天明三年と云いますから今から二百年ばかり前、日本国中が大ききんにおそわれました。
春から夏にかけても冷い雨が降りしきり、五月下旬でも綿入れを離せず、冷い夏だったので、麦やじゃがいもは腐りはて、田植も出来ぬ始末、貯蔵米から漬物まで食いつくし、が死者が続出、乞食(こじき)は町にあふれ、打ちこわしは各地で起きました。此(こ)の地方も例外ではなかったのです。藩ではときに貯蔵米を放出しましたが、米の値段は三倍にもはね上り、暮らしは窮迫し、生きることは死ぬことよりつらかったのです。
そんな頃太平寺に、百姓片手に質屋を営む人がいました。
近村からここへ金を借りに来た村人がいました。質屋のおじいさんは、何か品物をもって来るようにいいましたが、此の人達は売れるものは手あたり次第に売りつくし、着物はいま着ている一枚きり、金は僅(わず)かでもよい、必ず返すから貸してもらえないか、たのみましたがだめでした。
打ちしおれて帰って行く後姿を、おじいさんは気の毒そうに見送りました。次に来たら物は無くても貸してやろうとさえ思って居りました。
翌日朝早くまたやって来ました。見れば大きな石が二つ車に乗せてあります。笠を大きくしたような白茶けた石と、卵形の一かかえもある石でした。これはその村の若い衆が、力くらべの盤持ちにしていた石ですが、腹がへってる今どき、力くらべもあったものではない、無用の長物とばかり持ち込んだのでした。
おじいさんは、うまく考えたなと笑いながら、金を貸してやりました。
三拝九拝(さんぱいくはい)して村人は、帰って行くのでした。この石はききんも終った後、昭和の初めまでの長年の間、太平寺の盤持ち石に使われ、亀の甲に似ているところから「がめ石」(百二十八キロ)石全体に白いしまが入っているところから「しま石」(百四十八キロ)といいました。昭和になって「がめ石」は屋敷跡の古い大穴に投げ込まれましたが、しま石は今も村太家の庭先に見ることが出来ます。
人間は七十年位の寿命しかありませんが、木や石には、人間の寿命に比べられない長い歴史があり、私達の村の歩みをじっと見つめているのです。
今の豊かな食生活になれた者には、ききんなど想像外で見当もつきませんが、天明のききんにお上(かみ)より代用食のいろいろが示されました。その一部を参考のため記します。
(「石川県災異志」より)
「凶年に処するためのお郡所よりいりこの製法を示す」
上煎粉 ①こぬか一升②下籾(もみ)一升
中煎粉 ③ぬか三升 こぬか五合 大豆一合
下煎粉 ぬか四升 大豆一合
下煎粉 ぬか五升 こぬか一升 ひえ五合 大豆二合
(注) ① こぬか=米ぬか
② 下籾=しいな
③ ぬか=もみがら (但し粉にしたもの)
人間の食べる物とも思われません。
郷土の民話・伝説集