座談会

 

  日時 平成元年三月十九日(日)午後二時~四時

 

  場所 野々市町郷公民館一階和室

  出席者

     稲荷町二-一四  坂本六郎

     稲荷町二-二一  中原信子

     堀内町三三六   岡田一郎

     三日市町二二〇  小堀英昭

     二日市町七八   北村仁勝

     二日市町六六-一 野村博外喜

     郷町五〇     市川春男

  司会  郷公民館長  東茂

 

   本日は、大変お忙しい所をおいでいただきまして誠に有り難うございます。実は野々市町の郷地区は三十年前までは郷村と言う一自治体であったが、昭和三十一年九月に松任町と野々市町に分村して三十年もたつ事でもあり、昔の記憶が薄れていくので、後世に記録を残す意味あいから、郷土誌を発刊したらどうかと言う話が出まして、公民館の事業として準備に取り掛かった次第です。昭和天皇の御崩御により激動の昭和の時代も終わり、年号も平成に変わり、又、地区住民の念願であった公民館の改築も決まりまして、この公民館も今年七月に解体して、平成二年三月に新しい公民館が新築されるのを記念して、郷土史を公民館の落成に併せて発刊しようと素人ばかりで、郷土史の編纂委員会を開いて編纂に当たっているのですが、今日は昔の思い出等をおおいに語ってもらいたいと思いまして、皆さんにおいでいただきました。ざっくばらんに当時の思い出・苦労話をしていただければ幸いであります。差し当たり、坂本先生の方から一つ話の切り出しをお願いしたいのですけれども。

 

  坂本 実は今、町議会が開かれておりまして、平成元年度予算の当初予算にこの公民館の改築費を含めて二億円近い金額が、この二十日の議員総会の最終日に通過すれば、それで決定になります。これで来年三月までには完成する事になり、ご同慶の至りと思います。この公民館は、郷地区が二つに別れて野々市と松任に入ることになって、東半分の野々市編入地区の中心として、又心の支えとなって来ました。郷公民館と言う名はそのままで公民館を中心に、これからも人々の心の支えとして、ここを郷地区のコミュニティ施設として大事にしていきたいと思う訳です。当時この公民館は郷地区の人々が勤労奉仕でもって金沢市の殿町の保健所の建物を解体して、荷車で運んで来て建てた建物です。昭和三十年代には私の子供達や家内はもとより私も交じってここへ来て、夜ですけれども移動映画をしょっちゅう見せてもらって、時にはハンカチを絞るようなとても良い映画もあり印象的でありました。昭和三十年代後半には改装等もやり、私の家内などは婦人会の役員を三十年代ずうっとやっておりまして、ここを使わしてもらって、いろいろな計画をし、又相談をし、ここを舞台に郷地区が一丸となって講演会やいろいろな行事を行ったことを今本当に懐かしく思っておりますし、公民館は今後も郷地区の心の支えとして大事に大事にして行きたいと思っています。

 

   三十年前の町村合併当時のお話しに逆戻るんですけども、初代の公民館長もなされました北村さんには、町村合併当時の郷村の思い出話が沢山おありでしょうが、先ず最初にこの公民館のおいたちについてお話ししていただけないでしょうか。

 

  北村 この公民館を建てた時のことですが、何しろ当時は今のように自動車は無いし、荷車を「今日は何台、明日は何台」といって各町会に割り当てをして壊した建物を全部、荷車で運んで来たものです。建物は今の金沢大学表門の上の方の石川県の保健所だったんです。そこへ当時の野々市の町長から、私が郷地区の区長会の会長をしておったので、「お前に見せたい物が有るからちょっと来い」と言われて、どこへ行くのかと思っていたら、そこへ連れて行って、この建物を見せて「これを公民館にどうじゃこれで気に入ったかどうか」と言われ、当時の我々は建物が良い悪いと言うよりか、松任が分村直前に新しく公民館として建てた建物を公民館として利用しているのだから、良いも悪いも無い「上等だ」と、言ったら「これを持って行って建や」と、言って、この話がまとまった訳なんです。その時の総指揮官は助役さんの小堀さんで、小堀さんの指揮の元で解体をし全町民の奉仕で、ここへこのように建てたものです。それからここへ来てからの公民館活動と言うと、たいした事もしなかったけれども、今のように公民館を利用すると言うことは、まず無かった、若い衆の遊び場所と言うのと、松任に負けることならんと、その敵愾心があった訳です。そう言う訳で事あるごとに各種団体がそれぞれここへ集まって、いろいろ話し合いの場所として融和と親睦を計ったものです。前に植えてある木は、当時の婦人会がみんなで金を出し合って小さな苗木を植えて寄付したんです。

 それから、今日までこの公民館が大変利用されて、又今話を聞くと二億円近い立派な公民館がここへ建つことになったのはめでたい限りだと思うんです。どうかひとつ地区の人達が、この公民館を中心にして地域の活性化を計っていただき、現在のすさみがちな心の寄り所として一生懸命頑張ってもらいたいなあと、そういう気持ちでいっぱいです。

 

   今で言うと、昭和三十一年九月末に野々市へ編入したんですけれども、分村当時の郷村の戸数と言ったら全部合わせても二六四戸ほどしかなかったはずなんです。それが別れて松任へは一二八戸野々市へは一三六戸程に割れたのですが、それで良く野々市へ入った人達がこの公民館を建てたと思うんですが、敷地はどのようにして?

