ずい分昔のことです。太平寺に疫病が流行したことがありました。一家全員死に絶えた家や、二、三人だけが助かってあとは死んでしまった家もでてきました。余八の家では、父母兄弟が死んでおばあさんと孫の余八が残りました。
村の人達は庚申塚(こうしんづか)の大きな榎(えのき)の根もとに小さな供養塔(くようとう)を建てました。余八は三才でしたが、おばあさんに育てられました。父母がいない為、暮らしは楽ではなく、苦しみの連続でした。けれども余八は、おばあさんの言いつけはよく聞き、自分で出来る事は、どんどん手伝いました。おばあさんは、うすで、そばや、豆、いり粉をよくひきました。天井から竹ざおをぶらさげ、うすの柄にはめ、根気よく廻しました。余八も竹を握り、おばあさんの歌にあわせてひくのでした。
余八は十六才の春から、村の地主の田んぼを作らしてもらいました。貧乏でしたが真面目(まじめ)によく働くので、村の人々から感心だとよくほめられました。
十九才のある晩、おばあさんから「今年は父母が亡くなって十七回忌にあたる。お前も一人前の大人になったのだから、ぜひ御法事をしなくては」と聞かされました。余八は「うん」と返事をしましたが、さて何をどのようにすればよいのか、わかりませんでした。
おばあさんは「お寺からお坊さんに来てもらい、お経をあげることと、親せきや知人を招いてごちそうをすること。家や部屋をきれいにして、出来れば修理しておくこと」などを教えてくれました。その為にはお金をためなければなりません。
余八は大変だと思いましたが、何とかやりとげねばと決心し、人の寝ている間や、休んでいる間も、休まずに二倍も三倍も働きました。そのため御法事の準備も着々出来てきました。
戸障子(としょうじ)もきれいにはり替え、敷物は新しいのに取りかえられました。ところが前の日になってお客様のごぜんと座布団のないのに気がつきました。
「さあーしまった」今の今まで頭になかったのです。あとの事は全部出来たのに、これだけは残念でなりません。もう日もない事だし隣近所に借りに出かけました。
けれども、「綿を打直しに出してある」とか「ごぜんの足がとれ、まだ修理してない」など、とっさの為かどこも都合が悪くて貸してくれません。
途方にくれた余八は日が暮れて庚甲塚の榎の下に、つかれた腰をどっかり下してぼんやりとうつむいていました。今までの頑張りも努力も水の泡となる。「あーあ、いったいおれはどうすればよいのか、誰に頼めばよいのか」と頭をかかえていました。
その時です。上の方から
「余八心配しなくてよい。お前の困っているのはよくわかった。明日の朝、一番鶏が鳴いた時にここへ来い。お前の願いをかなえてやろう」とささやくような声が聞えて来ました。余八はびっくりしてあたりを見廻しましたが、くらやみの中に榎が、黒々とおいかぶさるようにあるばかりで、誰もいる様子がありません。
余八はあまりつかれていたのと、心配のあまりの空耳だろうと思いましたが、それでも一分の望みを心に持って朝まで待って見ようと、家へ帰って行きました。
家ではおばあさんが心配していましたが、さっきの庚申塚の話をすると、「お前のお父さんとお母さんが庚申様にお願いしたに違いない、明日を待ちなさい」と励ましてくれました。
余八は夜の明けるのを待ちかねて行ってびっくりしました。目のさめるようなきれいなごぜん二十人前と、ふかふかな座布団が出ているではありませんか。余八は天にも昇る気持で家へ持ち帰りました。
お経が終って、おときのごちそうを前にこのことをみんなに話しました。みんなは余八の真面目な働き振りに庚申様が助けて下さったのだと、口々にほめそやしました。
あくる日、余八は借りた物をきれいにしてお返しにいきました。そして庚申様に何度もお礼をいいました。
この話はまたたくまに村の人々に知れわたり、庚申様のあらたかな事が、話題の中心になりました。
これから後、村の間では願いごとや尋ねごとなどがあると、必ず庚申様の所へ行くようになり、それぞれかなえてもらえるようになりました。
村人たちが庚申様に願かけする事が長い間続きました。茶釜や大火鉢を借りたり、紋付羽織や袴(はかま)、さては履物まで借りる人が出て来ました。
よその村の人たちがうらやむほどのしあわせが太平寺に続きました。ところが或る時、祝い返しをするのでお重箱を借りた人がいましたが、かどをかかしてそのまま返し、あやまらない心得ちがいの人が出たので、それから以後は誰がお願いしても、願いはかなえられなくなったということです。
大正の初年耕地整理の時、庚申塚も榎も取りはらわれ、今ではその所在さえわからず、ただこの話が語りつがれているだけです。
郷土の民話・伝説集