きつねの恩がえし -稲荷に伝わるお話-
今から九百年ほど前、加賀の国の国司(こくし)をしていた富樫家近(とがしいえちか)という、身長が二メートル近くあって、力も強く心のやさしい思いやりのある人が、野々市の館(やかた)に住んでいました。
白河(しらかわ)天皇の第三皇子であった堀河(ほりかわ)天皇の御代(みだい)に、京都の近くの鳥羽(とば)に御所(ごしょ)をたてられるのに、国々から力の強い武士を手伝いにさし出すようにとの命令がありました。
家近は、さっそく家来をつれて京都へ上がりました。家近らが京都の宿につきますと、どこからやって来たものか、ふしぎなおじいさんがあらわれて、
「お願いがございます。わたしら夫婦は、これから行かれる御所のトリデの下に住んでおりましたが、工事がはじまりとうとうでられなくなってしまいました。あなたは力があり情けぶかいお方ですから、どうぞわたしたちを助けてください。ご恩は一生忘れません。」
と、頭をふかくたれてたのみました。
家近は、かわいそうに思って御所の石のトリデに手をかけて、ていねいにくずしますと、石の下には白いきつねの子が三匹、今にも死にそうになっていました。すぐに手当てをして野原にはなしてやりました。
その夜、家近のまくらもとに稲荷明神(いなりみょうじん)が立たれて、
「このたびの情、まことにありがたい。お礼として、永く富樫家を守ってあげよう。」
と、お告げがありました。
家近は、御所の仕事が無事におわって国へ帰ると、さっそくホコラをたてて稲荷さま(農業の神さま)をまつりました。そして、毎年かかさずアズキのごはん(赤ママ)をそなえました。
このことがあってから、どこの家でも月はじめには赤ママをたいて、神棚にそなえるようになりました。また、祝事や祭にも赤ママをたいて祝う行事が野々市を中心に加賀の国にひろがっていったということです。
この力持ちの家近は、百十七歳もの長生きをして、保元(ほげん)元年(一一五六年)になくなりました。
乳の宮 -堀内に伝わるお話-
むかし、下林と堀内との間に大きな「いちょう」の木がありました。
お宮さんの境内(けいだい)にあるこのいちょうの木はとても大きく、枝は四方に広がり、春には目のさめるような若芽を出し、夏ともなれば、道行く人々のいこいの場でありました。
風吹く秋は木の葉は天に舞い、子ども達のぜっこうの遊び場所となっていたのです。もちろん実も沢山なり、村の人々の生活をうるおしてくれました。
そんなわけで、いつのまにか近くに茶店(ちゃみせ)が一軒建てられました。往来だったので茶店は大繁昌、その内に茶店に色白のかわいい女の赤ちゃんが生まれました。
娘はおっかさんに遊んでもらえなかったので、いつも一人いちょうの木の下で、うたをうたい、雪をかぶった山々を眺(なが)め、まわりを見わたせば田圃(たんぼ)がある、秋ともなれば稲穂(いなほ)はこがね色に輝き、いちょうの葉もひらひら落ちて、娘の遊び友達になってくれました。
月日がたち、娘は大へん美しくなり、となり村からおむこさんを迎えました。
一年後に娘は、玉のような男の赤ちゃんを産みました。家じゅうは大変よろこび、小豆飯(あずきめし)をたいてお祝いをしました。けれど、どうしたことか娘にはお乳が出ませんでした。
娘は大変悲しく思いなやみました。
「そうだ、お宮さんへいって神様にお願いしてみよう。」
それから娘は、朝夕お宮さんへいっておいのりしました。三日目の夕方娘が、
「どうかお乳が出ますように、赤ちゃんがほそって死にそうです。どうか神様のお力でお乳を出してくださいませ。」
一心においのりしていると、娘の耳もとで、
