在していた小字。
田尻 曲戸(マガリト)・善垣内(ゼンガキウチ)・左美作(サミヅクリ)・武良(ムラ)・宮様(ミヤサマ)・仲筬下(ナカオサシタ)・止波作(トバツクリ)・沼路町(ヌマジマチ)・大根田(ダイコンダ)・大藪(オオヤプ)・馬場後(バンバノウシロ)以上十一小字になっていた。
現在では番地で田尻町一番地より一三七番地とされている。今敷地の小字の調査をしておかないと永久に失われる。
古来、東は野々市・押越・野代に接し、北は二日市、西は徳用に、南は堀内・田尻村に隣接している。
寛文十年村御印の村高七九九石、免五ッ二歩、小物成なし。同年の家高三軒、百姓数二十二人(加州三郡高免付御給人帳)とある。
明治八年、稲荷村を合併。同九年の戸数三十三、人口一九四、荷車八(皇国地誌)。明治二十二年郷村の大字となったとある。
神社は村の西北に鎮座し、應神天皇を祭神とす。
元は八幡社と呼んだが、明治二十九年四月十三日に今の社号「郷八幡神社」と改められた(石川県石川郡神社誌)。創立は不詳であるが、拝殿は明治二、三年頃に金沢寺町のある曹洞宗の寺院を購入し、拝殿としたものだと言う。
安政三年辰八月十五日奉納の神鏡台並びに安政四年奉納絵馬額がある。
由緒調査に当たり、社掌春日神社(増泉)宮司が、初めて内陣内に仏像が安置されているのを見た。これを古老達に糺したところによると「昔から大事な神様だと語り伝わり、毎年八日祭として九月八日に村人のみにて祭を行って来た」とあり、現在の毎月八日の御講に通じているのではなかろうか。
更に、仏像に就て古老よりの言い伝えでは、「インブンダンゴ」で作られていると言われており、郷土史家日置謙氏の言われるには「インブンダンゴ」は、閻浮檀金の転化したものであるが、佛像の閻浮檀金は紫光を発する金属であり、本仏像の地金はその類ではないとのこと、又玉井敬泉先生に仏像鑑定を依頼した結果、足利初期の製作で薬師如来であり、八日祭を行うことは当然であり、恐らく創立当初の本尊ではなかろうかとのことである。
尚社殿の形態は寺院様式でもあり、それは石塔があること、社殿が南向きなこと、社前に厩田(地名)馬撃ぎ場があること、厩田付近より五輪塔の頂石が発掘されたこと等が伝えられている。
天和三年より元祿十五年迄野々市村與左衛門が公儀により、美濃岐阜より毎年真桑瓜の種を取り寄せ「金沢で美濃瓜と云う」て、三日市・徳用・蓮花寺・田中・下林・位川村の七か村へ配布して栽培したとある(加賀藩史)。そのせいもあろうか、昔から行商に出たり、市場に出荷したり、野菜の生産が盛んだった。現在でも特に、なす・トマト・人参・午蒡・大根・じゃがいも等は他よりも味が良いとの好評を得ている。
三日市地域の南端には、北国街道が東西に通っており、文化十二年三月十六日「石川郡の往還筋に松苗を植えること」が命ぜられ、三日市領内には二〇五本が植えられたと記されている(加賀藩史)。その松並木が、第二次大戦の昭和十年代末頃迄は大木となり威容を見せていたが、戦争の末期に物資不足のため、船の材料や根から松根油を採る目的で切り倒されて、一本も残っていないのが淋しくもあり、残念でもある。
明治三十七年から金沢-松任間に鉄道馬車が街道沿いに開通し、大正五年には松金電車となり、三日市にも停留所が出来、周辺住民に多く利用されていたが、時代の変遷で昭和三十年十月十五日松金電車は廃止され、バスが代わって走ることとなった。
明治四十二年より耕地整理が始められ、不揃いな農地も縦横整然と、ほぼ二百歩の美田に改良された。もとより当時のこととて機械等は勿論なく、鍬やモッコの人力作業によることを思うとき、その偉大なることを量り知るものである。七ヶ用水中の郷用水の水利の恵により、灌排水もよくなり、米作りや野菜作りに一段と改良努力がなされた。
字名は整理時の年号を採り、明治・大正とし、西三日市は明・大〇番地となり、東三日市は治・
井戸は北貞一氏宅の前で道路のわきに掘井戸があり、釣瓶にて汲み上げていた。当時は川の水も大変に綺麗だったので、顔を洗ったり風呂も洗濯もほとんど川水で用を足していて、飲料と炊事のために井戸水が必要だった。
夕方になるとそれぞれに手桶やバケツを持って集まってきた。そこは世間話や情報交換の場となり、実になごやかな情景であった。
昭和二十五年三月、突然に井戸の石積が崩れて使用不能になり、急遽各家に「かち込みポンプ」や堀井戸が作られて利用し始めた。
井戸が行きわたって重宝していたが、昭和二十年後半になり、周辺地域に各種事業所の進出が増えてきて、地下水の汲上げが多くなり水位の下降が進み出し、ほとんどの井戸は水が出なくなり、昭和三十年に簡易水道を設置することとなり、宮本鉄工所の施工によって各家庭に配水された。
その頃になると川水の汚染が進んでおり利用も充分出来ず、貰い水で工事間を過ごしたが、「ガラン」をひねればほしいだけの水が自由に使えるようになり、便利さ有難さが身に沁みる思いをしたものだった。
敗戦後は物資の不足や復員軍人の増加等不景気が続き大変な苦労時代であったが、二十年代終わり頃より急速に復興が進み、自動車社会へと変化してきた。
