真言宗の古刹蓮華寺が存在したことによると言われ、また、石川郡誌によれば「約七百年以前、蓮華寺と称する天台宗寺院がありしが、其の后浄土真宗が盛になると共に、大津の三井寺付近に移り、今尚存せりといふ」とある。その時の寺の境内に守護神として祭神にイザナギ・イザナミの神、天照大神の熊野三所の大権現の大神が鎮座していましたが、蓮華寺が廃寺となるや独立して、明治二年熊野社となった。その当時石川郡のうちの一つ領で村御印の村高三百十二石、家高四軒、農民数九人の村落であった。その神社はもと村の西北の大河の端・古宮(フルミヤ)の地にあり、その後現在地に移し、昭和二十一年三月熊野神社に昇格した。拝殿は入母屋造り、幣殿は切妻造りで、野々市町南町にあったものを移転したものである。
ある朝、蓮花寺の長老に神のお告げがあり、昭和三十六年がちょうど七百七十年に相当するとのお告げがあったので、大祭を執行し記念事業として、御社頭の参道を拡張し、玉垣を建設。蓮花寺の氏子はいうまでもなく、当村出身の皆様方や当村と御縁故深き方の御寄付により、立派な大祭を執行させていただいた。また、言い伝えによると、お玉信女と言う立派な仏門に入った方がおられ、仏教の教えを広く村の人達に布教されて、その道場のお堂が現在の社の中の御手洗か、今の鳥居の下にあたるといわれてる。白山ふもと白峰の弥平なる人が、白峰より日本海の海岸への途中、毎日蓮華寺を通って願かけに通い、大願成就した御礼として絵にかいた鳥居を奉納してあり、現在もそれは社に安置してある。
今より四十年前は、春ともなれば伏見の堤防の桜並木の満開や、北陸線の汽車の姿も田圃から見ることが出来る程に、村々は見渡す限りの水田地帯であった。村へ出入りする道は、北方から馬道と呼ばれ道が一本しかなかった東方の田尻、西方の田中へはポンプ道といって火事の時、火災ポンプ車が通るための細道しかなかった。それが、昭和四十三年に国道八号線が北東から西にかけて通り、交通の便利が一段とよくなり、又、その国道沿線には井上金庫・藤沢自動車商会・北鉄自動車学校・飲食店等つぎつぎと店舗が並び賑わいを見せている。西方では八号線と専福寺団地を結ぶ町道ができ、東の方は田尻・太平寺に向かって野々市小学校への通学道路として拡張され、それと結ぶ循環道路が南の方にでき、昔のような馬道一本の袋のような村から一変して道路網が整理され、まことに便利のよい村となった。
村では昔は集会や初寄合・万雑・定納よせ等は総て区長の家で行われたようで、区長に当たった家はその年は大変苦労した。また、毎月の村お講や若衆お講、報恩講のお参りは各家の廻り持ちで行い、のどかな習慣もあった。昭和六十年三月に会館を建設、落成されてからは町会や生産組合など各種団体の会合もすべて、この会館で行われ、また、神社の祭り時にも利用されて村の行事も一層活発になってきた今日である。
この村の物産としては、米・糯(もちごめ)・大麦・大豆・小豆・菜種・瓜・茄子等があげられる。特に「ミノ瓜」は金沢では評判が高かったようだ。また、大正時代の頃から松任宮永より「イ栽培」を教わり「ゴザ」の産地となり夏はイ草を作り、冬はゴザ織りが盛んで、付近の人々を集め指導もして産地の中心的な役割もしたようである。昭和の初め頃より松任の山島より玉葱の栽培を教わり、集落全体が家毎に二、三枚作り、納屋や土蔵の軒下にハサにしてかけ、夏の仕事に表皮をみがいて、金沢・小松の市場に出荷したものである、量・質共に優れていたもので特産物として名高かった。今では輸送の便がよくなり、遠地産が出廻ってきたので作付は減少してきた。最近は「青カブ」を栽培し、漬物屋と契約栽培して「金沢かぶらずし」として名声を出して出荷が続けられている。
