天正五年(一五七七)上杉謙信は七尾城を攻略し、その勢いをもって松任城を囲んで攻めた。
城主鏑木頼信の一族中に「塚田徳用」と云う人がおり、(徳用)地内に住んでいたが頼信との別れを惜しんで、近くの社地にあった杉の大樹に再会を祈った後、いずこへか立ち去ったとのことである。徳用地内には今も「つかだ」と称する地名が残っているが、その場所は明確ではない。
町名の「徳用」は塚田徳用からとったものと言い伝えられている。
社名 光松八幡神社
祭神 応神天皇
祭日 一月一一日 新年祭
四月 一日~ 三日 春祭
一〇月一五日~一七日 秋祭
一一月二三日 新穀感謝祭(新嘗祭)
徳用村には古来から村の鎮守として八幡社が一社あったが、ご神体は御坐さず御神霊だけであった。
昔この社地には「オボコ杉」とも「女男杉」とも云われた大きな杉の樹があった。根本は二本の樹であったが、遠くから見ると一本の樹のように見え、海上を航行する船からは「石川の鉾杉」と呼ばれて航海の目標となっていたが、宝暦十三年(一七六三)の暴風で倒れた。〔一説には天明三年(一七八三)〕
八幡社は社地にこの杉の樹があったことから「鉾杉社」とも「女男社」とも称し、更に「白山社」とも称して大切に祀られてきた。
明治二年(一八六九)六月、加賀藩第十四代藩主前田慶寧卿は版籍を奉還され、金沢藩知事に任じられたが、明治四年(一八七一)八月末には東京へ移住されることになられた。その直前の八月中旬に徳用村肝煎の仕平等から、
「中納言様御直筆奉拝戴候上ハ社堂ヘ相納置申度奉存」以下略
中納言様(第一三代藩主斉泰卿)の御直筆を頂ければ社堂に納めて置きたい主旨のお願いを申しあげたところ、特別なお取り計いを以って金谷御住居より
一、 八幡宮御神体 壱体
一、 御縁起書 壱箱
一、 銭札百貫文
を徳用村の白山社へ御納めくだされることとなった。この日は明治四年八月二十七日と記されている。この時頂いた御神体は前田家歴代の藩主が守護神として大切にお祭りされてこられたものであった。その外
一、 御本殿 壱宇
一、 鳥居(戸室石製) 壱基
を頂き、更に斉泰卿の御直筆を初め多数の品々を御寄贈賜わっている。それ以来徳用村ではその品々を社宝として大切に保管してきている。
戸室石製の鳥居には
文久三年発亥九月吉日
(御)主殿御寄附
と刻まれてあった。文久三年(一八六三)三月二十二日には斉泰卿奥方の溶姫様(御守殿)が初めて江戸から金沢城二ノ丸御殿へ移住されたが、その半年後の九月に御寄付なされたものであった。
斉泰卿は慶応二年(一八六六)四月に御隠居なされ、御家督を第一四代藩主の慶寧卿にお譲りなされると共に二ノ丸御殿より金谷御殿へお移りになられ、代わって慶寧卿が金谷御殿より二ノ丸御殿へ移られている。
以上のような経緯で御城内金谷御殿奉祀の八幡社が徳用村へ御遷宮されたが、その後の主なできごとは次のとおりである。
明治七年(一八七四)一〇月 社号を「鉾杉八幡神社」と称する。社地の「鉾杉」を社号としたものである。
明治十一年(一八七八)七月一日 前田斉泰卿が当神社に御参拝される。
明治十一年七月 旧藩士民の寄付金を以って拝殿を新築する。
明治十六年(一八八三) 前田斉泰卿御直筆「八幡大神」四文字の書葉を徳用村氏子一七名に一葉宛賜わる。
明治二二年(一八八九)二月二五日 社号を「光松八幡神社」と改称する。御縁起書に書かれてある「光松山八幡宮」の頭文字「光松」を頂いたものである。
明治三二年(一八九九)四月三〇日 藩祖前田利家公の三百年祭を当神社でも挙行し、前田利嗣公の代理として前田晋殿が御参拝される。
大正 六年(一九一七)一月三〇日 社務所を新築する。
昭和 三年(一九二八)三月三一日 鳥居を建て替える。(損傷甚だしいため)
加賀藩歴代の藩主が大切に奉祀された八幡社の御神体は、江戸(東京)の「光松山八幡宮」から分神されて、御縁起書と共に前田家に御譲与された由緒深いものであるが、その年代は不詳である。〔一説には元禄年中(一六九〇頃)とも言われている。〕
