もとの丸一繊維会社の正門にかかる橋のことを、昔は「ころころ橋」といっておりました。

 野々市の荒町(あらまち)から、金沢の横川村へ通じる道で、住吉川を渡るための橋でした。

 この橋は、でっかい丸太の一本橋でした。ころころところげ落ちそうな危ない橋でしたので、誰がいうともなく、ころころ橋と呼ばれるようになっていました。

 川のふちは、竹藪(たけやぶ)におおわれておりました。川に沿った大のぼりの街道(当時金沢へ続く一番広い道)は、野々市村から押野丸木の村を通り、金沢の有松村まで、両側にぎっしりと松並木が続く道でした。

 日の暮れの早い秋の夕暮れどきには、四時頃ともなると、うっそうと茂った道は、もう薄暗くて、女や子供達はこわくて通れないほどでした。

 川原には、熊笹やすすきがおい茂り「こじき」が何人も「こも」をかむって寝ておりました。

 あちこちで「ガサガサ」「ゴソゴソ」と、人の動くけはいがしてほんとうに無気味でした。その人達は、宿屋に泊るお金も持っていない人達で、旅の一夜を川原で過すのでした。

 そんな時代に、ころころ橋のところで「虚無僧」(こむそう)が殺されたことがありました。

 「虚無僧」というのは、袈裟(けさ)を着て、深いあみがさをかむり、尺八を吹いて修業をするお坊さんのことです。平和ないなかの村で、人殺しなどめったにないことなので、村じゅう大さわざになりました。

 ようやく犯人がとらえられ、張りつけの死刑になりました。当時、張りつけ場は、金沢の有松地内にあり、それが加賀藩時代の最後の死刑やったそうです。

 ころころ橋のあたりは、とてもこわい所です。大きな松の幹には、呪いのわら人形が五寸釘に打ちつけられているのを見かけることもよくありました。

 

 そんなことがあってころころ橋のことを、虚無僧橋と呼ぶ人もいましたが、今はもう昔のおもかげもなく、両側にはたくさんの家が建って、自動車の流れもはげしい道すじになっております。

郷土の民話・伝説集