「よいことを教えてあげよう。おまえは毎日境内を掃除してくれた感心な娘であった。いまいちょうの実が沢山なっている。その実をもちの中へ入れて食べてみるがよい。」
と鈴をふるような声が聞こえて来ました。
よろこんだ娘はさっそく家に帰り、いちょうの実を入れたもちを食べてみました。二つ三つ食べると急に乳がはり、白いお乳が沢山でてきました。
二、三日もした頃には、赤ちゃんがごっくんごっくん音をたてて飲めるほどになりました。娘一家はそろってお宮さんへお礼参りに行きました。
このことを伝え聞いた村の人々や、遠くの村々からもお乳の出ないお嫁さんがこの「いちょうの実を入れたもち」を食べて見ると、どの人もみなお乳がでるようになったということです。
いつのまにやら、このお宮さんを「乳の宮」とよぶようになりました。
乳の宮は、田尻のお宮さんであったそうですが、今では堀内のお宮さんに合祀(ごうし)されております。
白狐と五郎兵衛 -二日市に伝わるお話-
昔々、(今から五〇〇年はど前)布市(今の野々市本町)の南の方、(矢作から粟田のあたり)に諏訪(すわ)の森という広い広い森がありました。大木が茂っていて昼でもうす暗く、狐(きつね)や狸(たぬき)など沢山(たくさん)の動物が住んでいました。布市から遠く鶴来(つるぎ)に通ずる往来(おうらい)はこの森の中を貫(つら)ぬき、夕暮(ぐ)れ時に通る人にはずいぶん気味の悪い道でした。
ところが、いつの頃(ころ)からか、夜この道を通った人がたびたび狐にだまされて困るようになりました。
「このあいだ粟田の太兵衛じいが布市からの帰り道、諏訪の森で狐にだまされ、買ってきた油揚げを ごっそり盗られてしまったそうだ。」
「またやられたか。先月も布市の六兵衛が鶴来へ行った帰り、やっぱり諏訪の森で狐にだまされ、帰り道が分らんがになって、一晩中歩き回り、朝方久安(ひさやす)村で見つかったそうな。」
「どうもあの白い化け狐の奴らしいナー」
こんな話が、次々伝わり、とうとう殿様(富樫家二十四世守護職政親(しゅごしょくまさちか))の耳に入ってしまいました。政親の殿は大へん怒って、
「白狐メ、狐の分際で人間をだますとはけしからん。オイ、五郎兵衛、必ず退治せよ。」
と、家来の高塚五郎兵衛に命じました。
殿の命令であるから、五郎兵衛はなんとしても白狐を退治しようと決心し、まず狐をしばる縄をふところにし、百姓の姿で、夕方うす暗くなった頃に諏訪の森に向かいました。
ほの明りの月に照らされたすすきの穂が、晩秋のはだ寒い夜風にざわざわ音をたて、ときどき森の中からふくろうの鳴き声が聞こえ、侍である五郎兵衛でもなんだかうす気味悪く、一足一足が重苦しく思えたのでした。
ふと見ると、十間ほど(十八mはど)向こうに黒い人影が見えます。しのび足で近づいてよくよく見ると、これは不思議、きれいな着物を着た女が道ばたにしゃがんでいるのです。
「なんだ!若い娘でないか。おまえどこか体の具合でも悪いのかい!」
「はい、家へ帰る途中急に腹が痛くなり、難儀(なんぎ)しているのでございます。」
「それは可愛想なことじゃ、どうしたらよいかなあー。」
五郎兵衛は考え込みました。「いやいや!ひょっとすると白狐のばけ姿かもしれないぞ。うん!きっとそうに違いない。」
素早く五郎兵衛は、ふところの縄をとり出し、
「ヤイヤイ!お前はあの白狐じゃろ。のがしてなるものかい。」
たちまち、がんじがらめにしばり上げました。
「違います。違います。私はそんな狐なんかではありません。どうかお助け下さい。」
