二日市町

 

一  町の名の由来

 今から五〇〇年余りの昔、加賀守護富樫政親の家臣高塚五郎兵衛は、野々市付近で通行人を苦しめていた老いた白狐を退治して、その功績により横江荘二日市を領し、館を築き住んだ。五郎兵衛は長享二年(一四八八)の一向一揆の時、政親に殉じて五十一歳で自害し、その家臣村本平兵衛助清も殉死したと言い伝えられている。

 富樫氏が加賀を治めていた南北朝・室町時代には経済開発が進んで、農産物の他・織物・染物・酒・金物・刀・農具などの生産流通が盛んになった。守護所のあった野々市では早くから市が開かれていた。二日市は天龍寺領横江荘の市でのちに富樫氏一向一揆の支配下に入ったものと思われる。

 天龍寺文書によれば、至徳四年(一三八七)横江荘の年貢公事(くじ)は代銭で納められており、その頃すでに市が開かれていたと考えられる。二日市に、えいせん(穎銭)という小字があり年貢が銭で納められたことを表している。

 文明十八年(一四八六)天龍寺が室町幕府に加賀守護富樫政親の被官(家臣)等が横江荘を押妨(力で侵す)するのを訴えている。

 高尾の城が落ち一向一揆の時代になると、横江荘は天龍寺の支配権が急速に衰え、天文五年(一五三六)近年一向一揆の下間頼盛が押領したと云う。(天文日記)

 天文十五年(一五四六)金沢御堂が落成すると本願寺より堂衆(役僧)が派遣され新しい体制がととのった。金沢御堂の周辺には近在から商・手工業者が移り住み、寺内町が作られた。これにより、流通の中心が野々市から金沢に移り始めた。

 一五〇〇年代は各地で定期市が記録にあらわれるようになる。二日市でも隣り合った三日市、八日市や野々市の一日市(ひといち)、六日市と共に、定期的にお寺や神社の門前などに近在の人々や商人が集まって、賑やかに取り引きがされていたものと思う。

 天正八年(一五八〇)信長の武将、柴田勝家によって、石川郡の一向一揆が滅ぼされた。

 信長公記に「……湊川、手取川打越、宮之腰に陣取所々放火。一揆野の市と云所、川を前に当楯籠。柴田修理のゝ市之一揆追払数多切捨 数百艘の舟共に兵粮取入分捕させ、……。」とある。

 野々市付近の戦いの様子や、舟運の盛んだったことがうかがえる。

 柴田勝家が滅び、天正十一年(一五八三)前田利家が金沢に入城した。前田氏は金沢御堂の跡に城を築き城下に武士や商・手工業者を集め、武士と農民を分離した。

 金沢が政治経済の中心として繁栄するようになると、村々の市は消え、集落や地名にその痕跡を残すのみとなった。

 

 

二  二日市の集落

 二日市には昔三つの集落があった。田地割台帳(村有文書一八八三年)の小字名と地籍図によると、

 第一は北東寄りの国道八号線二日市交差点付近から跨線橋にかかる所で、そこには・古屋敷・屋敷わり・じょうじゃ(定者)田・こうかき(紺掻)田・かなわり・善光寺・ぼうず田・しんじゃん田(信心阿弥陀)・からむし・もめん田・あずき田・彦四郎など、行者が住み、紺屋や鋳物師や寺のあった中世の集落跡をあらわす地名が集中している。

 さらに北には、ねぶの木原・舟田・松原・墓の前・赤野・小屋のあと、大野・とうじり(どう尻)・おた塚・池田などがある。「どう」とは川の合流点を意味する。

 木綿は戦国時代から作られるようになったので、その頃まで人が住んでいたと考えられるが、江戸時代には、一部畑は残るものの、すべて水田として開かれていた。

 ここは押野荘から横江荘に通ずる押野往来が通り、また近くを流れる十人川を下って、大野荘の宮腰津(金石)と舟による交流があったものと思われる。二日市の土地が十人川に沿って細長く北に伸びていることは、ここが重要な場所であったことを物語っている。この集落で市が開かれていた可能性が大きい。

 おた塚のほとり、県営あすなろ団地付近の十人川にかかる小田橋を渡ると押野荘の八日市である。

 

 