光松山八幡宮の御由緒は御縁起書に詳しく書かれている。御縁起書は因・縁・果の三巻から成り立っており、「穴八幡神社」に保存されているが、徳用町の光松八幡神社にもこれと同文の御縁起書(明治四年に御譲与賜わったもの)が保存されている。両御縁起書は安政三年(一八五六)四月に石黒嘉左衛門によって再校合されている。
徳用村で古来から言い伝えられている「光り松」などのいわれについては、御縁起書に大略次のように記されてある。
『昔、武蔵国豊島郡牛込郷戸塚村(東京都新宿区西早稲田二丁目)にいわくありげな岡山があり、そこには年代を経た二本の太い松があった。
寛永十三年(一六三六)、弓の司であった松平新五左衛門に与力する人々が射芸に励もうとして八幡宮を勧請してお祀りし、そこに的山を築いた。
寛永十八年(一六四一)にはこの宮守として威光院良昌僧都を招いた。
草庵を造ろうとして上の山を一丈ばかり掘り崩したところ、山の麓に小さな穴が開いてきたが、雨が降り日が暮れてきたためそのまま作業を中止した。翌日人々が集まってきたが、穴口が狭く奥が深く、誰も中へ入る者はなかった。暫くしてある人が刀を抜いて持ち、火を点して奥へ入った。これに続いて人々が中へ入り穴の中を見回したところ、金銅で作った三寸ばかりの丈の仏像が石に座っておられた。
八月一日から八幡大菩薩の放生会式が執行されるが、この時に地中から出現されたことは誠に不思議なことであり、誰名付けるともなく「穴八幡」と呼び慣わされた。
更に宵には、出現された辺りにあった二本の神松から鞠の形をした光物が三つ飛び出して江戸を廻り、その夜は方々で見た人が多かった。
地形を引き広げようとした折、利常公より数百人の人夫を供せられ、残る処なく造成され、成就の節は酒肴等を数多くご寄進になられた。(註 このことは、加賀藩史料第三編に記されてある)
御遷宮の日は神事として神的を射る行事などを済ませ、その夜神社の庭で踊り等を催していたところ、亥の刻(二十二時)頃神松より挑燈ほどの光物が出て社殿の後に飛び落ちた。
更に昔から牛込の里に神が住んでおられるという宇賀榎の大木が風に吹かれて倒れたが、その木で天満天神の尊容と高野大師の御姿及び八幡大菩薩の像を作った。
作り上がった御神体を拝殿に移し奉り開眼供養を執行したところ、小夜更けがたに神松より例の光物が出て社殿の前に飛び落ちた。
その他おめでたいことがあると、神松から神光を放ち神殿に飛び入ることが続き、遂に御上聞に達し、後の世までもこの祥瑞を伝えるため、山を光松と号し、寺を放生と称することとなった。』
「光松山放生寺」は「穴八幡宮」の別当寺である。明治二年(一八六九)に行われた神仏分離の折には光松山穴八幡宮は社寺の境界を明確にするとともに、社名を「穴八幡神社」、寺名を「威盛院光松山放生寺」と称している。
以上のように徳用町に鎮座の「光松八幡神社」は江戸(東京)の「光松山穴八幡宮」から御分神されて金沢城内金谷御殿に祀られ、更に金谷御殿より徳用村に御遷宮されて現在に至っている由緒ある神社である。
徳用村はいつ頃存在したかは明確ではない。寛文十年(一六七〇)に村御印が発行された時の家高は二軒、百姓数八人とされている。明治時代に移り、明治九年(一八七六)の家数は十五軒、人口一〇七人、明治二十二年(一八八九)に至り戸数十六軒、人口一一二人となっている。以来昭和五十年(一九七五)頃までは毎年僅かながら転入・転出を繰り返したが、総数では大きな変化は見られなかった。
昭和五十三年(一九七八)から着工された土地区画整理事業後は急激に戸数が増加し、昭和六十三年一月現在の戸数は五十四戸となっている。
事業所は主として昭和三十一年(一九五六)に開通した国道八号線に沿って昭和四十四年(一九六九)頃から進出し始め、昭和六十三年一月現在では金沢脳神経外科病院・新潟運輸建設㈱・光洋精工㈱金沢営業所・太陽重車両㈱・ニュー三久㈱新陽店等二十社を超える状況となった。
耕地整理事業
