野々市町の南西、松任市との境に末松(すえまつ)という所がある。ここに千年以上も昔の大きなお寺の跡が発見され、保存されている。史跡「末松廃寺」で名高い所である。

 むかし、このあたりに清金を通り、太平寺から北陸道に通ずる街道があった。両側に雑木や藪笹(やぶささ)が生い茂り、まがりくねった道だった。夜中には、キツネやタヌキが出て、通行人にいたずらしたといわれる。

 

 そんなむかし焼けつくような真夏の午後のことだった。ある領主の行列が末松の村を通りかかった。当時、「道の君」といった領主がおった。

 道の君は、馬上豊かに、大勢の家来達をしたがえている。道の君の乗った馬は、たてがみがふさふさとした立派な馬である。道の君にとってじまんの大事な愛馬であった。京都からの長旅の帰り道であったろうか。人々も馬もつかれはてていた。

 ところが道の君の馬が急にあえぎ出した。家来達はあわてた。昼食に食べさせた草の中に何か悪いものでも入っていたのだろうか。それともひどい暑さのため馬が弱り切ったのだろうか。すずしい木かげへ馬を入れて休ませたり、水を飲ませたり、いろいろ手当したが、馬はいっこうに元気にならない。なおも苦しみ続けるばかりである。家来達は、何か良い方法がないものかと知恵を出し合った。しかし、だれがどうやっても馬は苦しむばかりである。道の君は、

 「この馬の病気を治した者には、どんなほうびでもつかわすぞ。だれでもよい。馬が元気になるよう手当をしてくれ。」

 おふれが末松じゅうに伝えられた。

 この村に、馬については何でも知っている一人の男がいた。男はさっそくやってきた。

 「おお、ひどい苦しみようじゃ。かわいそうに………このままでは馬が死んでしまう。」

 と苦しむ馬をいたわりながら、自分のうまやへ連れて行った。

 病気の馬は、すぐに座りこんでしまうものである。座ったら、もう手遅れでそのまま死んでしまうといわれる。馬というのは、自分で立ちあがることができないのだ。まして人間の力でどんなに大勢かかっても、重い体重の馬を立たせることはできない。男は、すぐに村じゅうの人達に手伝ってくれるようふれまわった。

 村では、どこかの家で馬が病気になると、どんなに忙しくても、手伝いに駆けつけることになっていた。馬はそれほど大切なものだった。村じゅうの男達が集まってきた。

 まず、馬が座りこまないために、うまやの梁(はり)へふとい綱(つな)を掛けた。その綱を、馬の腹へ幾重にもまわし、みんなで力を合わせて馬をつり上げた。馬は、うまやの真中につり上げられている。男は、孟宗竹(もうそうだけ)の一節(ひとふし)を斜めに切って、馬に薬を飲ませる筒を用意した。男は、日ごろから馬の病気によく効く薬草を野山でつみ、それを乾かしてあった。男は、薬草を鍋で煎(せん)じて飲み薬を作った。

 村人がはしごに登り、馬の口を押し広げ支えている。男は、竹筒に入れた煎じ薬を馬の口に流しこんだ。薬は馬ののどをゴクン、ゴクンと通った。

 男は、その晩、夜どおし看病(かんびょう)を続けた。次の日、馬はようやく元気を取りもどし歩くことができるようになった。

 道の君は大そう喜ばれた。

 「よくぞ、大切な馬の重い病気を治してくれた。お前には、約束どおり何でもほしい物をほうびにつかわすぞ。お金がよいか、それともめずらしい宝物がよいか。」

 「いいえ、道の君さま、わたしは品物はいりませぬ。それらの物は時がたてばいつかはなくなってしまいます。わたしの子孫に、いつまでも残すことのできる「姓」(みょうじ)をつけてくだされ。」

 当時、ふつうの人達が姓をつけるのは禁じられていた。人々は名前だけで呼び合っていた。身分の高い貴族や、領主だけが姓を名乗っていたのである。

 男の人は、姓をもらうことが、何よりのほこりであると思っていた。

 「何とりっぱな心がけの者じゃ。ではお前に姓を名乗ることを許す。さてと何とつけようか……」

 道の君は、いろいろ考えたあげくに、

 「お前の家の横には、大きな栗の木がある。後は小さな山になっているが、『栗山』はどうじゃ。」

 「ありがとうございます。この『栗山』の姓は、わたしが死んだ後も、子孫にいつまでも大切に守らせていきます。」

 男はひれ伏して道の君に感謝した。

 このことは方々の村までも評判になった。

 栗山家は、それから絶えることもなくつづき、今も「栗山」という姓を大切に名乗っているということである。

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