 第二は荒川神社からJR北陸線の踏切にかけての場所で精進川(郷用水東川 旧大塚川)に添って御経塚町の境から、やとめ・しま・どやしき(どう屋敷)・かじやしき・北畑・いやしき・宮の前・荒川・ばんば・さいはう(砦堡)田など。押野往来から分かれて南へ三日市に通ずる路に沿って、川の合流点にあった古い屋敷・鍛治屋・居屋敷・八幡社・馬場跡が地籍図に確認される。御経塚地内にまたがって合戦の跡、矢留があり、馬場やとりで跡と思われる地名が残っていることから、地侍が住んでいたものと思う。押野往来は、どやしきの前、北の橋を渡って西方の長池・横江に通ずる。

 第三は荒川神社の南、三日市に接し、精進川をはさんで、ほっけ(法花)田・かねつき(鐘撞)、青畑、大天畑があり、古い寺のあった所と思われる。天畑の橋を渡ると中興保の三日市である。

 散在していたこれらの集落のどこに市があったか、今確かめることはむずかしい。川のほとり、往来沿いの集落は、戦国時代を経験する中で、その存在基盤が失われ、消えていった。

 精進川の西は、中の坪、八枚坪の地名があり、古くから開かれていたと思われ、東は用水の便もよく、その中心に位置する八幡社、居屋敷の地は、二日市村として今に続いている。

 これらの集落の分布状況からみて中世後期の二日市は、横江庄、押野庄、中興保の境界にあり、八日市、三日市と市場群を形成していたと考えられる。

 

 

三  古代の二日市


 慶安元年(一六四八)の二日市村検地打渡状は、江川、道とともに塚を課税土地面積から除外し、古墳があることを記載している。

 二日市の東南隅、トナミ運輸付近に、周りを塚の越という地名に取り囲まれた長方形の区域がある。

 地籍図によると長さ約四〇m、幅約二四mの大きさで、ここに古墳があったと推定される。この古墳の北西約六〇mの所には蛇塚(長さ約三六mのほぼ長方形)がある。

 高塚五郎兵衛の伝承は、村人がこれら大小二つの古墳を主人と家来の霊が宿る所に見立てて、その栄光と悲劇を語り伝えたものと思う。

 村の東北端近くのおた塚(約二六m方形)も古墳と考えられる。

 二日市は大型打製石斧が採集されており、縄文・弥生の昔から人々が住み、古墳も多く、早くから文化の開けた土地柄である。

 

  加州石川郡二日市村御検地御図帳ノ事

  当高

  合五百拾六石九斗五升二合 田畠居屋敷

  右除江川道塚打渡所如件

  慶安元年十二月二十日 小寺甚右衛門花押

                   津田覚兵衛 花押

                百姓中(後藤家文書)

 

 四  村御印(むらごいん)

 二日市には加賀藩時代の物成(ものなり)(年貢)の文書である村御印が残っている。

 慶安元年(一六四八)、前田利常は隠田(かくしだ)をなくすため、領内の惣検地(土地測量)を行い、慶安四年(一六五一)から農政改革「改作法」を実施した。

   (一) 家臣が領地の百姓から直接年貢を取ることを禁ずる。

   (二) 未納年貢米(敷借米)の免除

   (三) 草高 免の増加

   (四) 土地による不公平をなくするための田地割の制度化

 など、農村の安定、年貢の増大を図った。

 改作法成就の明暦二年(一六五六)村御印の改定頌布。寛文十年(一六七〇)新京枡採用による更新。今、村々に残されているものは寛文の村御印である。

 二日市村の草高は五四八石、宅地を含む三六町五反の土地の法定収穫高である。石川郡は一反歩一石五斗である。

 免は四つ半、草高の四五%が年貢である。

 草高と実収は異なるので、免は村々によってちがう。二日市の年貢は付加税の夫銀(ぶぎん)、口米(くちまい)と合わせて、坪当たり玄米二合六勺、十アール当り一一七㎏である。当時の収穫高に対して五〇%を越える。

 二日市の免が、郷の他地区に比べて低いのは、二日市の地味が「其質美悪相半ス 所々湧水多ク……水利ハ夏日早ニ苦シムコトアリ。」(皇国地誌)地力が低く、昔は湿田がある反面、用水の末端で夏ひでりの年には水不足になることが多かった。

 未納年貢米(敷借米)は八八石、草高と比べて一六%と目立って多く、その頃たびたび起きた災害によるものと思われる。明暦元年分石川郡敷借米利足支払の文書に、二日市村肝煎五郎兵衛の名が見える。(後藤家文書)

 

 

 