徳用村の耕地整理は、明治四十三年(一九一〇)から始まったが、この時の土地所有者は次の四十一名であった。
徳用村在住者 二十一名 他市町村 十八名
神社 一名 共有地管理者 一名
ここに徳用村在住の土地所有者名を記す。いずれも共に耕地整理に協力した人々であることは言うまでもない。
竹村与吉、中橋安太郎、中山亘、黒山長松、古田安次郎、茶谷権太郎、中川清太郎、茶谷誠之、中橋完正、中山権太郎、瀬川定次郎、長田甚吉、長田孫二、茶谷すず、茶谷太三郎、茶谷伊三郎、瀬川与三松、瀬川栄松、瀬川初三郎、瀬川与三郎、 宮腰源右衛門
耕地整理前の状況田畑は屈曲の多い畔で仕切られ、その面積は不揃いで、最大の田は一反二畝歩(一、一九〇㎡)、最小の田は五十六歩(一八五㎡)、平均面積三畝二十五歩(三八〇㎡)であった。
雑木が多く、給・排水路も屈曲し、川幅は広狭の差は甚だしかった。農道もまた粗雑で狭く、軟弱であった。
組合の名称 石川郡郷村字徳用耕地整理組合
明治四十四年(一九一一)三月四日 石川県知事認可
組合役員 明治四十四年六月八日認可
組合長 茶谷太三郎 組合副長 中川清太郎
評議員 瀬川初三郎 長田孫二 瀬川与三郎 中山亘 瀬川定次郎 古田安次郎
なお、役員の任期満了で再選挙を行い、大正四年七月には留任、大正八年八月には組合長が代わり茶谷 誠之が就任した。
工事着工 明治四十四年(一九一一)八月一日
耕地整理費 三、一九九円七一銭八厘
耕地整理前後の総面積の比較
整理前 二十三町六反八畝 十一歩(二三・四ha)
整理後 二十五町三反三畝二十二歩(二五・一ha)
工事完了 大正八年(一九一九)十一月二日
組合解散 大正十年(一九二一)十一月二日
清算整理 大正十一年二月二十五日
耕地整理の結果農地は整然とした方形の田畑となり、給・排水路の配置が完全になったため、紫雲英及び二毛作の栽培は何処の地でも可能になった。耕作は馬耕が一番適している。施肥については道路の整備十分なため運送上大変便利になった。このため増収となり、更に人夫の数を減じた。
また、雑木を除去したことにより日当り及び風通しは良くなり、害虫も減少した。
区画整理事業
昭和五十三年二月から開始された一連の区画整理事業については、第三章五の都市計画の別項参照。
徳用村を東から西に通っていた北陸街道は、古来から上街道として京都・江戸(東京)に通ずる主要道路であった。この道路には道の両側に松並樹があり、夏は道を歩く旅人のために木蔭を作り、冬は風雪を凌ぎあるいは積雪で道が見えなくなっても迷わないようにする道標ともなった。
この松は慶長六年(一六〇一)加賀藩第二代藩主前田利長公の時に初めて植えられたもので、その後文化十一年(一八一四)には枯木や損傷した木、屈曲して田畑に日蔭を作っている木などを綿密に調査し、伐採・補植計画がたてられた。この時徳用村地内では二九三本を補植している。
昭和初期に残されていた松は、正徳三年(一七一三)、文化十二年(一八一五)などに補植されたものが多かったと言われていたが、太平洋戦争中、軍用材として切り出され、根は航空機用燃料として松根油を採取するために掘り出された。
戦後僅かに残された松も、長い年月の間に台風で根もろとも倒れたり、枝が折れるなどで、今は徳用地内には一本も残っていない。
北陸街道は国道八号線と称した。戦後国内の急速な復興に伴い、未舗装の道路を自動車が砂塵や泥水を跳ね上げて走ったため、沿道の家々は便利な半面大変迷惑をしていた。
昭和三十一年(一九五六)秋には新道が造られ、徳用地内は集落の南側を通ることになり、国道八号線と称した。このため北陸街道は衰微の一途をたどることになった。
更に、昭和四十三年(一九八六)金沢・松任両バイパスが完成し、これを八号線と称することとなり、旧北陸街道は町道となった。
明治二十一年(一八八八)四月、徳用村には松任警察署の管下として巡査駐在所が置かれた。その受け持ち区域は旧郷村一円であった。駐在所は北陸街道沿いで、徳用村の西を流れる通称「ちゃや川」に架かっている「ちゃや橋」の東方約一五〇メートルばかりの所にあった。