昔の村落は、古宮の地を中心に住んでいたと伝え、戸数四軒、人口九人程いたとある。その住民達は、信仰心の厚い百姓衆であった。その中で特に源兵衛さんは正直者であった。いつものように朝早く田圃に出て仕事に精を出していたら急に体が痛み出し、鍬にすがって苦しんでいると、白いひげを長くはやした老人が現れて「お前の病気をなおしてやろう。今から言う薬草の作り方をよくおぼえておくのじゃ」と言って姿を消して行かれた。源兵衛さんは教えられたとおりに薬を作り、早速飲んでみると、みるみるうちに体が楽になり、元気をとりもどした。その話が広がり、悪い病気にかかると、その薬をもらいに大勢の人がきたと伝えられている。今でも源兵衛さんの家には、薬の作り方を書いた本や薬袋に押す木版が大事に残っているそうである。
村の西方を流れている島の河は現在護岸されて立派になっているが、以前は芒(ススキ)や合歓(ネムノキ)が生い茂り、夏ともなれば蝉やトンボの楽園で子供達の水遊びの場でもあった。また、昔は曲がりくねった川の中に島ができていたので、島の川と名付けられたと言われている。また、村のまわりの地に石塚が二つあり、一つは古宮であり十五歩、一つは塚田で二十歩あり、矢竹藪五歩と古文書に記されている。矢竹は野原の鹿や狐狩りに使う竹であり、群生藪で村の端にあり青々と茂っていたようである。そうして村の南の方が小高く道を歩く人の姿が段々と見えなくなり、村ぎわでひょっこり姿が現れたもので丘と谷の差がある地帯であったと古老から聞く。明治四十年頃から耕地整理が行われ、現在の平坦な水田地帯となった。
柳町という町名の起源は詳らかでない。昔の集落地と思われる現在「ふるやしき」と呼ばれている柳町の北東部の四十番地台の地域から現在のほぼ中央の位置に移ったと考えられ、その初めは番匠垣内の出村の状態だったらしい。郷村字柳町の野々市町への合併に際し名称について古来の柳町に町を付ければマチマチになるとの酒落(シャレ)もあり「字柳町」に決めたらしいが、現在は「柳」と呼んでいる人が多いようだ。
建設は同時期で解体移築したもので其の間の御神体は松任市番匠町浅田与作氏方の土蔵に仮安置されていたらしい。合祀の発議は、番匠、五歩市の両区で合祀の話が出、この話を聞いて柳町が神社の合併を希望した、という。現在の拝殿の東側にある倉庫は当時の八幡社の拝殿を移築したものである。当時は耕地整理等の資金増のため神社維持費の節約を目的に併合の機運が出来たとの事である「中ノ郷神社」の標柱を建立したのは、北国街道から現地に通じる道路があったその入口角に建てられていたのを移したもの。
氏神様 中の郷神社(石川県石川郡神社誌)
明治四十一年四月八日指定
祭神 應神天皇 少彦名命
祈年祭 三月二十一日 例祭 四月三日
新嘗祭 十一月廿三日
由緒・沿革
当社は郷村字番匠垣内と中奥村五歩市の入會地に両字氏神をも合祀したる神社なり
五歩市の氏神は村社辰田野神社と稱し番匠垣内の神社は村社郷姫川神社と唱へたり 共に創立の年代不詳にして移転合祀したるは明治四十年八月十七日なりき 柳町の村社八幡社を合祀したるは四十年九月十五日にして此神社亦創立年代不詳なり 斯くして三神社を合祀して成立せる中ノ郷神社としての当社は近時の創立と見るを至当とすべきか 社地亦新設なれば樹木の見るべきものなく合祀当時植樹せる杉の若木高さ五間余のもの密生するのみ
社殿建造物 社殿は南向きにして本殿神明造の様式にして銅板葺き但し刎勾欄等なし 前口二間奥行二間なり 拝殿入母屋造瓦葺 前口三間奥行二間二尺なり 幣殿瓦葺切妻造妻入にして前口二間奥行二間拝殿本殿間廻廊二平造瓦葺前口四尺奥行五間あり 社務所は拝殿右側にありて入母屋造瓦葺 前口二間奥行三間但し合祀せる社殿の拝殿なり 他に拝殿左側に祭器倉庫(前口十一尺奥行十一尺)一棟及び手水舎あり