 

  北村 そう言われると、私も覚えがないんですが、土地は田尻の中村さんの田圃だったはずです。これは覚えがあるけれども、この用地をどのようにして買収したかと言うことは記憶がないんです。無償提供と言うことはある訳ないし、野々市役場からお金が出たのかなと思うけれども。

 

   田尻の中村さんは亡くなられているから、そのいきさつは、お聞きすることが出来ないけれども。又この公民館の場所は野々市へ入った郷地区の中心でもあったんですね。

 

 

  北村 そう、国道に面しておりこの地区の中心でしたねそれで電話を付けたのが、ここが二五〇番目で電話番号は〇二五〇番でした。

 

   今もその番号を使っています。当時、私などは若かったもので、解体作業には行かなかったけれど、建てるのは見ていたんです。当時は勤労奉仕で釘ぬきには来たんですが、当時の写真は見当たらないんです。

  北村 私も一枚も持っておらないんです。

 

  野村 その時分は写真機の普及は、ほとんどなかったですね。写真機と車のある家は少なかったんです。

 

  小堀 三日市の「元さん」のアルバムを借りてネガまで探したけれども、ここの建築の物はなかったんです。

 

  坂本 足に釘が刺さった者は何人もおりましたね。それほど一生懸命やっていたんですね。

 

   壊したのは何月頃で、建てている期間はどれくらいで、落成したのは何月頃ですか。

 

  小堀 壊しは五~六月頃じゃないかな。落成は七月末でした。棟梁は三日市の「北」さんですね。

 

   解体の人夫はどのようにして、集めたのですか。

 

  北村 人夫は区長会の会長が全部、人夫割り、町割りをしたんです。「明日はお前の所で、何人、荷車何台」と言うようにして帳面も残っておらないけれども。(笑)

 

  野村 この建物は金沢の殿町から運んで来たんですか。昔は舗装道路もないし、ガタガタ道だったんですね。

 

   壊す時にほこりが立つから消防ポンプを持って行って、水をかけたと聞いて言いますね。

 

  北村 そう言われればそうですね。私達も心が燃えている最中だったので小言を言う者はおらんかった。

 

   その当時のここ(公民館の場所)は、ポツンと三日市の東(弘)さんの家があっただけで他には何もなかった所ですね。

 

  坂本 今柳町へ移転された東さんの家があって、電車道があって電車が通っておったんです。

 

   電車は、まだ通っていたんですか。

 

  市川 この資料によりますと、ちょうど三十年に松金線の電車が廃止されたと書いてありますから、電車の線路はあったかもしれないけれども、走っていなかったんじゃないですか。

 

  坂本 廃止されても、そのままレールだけ残っていたんじゃないですか。

 

  市川 電車が廃止されたのは、三十年の十月十五日です。松金線が走っておったその写真と言うのは、松任地区でも野々市地区でも、三日市の踏み切りを通っている、あの写真一枚か二枚しかないんです。あの当時、長い期間走っていて、駅の終点の所の馬車の時代の写真だとか、『八ッ矢』の所を通った、そんな写真はあるらしいけれども、この郷地区を通っていた松金線の写真といったら、戦時中の緑色の電車のあの時代ではなくて、もう終わりの頃に蓮花寺町の入口から現在の国道8号線三日市の陸橋の所を横切る時の写真一枚しかないんです。今も松任地区の写真集の中に三日市の電車の写真が写っております。

  出発は兼六園がスタートです。

 

 

 

  野村 私が松任へ来る時に、あの電車に乗りましたね。昔は松任のプールへ行くのに、金沢の香林坊の今のラブロの前から電車に乗って松任まで行った覚えがあります。

 

  市川 松金線は私達が金沢の学校へ行ってた時分は、最初の間しばらくは、まだ金沢は兼六園下が終点だったんです。そのうちに野町の駅が終点になって、乗り換えして行く時代になった。

 

  坂本 後期には、野町が終点やったけれども、一番長い時には松任発小立野まで行っておったことがありますし、その時期はしばらくで、私らの時代は車庫前と言って公園下まで行くのが、松金電車で、私は家の前(稲荷)で乗って今の本多町に金沢第一中学があったものですから、そこへ通うのにその電車に乗って通いました。昭和一桁の頃でした。

 

   最初の松金電車は有松を通っておりましたね。

 

  市川 今の「村上羊羹」の前で泉本町やね。

 

   あれはいつ頃でしたかね、有松経由の線が廃止になったのは。

 

  坂本 終戦直前の昭和十九年頃でなかったかしら。

 

   私が昭和二十五年頃金沢の中学校へ通学しておった時分は全部、西金沢まわりだったんです。当時、この公民館の前で盆踊りをした記憶があるんですが、北村さん当たりが歌を歌っておられましたが、その当時の事を良くご存じだと思いますが。 

 

 

  北村 郷地区の区長会長を私がしておったもので、ここで盆踊りを始めて何年続いたか知らないけれども、野々市じょんから保存会が誕生するまで盆おどりを行っておったと思う。

 

  坂本 北村さんが町会議員をしておられたのは何年から何年ですか。

 

  北村 北 又二さんが死なれたでしょう、野々市町の合併後確かその明くる年からです。

 

  坂本 三十二~三十三年頃からですね。

 

  北村 補欠選挙に出て二期八年いたしました。

 

  小堀 ここが建って何年後になるか、中央公民館制になって私が最初の館長をやらされた訳です。そのときに館長の東君がここの非常勤の公民館主事になったんです。

 

   あれは昭和三十五年でした。

 

  小堀 その当時、この公民館の前は手取川の川の砂利を持って来て埋めたてしたので、歩いたり跳ねたりする場所ではなかった、二日市町の「中村友三」さんに頼んで松任駅より石炭カスを運んでもらって、せめてテニスなりバレーボールが出来るようにしようと言うことで、これもその当時「体協」の人達が勤労奉仕をして、地均しして又中村さんが、どう言う手づるがあったか、あの「炭カス」をただでもらって来たんです。そしてその後、盆踊りをやったんです。二年ほどじゃなかったかと思います。

 

   当時の青年団と婦人会が主力で高桑博さんが青年団長をして次の年に宮崎利昭さんが団長をしたこの二年間だけ盆おどりをしたんじゃないかと思うんですけど。

 

  小堀 三年目に盆おどりをやったら、野々市町の文化財にじょんからがあるので、昔の地区のじょんからをやってもらっては困るといわれた。

 

  北村 ほんの二~三年だったと思います。松任の踊りと言うかここ郷独特の踊りですね。

 

 

  坂本 そう、郷には郷じょんからと言うのがありましたね。

 

  小堀 北村さんと福田良一さんに、私にも歌えと言われて、歌ったけど満足行くように歌えなかった。

 