明治二十五年(一九八二)六月、松任署の直轄管区となり同二十六年に再度徳用村に設けられ、同二十七年五月田中村に移転し、同三十年(一八九七)六月には再び徳用村に移転している。昭和に入ってからも、駐在所は田中村に移転しているが、この地は北陸街道を挟んで、南側は田中村、北は徳用村となっている場所である。道の北側と筋向かいの南側を往復していたことになる。
昭和二十九年(一九五四)には、新警察法が施行され、昭和三十二年(一九五七)には県下の二十五派出所・駐在所が統廃合されているが、徳用駐在所の廃止年月は不詳である。ただ、郷村が分村して野々市町と松任町へ合併した昭和三十一年に、旧郷村の財産処分が行われた時、「巡査駐在所は、その所属の村に払い下げして代金は松任町と野々市町で配分する」との一項目が記されていることを見ると、その頃廃止されたものと考えられる。
神社御宝物の中に金沢から徳用村へ送付した手紙がある。差出しの消印は「加賀金沢 廿五年十月 十二日 □便」、配送は「加賀松任 廿五年十月 十二日 二便」と押印されてある。これは一例に過ぎないが、交通不便な当時としては早い集配処理であったことがうかがえる。松任郵便局は明治五年(一八七二)四月に開局している。
郵便ポストは徳用村(現在は田中町)に置かれてあり、その場所は現在も変わっていない。
町内会の組織
町内会長・生産組合長が主軸となって運営してきた徳用町は、近年戸数及び人口が急激に増加しており、従来の営農重視方策だけでは対処できなくなってきた。このため町内の役職を広く町内住民で分担する必要が生じた。このことは以前から住んでいる旧村民と、新しく転入された方々との融和にも十分に役立っている。
平成元年の徳用町町内会役職は次のとおりである。
町内会会長 副町内会長(二名) 班長(第一班~第五班) 会計
生産組合長 水門番 消防(三名) 小学校委員
中学校委員 子供会 体育委員 自治防犯隊
納税組合長 交通安全委員 郷公民館事業委員 健康づくり推進連絡員
氏子総代(四名) 忠魂碑保存会委員 徳用町会館運営委員 婦人会
諸会合
一月中旬に行う新年総会(初寄合)と十二月中旬に開催する年末総会(万雑)(マンゾウ)は、町内会長が主催して行う定例会議である。新年総会では新年度の役員を確認し、行事計画・予算及び懸案事項を審議する。また、年末総会では一年間の町内会経費を総決算し、翌年度の役員を決め、更に懸案事項の審議を行っている。なお、生産組合に関する事項は町内会から外して生産組合長が主催運営に当たっている。
太鼓による合図
昭和四十年(一九六五)頃以前の区長宅には軒先に太鼓が吊るされ、会合の開始・お参りの始まり、火災発生の緊急合図などに使用した。
太鼓の合図は昭和三十八年(一九六三)一月の初寄合で再確認されているが、この後の記録はなく時代の推移とともに消滅した。
班長制
昭和五十三年(一九七八)頃から徳用町に転入する人が増加したため、昭和五十五年(一九八〇)から班制をとることとして、町内を四班に分けて班長を置いた。連絡事項や配付物は各班長に依頼することとした。昭和六十二年から五班に分けている。
徳用町会館
徳用町町民が永年切望してきた集会所は、町内在住の古田義則から用地の提供を受けたことから急速に建設機運が高まり、石川県並に野々市町のご助力を得て実現することとなった。
これに先立ち、昭和五十九年四月(町内会長、竹村弘)より会館建設資金の積立てを開始し、全町民がこれに参加した。
昭和六十二年(一九八七)六月(町内会長瀬川多喜雄)、上記用地の提供を受け、盛土を施工すると共に、同年十二月には石川県及び野々市町に建設事業計画を申請した。
昭和六十三年一月(町内会長宮腰洋)に会館建設委員会を設置し、次の役員を決めた。
委員長 瀬川多喜雄
副委員長 小林清
会計 高木清子
委員 古田義則 竹村弘 長田隆 中山久男 瀬川郁夫