工作物一、社標一基 社頭より約五丁余を隔たる表参道入口国道との分岐点に在り高さ一丈二尺石材なりき
鳥居 一基 石材明神造にして高さ十尺社頭に在り
石燈籠 一対 住吉造にして高さ九尺
狛犬 なし
氏子 六十斗
経費 金二百七十円五十三銭也
基本財産 現金 一円八十四銭三厘也
証券 千七十五円也
合計千七十六円八十四銭三厘也
なお、中ノ郷神社への合祀日は九月十五日(八五七負)とあるが、祭礼は同一日時に行われたようだ。(浅田与作氏談)
加州石川郡柳町村物成之事(石川郡誌)
一ヶ村草高 内五石明暦二年百姓方より上るに付無検地極
(一)二百六石 免五ッ七歩 内一歩明暦二年より上る
本来十八石
(一)三石六斗 敷借利足
明暦二年同三年に令免除
右免付之通新京升を以可納所、夫銀定納百石に付百四十目充、口米石に一斗一升二合充可出者也
寛文十年九月七日 印
柳町村百姓中
加賀国石川郡柳町村(石川県資料)(皇国地誌より)
本村本郡中奥郷に在り 文政四年辛巳中奥組ニ属シ 明治五年壬申正月第五区四番組ニ属シ九年十一月区画を改正シ第十一大区小三区ニ属シ十一年郡区編制ノ時区畫ヲ廃ス
彊城 東ハ本郡田中村ニ接シ西ハ徳丸村ト東川ノ中央ヲ以テ界シ南ハ乾垣内村ニ隣シ北ハ番匠垣内村ニ連ル
幅員 東西四町十八間 南北三町二十二間
管轄沿革 天正八年庚辰 織田信長本国ヲ平定シ佐久間盛政を尾山ニ封シ之ヲ領セシム 十一年癸末 豊臣秀吉 之ヲ前田利家ニ加封ス 爾来前田氏の領地ニ属ス
里程 元標 本村ノ東南八十九番地ノ一西南隅ニ建ツ 石川県庁ヨリ西南二里十六町五十七間一尺
乾垣内村元標へ五町五十二間 番匠垣内村元標識へ五町四十九間二尺 松任町元標へ二十三町二十一間一尺
地勢 全土平垣西方東川ニ沿ヒ三方田圃ニ續溝洫北ニ流レ人家中央ニアリ
地味 全土灰色其質美稲梁ニ宜ク水利ニ便ナリ
税地 田十二町三段零畝二十八歩畑一段四畝二十七歩 宅地五段七畝一十八歩 総計十三町零段三畝十三歩 新検地改組ノ数
無税地 段別ハ畝貮拾五歩 官有地第一種七畝十四歩 民有荒蕪地二歩 墓地一畝零九歩 新検改正ノ数 外田附属地大畝二十六歩 同上
字地 長木(ナガボク) 赤見川縁(アカミガワブチ) 明見(アケミ) 遠藤前(エンドウノマヘ) 丸山(マルヤマ) 西小木瓜(ニシコボケ) 蕗苗代(フキノシロ) 南平(ミナミビラ) 宮田(ミヤダ) 以上耕地貢租
地租 米百五石三斗七升三合 明治八年度 地租 金二百四十三円九拾四銭五厘 新検改租ノ数
戸数 本籍十二斗 平民 家数十二軒 本籍十一軒 社一軒(村社) 明治九年一月一日調査
人数男二十六口 平民女二十七口 平民 総計五十三口 同上
舟車 荷車二輌 小車同上
川 東川 中村梁ノ分流 村地ノ西南 乾垣内村地界 字宮田ヨリ徳丸地界ヲ北流シ 字遠藤前ニ至り 番匠垣内村地内ニ入ル 長町十三間三尺幅四間或ハ三間梁一間 此外西川砂川等ノ溝梁アリ
砂川假橋 本村ノ中央砂川ニ架ス 長一間 水深二尺
西川假橋 村地ノ中央西川ニ架ス 長二間 水深一尺
社 八幡社 村社 東西十五間三尺南北十六間五尺面積二百十四坪本村ノ西方ニアリ 応神天皇ヲ祭ル 祭日毎歳四月二日九月十五日
物産 米 産額百八十五石 糯米十三石五斗 大麦産額十三石五斗以上金澤ニ輸送ス 黍産額三石五斗自用ニ供ス 大豆産額一石六斗 蕎麦産額七石九斗以上金澤及ビ松任町ニ輸送 小豆産額一石二斗松任町ニ輸送ス 蘿蔔産額二千二百本自用ニ供ス 胡瓜産額二千二百二十個堅瓜産額二千九百八十個種類三十苅茄子産額九千八百十個以上金澤ニ輸送ス 藍葉産額五百六十二斤金澤及ビ松任町ニ輸送ス 菜種産額八石五斗 竹産額二百十五本種類真竹以上松任町ニ輸送ス