  北村 長竹まで、歌を習いに行ったんです。

 

   当時の思い出として、分村直後は各種団体の婦人会・青年団等の活発なことは、今と問題にならないほど活発で、お隣りの別れた松任地区に負けまいと言うので、人寄せをしたらこの公民館はいつもいっぱいになりましたね。

 

  坂本 本当です。ここへ来ておった時は家の仕事を放り投げて毎日公民館通いをしました。あれは松任に対する対抗意識があったのかもしれません。

 

  北村 町村合併当時に柳町に「木村のばあちゃん」と言う肥えた人がいましたが、この人はのどの良い人で、ここで良く歌を歌われた。

 

   三十五~三十七年の三年間主事をさせてもらいましたけれども、あの当時はテレビもなく娯楽施設がないものですから各町内へナトコの映画を映してに廻って歩いたが、どこの集落へ行っても子供から年寄りまで、大勢集まって来てナコトの映画を上映するのが楽しみだったし、この公民館の二階で映写会を行っても、いつも二階の広間はいっぱいでしたね。婦人会の会合とか青年団・区長会・老人会が現在のこの居間をしょっちゅう利用して、あの当時は酒も飲めたし、いろんなお話も出来たし、良いコミュニティー施設として、よく利用されておりましたね。今も利用されておりますけれども。(笑)

 

  小堀 あの時分は、青年団、婦人会、壮産研と言うものがありましたね。今で言う農協青年部ですけれども、その団体がみんな活発にやっておったところが、「市川精一・岡田先一」さん等、老人会、壮産研の中間層からどうも具合悪い、老人会・壮産研が活発に活動をしておるのに、ちょうど中間のわしらの寄る会がないから何とかして会を作ってくれと言う話しになって、今のもくせい会が出来たんです。

 

  岡田 私が郷の事をある程度理解してきたのは昭和四十七年に松任高校を退職して、その年の六月から教育委員になり十年間やりました。教育委員を辞めましてすぐ、老人会の会長をやってくれと言われ、引き受けて郷地区の事や、野々市町全体の事が少しずつ分かってきた訳です。「北村」さんなんかはその頃から中心的にやっておられた、私が連合町内会長をしていた時に、その記録をキャビネットを一つ買ってそこへみんな入れたんですが、郷土誌を作成するからと言うのでさがしたのですが、それがどうしても見当たらないんです、どうなったのか、それから老人会の会長になった時も私が受け継いだ書類は黒い表紙に二~三冊あったんですが、記録がないと言うのは非常に残念ですね。

  それから教育委員をしている時に六~七人で「野々市町の二十年の歩み」と言う冊子を造りまして、その時も記録が無いので困ったんです。それでもなんとかまとめて出したんです。野々市中学校のわたなべ先生がつくられた野々市の合併史と言うものがありますが、そう言うものが残っている訳です。当時連合町内会や、各種団体の記録など、一応公文書みたいなものの記録を残すように伝達したつもりなんですが、残念なことにいつの間にかなくなっているんです。この間、家内と二人でここへ(公民館)来た時に婦人会の記録が残っていまして、それを家内が今、郷土誌の為に整理しています。やっぱりそう言うものがあると非常に良いんですが。それがないと言うことは非常に残念ですね。

 

   岡田先生にお聞きして探して見るけれども、そのキャビネットと言う物はどこにも見当たらないんです。郷土誌を編集してみると、つくづく資料がないことを痛感するもので、公民館が新たに出来れば事務所も完備して、そう言う資料を保存する棚を作って、是非保存して置かなければならないと思っております。今度又郷土誌を作る幾会があればその資料を土台にして、又十年後でも後によりいっそう充実した物にして行っていただきたいと、思っております。

 

  岡田 二階の棚の所に何かないかと思うんですが、あまり我々が勝手に触れられないので。

 

   麻雀大会の後に役場の宮崎社会教育課長さんと一緒に調べてみたんですけれども、全然見当たりません。処分したんじゃないですかね。

 

  岡田 そのテレビよりちょっと大きいキャビネットです。婦人会の資料は私の家内がしているので、分かりました。

 

  小堀 各種団体等はみんな庶務係等がいるので、何らかの記録が残っているはずなんだけれども。

 

  岡田 私が老人会の会長をしている時のは全部あります。

 

   この辺で話題を代えて金沢の衛星都市と言う関係で住宅地が開発され、事業所も年々増加し、住宅も見違える程、増加して来ましたが、野村さんはこちらへいつ頃来られたんですか。

 

  野村 僕がここへ来たのは昭和四十年一月七日と役場に登録されています。この郷地区へ来たのは移住者では、僕が一番バッターと言うことになっているらしいです。

 

  坂本 会社では高井製作所が昭和三十年代のおしまい頃でしたね。

 

  野村 その当時、御経塚に保育所がありまして、御経塚の保育所の定員が割れて廃止になるかも知れないと言うことで、その当時、町会議員をしておられた「福田良一」さんが「たのむこっちゃ、お前の所に二人の子供がおるから二日市に家を建ててもらわないと御経塚の保育所が廃止になってしまう」と言われ、私もこんな田んぼの真ん中の昭和基地みたいな所に来たくはないと言ったけども、「たのむこっちゃ、来てくれ」と言うことで、私は野々市の駅が出来るか出来ないかわからないけれども、現在住んでいるあそこに家を建てたんです。これは昭和三十九年のオリンピックの最中に家を建てていた訳です。それで今は連合町会長をやらせてもらっていますけども、今、郷地区の世帯数は一、三〇〇戸あまりです。

 

  岡田 堀内町の団地、堀内新町は兵地町長が来られて、ここに団地を作りたいと言うので、出来たんです。新しい住民の方が来られた最初だったんです。

 

  野村 あそこに四軒程あったんです。

 

  北村 県道と電車道の三角地帯ですね。

 

  坂本 昔の旧道と、次に新しく出来た道との間の細い所に団地を作ったんです。当時の町長が町営団地でもと。

 

  市川 連合町会を一番最初に作った時の規約は?

