タイトル:ブラウザ判断

タイトルをクリックすると最初のページから表示されます。
ページ番号をクリックすると該当のページが表示されます。

page=76 :富樫氏先業碑 国家の治乱存亡は、気運の然らしむる所と雖も、其の実は人民を撫安するによる。其の道を得る得ざるは、民の懐きておかざるも亦あに他有らんや。永延元年富樫忠頼朝命を受けて、加賀介と為る。三年を経て任を解かん欲す。然るに国民其の善政を思い、重任を請う。是において朝廷、其の国民保安の宜しき聞知し、重任を許す。忠頼卒し、其の子吉宗職を襲う。其の孫家国に至り、舘を野々市に構う。家国四世の孫家直、幼にして職を襲うことを得ず。文治元年家直の弟泰家、源頼朝の命を以て、加賀守護と為り、左衛門尉を補う。その後数世の孫成春と叔父泰高国を争いて止まず。因ってその土地を割きて、各半国を領す。文明六年に至り、成春の子政親遂にその土地を亡う。蓋し富樫氏は、世を伝うこと二十余、歳を経ること五百、亦久しきと謂うべし。吾邦は足利氏の歳、君臣相攻め、親戚相畔す。天下大いに乱れ、豪傑四方に起こり、或いは一夕にして夷滅する者有り。或いは一旦にして興盛する者有り。その間成敗存亡恰も奕棋の如し。この時に当たり独り富樫氏則ち自ずから然らず。其の祖職に就きてより子孫相襲う。上は朝廷を擁衛、下は衆民を撫愛し、仁を以て之を懐け、譲を以て之に接す。五百年間其の土を失わざる、其の道を得るに有らざるは、焉くんぞ能く斯くの如くや。蓋し徳沢の民に入るの深きは、一朝一夕の故に非ず。今石川郡野々市村字舘の内、御蔵、藪、山川等皆富樫氏の遺跡と称する所なり。世遠く人亡び、終に其の事蹟の煙滅し、有知の者無きに至る。豈慨嘆の至りならずや。野々市村水毛生伊右衛門、其の祖先の恩沢を蒙るを懐かしみ、其の事を石に刻み、以て詞を永遠に伝えて、後人に知らしめんと欲す。其の終始を、余が寺と富樫氏に縁故あるを以て来たりて其の事を記すを請う。其の志篤く、其の請固たく、義辞すべからず。すなわち不文を顧みず、この記を為す。鳴呼富樫氏の功有るは、加州において誰が敢て之を誣す也や。    明治二十二年晩春 加賀国大乗寺禅寺現住 麟童撰 陸軍少將従四位勲二等 岡本兵四郎篆額 長門豊浦 田上陳鴻書