娘は、シクシク泣きだしてしまいました。じっと見つめる五郎兵衛にもこのような娘が家にいました。つい可愛想な気がしてならず、「縄を解いてやろうかな……いやいや、今がだます真最中にちがいない。油断できないぞ。」
とうとう、縄をひいて殿様の館までやってきました。
「昔から、化け狐は煙でいぶし立てると正体を表わすという話じゃ。化けの皮をはいでやろう。」
五郎兵衛は、この娘を狭い部屋に入れて、下男達に命じて、青い杉の薬をいろりに投げこませました。煙がムクムク部屋一面にたちこめると、娘はけむたくなって、目からボロボロ涙を流し、コンコン咳をしはじめました。
「どうもコンコンと狐の鳴き声によく似ているぞー」
「アッ 尾っぽを出したわい。やっぱり白狐に間違いないぞ。」
可愛い娘のお尻から真白な太い狐の尾がヌーと表われました。
「それ!白狐。何よりのしょうこじゃ!もうにがさんぞ。かんねんせえ。」
可愛い娘の姿は、たちまち白い大狐の姿に変わってしまいました。五郎兵衛はこの大狐の縄をひいて殿様の前へ申し出ました。
「殿、ご覧下さい。ご命令の通り白い狐を捕らえてまいりました。」
「オー 五郎兵衛、あっぱれな手柄じゃ、ほうびをとらそう。先ず、これから馬に乗ることを許す。
さらに、横江の庄の内、二日市村の五百四十八名の領地を与えるゾ。」
その後、五郎兵衛は二日市領内に立派な館を建て、沢山の家来や奉公人を従え、領内に住んでいました。深く仏教を信じ、信州(長野県下)の善光寺にたびたび参詣(さんけい)し、屋敷内に御堂(みどう)を造り、その仏様を拝んでおりました。
長亨(ちょうきょう)二年(一四八八年)一向一揆の戦で富樫政親は高尾城で敗れ、遂に自害してしまいました。この報を聞いた五郎兵衛は、もはや自分の一生もこれまでと、五十一歳を一期に辞世の一首を唱えながら腹かき切って主君の後を追いました。また、家来の村山平兵衛助清も共に殉死したのでした。今でも二日市地内(村の北東、一部バイパスを含む)に五郎兵衛舘、平兵衛舘と呼ぶ地名が残っていますが、それは墓地だろうとのことです。また、付近には善光寺、矢止、馬場などの地名が今でも伝えられております。
神様の漢方薬(かんぽうやく)-蓮花寺に伝わるお話-
むかし、むかし。
蓮花寺に正直者で、朝から晩までよく働く、源兵衛(げんべえ)という百姓が住んでいました。
いつの頃からか、源兵衛はからだをこわし、よく病気にかかるようになりました。
ある日のことです。いつものように朝早くから田んぼにでかけ、野良(のら)仕事に精を出していましたが、急にからだ全体がいたみ出し、どうにも立つことができなくなり、とうとう鍬(くわ)にすがってすわりこんでしまいました。
「源兵衛、どうしたのじゃ。」
「はい。いつもの病気がでて、どうにも立つことができなくなりました。」
「それは気の毒なことじゃ。お前のような働き者で、正直な者はほっておくわけにはいかない。」
やさしい目で源兵衛を見ていた老人は、
「おおそうじゃ。わしがお前の病気をなおしてやろう。今から言う薬の作り方をよくおぼえておくのじゃ。」
といって、薬草の取り方、作り方をていねいに教えてくれました。
「どうもありがとうございました。さっそく家に帰り、薬を作り飲みます。」
と、お礼を言って顔をあげると、もう老人は、村のはずれにあるお宮さんの近くをゆっくりと歩いています。
「ああ、もったいなや。神様のおつげじゃ。」
と、両手を合わせてふかぶかと頭をさげました。
源兵衛は、家に帰るとさっそく薬草を集め、言われた通りの薬をつくり飲んでみますと、ふしぎなことに、みるみるうちにからだのいたみはなくなり、もとの元気なからだになりました。