五  地名と新田開発


 加賀藩では新田開発が用水整備と共に盛んに行われた。二日市では、正保三年(一六四六)の草高四七八石にくらべ、明暦二年(一六五六)には五四八石と一五%の増加である。その後幕末まで変わらないことから加賀藩の初期にほぼ全域が開田されたものと思われる。地名に島・ねぶのき原・すげ原・三昧(さんまい)など開墾前の状況を示すものの外、初期の百姓、下百姓名が多い。市郎右門田・喜右衛門田・久兵衛田・仁右衛門田・太郎兵衛田など。場所は川べり・窪地・墓地・塚・馬場付近で、開田した人の名をつけたものと思われる。廃村や荒地原野が一面の水田地帯に生まれ変わった。

 

 貞享元年(一六八四)二日市村の百姓・下百姓

 五郎兵衛(年六七 百九石二斗四升 慶安二年より肝煎)、与兵衛、作右衛門、二郎兵衛、二郎助、市郎右衛門、里右衛門、喜右衛門、次郎右衛門、彦兵衛、久兵衛、長右衛門、仁右衛門、八郎右衛門、作兵衛、八兵衛、弥右衛門、四郎右衛門、太郎兵衛、仁兵衛、兵右衛門、才兵衛(御経塚より懸作り)(後藤家文書)

 

 

六  田地割(でんちわり)

 改作法は一村平均免による不公平をなくすため、原則として二十年ごとに「くじ」によって土地の交換をすることを定めた。これが田地割である。現在農家の土地が各所に分散しているのはこのためである。

 二日市村の加賀藩時代の記録は残っていないが、明治十六年(一八八三)算者に徳用村長田孫二外を選んで、最後の田地割が行われた。

 

 

七  人口の推移

 二日市村の人口は、加賀藩の二日市村から郷村字二日市になった明治二十三年(一八八九)まで一六〇人前後である。純農村で手作業中心の小農経営では、必要労働人口と扶養力は二〇〇年間ほとんど変わらなかった。

 

   宝永五年 (一七〇八) 家数二五戸 人口一六四人

   明治九年 (一八七六)   二八戸   一五四人

   明治二二年(一八八九)   三〇戸   一六六人

                   (石川県地名大辞典)

 

 

八  明治初期の農産物

 明治初期の農産物は米が最も多いが、自家用作物のほか、大消費地金沢に向けて、大根・胡瓜・茄子が生産販売されている。紺染の染料の原料藍葉も多く、紺屋のいた頃からの特産であろう。麻・竹の生産も多い。(皇国地誌)

 

 

九  耕地整理

 えぼし田・ふくべ田・五角田など地形のままに開田された、不整形の小さい田や曲がりくねった畦道や用水が、明治四十四年から始まった耕地整理により、整然と用排水の完備した美田に生まれかわった。工事完成は大正三年である。人力による大工事は村民の努力によって達成された。畑、畦畔が減少し、水田面積が一二・八%増加した。

 

   田 三八町九反七畝一五歩

   畑      六畝二〇歩

   山林     八畝 三歩

 

 

十  戦後の二日市

 昭和二十年八月十五日 太平洋戦争が終わる。

 昭和二十二年より農地改革が始まる。

 昭和二十五年九月三日には猛烈なジェーン台風が稲刈り中の稲を吹き飛ばし、村人夫で散乱した稲束の始末をした。大木が倒れて被害にあった家も多かった。この年から翌年にかけて、農地の交換分合が行われた。

 昭和二十七年、県道の拡幅工事。続いて集落内の道路が改良される。

 昭和三十一年、町村合併のあらしの中に、「野々市町字二日市町」となった。

 

 

 荒川神社

 村の南、荒川の地に荒川神社がある。長久年間(一〇四〇年頃)の創建と伝えられている。

 祭神は應神天皇。もと八幡社といったが、明治十四年三月現社号に改められた。明治三十七年社殿造営。明治四十年九月長池の八幡社が合祀される。昭和二十九年十一月本殿が造営された。春祭り四月一・二・三日、秋祭り十月十五・十六・十七日。

 社に鳥居がないが、言い伝えられる所によると、数回建立したがなぜか一夜にして倒壊したという。氏子は七十三戸(平成元年)。

 神社には玉垣、石灯龍、狛犬、絵馬など、奉納されている。安政三年(一八五六)の古い石灯寵がある。昭和五十六年、神馬が奉納された。境内に子供相撲場が作られている。

 

 

