大乗寺は金沢の長坂にありますが、むかしは野々市町本町一丁目地内に初めて建てられたものです。大乗寺が野々市町に建っていたころは、まだ金沢という名もなく、加賀の都は野々市で、戸数も五千軒もあったといわれています。
この大乗寺の三代目の住職に、明峰素哲(めいほうそてつ)という和尚さんがおられました。和尚さんは能登に生まれた人で、少年の頃から比叡山の延暦寺で厳しい禅の修行をつまれた名僧でした。年老いてもその名声はいよいよ高く、日本国中に知れわたり、観応元年(かんのうがんねん)(一三五〇年)七十四才で、多くの人に惜しまれながら亡くなられました。お葬式には、各地から偉いお坊さんや身分の高い方々が集まって、何日間もねんごろにとり行われました。
大乗寺でのお葬式が終り、荼毘(だび)(火葬)の行われる太平寺までの道は、名僧の徳をしのんでおしかけた近在の村人で、沿道はぎっしりうめつくされるありさまでした。
位川村の作兵衛さんも、朝早くから田の草取りで疲れておりましたが、太平寺村の松林で行われる茶毘には、腰のいたいのも忘れてお参りに出かけました。位川から太平寺村へと急ぎながら、
「今日は本当によい天気だったわい」
と、ふと後をふりむいてハッとしました。白山の山の方からこちらに向って白い布のような雲が、スーッと流れて来るのです。しかもその白い雲から夏が近いというのに細かい雪が降っているのです。
作兵衛さんは、
「何んとふしぎな……。」
と思ってみていると、その雲はだんだん近づいてきて、作兵衛さんが今ほど通りすぎてきた位川のお宮さんの森の中へおりて行くのです。
「おーい、ちょっと待ってくれ!」
と、前を行く吉兵衛さんを追いかけて呼びとめました。
「おー、作兵衛どんか、あわててどうしたんじゃ。」
と、吉兵衛さんと一緒に、位川のお宮さんの方を見ると、今まであったお宮さんの森が白い雲におおわれて何も見えません。二人は驚いて、さっそくお宮さんにいってみました。鳥居をくぐると、その左側に、今までなにもなかった平らな所に池ができ、きれいな水がコンコンと湧きでているのです。作兵衛さんも吉兵衛さんも二度びっくりです。
二人はぼうぜんと池を見つめながら、
「そうだ、これはきっと明峰和尚さんが、茶毘されるので、白山の権現様(ごんげんさま)がお参りに来られ、この水で手を洗われたのじゃ、そうだ、そうだ。」
作兵衛さんの声に、吉兵衛さんもうなづきながら、
「そうか、そうか、もったいないことじゃ。」
と、二人はあらためて白山の方をながめると、また不思議なことに、さっきまでこの森から白山の頂上まで橋がかかったようになっていた白い雲が、またたく間に消え、夕焼け近いお日様に照らされた白山の山々が、あざやかに見えてきました。二人は、物も言えず地面にすわりこみ、時間のたつのも忘れて白山を拝んでいました。太平寺の松林の方からは、明峰和尚さんの茶毘の煙が静かに天にむかって立ちのぼっていました。
今でも太平寺には「だぶ」という地名が残っています。
位川のお宮さんの不思議な池も、村人達は白山権現様が手を清められた池として、「御手水池」と名づけ、いつまでもきれいな水の湧き出る池を守っていました。ところが、それから何十年かたったある日のこと、田んぼから肥桶(こえおけ)をかついて帰ってきたおよねばあさんが、あまり喉がかわいたので、お宮さんの池の水を飲もうとした時、あやまって肥桶を池に落してしまったのです。ばあさんはあわてて肥桶をひらいましたが、それ以来、池から水は湧きでてこなくなったということです。今でも、鳥居をくぐると左側に、古い池の跡が残っています。
郷土の民話・伝説集