中川晃 黒山良一 中橋俊雄 小坂忠孝 奥村武義
宮腰洋 新幸春 北岡信雄 中野映一 東川憲二
以降、竣工に至るまでの経過は次のとおりであった。
昭和六十三年四月 設計監理業務を依託
七月 助成内示、建設事業申請、請負施工業者決定
七月三十一日 地鎮祭
九月 十一日 上棟式
十一月 十日 竣工検査、引渡
十一月二十三日 落成式及び祝賀式
会館は徳用町会館と名付けられ、昭和六十三年十一月二十三日より開館した。
この会館の規模及び総事業費等は次のとおりである。
(1) 会館の規模
敷地面積 二二二・二六㎡(六七・二三坪)
建築面積 一三三・三二㎡(四〇・二五坪)
構造及び広さ
構造 木造瓦葺平屋建
広さ
集会室 四四畳
談話室 八畳
(2) 設計監理 奥村武義建築研究室
(3) 施 工 ㈱清水建築
(4) 会館の総事業費 一、九五〇万円(盛土、備品等を含む)
徳用町会館の祝賀式は、落成式後同会館で徳用町町民約五十人が出席して行い、念願のコミュニティ施設の完成を喜びあった。
来賓の石川県知事代理 渡辺武県民生活課長・西尾町長・竹内恍一県議・黒山茂町議等の方々から祝辞を受けた。また建設に尽力した次の方には感謝状を贈呈した。
古田義則 用地提供
奥村武義建築研究室 設計監理
㈱清水建築 施工
当日の来賓及び徳用町各戸には、会館の概要を記した「徳用町会館」並びに「徳用町のあゆみ・光松八幡神社の御由緒」を贈呈した。
徳用町会館は今後徳用町住民の各種行事の開催場所として、あるいは懇親の場として有効に活用したいものである。
幕末から明治にかけて、測量・絵図調製に活躍した徳用村の異色の人「長田順二」は、加賀藩時代には藩庁改作所に勤め、廃藩置県後は石川県に勤務した。
明治初期はまだ鉄道も自動車もなく、ひたすら歩く以外に方法はなかった頃であった。このような時代に加賀・能登(石川県)、越中(富山県)の三ヵ国を歩き、検地・測量に従事すると共に藩命により高山・松本を経て江戸への新道測量、並びに見取絵図を作成、また、敦賀・琵琶湖間の測量に従事するなどの特命業務に従事している。
県庁に転属後は地租改正・地券の発行など、明治新政府が掲げた二大事業の事務処理を担当している。以下、「長田順二」の略歴を記す。
旧藩十村支配の頃、田中は富樫組の内にあり、明治維新後、郡区制施行の時までは、十一大区小三区に属していた。明治二十二年、徳用・田中・番匠・柳町・横江・長池・二日市・三日市・堀内・田尻・蓮花寺・専福寺・稲荷が合併して一村となり、手取川七ヶ用水幹線水路の一つ郷用水普通水利組合管理事務所を役場内に設置し、村長がこれを管理したところより郷用水の名をとって郷村と呼称した。田中はこの郷村の中心に位置し存在するところから、役場庁舎を初めとして、小学校校舎・校庭、農業協同組合事務所、倉庫、義勇消防格納庫、公民館等の郷村の公共設備を地域内に有して、正に郷村の行政・教育・産業の中心地として、昭和三十一年の野々市町・松任市への分村町村合併まで明治二十二年の開村より六十六年間栄えて閉村した。時の流れは、広域行政時代となり、町村合併が至上命令として村民の利害関係対立を増長し分村合併へと結論付け、郷村の中心に位置した関係上、田中は集落そのものが野々市町と松任市へ分かれる運命となり、旧名上田中は松任市田中町となり、下田中は、分村で消滅する郷村の名を記念する意味を込めて野々市町字郷町と改称する。郷町となって、はやくも三十四年の歳月を経た。これが郷町の移り変わりの歴史、町名の由来である。
手取川扇状地の扇央部に位置する。町の東側は手取川七ヶ用水の幹線水路の一つ、郷用水が流れて徳用町との境界をなしている。
西側は、郷用水の分流である横江川が貫流して、松任市番匠町との境界をなしている。
南側の境界は、その昔、旧藩時代、参勤交替の大名行列が行き来した旧北国街道で、松任田中町と接する。昭和十年頃までは、老松の巨木の松並木が美しい偉容を誇っていたが、太平洋戦争の犠牲となって切られ、今は往時の面影は残っていない。
