いつのころのことか

 藤平村の南に権兵衛屋敷(ごんべえやしき)と呼ばれた屋敷があった。それはそれは大きくてりっぱなものであった。

 屋敷の西側は深い谷があり、その谷に向って、だんだん畑が続いていた。谷川のわきにはせまくくねった道があった。西側にすすきがおいしげり、たくさんの穂で小径(こみち)が見えなくなるほどであった。

 この道を上(かみ)へ進めば上林村へ、下(しも)へくだると藤平田(とへいだ)村に行くことができた。

 屋敷の門から北東方向にむかってゆるやかな下り道が村へ通じていた。屋敷の南側にはいくつかの蔵がきちんと並んでいた。大きな欅(けやき)の樹との間から、まばゆいほどの白壁が見えかくれした。夕日がその白壁を赤くそめるのもまた見事な眺めであった。

 東側の前庭には、幾百年たったと思われる枝振りのよい松が数本と幾かかえもある大きな庭石がいくつかあった。

 松と石がほど良いつり合いを見せていた。岩間から清水が流れ出し、滝になり、池にそそいでいた。この庭を見るものはだれでも、あまりのりっぱさに声も出ず、ただ、ためいきをつくばかりだった。

 秋になると、権兵衛の持っているたくさんの田から米がとれた。百姓たちが、休みなく運んでくる重い米だわらの山で、蔵の中はたちまち一ぱいになった。

 ところが、秋も深まったある日のこと。鷹(たか)狩りの殿様の一行が権兵衛屋敷の近くを通った。殿様は二つに折れたかさをかぶり、鹿(しか)の毛皮でつくった当てものをして馬にのっていた。家来(けらい)は殿様がじまんにしている鷹を手にとまらせ、すぐ後につづいていた。殿様はきょうのえものが少ないので、大へんごきげんがななめだった。諏訪(すわ)の森(矢作村のあたり)を抜けた時、権兵衛屋敷の蔵の白い壁が殿様の目にとまった。殿様は馬を止め、白い蔵を指さしていった。

 「あれは何者のすまいか。」

 すると、家来が道案内の百姓にたずねてから答えた。

 「はい、藤平村の百姓、権兵衛の屋敷でございます。」

 「何!百姓のくせに蔵に白い壁を塗るとは、身のほどを知らぬけしからんやつじゃ。早くとらえて、ひったててこい。」

 殿様は気が狂ったようにわめき立てた。

 その日の夕方、権兵衛と妻や子どもたちはあわれにも、なわをかけられ家来たちにひったてられていった。

 何日たっても権兵衛一家は藤平村に帰ってはこなかった。やがて、屋敷や蔵も打ちこわされ、あとかたもなくなくなってしまった。

 今は、その名を残すだけとなった水田がある。「権兵衛屋敷」と呼ばれるものが三枚。蔵への登り口があったのか「上り口」と呼ばれるものが五枚。水を引くための樋(とい)をかけた所らしい「樋掛田」の名で呼ばれる田が二枚。

 この水田の呼び名のほかには、「権兵衛屋敷」のことを伝えるものは何一つとして残っていない。

郷土の民話・伝説集