民業 男農ヲ業トスル者十二戸 女農ヲ業トスル者十八
耕地整理竣成面積 (大正十三年度末)
耕地整理前面積 十四町三段六畝十歩
耕地整理後総面積 十五町八段二十八歩
竣成面積 十四町三段六畝十歩
確定面積 十五町七段三畝十八歩
工事費総額 千六百九十六円七十八銭二厘
換地交付年月日 大正九年九月二十日
解散事業完了年月日 大正十一年七月二十日
結び
純農業地帯としての時代は変わり、高度経済成長と農産物価格低迷等により、特に都市近郊に於ける農地の宅地化が流行の波となり、我遅れじと之に体よく乗せられたため農地は減少の一途を辿り、その上市街化区域の農地の買い替え地として地主の変遷等目まぐるしい変動が起り、かつ農業蔑視の政策・教育等により後継者が減少し、農業労働力の老齢化や転業者等の内部事情もあり、柳町は大きく変わった。三十年前は八戸の農村集落が今日では一般住宅が百世帯近くになっている状況で、新しい町造りに叡智を搾っておられる。職業は多岐に亘っているが、地域内の融和と穏やかな環境を護り健全な地域へとの努力を願う次第である。
明治四十二年四月法律第三十号を以て新に耕地整理法を発布せられて 法人組織と為し今後設立するものは悉く此の法律に依らざるべからざることとなれり 本法に於ては整理前の国有地より整理後の国有地の面積の多き場合は其の超過面積に対し平均地価を控除せらるゝの恩典あり 更に整理地区内の民有地総面積の五分の一以上に当る土地には開墾又は地内変換をなしたる場合は工事完了の時地価を設立し其の超過したる面積に対して地租の増徴せらるゝこととなりたるを以て 新旧両法に自ら利害の差を生じたり 然るに旧法に依るものと雖も新法に変更することを得べく其の施行期限を大正二年十月十五日と限定せられたるを以て郡は之が利害関係を調査し三馬村字米泉外二十ヶ地区は之れを新法に依る耕地整理組合とみなし 柏野村字新谷柏野外十九ヶ地区を旧法に依ることとなせり 然るに新法に依り国有地の関係上地価の減少することとなりたるを以て本郡に於ては国有地問題に就きて税務署と意見の相違を来せり、其の事実は本郡及び県耕地整理係等にては溝梁に沿小溝畔は溝梁に附属すべきものなれば国有地なりと稱し 松任税務署は田に附属すべきものにして民有地なりと稱したるにて 本問題の解決するまで事務の遅滞を生じたるを以て県は松任税務署に交渉の結果大蔵省に伺ひ遂に大正七年七月本郡の主張の如く溝畔全部を国有地となすことの決定を得地価に関する恩典を受くることとなれり
斯くの如くにして本郡は組合設立の推奨と事業の完了事務を促進せしむべき連年之れに関する講習を聞きしが 越えて大正八年五月開墾助成法発布せられ工事開始の年より工事終了後四年に至る期間支出額に対する百分の六以内の助成金を政府より交付せらるることとなりたるを以て 爾来山間地方の農村に対し之れが奨励をなし同九年六月吉野谷村字市原組合を始め今日に至るまで二ヶ所其の面積八十一町歩の認可を得事業を進捗せしめつゝあり(以下略)(石川郡誌二三九頁)
野々市町全図を見ると、地図の左側即ち町の西部に北斗七星に似た柄杓状の突出部分がある。此の先端に当たるほぼ四方形の地域が柳町である。手取川による沖積層の石川郡平坦部に於て何故曲折した市町の境界になっているのか、一見疑問に思われるであろう。
昭和三十一年町村合併促進法で時世の変遷により、広域行政の見地から郷村も其の渦中に入り野々市町と松任町の中間に位置する関係上いずれに合併するかで騒然とした時に、各集落民の意志を尊重する形で解決を計ったようである。