北側は、東西に旧国有鉄道、現在のJR北陸本線が貫通して、松任市横江町との境界をなしている。この東西南北の境界内が郷町居住地区であり、旧耕地整理地番のヘの部と、トの部の地番で構成されている。新地番は通し番号で、一番より二二七番までである。
この区域には、住宅三十軒、大型事業所六ヶ所、松任市農業倉庫があり、田中八幡神社と集会場は、ほぼ中心に存在する。
又、新番地、二二八番より三〇九番までの地域は、旧郷村字田中の南側の境界、現在の松任市専福寺町境界に存在し、国道八号線が貫通する沿線には大型商店八軒が営業を競い、郷町の商業地域を形成して柳町に接する。
野々市町字郷町は、松任市田中町を真中に南北両脇よりはさみこむように形勢されるのである。
野々市町字郷町は、昭和三十一年に当時、戸数わずかに七戸の純農村であり、石川郡郷村字田中といった。太平洋戦争の敗戦による終結、連合軍の進駐、戦後の復興など、困難をこえて日本の社会全体が息吹き出したのはそれから十年を経た昭和三十年が明けてからである。地方行政の広域化推進と名付けた町村合併推進の波は、郷村も他町村同様町村合併の必要を迫るものであった。
松任市と野々市町のほぼ中間に位置する郷村は、松任市・野々市町双方の影響力と利害関係のからみから不幸にして分村合併という姿で二分された。その郷村の中心に位置した、田中は、上、下、の両田中に分かれたために、町村合併についても、上田中は松任市へ、下田中は野々市町へと意見が分かれ、全国でも余り例を見ない、集落分割合併という形で決着した。野々市町に合併した下田中は、その名が合併で消滅する郷村を新町名として郷村の名を残し、野々市町郷町として発足した、時に昭和三十一年九月十六日のことであった。
田中村は、元、氏神は一社であったが、明治初年、上田中、下田中の紛争で祭神を分け、上田中は菅原大神を、下田中は應神天皇を祀り、それぞれ管原社と八幡社を氏神とした。
明治十四年(一八八一年)菅原社は田中郷管原神社 八幡社は田中八幡神社と改称す。
延宝六年(一六七八年)の十村からの名産書上に、マクワウリが記され、又・文化頃の(一八〇四年)記録である「加賀考跡考」には、ミノウリの名産地であることが記入されている。
江戸期より明治二十二年に至る迄の郷町の村名は田中村といった。加賀国石川郡に所属、加賀藩領である。
寛文十年(一六七〇年)三一九年前、村御印の村高六百四拾石、免五つ八歩、小物成はなし、江戸初期の家高九軒、百姓衆拾八人(加州三郡高免付御給人帳)。この数字は現在の松任市田中町(上田中)と合わせたもので、郷町分は数で示すなら、四軒八人である。田中村の中心を東西に北国街道が通り、ここを境に上田中、下田中に区分する。
現在の田中八幡神社は百八年前の新築の姿そのままを今に残している。
郷町九二番地は田中八幡神社境内の登録地番であり、ここに氏神が鎮座ましましてから約一二〇年の歳月を経ている。田中は一つの集落だが北国街道を真中にして、上下両垣内に分かれていた。元氏神は一社にて、現在の田中郷菅原神社の社地にあったが、寛永十五年(一六三八年)失火にて社殿全てを烏有に帰し、慶長五年(一六〇〇年)前田利長と丹羽長重と交質のとき、当、社祠に於て契約を結んだ近郷に知られた史蹟を失った。その後、明治初年に至るまで氏神は下田中の北国街道近くの北方の林の中に鎮座していた。現在、「古の宮」と伝承される水田があり、郷町一三五番、一三六番あたりと思われる。明治維新にあたり、この社を元の失火地に移動鎮座の動きが起こり失火より二四〇年にわたり、ほぼ田中の中心に大切に祀り守られてきたものを、元の失火地に再移動するは不当だと粉擾の原因となったものである。
古老の言い伝えによると、下田中の若い衆達が深夜、御神体の應神天皇座像を持ち出して、長老宅に安置し、うばい返すおそれありと、寝ずの番をして御神体を守ったとか。このように懸案の終結を見たとのことである。近年、市川春男氏宅新築の折り、土蔵を取りこわした雑物の中に、虫喰いで、ボロボロになってはいたが、麻で織られたのぼり大旗があり、この旗に御神体をつつみこんでもち出したとか! 言い伝えられた物件の出現に往時の事を語りしのんだことだ。神社の拝殿には繪馬が多くかかって氏子の信仰は厚く社殿を修築しながら今日に至っている。