 

   最初の規約は合併直後の三十一年十月七日に結成されたと書いてあるからあるんじゃないですか。

 

  坂本 合併以来、農家ばかりの人の会則だったもので、新しく住民になられた方が大変増えたので昭和五十五年になって、又新しく作り直した訳です。

 

  野村 その時の会長が坂本さんです。それまでは田んぼをしていない人は混ぜて、あたらなかったんです。

 

  坂本 それで新しく住まわれた新町の方々も混ぜて郷連合町会を作って、規約も新しく作ったのが昭和五十五年ですか。

 

  小堀 あの時は、やかましいことでした。その当時より農業に関する協議事項は、生産組合協議会に分離したものですね。

 

   新しく新町に堀内新町がなられたけれども、一番急激に住宅が増大した集落は柳町さんになるのか稲荷町さんになるのか、二日市町さんになるのか、次ぎに開けた所はどこですか。

 

  岡田 郷地区でどこかな?

 

  野村 二日市町の福田さんが、アパートを作ったのは昭和四十一年です。その時に兼六マンションを作って、その明くる年に北村さんがあそこへでかいアパートを建てたんです。僕の記憶では二日市町、その次に柳町で、あすなろ団地が四十三年に着工していますね。

 

  坂本 あすなろの少しが二日市町に入っていますね。

 

  北村 あすなろに最初に建ったのが二日市町地内です。

 

   事業所として最初に入ってきたのは明治乳業でしょう?

 

  坂本 高井製作所です。三十年代の後半に入って来ています。

 

  野村 明治乳業はちょっと後で、高井さんが来られて間もなくこられたんです。高井さんは三十八の豪雪の時にすでにあそこにあって。

 

 

  北村 その明くる年じゃないでしょうか砺波運輸が来ました。

 

   あれはバイパスが着く先か、後かどちらかね。

 

  北村 バイパスがつく前です。

 

  野村 砺波運輸の道がガタガタ道で、砺波運輸から荷物が着くとみんな壊れておったんです。

 

   北村さんは、野々市駅の誘致にずいぶん努力されていらしたけれども、当時のいきさつを少し話していただけますか。

 

  北村 特に印象に強い事は、陳情すればする程、難しくなって来て、一時は本当に駄目だと思いました。

 

  野村 三十四年に駅を作らなければならないと言う話が出て、初めて金沢鉄道管理局へ陳情に行ったら、控室がないので金沢駅の待合室で相談をしたと言う話があります。ね、北村さん。

 

  北村 最初に陳情に行った時は、兵地さんの弟さんか誰かが金沢管理局の課長をしておられた訳ですが、なかなかたいへんで、名古屋へ行った時には細かい事まで言い出して「今、予定している所に墓地があるので、どこかへやれ」と言うので墓地を移転したんです。

 

  岡田 昔は、西金沢駅が野々市駅だった。

 

  野村 鉄道管理局に陳情しても駄目だったから、松任の「あんころ」を二〇〇個持って行って名古屋の鉄道庁に「あんころ」を配って陳情したこともあります。

 

  坂本 御園小学校の運動場の当たりで曲がって、そこから野々市駅に向かって真っすぐ一直線に砺波運輸の真ん中を突き抜けた道が通っておった。昭和三十八年に砺波運輸が来たんです。二日市町の本田さんが一生懸命になってあそこへ地面を出したと言う話を聞いたけれどもね。

 

  坂本 地元負担で、盆の上に「のし」を付けて「どうぞ」とやったんだから、全部地元負担なんです、その地元負担の半分をお前の所でと言うので二日市町がかぶった。そして、野代町と御経塚町と稲荷町も一口混ぜてほしいと、地元へ二、〇〇〇万の負担が来た訳です。二日市町が一、〇〇〇万、その他全部で一、〇〇〇万と、そう言う割り当てにして、あの時分の一、〇〇〇万と今の一、〇〇〇万は違うぞ。(笑)

 

   投資されたのは駅を作るのが目的で、その投資の見返りと言うものは何かあったんですか。

 

  北村 見返りも何もないんだけれども、駅裏で二万坪、表で三万坪の五万坪を出してくれと、言われそうすれば、そこを区画整理、して開発するからと言われそれで困ったんです。私らは表で三万坪取られ、裏で二万坪取られ、地面をほとんど取られ残らないのです。しかも県が買い上げると言う、二日市町で平均二町歩の反別を保有しておる者が明日から、いっぺんに五反百姓に転落してしまうと、そんなことは村で言っても通じるものじゃないし、この話しだけは情けないことだけれど断るしかない、二日市町は五万坪の地面は出せないと言ったんです。

 

   それは裏話で皆んな大変な思いをしたのですね。

 

  坂本 それだけ、地元負担をしておっても、そう目立った見返りはないんです。言ってみれば野々市駅を作って、それによって地域が発展するであろうと言うことだけが目的だったんです。

 

  小堀 先程、駅前開発の話が出たけれども、あの当時バイパスが三日市町・二日市町に出来ましたね。私等の所としては田圃の買上げ価格と言う物はたいした額じゃなかったがこのバイパスを土台にして二日市町の駅前から区画整理をやればどうかと言う話を町長に相談に行っている訳で、当時の町長はそう言うもの入りの話には乗ってもらえなかったんです。あの時にそれを言ってもらえると、もうちょっと駅前の辺りがスッキリした形になっておったんですがね。しかし、このバイパスが付く時には道の幅が広いものだから、だれも賛成する者がおらなかったです。

 

   四十二年に松任-宮丸間が通ったんですね。買い上げ五、二〇〇円で、それはバイパスの八号線の沿線だからで、ちょっと松任の方へ入ると四、八〇〇円で、そして広い地面を取られたでしょう。あの時は田圃が道路数につぶれて良いやら悪いやらでちょっと迷いましたが、まさかこんなに発展するとは思わないから。

 

  野村 バイパスを作ってから通学道路のトンネルがないことにきずき、あわてて二日市町交差点の所でトンネルを掘ったんです。何しろこんなに住宅やアパートが増えるとは思ってもおらなかったんですから。(笑)

 