 お地蔵さん

 JR長池踏切近くの大栄家電の横に、二日市町のお地蔵さんが有り、いつも誰かがお参りしてお花が供えられています。

 二日市町の農家の人々は、昔から昭和三十年頃まで朝早く大八車を引いて、金沢市内へ農作物を売りに行ったり、田畑の肥料にするため肥やしをくみ取りに行ったりしていました。

 いつも八日市-丸木-出町(有松)のコースで御山(金沢市のこと)へ行商に行っていた町の人が、明治始めに新政府が出来て政治体制が変わり、今の有松一丁目(村上ようかんの向かい側)郵政官舎敷地の所に有った首切り場が廃止されることになった。この場所で囚人を弔う為に祭られていたたくさんのお地蔵さんが、深い穴を掘って埋められようとしているのを見て、それではかわいそうと、行商に行っていた二日市町の誰かが当時の役人に頼んで、中でも一番かわいらしいのを大八車に乗せて二日市町まで持って帰って、今の場所に祭ったとの事です。

 このお地蔵さんのいわれを調べたところ、息子が親を喧嘩のすえ殺した尊属殺人のとむらいの為の地蔵さんと言う悲しい話を聞きました。このお地蔵さん今は、「親を大切にしなさい」と赤い前掛けを付けて、毎日通学生を見守っています。

 

 

十一  二日市町の状況

 昭和三十四年 北陸線複線電化工事が始まる。

 昭和三十五年 二日市との境にあった御経塚の池が、埋立ててなくなる。

 昭和三十六年 町会議員選挙で二名の議員選出。福田良一氏・北村仁勝氏。

 昭和三十七年 アスナロ団地の前身の昭栄団地が、線路の北側に出来る。国道八号線NHK横より、国鉄野々市駅予定地までの、巾一〇m道路建設。

 昭和三十八年 トナミ運輸基地が出来る。三〇〇〇坪の兼六マンション三十八世帯用が出来る。

 

 昭和三十九年 野々市駅建設用地の看板建てる。

 昭和四十年  移住第一号の、野村博外喜宅が出来る。

 昭和四十二年 三階建の北村アパート一棟完成。

 昭和四十三年 三月に国鉄野々市駅完成。

 昭和四十四年 二日市火葬場廃止。

 昭和四十五年 国道八号線バイパス通過。

 昭和四十七年 国道バイパス地下道完成。

 昭和四十八年 第一次石油ショック。北村アパート三棟目完成。

 昭和五十一年 国道八号線東側団地落成。

 昭和五十二年 東側団地建築第一号五十嵐氏。

 昭和五十四年 野代地区区画整理により、三十七年取付道路トナミ前より曲がる。

 昭和五十五年 大橋病院四階建出来る。

 

        野々市駅前簡易郵便局出来る。

 昭和五十六年 連れ込みホテル建設反対運動発生。

 昭和五十七年 町会で始めてインターハイ選手出る。卓球 野村千秋選手。

 昭和五十九年 野々市駅前に「止れ」の自動信号が出来る。

 昭和六十年  町内の外灯が五十灯を越す。

 昭和六十一年 町会で初めて国体選手出る。ヤリ投げ 岩脇正和選手。

        自治防犯隊発足する。隊員十五名で、制服新調。

        町会長と町会運営は旧町持廻りから、新旧混合で町会運営することになり、規約作成。

        町会員 三一七戸 役場公報枚数 三七〇部

        班編成 七班 副会長 五名任命

        少年野球ユニホーム新調。

 昭和六十二年 国鉄がJRになり、野々市駅に駅員が配置された。

        JR野々市駅が完成し、二十周年記念盆踊り開催。約三〇〇人が参加する。費用 約九十万円

 昭和六十三年 公民館建設積立開始二一六戸 月額一五〇〇円で始める。

 平成  元年 八月五日第三回JR野々市駅前盆踊りを開催し、八〇〇名が参加した。

        世帯数 三三五 持家戸数 三一八戸 事業所 三十一

 

 

十二  町の出来事

 こうしてJR野々市駅が出来た。

 

 昭和三十四年頃から、北陸線が複線電化される事になり、従来の石炭SLでは、発車して時速六十kになるまで一〇〇〇mも走らなければならない時代は終わり、電車は、出発進行一〇〇mで六十kも出るようになるとの話。

 松任-西金沢の中間である二日市に、駅を設けられる可能性が、技術的に充分にあるとの近在の国鉄勤務関係者の話が発端で、野々市駅設置の陳情運動が始まりました。

 自民党・社会党・県庁・国鉄支社及び管理局そして決起大会。大変に費用が掛かりました。二日市一〇〇〇万円、二日市以外で一〇〇〇万円野々市町が二〇〇〇万円 計四〇〇〇万円の負担金で野々市駅が出来たのです。