明治五年(一八七二年)廃藩置県により、加賀国は石川県となる。明治九年(一八七六年)には、戸数二四戸、人口一三一人、荷車八台、産物の主なものに、米五七〇石、大麦二七石、大根一五三〇〇本、キューリ四三〇〇個、カタウリ三六九〇個、ナス一八二〇〇個、藍菜六九五斥 などの記録がある。(皇国地誌)もうこの時代には昭和の郷村字田中の集落戸数が確立しているのである。
現在の田中八幡神社の古きたたずまいは、世紀の時の流れを往時のまま今日に伝えて、先祖の活動の一端を偲ばせるのである。
昭和三十一年の町村合併、新地番実施までこの書類は、町内の最重要書類の第一のものであった。区長重要保管と題して、一万二千分ノ一の耕地整理確定図綴り一冊、一千二百分ノ一の石川郡郷村字田中地図一枚、同じく各耕作農家名入り農地地図一枚、整理地名寄簿一冊が現在に、先人達の耕地整理事業を伝える証明物件である。
石川郡郷村字田中耕地整理組合を結成し、明治四四年十二月二七日施行認可を取り、明治四五年三月一五日、事業着工。約十年の歳月と、当時の金で、五五八三円九二銭の巨費を投入し、工事は大正九年十月三十日に完了、大正九年十二月二三日までに換地処分確定した。
登録手続きを終えて事業完了。耕地整理組合の解散を確認したのは、大正十一年三月十九日のことであったと記録されている。
耕地整理事業は、田中全体として四三町八反九畝三歩の地積を、四八町六反二畝二六歩と実に四町七反三畝二三歩、耕地増と恩恵を生み出したのである。
耕地整理は田中の全耕地を、イロハニホへト、の七区分に整理した。イの部は、一番より六七番まで、ロの部は、一番より百番まで ハの部は、一番より六九番まで、ニの部は、一番より一三六番まで、ホの部は、一番より一三二番まで、ヘの部は、一番より一六一番まで、トの部は、一番より七九番までである。総計、四三町九反三畝一歩、七五〇筆内訳は、田、七一六筆、四一町八反八畝七歩、畑、六筆 五畝八歩、宅地、二八筆、一町九反八畝二六歩となっている。
大正十一年六月十二日耕地整理完了により産業組合事務所地番を、郷村字田中発参拾ノ四地とあったのを、郷村字田中ヘ二番地と改め届け出た。(郷農協史)耕地整理事業の進行により、当時の米価は玄米一石が拾円から参拾円前後である、現在の米価に換算すれば二千万円を超える巨費であり、土木機械化なしに人力を主力とした耕地整理事業の推進は、先人の農業発展にかけるエネルギーの巨大さに、正に目をみはる驚きである。
耕地整理より七十年を経た現在も郷町は、往時の姿そのままに、農業機械化時代を生きていることになる。他町村では、大型機械化のための基盤整理が進んでいる所もあるが、郷町は基本的に変化はない。郷町は旧地番の、ヘの部と、トの部の全部が新地番では、一番より二二七番となり、イの部より二四筆、ロの部より三〇筆、ハの部より三四筆、計八八筆が新地番の二二八番より三〇九番まで一つの町内が二つの地域に、またがるという全国に例を見ない実態は、行政のいたずら以外の何ものでもない。
野々市町字郷町となってからの郷町は、昭和四十年代の国の高度経済成長情勢の中で、町内幹線道路の拡幅舗装、農業用水路の改善近代化、各種事業所の受け入れ、一般住宅の建設と町内会拡大増加で、町内戸数が七戸より三十戸へ、各種事業所十一ヶ所を数える発展を遂げている。
町内戸数と町民の増加は、必然的に町内会、生産組合、子供会、婦人会、神社祭礼、各種会合等の、集会場の建設を望む声が拡大し、昭和五十二年一月二十七日、出席者、十七名にて集会場建設に関する町内会総会を開き、発起人・町会長黒山茂、有志・市川正雄、三口哲、三名の素案を元に建設の是非と、建設の内容、建設の時期等の討論を提起した。町内の大勢は建設に賛成であるが、資金計画の具体化、建設内容の検討等になお、慎重を期して再度検討し、結論を二月五日総会にて最終決定することとし散会した。次回総会までに、発起人を中心に正式に町内集会場建設推進委員会(仮名)を設置し、次の運動を具体化した。