  北村 バイパスの広いのを見て度胆を取られた。

 

  小堀 あの時、私の所のトンネルになっている所は、トンネルの入り口を広く取るべき所だったんです。ところがそんなものは要らないと言って削ったんです。

 

  野村 今から思えば、もっと広くしておけば良かったんです。

 

   当時は農家にしがみついておったから、それしか収入はないから、収入源の田んぼをたくさん取られる人達は大反対でしたね。

 

  北村 私もバイパスが通った時には本当に信用を落とした。三日市町の北さんの所に呼ばれて行って、お前がこんな所へ持って来たんやないかと叱られて、わしに持ってくる力が有るのなら、今頃は私は県会議員に出ております。と云って、県の方針でやられたことだからと、平身抵頭に謝って来た覚えがあります。そう言うことは自分の村におってもそうだったんです。

 

  小堀 北村さんを先頭にして金沢工事事務所へ行ったら航空写真にバイパスの場所がちゃんと出てしまっておった。

 

  北村 長池町の西の方を通ると言う、初めはそうゆうふうだったんです。そして発表になったのが、現在の道でしょう、発表に成ったらどうすることも出来なかったんです。

 

  小堀 あの時は、縦に一枚ずつ田が道路敷にズボンとなくなって行くんですからね。

 

   中原さんは何年位に郷地区に来られましか。

 

  中原 私は四十九年に野々市町に来させてもらいました。

 

   その時は金沢市にたくさん良い所があったと思うんですけども、どうして野々市町に移住された訳ですか。たとえば文教の町とか、学校が近いとか、交通が便利とか、いろいろあると思いますけれど。

 

  中原 主人が辰口で、それでちょっとお家をと言うことで新聞広告を見てと言う感じで稲荷にご縁があったと言うことです。坂本先生どうでしょうか、その頃はそんなに家がありませんでしたね。

 

  坂本 五十年頃は今と比較してまだそんなにたくさんありませんでしたね。七〇~一〇〇位でしたか、五十年代過ぎて、五十年代の中頃になって来ると、それが急激に発達したんです。

 

   現在はどれだけありますか。

 

  坂本 今は三九〇世帯程で、ものすごく増えましたね。

 

   御園小学校が出来たのは何年?

 

  坂本 五十二年に出来て、五十三年の四月に開校したんです。

 

  野村 今の御園小学校の建っている地面に、昭和三十八年頃には石川県の繊維問屋団地を作ろうと言っていました。あそこへ繊維問屋の「まつなみ」商会などが買い占めに来たんですが繊維が、あの時分からだんだん傾き初めて、町が御園小学校の用地として買い戻した訳けです。

 

  坂本 駅前道路の野代町側に二万坪、ちょうど田んぼ一〇〇枚、二万坪を全部で、いくらで売ったかと言うとたった一億円、坪五、〇〇〇円なんです。契約は一パツでした。どうしてかと言うと田んぼが、たくさん有る所へ嫁が来ない、こう言う時代だったんですから売れ売れと言うことで、坪五、〇〇〇円で二万坪、一億円でポンと売ったんです。発展の為にもと思ったんですよ。ところが、繊維団地がだめで来たものは二~三の事務所であの時分は砺波運輸は三、三〇〇円かそんなものでしたし、三十五~三十六年からだんだん地面が上がってきたんです。

  高井製作所さんに田んぼを二枚売ったんですけれども、その時は四、五〇〇円で、国道沿いの一番良い所で四、五〇〇円だったんですが、こんなもんだと思っていたんです。その二~三年後には一万円になるんです。

 

  野村 稲荷のあの地面は、始めは糸屋町と言う名前の構想が県にあったんです。私が県会事務局におった時にそんな話があったんです。

 

  坂本 糸を売って機械を売って往復儲けるのに良いと言うことなんや。

 

  野村 私は今郷地区連合町内会長をさせてもらっていますが、私が郷地区に非常に、好感を持っているには、私が小学校五年の時に戦争が終った訳で、兄弟やら親が戦争に行っている者が相当おりまして、非常に生活が苦しかった時に、郷村の小学校でサツマイモを作って、そのサツマイモを私等の松ヶ枝町の学校へ木炭自動車に積んで持って来て、戦争にお父さんやお母さんや兄ちゃんやら行っておる者に食べさせてくれと行ってサツマイモを送ってもらったことがあったからです。それで、郷村と言う名前を十歳で覚えて、いずれ恩返しをしなければならないと言う話をしておったことがあるんです。そう言う訳で、私は郷村には幼い頃から非常にお世話になっとた。後で聞いてみたら、やっぱりサツマイモを作った者がおったんです。

 

   サツマイモを作りましたよ。戦争中の話ですけれども、松金線の線路縁に全部大豆を植えたり、サツマイモを運動場で作ったり、八田の浜へ塩田を作りに行ったり、もちろん兵隊さんへ行っている家には水田の草取りに行ったり、そう言うお手伝いもしたし、昔の体育館が、ミシン工場になって、ミシンを取り付けたところで終戦になったんです。

 

  野村 そう言う訳で、私等は学校の運動場を耕して作ったイモだと言って、終戦直後の食糧難の時分に送ってもらいました。聞いたら、やっぱり市川さんや松野さんはみんな運動場を耕してサツマイモを作っていた、この件を言ったらいつの間にやら中学校のPTAの会長に祭り上げられて、むかしのお礼いをせいと言って、結局お礼が大変なお礼になってしまったんです。

 

   町村合併問題のゴタゴタの当時、中学生は松任外七ヶ村組合立の松任中学校へ行っておりましたね。分村して野々市町に編入後の小学校は、松任・野々市の組合立郷小学校を設置して運営・管理をしておったらしいのですけれども、その当時の事をちょっとお話し出来ますか。

 

  坂本 うちの息子は松任中学校へしばらく行っておったんですが、分村後野々市町に統合の野々市中学校が出来たものだからこっちへ移ったんです。

 

  小堀 小学校は富奥へバス通学で、しばらく行ってたんじゃなかったか、あれは一学期だけじゃないですか。九月までに仕上がらなかったので、夏休みまで一学期だけ私の娘が行きました。