すなわち柳町としては野々市町への合併希望になったが、その位置の上で飛地合併は認められないため郷村字田中地域で八十八筆の農地地域を野々市町に移籍し、之により接続地域としての形状を整え其の地域を野々市町字郷町としたがこれがすなわち地図上の柄杓の柄の部分である。
合併騒動は当時の新聞紙上に種々記事になっていたが、比較する術のない人間の歩んだ道については総べて過去として葬られるのだろうか。
柳町の最近十年間ほどを振り返ってみるに、そこには新しい街づくりへの、新旧住民の熱い思いと一体感がみられる。
即ちそれは、住民生活の基盤にふれる環境改善事業であったり、町会運営の刷新であったりする。急速に変ぼうしていく時代の流れにつれて、新旧住民の問題意識と相互理解が、「小異を捨てて大同につく」協調の精神をつよめ、街の和をよび、柳町の発展をもたらしつつあるといえよう。いろんなことがあった……
昭和五十九年度をもって、町内道路舗装等の長期整備事業が一応完成し、街区は面目を一新した。
昭和五十九年四月、布水中学校の開校に伴い、郷地区全十二町の生徒は、野々市中学校から分かれて、布水中学へ通学することとなった。通学路の整備等が議論された。
昭和五十八年着工、五十九年二月落成
木造平屋建瓦葺
敷地 二二五㎡ 建物一〇一㎡
建設費 一四三〇万円
費用は、石川県・野々市町の助成金と、住民九十余戸の積立金、借入金で賄われた。
集会所土地、建物とも野々市所有となり、施設管理も同。
○電話新設 昭和六十一年度
○掲 額 書「和気致祥」
石川県知事 中西陽一氏
○屋外掲示板の設置 昭和六十三年度
従来、町内役員会、総会等は町内会長宅で開催していたが、町民の拠点、集会所の新設によって、あらゆる会合、行事の開催が便利となり、コミュニケーションの輪が広がった。
昭和六十年度、年来取り組んできた町内側溝と河川(用水)の実態を、新ためて一斉実査し、出来易い改修工事から着手することとなった。このうち、側溝改修と、道路横断排水路の全面的増設については、昭和六十~六十一年度事業で完成し、通水、保健衛生等の面で改善が進んだ。
かねて念願の公園整備は、昭和六十~六十二年度において、砂場の造成、ブランコの設置、金網フェンスの全面改修となって実を結び、周辺道路の整備舗装と相まって広場の形をととのえた。ただし近年の世帯増加傾向からみて、依然子供たちの広場は狭く、抜本的な改善が望まれる。
多年取り組んできた河川改修については、昭和六十年十二月の柳町定期総会で、街区を南北に流れる全河川(生活、農業用水)の改修を、長期継続事業として強力に推進することが決定した。なお着工事は、出来易い用水ラインからと決められた。
○第一期事業
第一班竹田-第五班水上-第六班木谷ライン
右総会で六十年度以降の着工が承認され、六十~六十三年度間で完成。環境が一新して、次期事業へ向け弾みがついた。
〇第二期事業
第一班井村-第二班村本-第二班仙田ライン
早期着工かた策定中。
○地元負担金の分担方法
昭和六十一年度町内アンケート調査結果をふまえて、全河川負担金とも、「全世帯均等割」と決まった。
地況的に早期実現困難とみられていた上水道は、野々市町当局、議会等の格別の尽力によって平成元年三月完成し、柳町簡易水道組合は偉大な足跡をのこして解散した。住民は、野々市町上水道組合へ加入。
柳町単独上水道施設(浄水場新設)
平均給水量 一人一日 二〇〇m3
最大給水量 同(夏など) 二五〇m3
消火給水量 同(火災時)一〇〇〇m3
計画給水人口は十年後を想定して施設セット。以降は、状況即応可。
○役員の輪番制
集会所の完成を機に、「町内会長」を原住者に依存していたのを改め、昭和五十九年度から町内会長、副会長、会計の三役を、全六ヶ班で輪番に担当することとした。六十一年度からは、さらに分業化して三役と総務、環境、文化部長の六役輪番制をしいて執行体制の強化を図った。