このふしぎな話がいつの間にか村から村へ伝わり、悪い病気にかかると薬をもらいに大勢の人たちが来ました。こうして源兵衛の家は、漢方薬(かんぽうやく)をつくるようになりました。
今でも、源兵衛の家には、薬の作り方を書いた本や、薬袋に押す木版が大事に残っているといわれています。
お宮さんの七七〇年祭 -蓮花寺に伝わるお話-
蓮花寺(れんげじ)の村に貞義(さだよし)さんという、信仰(しんこう)のあつい人が住んでおりました。正月もすんで二月に近い、ある朝のことです。もう外も明るくなったので寝床(ねどこ)から起きようと思いながら、ついついねむってしまいました。すると、夢枕(ゆめまくら)に、うす墨(すみ)の衣(ころも)を着た大きなお坊さんが立たれました。そして、ちょうど奈良の大仏さんのような手のかっこをするのです。貞義さんは、びっくりして見ていますと、どこからか鶴(つる)が一羽飛(と)んできて、お坊さんの右手の先にとまりました。次にまた一羽の鶴が飛んできて今度は、お坊さんの左の手の上にとまったのです。貞義さんは、
「何と立派(りっぱ)なお坊さんだわい。何とめでたいことだろう。」
と感心(かんしん)しておりますと、お坊さんも鶴も消(き)えてしまい、片仮名の「ム」という字が見えるのです。
なんだろうと見ていると、その下に「月」の字が見えて来ました。そして、その横に「ヒ」の字が二つ現われ、続(つづ)いて点が四つ出て来るのです。
「あら、おかしなこともあるものだ」
と思っているうちに野原の「野」の字が簡単(かんたん)に出てきました。
「ははーん。これは熊野(くまの)と読(よ)むのだわい」と思ったとたん目がさめたのでした。
しかし、その日のさめる間際(まぎわ)に、誰(だ)れの声かわかりませんが、はっきりと「七七〇年」という声がしたのでした。
貞義さんは、目をさまして、
「おかしな夢を見たものじゃわい」
と思いながらも、それほど気にもとめませんでした。ところが、次の日も、次の日も三日続けて同じ夢を見たのです。
それから十日程たった日のことです。お宮さんの宮司(ぐうじ)さんから、各村々のお宮さんの総代(そうだい)の方々に集まっていただく総代会があるということで、貞義さんも蓮花寺のお宮さんの総代をしておりましたので出席することになりました。
宮司さんは、たくさんの総代の方々の前で
「実は、皆さんのお宮さんの中で、めでたい年にあたるお宮さんがある」
といいだされたのです。貞義さんらは、何のことだろうと聞いていますと、今年は、蓮花寺のお宮さんである熊野社(しゃ)が七七〇年の年祭(ねんさい)にあたる、ということで、人間は七七歳で喜寿(きじゅ)のお祝いをするが、神様は七七〇年でお祝いをするものだと聞かされました。
「蓮花寺では今年は大祭(たいさい)をしなければならないし、記念の行事もしてほしい」
と話されました。
貞義さんは、びっくりすると共に、この間の夢は、これだったのかとやっと思い出し、さっそく村に帰って、寄合(よりあ)いを開いてもらい、夢の話しや宮司さんから聞いた話をして、村の人々の協力で大きなお祭りを行い、記念の行事も二年後には無事終わることができました。
弥平(やへい)の願(がん)がけ -蓮花寺に伝わるお話-
むかし、むかし。
白山のふもとに弥平という人が住んでいました。弥平は、いつの頃からか毎朝早く手取川を川づたいに金石の海辺まで歩き、ひとつの願がけをしていました。
きょうも、朝早く暗がりに家を出て川づたいの道を急ぎ、ちょうど蓮花寺のお宮さんの所まで来ますと、白い着物を着て、白いひげをはやしたおじいさんに呼びとめられました。