 

   野々市中学校を建てるのに売った野々市山にしたところが、みんなの奉仕で下草刈りに行って来ましたね。みんな漆にかぶれながら。漆にかぶれるのはいやだけれど義務人夫だからといって行きましたね。

 

  北村 野々市山には仙人と言われた番人の今西と言う人がいた。野々市山へ行く道は大変悪くて皆んな困った、高尾から行ったが急な坂が多くて。

 

  小堀 窪から行けば距離は遠いけれども、坂が少ないんです。ちょうど坂尻から獅子吼へ行くようなものでした。

 

   坂本先生が教育委員をしておられた時に、野々市中学校がマンモス校になったために、布水中学校を建てられ、郷地区の中学生を全部布水中学へ行くよう教育委員会で決められた時に、郷地区の一部からもう反対がありましたが、その時いろいろ問題がありましたけれど、その時の話をお願いします。

 

  坂本 あの件については、東さんに頭が上がらない。野々市の中学校がマンモス校になったものだから、これでは校内暴力等いろんな問題が起きるからと言うことで、適当な人数の中学校に分けなければならない、どうせ分けるなら半分ずつに分けたいと言うのが理想なんです。ところが半々どころか、野々市中学校が大きく、新しく出来る布水中学校の校下が小さくなる傾向が強い、それでは具合が悪いので、どうしても布水中学校の方を大きくしなければならないと言う中で、郷地区は全部布水中学校へ入ってもらいたいと言うことになり、そうしたら国道を切って南側の柳町、蓮花寺町、田尻町、堀内町がそんな所へは行けないと言って、真っ直ぐ裏通りを行って太平寺へ行って、そしてちょっと行けば野々市中学校がそこにあるじゃないか、これは私がそこに住んでおってもそう言いたくなると思います。そうゆう中で、どうしてもお願いしたいと言うことになった事は事実であります。人口の問題があって、郷地区を持っていかなくても、他を持って行けば良いと言うことで幾つもの案を考えた。たとえば太平寺を一つポンと持っていけばそれで良い、ところが太平寺をどんなふうにするかと言うと、一~四丁目があるので、その内半分を切って持って行くと言うのは、町は二つに割って行くのは生木を裂くようなものです。一~二丁目は北の方へ、三~四丁目は南の方へと切って、五丁目は野々市中学校がすぐ横に見える所なんです。他の所で高橋町と扇が丘があり高橋町はそれで良いけれど扇が丘をあっちへやりたいと行って来たんです。これもうまくいかない。菅原町は野々市中学校へ行く、いろんなことがあって、すったもんだの末、出来て五年たつ訳なんですけれども、校長も立派だったけれども、生徒も頑張って、今は天下の布水中学校です。今布水中学校の評判は万々でしょう。

 

   小学校は野々市小学校と御園小学校に分かれてしまいましたが、郷地区の中学生は、一つにまとまって布水中学校へ行ったと言うことは、よその人はどう思われるかしらないけれども現時点では、良いことだと私は思います。

 

  坂本 小学校が一つにまとまって中学校へ行ければ良いんですが、小学校が中学校へ行くと二つに分かれると言うのは野々市小学校と菅原小学校です。この二つはどうしても真ん中にあるばっかしに、一部布水中学校、一部野々市中学校と言うふうに二つの中学校に分かれるんです。丸々固まって行けるのは御園小学校と館野小学校で、富陽小学校は全部まとまって野々市中学校、そういうことで了承していただいて、しっかりやってもらっています。

 

  野村 柳町がバスで小学校へ通学すると言うことは非常に特異の例で、距離が長いと言う事、それに役場がバスの運賃を支払っていると言う事で、これは非常に特異な例ですね。

 

  北村 町村合併で無理したものだから、又柳町のすぐ横に松任市の東明小学校があるものだからね。

 

  野村 柳町は、水道も電話も松任から、もらわなければならない。やっぱり町村合併の当時、相当苦労された結果がこんなことになっているんだね。

 

  坂本 下田中は郷になったけれど、飛んで柳町なんです。飛び地になるので、政治路線として上田中の田んぼ三三枚でつないである。

 

  野村 何しろ、私もPTAの役員をしている時に本町から叱られてね、通学費を出すのは町費のむだ遣いだと良く言われました。何で学校へ通うがにバス賃が要るのかと、とにかく柳町の肩を持つのによわった事があります。

 

  岡田 松任の学校に通勤している時、松任派ににらまれて松任合併の運動をしろと言われました。

 

  北村 事あるごとに松任へ行くもんだから、自分の親戚はほとんど松任ばっかりなんで、「こっちへ来い、こっちへ来い」と言って誘惑もされたし、私の初めの気持ちは、野々市町へ来たくなかったんです、松任が好きだったんです。それがどうにかなってしまったんや。一番野々市町へ行きたいと言ったのは堀内町だった。

 

  岡田 北国新聞が野々市側に不利な記事を出したんです。私等はその時に北国を止めて中日にしたんです。

 

  野村 あの時分は中日新聞じゃなく石川新聞です。

 

  岡田 北国新聞の社長は私の親戚で岡田さんですが、堀内町におった人です。

 

  坂本 今の社長は岡田と言う人です。

 

  市川 北国新聞社の人は野々市の人ばかりですね、宮下は押野町ですし。

 

   時間もないので、過去の事はそれ位にして、今後の郷地区のあり方について、皆様のご意見を聞かせてもらえますか、野村さんは今連合町会長をしておいでますが、郷地区を将来どのような方向へ持っていけば良いのかご意見をお聞かせ願いたいんですが。

 