 国鉄は、一〇〇〇軒の家。県庁は、住宅団地三万坪(田圃一五〇枚)の利用者が必要と要望されたので、村の一部の方は、自費で当時誰も入る見込みのないのに一五〇戸近いアパートを建てました。その努力の裏には、農業廃止の家や、負債に苦しむ家が出たことは駅誕生の陰の現実です。

 松任宮永から金沢横川方面への北鉄バスは、鉄道管理局陳情の度、帰りに北鉄本社へ陳情訪問し、当時の社会党岡本県議、北鉄労組委員長さんらの特別の協力もあり、赤字は三年間という条件で、昭和三十八年開通しました。

 バスの開通で喜んだのは野々市駅予定地の方々より、松任の福増・宮永・横江・金沢の八日市・押野の住民だったようです。

 野々市駅が出来てから二十二年、毎年八月に記念の盆踊りが行われ、設立に努力された方々の労苦に感謝をしております。

 

 国鉄野々市駅誘置運動推進者名

 

        野々市駅前の石碑より

   福田良一(二日市) 吉田栄鈊(野代)

   村正行 (稲荷)  庄田義栄(御経塚)

   本田好 (二日市) 庄田勘治(御経塚)

   藤田英太郎(二日市)北村仁勝(二日市)

   市村正規(御経塚) 塚崎文雄(御経塚)

   副田政一(長池)  北村義信(稲荷)

   塚進一 (御経塚)

   関係協力町会

   二日市町 長池町、御経塚町、野代町、稲荷町

 

 

 

十三  活躍した人々

 

高塚五郎兵衛

 五郎兵衛は富樫政親の臣なりしが或時野々市付近に年を経たる白狐あり通行人を苦しめしかば政親五郎兵衛に命じて退治せしめた。五郎兵衛其の功により乗馬を許され横江の庄二日市の地五百四十八石を給わる。五郎兵衛二日市が地に館を築きたり。五郎兵衛深く仏教に帰依し信州善光寺のある田名のあるのは其跡ならんと云ふ。後政親亡びし時五郎兵衛一首の辞世を口ずさみ五十一歳で自害した。其の臣村本兵助清又殉死す。現在兵衛塚や五右ェ門田の地名のあるは其塚地後地ならずや、又其の付近に土屋敷 加治屋敷 助門田矢止の田名のあるも又然り。(石川郡誌)より

 

 

宗教界北村理右ェ門氏

 先代理右ェ門の長男として生まる。幼時より仏教に志厚く成長し村政にも交わりつゝ浄土真宗の布教につとめた。当時金沢、石川郡、能美郡を通じ、大谷派金沢別院下で信望を一手にしたと報ぜられる。昭和五年十二月五日、大谷派金沢東別院輪番上野興仁師より大奇散信講を創起し、三十二年間の宗義の研修は弘教上稗益する事鮮少ならずと肩衣一領を贈るの意義の感謝状が授与された。

 昭和六年死去    七十八歳

 

 

政治界 中島栄治氏

 二日市村松原太郎吉氏の二男として生まれ、県立松任農学校卒業後旧富奥村字太平寺村の中島家の養子となる。秀才と家柄両面で村民の信望厚く、同村の村長を歴任。町村合併して兵地町長に次ぎ四期連続町長の職を務めた。現在の野々市町の発展の基盤作成に努力された功績は偉大であり、又、私どもの誇りともするところである。昭和五十四年八月急死された。七十五歳生前の著書に「まめがら人生」が残っておる。昭和五十年四月、叙勲により勲五等双光旭日章を受賞される。

 

 

実業界 北村正則氏

 二日市町北村次吉氏長男として生まれ、県立富山商船学校航海科卒業後、大阪商船、三井倉庫上海支店長。終戦後米軍GHQ勤務、後、東西汽船を創起し社長を勤め、後、沢山汽船と合併後退社。静岡県伊東に於てサザンクロース・カントリー倶楽部を創立し現在に至る。郷公民館内のステージのドンチョウ、野々市小学校内の北村文庫は同氏の寄贈によるものである。著書には「舳ひとり物語」があり、又、最近発行の鈴木健二氏の日本史物語り中にも近況記載あり。本年八十四歳で健在。

郷の今昔