「これこれ。弥平や。お前は毎朝早く一日も休まずに、海辺まで何をしに行くのじゃ。」
と、静かに聞きました。
「はい。わたしは、ひとつの願いごとをかなえるために、こうして毎朝、海辺まで行くのです。」
「そうか。それでは、わたしがその願いをかなえてやろう。そうじゃな。三年の間、毎日ここまで願がけに来るのじゃ。」
弥平は、じっとおじいさんを見つめました。だんだんおじいさんの姿は、神様に見えはじめました。とたんに弥平は、地面に座り、両手をついていいました。
「神様。どうかわたしの願いをかなえてください。かなえてくだされば、お宮さんの鳥居をたてることをお約束します。」
三年の間、弥平は雨の日も一日も休まず、海辺まで願かけに行きました。そして、とうとう願がけがかなえられました。
弥平は、約束どおり「所願成就(しょがんしょうじゅ)」と書いた小さな木で作った鳥居をお宮さんに奉納しました。
今でも、蓮花寺のお宮さんには、ご神体といっしょに納められているとのことです。
北の橋のテン -長池に伝わるお話ー
長池の南、二日市との境の道を昔は押野往来と言うて、東の方、押野を通って尾山(金沢)へ行くにも、西の方、横江を通って松任へ行くにもこのあたりの者にとってこの往来は、大切な道やった。ところがこの往来の長池あたりに、夜お化けが出たり持ち物をとられるという噂がたって、夜このあたりを通る者は一人もいなくなった。村の若い衆の八兵衛がよそ者の様な姿をして。おむすびを腰にさげ「よし、おれが化けものの正体をはがしてやる」と言うて、村の北の方から御経塚の村を通り押野往来に出て、二日市と長池の村境の精心橋まで来た時は日も暮れて、月のあかりでその辺の柳や女竹等がうすぼんやりと見えて、それがちょうどお化けのように見え、それはそれは気味の悪い夜やった。西に向かって北の橋を渡り、何か後ろで気配がするので、横江境に近い地蔵橋まで来て橋のたもとのねむの木の根っこに腰を降ろし、ああ腹がへった「おむすび喰って行くか」と言うて腰のおむすびを広げ、むしゃむしゃ食べ始めた。そして、左に置いた残りのおむすびを見張っておったそうな。その時ねむの木の陰からすうっと何者かの手が延びておむすびの一つをつかんだ瞬間、八兵衛の左手はその獣の首根っこを押さえ付け、すかさず馬乗りになった。村一番の力自慢の八兵衛に押さえ付けられては、その獣は化けることは勿論、身動き一つ出来なんだそうな。
「やーこの野郎、毎年うちのびわの実を盗みに来るテンやな、生かしておけんわい」。びわの実を盗みに来たテンを下から見上げ、「コラッー」と怒鳴りつける八兵衛とテンが上から八兵衛を見下ろし急いで蔵の屋根から杉の大木の枝をつたって木のてっぺんの方へ逃げるのが、毎年の例やったが、今度は八兵衛に首を押さえ付けられ、上からにらみつけられては、どうにもならんだ。「堪忍や堪忍や」。テンは息絶え絶えの声を出して助けを乞うのが精一杯やった。八兵衛もいつぞや北の橋のたもとを子連れのテンが草むらの中へ入っていったのを思い出し、「よし今度だけは助けてやる。二度と人をだますな」と言って放してやった。それからテンは再び姿を見せなかったし、付近に住んでいたキツネやカワウソ等も人間の強さと、怖さを知ったか、人を化かしたり、からかったりする事はなかったそうな。それから年月が過ぎ昭和となり、八兵衛の、テンの爪の跡だらけの大びわの木も、杉の大木も切り倒されて今はない。
(その他)
竹くぐり(機械体操)
鉄棒のことである-。当時は機械体操(きかいたいそう)-といいました。運動施設(しせつ)-。そんな気の利(き)いた施設(しせつ)が、大正の三・四年頃に何処(どこ)にあったでしょうか?恐らく、小学校にすら完備(かんび)していなかったのが恥ずかし乍らの実状だったのです-。
