昔、太平寺に善六と云う人がいました。若い頃から諸国の奥深い山や谷を尋ね霊場をめぐり、神佛に仕え護摩(ごま)をたき、じゅ文を唱(とな)え、きとうを行うなどの難行苦行を重ねて霊験を体得しようと勤めました。
背の小さい人でしたが、山伏姿(やまぶしすがた)で、背には笈(おい)を背負い、白い手甲脚絆(てこうきゃくはん)に身を固め、金剛杖(こんごうづえ)をつき、ほらを鳴らして道行く姿は、たのもしくまた勇ましいいでたちでした。
山伏姿で全国を歩き、修業をかさねた結果、火の燃えさかる中を素足(すあし)で歩いたり、林の中を木の枝から枝へと渡り歩き、石垣や壁でも綱一本あれば平気で登ることが出来るなど真言密教の秘法を会得しました。
絶えず背負っていた笈には持佛(じぶつ)として小さな不動明王を持ち歩いていましたが、「阿州国分寺」(あしゅうこくぶんじ)の銘(めい)が入って居り、現在白山神社の御神体の一つとなっています。
中年以後は家にもどり農業に精を出したのですが、近くの村や町から話を聞きにやって来る者があとを絶たない有様でした。
当時善六が木曽路より持ち帰ったと思われるレンゲ草は、加賀でのレンゲ草作りの始めともいわれています。
伝え聞いた者たちの間から、難題をもちかけ試(た)めそうとする者まで現われて来ました。
或る時善六の帰り道を待ちかまえた野々市の若者数名が、道に大手をひろげて立ふさがり、行くてをさえぎりました。善六は少しもあわてず、近づくやいなや、片側の家の小屋根にひらりと跳び上り屋根づたいに、さっさと通り越してしまいました。大手を拡げた若者たちも、ただあ然として声をのむばかりでした。
このようなことが、たび重なるにつれ善六の威力は不思議とされ、名声は高まるばかりでしたが、これを聞いた有松(金沢)の若者達が、一度は善六の鼻をへし折ってやろうと計画して、金沢へ出て来るのを待ちました。
「善六が尾山(金沢)へ出た」と情報がとぶと彼等(かれら)はそれぞれ予定の場所にひそみ、手はずを整え姿の見えるのを待ちかまえました。そして善六が町はずれに現われるやいなや、物影より石ころを、雨、あられのように投げつけましたが、善六はすかさず笠をはずして盾(たて)として、右に左に身をかわし、とび上り身をかがめて、ちょうど燕(つばめ)の飛ぶような早技で、一つとしてその身体にあたらず、石の方からよけていくようでした。
これではだめだと今度は、力自慢の若者が数名とびだして一度に体あたりに出ました。然(ただ)し善六の身体にさわることも出来ず、頭を押されて逆にもんどり打って尻もちをつくもの、手をねじ上げられる者など、誰もかなわない始末に、背後に廻っていた数人が棒切れで一斉におそいかかりました。さしもの善六も棒でたたき伏せられたかと見えましたが、急に姿が消えてしまいました。
あっけにとられた一同は、ただキョロキョロあたりを見廻しましたが、全く姿がありません。その時はるか上の方から大きな笑い声が聞えるではありませんか。見上げると街道の松の枝に腰をかけ、腹をゆすって笑っているのでした。それからは試してみようとする者はいなくなったということです。
家でもびっくりするような事がありました。息子が親にさからった時などえり首をわしづかみし、十五、六メートルも投げとばしたそうです。然し決して怪我(けが)をさせるような事はしなかったと伝えられています。
善六は明治十年、六十五才で亡くなりました。
郷土の民話・伝説集