  野村 そうですね。今、野々市町に小学校が五つありますけれど、その中で来年度に学童数が減らないと言うのは御園小学校だけなんですね。御園小学校がそれだけ人口が増えていると言うことは、要するに繁殖力がある地域だと言うことなんですけれども、この三十年間の間に替わって来られた方に郷土愛と言うものがあるのかないのか、お宮さんの氏子になっておるのかおらないのかと言うことです。あくまでも、嫌な言葉かもしれませんがベットタウンで、金沢で働いてここで寝るだけ、又、明日会社へ働きに行くと言うことで、たとえば町会で運動会があったとすれば、町会の運動会と会社の運動会が重なったら、会社の運動会に行ってしまって、町会の運動会に出て来ないと言うようなことでやはりこれからは、ここで住んでおる一、三〇〇世帯の方がいかにして郷土愛と言うようなものを生んでもらえるかと言うことが、これから大事な事だと思います。例えばここに公民館を造ると言う、私達二日市町に三三〇軒程の所帯があるんですけれども、この公民館を建てると言っても、「ああそうか」と言う程度で、公民館へ愛着を持たないと言うような人種が多いと言うことですね、ですからやはり一番先に郷地区と言う所に愛情を持った住人と言うものを育てていかなければならないと思うんです。

  それからもう一つ、故郷を離れてここに来た人が死んだら、この辺で墓を求めたいけれども墓場がないと言うこと、墓場を求めればここも私等の故郷となるかもしれないけれども、墓場がなければ故郷もへったくれもないと言うようなことをよく言われますし、基本的な立場に立って墓場と言う問題も考えてあげなければならないのではないかと思います。又、野々市町にはアパートが非常にたくさんあると言うことで、住民登録をしない住民が相当数おると思います。おそらく五~六〇〇ではきかないんじゃないかと思いますね。住民登録をしない住民が野々市にものすごく多いんです。これをどうするかですね。

 

   これは郷だけではないですね、野々市町全般の傾向ですね。

 

  野村 これらの人は、ゴミは出すは、下水は出すは、住民税は納めないは、本当に…。

 

  坂本 住民登録しないことには住民税を納めないから、そんな人のゴミは取ってやらなくても良いんです、住民登録して住民税を納めてもらいたいですね。

 

  野村 能登半島へ行くと、住民登録を持って行かないでくれ、金沢や野々市町へ行ってもいいけれども、住民登録を持って行かないでくれと言うような事を言う訳や。

 

   皆さんが、今お話しされたように野々市町に合併して、わずか三十年にして現在は大変な変わりようで、当時は想像も出来なかったことです。主要道路の新設、住宅や各事業所の進出がなされ、新旧住民が混住する近代社会に変貌してまいりましたが、今後、郷地区がより一層住み良い地区として発展して行く為には、公民館はどのような地域づくりをめざせばよいか、どのようにあれば良いか、ご意見を聞かせて下さい。

 

  市川 今、郷地区に新しい公民館を改築するけれど、ちょっと利己的な考えかも知れないが、地区としては郷地区としての連帯感を持って、やっぱり郷の公民館を中心として新しい人、古い人と一体になった郷地区と言うものをしっかりと考えて、やっていかないと駄目なんではないかと言うふうに感じます。

 

  野村 そして今、一番大事なんですが、郷の公民館で会合がありますよと言っても「郷」と言う名前さえ知らない人達がたくさんおられますね。だからこれを知らしめて行って盛んにして行く公民館事業と言うものが、これから必要なんです。郷地区の運動会と言っても「郷地区てどこや?」と言うんです。

  後から入って来られて郷地区に住まわれた一、〇〇〇所帯近い人が、みんな郷と言うことを知らないで、ただ野々市と言うことだけで、移り住んでこられた方が多いと言うことですね。

 

   確かに調査しても、郷地区の公民館がどこにあるのか知らない人がおられます。郷地区だけではないんですけど、野々市全般を通じて自分の住んでいる所の公民館を知っておる人が何人おるかと言うと、意外に知らない人が多く野々市町の中央公民館なら知っておるんです。そう言うような訳で、情けないけれども、そう言う悲惨な状態なんです。そう言って、今お願いしているのは、結局ここの施設が公民館の施設として充分に完備されておらないもので、いろんなことが出来る立派な公民館を整えてもらえば、会合や、いろいろの行事が何でも出来て、公民館へどんどん来てもらえることになると思うんです。郷地区の投票場も二ヶ所に別かれているでしょう。この公民館へ投票にでも来ればわかるけれども、投票に来ない人はわからないんです。そのような訳で、やっぱり立派な施設を作ってもらって、みんなが交わって生涯学習の場として新の人も旧の人も仲良く勉強する、そう言う公民館にして行きたいなあと、このように思うんです。

 

  野村 車社会だから、公民館なんか遠くても良いんです、要するに駐車場さえあれば、どこからでも来るんです。日曜日になったら小松飛行場へ遊びに行ったり、遠い所まで、能登島の水族館でも、どんどん行くようなしゃばなんです。公民館も駐車場さえあればどれだけでも人が来ます。良い催し物など地域を結集して、大きいものは文化会館でやれば良いけれども、小さい講習会・教室・サークルなどは、どんどん地元の公民館を利用してやれば良い。

 

  小堀 町村合併から三十年以上たったんだけれども、地域性と言うものは今だにありますね。郷は郷の特性もあるし、本町は本町の特性、これはまだ消えておらないんです。特性があっても良いか悪いかは別として、これは一つの文化であり、伝統であり、これは続いて当然じゃないかと言うふうに感じております。今は過度期なもので農業問題にしても、市川さんが言われたように非常に答えの出しにくい時期だと思います。

 

   中原さんの場合は働く婦人の家の館長をしておいでるんだけれども、公民館と働く婦人の家は行政担当の課は違っているが、やっている事は似たり寄ったりなんです。昔の婦人会の組織は今は消滅してしまってこの地区の婦人層がこの公民館を利用する、又は働く婦人の家を利用する、そうゆう面についてどういうお考えでしょうか。

 