昭和四十年代に入り国道八号線の交通が増大し、その緩和のため「金沢バイパス」建設の案が示された。耕地の東北角から南西角にかけて斜に通過し、農地を東西に二分する形となり、その上八号線とは立体交差するとの案で道幅の広さが漠大なため、村をあげて役場や建設省金沢工事事務所へ反対運動をなし見直しを求めたが取り入れられず、一部変更で、昭和四十三年に地区内の工事が始められ、現在に至った。
立派な道路が完成し、立地条件も良いことから次々と事業所が進出している。
墓地は部落東方の稲荷との中間に位置し、昔から両町の共同火葬場があり、その周りに各家々の墓地が並んでいた。
昭和五十三年稲荷町の区画整理事業を機に火葬場を取り壊し、場所を移動して整備され、きれいな近代的な共同墓地に変わった。
昭和五十七年には三日市会館建設の意見が出て、先ず敷地の選定から始まり、種々候補地が上げられたが確定するに至らず、最終的に神社の境内に決定し、宮田工務店の施工で五十八年三月二十六日竣工式を行った。各種会合はもとより神社修理時の仮殿となったりして大変有効に利用されている。
昭和の初期六年頃より中国との戦争が始まり、次第次第に拡大し第二次世界大戦となり、当村からも若者が次ぎ次ぎ入隊し戦場へと出征して行った。○小山幸、○松野武雄、○村本時男、○村本秋雄、野村友治、南政雄、○南義明、○小堀芳雄、○小堀芳信、小堀三郎、北貞一、北喜一、○元俊二郎、松野喬夫、小堀一郎、小堀英昭、小杉久夫、野村昌蔵の十八名にのぼり、○印の八名の方が戦死された。戸数十七戸の小部落から国のためとはいえ、多数の戦死者を出したことは実に心の痛む事態であり、終生忘れることなく語り伝えなければならない出来事である。戦いの勝利を信じて銃後の守りをしていた人達の苦労も一億一心の精神で克服したが、昭和二十年八月十五日利あらずして遂に敗戦となった。
皇記二千六百年記念を兼ね、昭和十四年に幣殿の建築がなされ、十月十二日落慶祭が行われ神社の姿も一新した。あと千円の資金があれば拝殿の新築も可能だったようで、当時の経済状況が量り知られる。
昭和六十二年に入り、社殿の雨漏りがはげしくなり、屋根の葺替工事がもち上がり、論議の結果、銅板葺にすることに決まり、氏子総代(北勉、小堀一郎、野村健治)が中心となり進行することとなった。
三日市会館内に仮殿を設け、四月二十九日午後九時より神移しの神事を行い、工事が始められた。同時に鳥居も建て替えることとなり、松野栄吉、南政雄、北貞一、北喜一、松野喬夫、村本留之、小堀一郎、小堀英昭、小杉久夫、小堀三郎の十名の寄進によって建立された。又、中川一郎、北勉、松野栄一、宮田武雄、小堀明、南和義、小山昭夫の七名により基礎廻りの「コンクリート化粧」を行い、見違える程に美しく変わった。同年六月二十一日に盛大な慶賀祭が行われ、参列者一同もより一層の信仰心が深まったことと思われる。
地蔵様の由緒については何も聞いたこともなく知らない。古いお姿で小杉家の一角にお立ちになっており、二日市町に通ずる町道の十字路に面してゐる。車の通過量も多く、見透しも決してよくない交差点であるが、今日迄この付近での事故については耳にしたことがない。ひとえに御地蔵様の加護によるものだと感謝の日々を送っている。
(一) 昭和四十八年八月よりゴルフの練習場として、当地で営業をしていた京都の株式会社三商は、会社の都合により昭和五十四年十月該地約一〇、〇〇〇坪を北日本地所株式会社に売却した。同社ではこれを昭和五十四年十二月県の開発許可を受けて、約一五〇戸分の住宅用地に造成し、ビッグスケール、いま注目の住宅街!「野々市万葉台」と称して、建築業者への建売り用地にまた、一般への住宅建設用地に公募分譲した。
(二) その頃から同地に入居するものも次第に増え始める一方、従前から農業を主体に町経営を続けてきた町当局にも、管理運営間で色々と支障を期たすことが予想され、昭和五十六年四月に三日市の新町として旧町から分離、新しい町内会組織をもって運営することになった。
発足当時は、世帯数も僅か一五戸であったが、年を重ねるごとに入居者も急増し、現在(平成元年十一月)では、一三六世帯を有する新興住宅街として成長、発展をとげてきた。
(三) このような過程から町内会の運営活動も年々活発化し、「健康で明るく住みよい町づくり!」を合言葉に町内会員一人一人が心を合せ努力してきた。特に昭和五十八年より町内の自主防犯活動の一環として始めた夜廻りも、今日ではすっかり定着し、今もなお毎日続けられている。
また、平成元年度町内会「夏まつり」には、始めて手造りによる子供みこし二基、太鼓車一基(郷八幡神社より借用)をつくり、町内を巡行したのを始め、クイズゲームやカラオケ大会等多催な行事を繰り開げ、盛大に挙行することができた。
なお、歴代町内会長は次の通りである。
初代(昭和五十六年~五十八年)宮田武雄
二代(昭和五十九年) 窪田仁弘
三代(昭和六十年) 水上 直
四代(昭和六十一年) 西田義明
五代(昭和六十二年) 河原勇治
六代(昭和六十三年) 上井純一郎
七代(平成元年) 藤村幸雄
郷の今昔