県、及び町に於て、コミュニティー施設整備事業で町会単位の集会場建設に補助金を出しているので、その補助事業に郷町集会場ものせることを河村県議・小杉町議を通じて、県及び町当局に働きかけ要請する。県当局に対して、県の五十二年度の補助対称に郷町集会場建設につき予算化いただきたく要望書を提出する。県補助金は五十一年度で総事業費の十%とのことであった。
月末より資金計画の明確化のため、町内在住者の寄付金の募集を開始し、二月五日の総会までに、寄付金の集計、六十二万円也と、水道施設の利用寄付を契約確約することが出来た。町内の意志は建設の方向へ動き出した。
二月五日 第二回総会を開催し、協議の末投票にて建設の意志を確認した結果は、五十二年度中に集会場を建設することと出席者の全員の賛同が投票に示されることで決定を見た。総事業費二百六十万円を目安とし、細部については建設委員会に一任することとし、建設地は神社境内横空地と決る。発起人三名に新たに、市川春男、村尾陽一両氏を追加、五名で建設委員会を構成し、建設具体化を一任、選任する。以上を総会決定として確認する。
二月六日 第一回の建設委員会を開催し、大工、山崎信雄氏を招き、建坪十六坪の間取を決定する。建設業者は野々市町字徳用町の黒山木材とし、総額二百参十五万円と決定を見る。建設時期は、県、町補助金の交付される九月頃の時期に合わせる。建設費用は、寄付金、補助金の外は、毎月一戸当たり一千五百円を積立てる積立金で充当する。五十二年二月より積立て開始、毎月二十五日を徴集日として、野々市農協郷支所に口座を設置した。
二月十九日 建設地の開発行為申請書を県に提出する。
六月 四日 建設地整理勤労奉仕、町内在住者の勤労奉仕にて敷地内の立木、雑草の除去整地に汗を流す。
六月十四日 金沢土木事務所より現場確認に舟瀬担当官が来町する。
六月二十七日 第二回建設委員会を開催し、建築契約、寄付金徴集、地鎮祭等につき協議決定を見る。
七月一日 黒山木材、社長、黒山良一氏と建築契約をかわす。建設費二百参十五万円。
完成は九月末日、契約金として、六十二万円を支払いする。半年の間に懸案事項が現実のものに近づく手ごたえをひしひしと感じて、建設委員の各氏は感無量のものがある。
七月十七日 午前八時三十分より、田中八幡神社宮司・鏑木芳樹氏により地鎮祭執行される。工事の安全と平安を祈る。地鎮祭終了後、水道管の配管を勤労奉仕によって行い、安川清氏寄付の百二十米の配管工事を完了したのは午前中のことであった。
七月二十七日 基礎工事を開始する。八月二十日、建前の前日に、同和運送より取り寄せたる砂を敷地間に取り入れ整地する。
八月二十七日 集会場建前、棟上げ。好天に恵まれ、大工六名、建設委員の手伝いにて無事建前を終了した。ついに集会場は現実になった。あとは一日も早い完成を待つのみ。
十月七日 集会場完成す。
十月九日 建物の清掃、敷地へ山土を入れ、環境美化奉仕を行う。
十一月十一日 集会場前庭に寄付していただいた庭石・芝・植木等の庭園配植し、落成式の準備完了する。集会場の名稱は、県費補助の関係もあって、当分の間、郷町青少年談話室として公示する。
十月十二日午后三時より、落成式を挙行する。
各界の来賓多数を招き、町内会々員一体となり盛大に落成式を挙行した。
小さいけれど、大きな活動の基礎としての集会場の完成は、未来に向かって郷町発展の第一歩を力強く踏み出したもので、その喜びは格別のものである。永年の願望の実現で秋晴れの空のように、落成式に集まった町民各位の顔はさわやかであった。
式終了後、ささやかではあったが祝宴をもち、落成を来賓の方々と共々に祝った。
以上が集会場建設の経過である。
郷の今昔