  中原 私も一応館長をうけたまわってから六年になります、そこで思うことは稲荷町の方々と移って来た時に、融和という問題がありまして、縁があってそこに根付この土地の為に一生懸命やるべきだと、そういう自分なりの考えを持っておりますし、新しい人達もやっぱり人であるから、ああだこうだと言のではなく話し合って見ると、判るのではないかと私は思っているんですけれど、そんな中で話し合って見ると、出来るものは何か、と言うことがわかって来ると思う。いろんな新しい悩みも出て来たり、問題も出て来たりする時に、ここに集まっていただいて、そう言うことをお話し合いなんかで教えていただいたり、それから好きな物事で話し合いが出来たり勉強が出来たりすれば、非常によい意味での自分達の、はけ口である勉強する場が出来るんじゃないかと思います。そりゃ、新しい公民館が建って、たくさんの人が来やすくなれば、それが可能になって行きますね。それから、あまり女性が働きに出なきゃ良いなと思いながらも、女性も働いてから、婦人の家とか公民館などに、どんどん来てただいて、地元の方同士で楽しく、自分達の民謡とか、生花、お茶、お習字とかいろいろありますけれども、それが好きな人がたくさん集まってサークルや教室がたくさん出来て行くと言うことが、ものすごく大事なことだろうと思うんです。公民館に集まって踊って、歌って、楽しかったなあと思い、又、明日から頑張るぞと言うような形のものに、私の婦人の家でも公民館でも気楽に利用してもらえれば一番良いと思っています。

 

   本当に同感です地区住民の要望する公民館活動は、何であるか。何を望んでいるかを見つけて学習目標を定めて行きたいと思います。

 

  野村 週休二日制になったら体の持って行く所がないんだから、今は一生懸命遊んで歩いているけれども、月給も上がらないようになってくるし、結局公民館でも行こうかと言うことになります。

 

  中原 週休二日制と、フルに働ける状態と言うのは。

 

  野村 公民館も、今の話で十時になったら閉館と言うのではなしに、やっぱりイレブンストアーみたいに二十四時間営業でやって行かなければならないこともある。

 

  中原 こう言う時代になって来ると、昔のことはさて置いて、十年先一〇〇年先うんと変わっていると思うんですね。さあどう言う風にと言うと、みなさん町民の方々から意見が出ると思うけれども、少し前向きな形で進んで行かなければならないかと思います。

 

  野村 僕は電気屋をしているけれども、電気釜を売った訳です。そうしたらおいしく炊けないので駄目だと言うので行って見たら、お米を研がないで炊いておるんです。どうしてと言ったら、これは水晶米だから、お米を研がなくてもよいと言うんです。今はこんなしゃばなんです。

 

  中原 それは本当におかしいんじぁないかと思うようなことが平気で起こっています。だから、お姑さん達と一緒にいらっしゃる方はちゃんと教えていただけると思うけれども、転勤族、核家族になると、リフォームすら出来ないんです。子供の洋服の継ぎ当てが出来ないんです。そのようなことを教えてもらったり教えたりするところとして婦人の家とか、公民館とかこういう集合場所などが必要になってくるんだと思うんですね。昔のことを知っている人は漬物の漬け方とか本当のお米の研ぎ方とか、そうゆうことを教え合うような場所になっていくと思いますね。

 

   先日、生涯学習について、一年と四ヵ月程かけて、野々市町の生涯学習検討委員会で目標を定め、教育長さんに答申したのですけれども、野々市町の生涯にわたる学習活動は、町民憲章の実践で人づくり、町づくりを基本理念にして生涯学習の指針を立てたもので、それに沿って公民館事業をやって行きたいと思います。幸いにして来年度に立派な公民館兼生涯学習センターが建つので、各町内の集会場へは公民館の分館のような形で、立派な先生方を各町内の集会場へ降ろすとかして行かなければならないと、思っております。老人で公民館まで出てこれない人もおいでるし、そういう人達の為にせっかく各町内に集会所があることでもあるし、大いに利用して住民の要望に答えていかなければならないと、思っております。

 

  岡田 私は、公民館の管理の方法を考えて行かなければならないと思うんです。私は老人会の会長を二年しましたが、老人会で報恩講をした時に老人会のローソクが全部火をつけられて、又消してあったんです。どこかの子供会がさわったのではないかと思うのです。そう言うことがあってびっくりしたんです。誰でも各種団体の棚を勝手にさわったり、その中にある町の資料が入っておったり、各種団体の総会をやった時の資料があったりするので管理をしっかりしないと問題になるんじゃないかと思うんです。

 

   そう言うことは充分気を付けていかなければならないと思いますね。郷はまた管理人がおるのでまだいい方なんですが、これから新しく大きな公民館ができるのですから、職員も常時いて何時でも、誰でも、すぐ相談にきやすいような施設・運営にしたいと思います。

  又、図書もそろえて、みんながしょっちゅう利用できるものにしたいと思います。

 

  野村 今度、ここの建物は公民館ではなく、野々市町生涯教育センターになるのですね。

 

   建物の名称は野々市町生涯学習センターですけれども、横に公民館の看板もつきます。

 

  岡田 もくせい会の会員さんは新しい人は入っておりませんね。

 

  市川 一時は入ったこともあったんです。うちらでも新しい三口さんと言う人が入ったことがあるんです。無理やり誘って入れても、そのうちに又おいでんようになるし。

 

   大変長時間にわたり貴重なお話をしていただきましたが、この辺で郷土誌の編纂室長をしていただいている小堀英昭さんから一言しめくくりのお言葉をお願い致します。

 

  小堀 皆さん、お忙しい中から長時間、大変ありがたい、貴重なご意見をお聞きして誠にありがとうございます。先ほどらいお話にもありました通り、今では新たに移り住まわれた住民の方々が非常に多くなったような現状でございまして、どのようにして仲良く、調和のとれた地域作りをやって行くかが課題だと思います。人生はゆりかごから墓場までと言いますが、墓場問題がこれからの課題にもなりますが、一挙に解決出来る問題でもございませんし、皆さん方共々、より良い地域造りにご尽力下さいますようどうか宜しくお願い致します。どうもありがとうございました。

 

   そう言うことで、大変貴重な時間を、お忙しいところ出ていただきまして誠にありがとうございました。これを少しまとめて集約致しまして郷土誌に編集したいと思います。大体は三月の落成と同時の発刊予定でおります。これにて座談会を終了させていただきます。どうも大変ありがとうございました。

 

郷の今昔