儂(わし)らの、郷小学校といへば、村こそ小さかったが、校舎(こうしゃ)と言い、運動場といい、体育施設といい、断然(だんぜん)郡内のトップを往(ゆ)く、近代小学校だったのですよ-。
具体的に申しますならば戸数二七二戸、人口二、〇九七反別四七一、〇二一四歩。明治初期、衆議院創設時(そうせつじ)に於て有権者といえば、直接国税十五円を納入したる者を有権者としたその時の有権者数が、何と郷村丈で七十五名もいた-。とのことですから、その裕福(ゆうふく)さに於ては断然郡内四十四ヵ町村を押へた天下の郷村だったと今に語り伝へられて居るのであります-。
併し-、その裕福村、郷村立郷小学校ですら、体育施設としては遊動円木(ゆうどうえんぼく)。とブランコ。テニス用具。しかの設備しかなかったのです。ですから子供達は鉄棒(てつぼう)にブラ下がり度くとも設備がない為に、子供の「生活の知恵(ちえ)」として子供が考案したのが「竹くぐり」と自称(じしょう)する非公認鉄棒(ひこうにんてつぼう)なんであります。
何のことはない。相近似(あいきんじ)した二本の立木に、子供が掴(つ)かめる程の太さの竹を、飛び上がれる程度の高さに枹(くく)り付ける。それ丈の「施設」なんです。処があんた、その簡単(かんたん)な施設から、素晴(すば)らしい記録が生まれたんですからね-。勿論(もちろん)-それは公認(こうにん)ではありませんがね-。笑いなさんな-真面目(まじめ)にいきましょう-真面目に-
それでね-その手製の鉄棒は一般に公開され、幼児から青年団まで利用したんですからね-儂らみたいに学年の割に背(せ)の低(ひくい)い、軽量(けいりょう)の未熟児(みじゅくじ)は、尻上(しりあが)り。足かけ上りが初歩でした。中々之が容易(ようい)なことで達成(たっせい)出来ません。腕(うで)に力がない為めに、鉄棒まで足も、尻も届(とど)かんのですよ-大(でか)い奴らに手伝(てつだ)って貰(もら)いやっと尻上りが出来た時の嬉しさはたとへ様(よう)もありませんでした。之に自信を得て足かけも出来るようになりました。そうなると理屈(りくつ)なもんで、後輩(こうはい)の指導(しどう)も出来るもんですね-後輩のために模範演技(もはんえんぎ)を披露(ひろう)している間に自分自身も上達していくことが判(わか)り大いにハッスルしたもんでした。同僚(どうりょう)はみんな大振り、中振りが出来るようになったのに、儂はとうとう六年を卒業しても出来ませんでした。家の背戸(せど)に私設の竹くぐりを作って秘(ひそ)かに練習に励(は)げんだのですが、駄目でした。体力のある連中は自力で習得(しゅうとく)して、大車輪(だいしゃりん)まで達成した者も出たのに、体力に恵(めぐ)まれなかった儂は、基礎(きそ)から教えて呉れる指導者が必要だったんですね-とうとう中振(ちゅうぶ)りも出来ずに鉄棒にさよならしましたよ-。
併しね-小さい時にやったお陰(かげ)で六十有九歳の今でも尻上り位は平気ですよ-肱(ひじ)立なんかお茶の
子です-
矢っ張り 雀(すずめ)、百迄踊(おどり)を忘れず ですかね-はっは…。
故 福田 良一 記
明治三十八年 二日市町 生
若き頃、青年団で活躍
秀才で達筆で文章が得意であった。又近在にない雄弁の達人でもあった。
野々市合併後の町の公職として
野々市町農業委員 二期
野々市町町議会議員一期 されました。
この文章は氏の随筆からごく短い一稿を抜き出したものである。
郷の今昔