○町内会則の改定、運営細則の制定
町会運営上のきまりを整備、明細化して、執行業務の一貫性、利便を図り、ルールに基づく町会運営を期するため、六十年度定期総会で、町会の規定集を刷新した。
大昔細長い池があって、それを埋められた故に、村名として呼ばれるようになったと言う。
長池には長久年間の創建と伝えられる、応神天皇を祭った八幡社が村の東南にあったが、明治四十年郷村字二日市の荒川神社に合祀された。
当時の拝殿は現在、応じ荒川神社の境内に用具庫として建っている。
長池の北の方は、金沢市の上荒屋町で長池町との境界から約百メートル程に農免道路が出来て東西に走り、金沢市内と連結されてから交通量が激増している。長池町は大正四年から大正九年にかけて耕地整理が行れたが、それまでの長池は地形が南北に長く村落が南に片寄って北は押野村の矢木と接し、西は長池のすぐ後ろ迄が矢木荒屋地内で両集落は耕作上、又、交通の上からも非常に不便であったので、両村代表が協議折衝して連合で耕地整理を行って両字の土地を交換し、相互に便利なように境界線を変更し、又、一本の水路を長池から上荒屋地内迄通して、上荒屋は用水に長池は排水路として共用している。
そして、これらの事業を記念して、両字共同で矢木荒屋水門の空地に沿革を記した耕地整理の記念碑が建てられたのである。
東の郷用水東川は昭和五十一年に広幅改修され、又、町の西横江町との境の郷用水の中川(馬場川)も護岸が完成して、豪雨時にも水田の冠水はなくなり、又手取川七ヶ用水の改修、手取川ダム完成によって水不足が解消された。長池町には現在、村御印が残されている。加賀藩領の時代一定の税率をきめられたその書付が村御印であって、寛文十年の村御印の村高は百参拾石、免四ツ五歩、小物なりとなっており、同年の家高四軒であった。明治五年より石川県に所属して同九年の家数四、人口二十七となっている。藩政期において、農民を直接支配したのは、村を集めた組であり、長池は石川郡の横江、郷に在り。文政四年米丸組に属し、天保十年富樫組にあった。明治五年に石川県に所属。明治二十二年郷村の大字となった。昭和三十一年に野々市町に編入し今日に至っている。新しい住人が圧倒的に多くなった長池町は、従来のような旧住人だけが役をするのは、町造りの上からも適当でないので、農業関係以外の役は出来るだけ多くの人が代わる代わるにやるという方針である。
戸数四戸の純農村の小集落であった。それが町の南を東西に走る、昔から押野往来といわれた県道横川宮永線が道幅が広められ、昭和三十九年に北鉄バスの横江線が開通して、金沢、松任間を走り、加えて野々市町の支援を受け長池町も含めた周辺五町が運動してきた国鉄野々市駅が隣町の二日市町地内に出来て、昭和四十三年三月二十五日より電車が停車することとなり便利になった。
そして、駅周辺の発展は目を見張るものがある。交通の便が良くなって、長池町にも住宅団地が造成されて、長池町の世帯数は昭和六十三年現在二十三世帯となった。
そして、新旧住民が一体となって進んでいる。ただ長池町は世帯数が増えたとはいえ、他町に比べて少数なので、子ども会、青年会、婦人会はお隣りの昔から関係の深い二日市と合同で行われる行事も多く活発である。
長池町は二日市、御経塚町の市街化区域と隣接する所がなくとび地となるので、今迄は市街化地域に編入が出来なかったが、御経塚町全域が市街化に踏み切ったので、長池町の半分弱の地域を市街化地域として申請し、許可になって、御経塚町、二日市町、長池町三町の区画整理組合が昭和六十一年に出来て工事は進行中である。約十年間で完成の予定である。
郷の今昔