昔、どこから来たのか浮浪者(ふろうしゃ)の夫婦が、太平寺に住みつきました。

 親切な人がいて仕事を手伝わせ、食わせてやろうとするのですが、三日と続かぬなまけ者で乱暴な性質でした。

 もともと太平寺は、木曽街道が村の中を通り金沢と松任間の中程にあたるため、旅する人はここで一服していくのが常(つね)でした。

 村のお宮さんのあたりは胎内(たいない)くぐりと云って、大木がおい繁り、竹やぶが荒れ、昼間からうす暗く、日が暮れてからは通る人もとだえてしまう、いやなところで、一人旅や女の人達は、連れの出来るのを待って通り過ぎるのでした。

 彼等はここに目をつけ、休んでいる人にいい寄り、物をまきあげることを考えたのです。

 この追いはぎも、回数を重ねるごとに大胆になり、旅人も村人も困りはてました。

 しかしこのならず者もさることながら、女房がまた輪をかけたしたたか者でした。

 金をまきあげて来れば、財布(さいふ)はどうした。財布ぐるみ盗って来れば、煙草入れはなかったか。持ち物全部かかえて来れば、これ程の物を持った者なら、たぶんよい着物を着ていただろうにと、欲の皮のつっ張った、情け容赦(ようしゃ)もないどん欲な女でした。

 或る時、足軽を従がえた御殿女中が通った事があります。まちかまえていた追いはぎは両手に手ごろな石を持ち、横の竹やぶから急に飛び出して、いきなり足軽の足首をたたきました。一たまりもなく足軽は其の場に足をかかえてひっくり返えり、ともに歩いてきた女中さんは、びっくりぎょうてんして、右往左往するばかりです。追いはぎはすかさず、女中さんの帯も着物もはいでしまい、一目散(いちもくさん)に逃げてしまいました。

 家に帰って女房に立派な帯や着物を見せますと、すかさず女房が

 「これだけの着物を着た女なら、かんざしや、こうがいは上等のものをさしていたろうに、どこやった。今から盗って来る。」ととび出していきました。

 さすがの追いはぎも、女の欲の深さにあきれかえり、今までの罪の重さが悔(くや)まれてなりませんでした。そして女房の帰ってこない今の間にと、その足で太平寺に駈け込み、一部始終をざん悔(げ)して、雲水にしてもらったそうです。

郷土の民話・伝説集