弘安元年(一二七八)、弘長三年(一二六三)ともいわれるが、本町一丁目(旧称・外守)に白山を開いた泰澄大師の作で大日如来の大仏堂があった。その境内に一寺を建てて大日山大乗寺と称し、真言の僧〈澄海〉を招いて寺主とした。正応元年(一二八八)禅寺と改め徹通禅師を招いて大乗寺第一世とした。大乗寺は永平寺につづく本山として栄えた。貞和二年(一三四六)富樫家善が大きく寺地を広げたが、明徳四年(一三九三)兵火にかかり前田氏の世になり老臣本多氏の菩提寺となって金沢へ移った。寺の跡は本町一丁目本町通りの両側に御台司と云うところがある。開祖、徹通の墓は「外守」にあるとされているが定かではない。大正三年(一九一四)耕地整理のとき墓の遺骨が発見されたという。
大日製作所の東南一帯で寛文四年(一六六四)富田景周の調査では、南方の土居五〇間(九〇m)中断して二三間(四一・四m)に二七間(四八・六m)、西方の土居四九間(八八・二m)その他中間に二四間(四三・二m)あるいは一〇間(一八m)土居あり、馬場跡と称する所に同じく中間に一〇七間(一九二・六m)あり、又御倉跡と伝えられているところはその西にあり、二七間(四八・六m)の土居中断して存在すると記されている。この館は、将軍藤原利仁より七世の富樫兵部家国が康平六年(一〇六三)加賀国府を小松市国府町から野々市に移してより、二三世の富樫政親に至るまで五〇〇年あまり富樫累代の家屋敷であった。平家物語や義経記に富樫城の富樫館とあるのは、この館のことである。長享二年(一四八八)政親の滅亡後は一向一揆の手にわたり、一揆に味方した富樫小三郎泰高が相いついで居たところでもある。元亀元年(一五七〇)五月賊党これを火攻にした。泰俊とその子二人は、越前(今の福井県金津町)の溝江長逸のもとに逃れた。以後、一向宗徒がこの館を再建し居住したが、天正八年(一五八〇)柴田勝家が加賀の一向宗徒を攻めた時、若林雅楽助、同甚八郎を攻めとりこの館に入ったが、その後不破彦三も住んでいたと云われている。昭和四三年本町二丁目の金沢工大前駅の横に富樫館跡の石碑が建てられた。
金沢市横川町との間にあった。山川氏は富樫政親の家老で……富樫氏のための館として作られ、本館は、旧内川村山川にあったと云われている。
通称「まっこ」と云う所に山川屋敷と並んで、松川氏の館があったと伝えられている。松川氏は富樫政親の家臣である。
太平寺との境で、通称「頼次」と云うところにあり、館跡は明治の頃までは小さな丘となっていたそうである。この頼次左衛門とは何人であるかはわからないが「官地論」という書物には、長享二年(一四八八)本願寺賊徒の臣将で高橋新左衛門が軍卒五千余りをひきつれ押野山王林に陣したとあるが、その人かははっきりわからない。
大乗寺の塔頭で、延慶二年(一三〇九)に大乗寺第二世の瑩山が大乗寺開山塔所として開山した。この寺は後でなくなったが、大正元年明光尼が金沢の大野において開いたと云われている。
大乗寺境内に同寺第三世明峰素哲が開いたが、後金沢(旧田丸町)に移されたと伝えられている。
大乗寺第四世珠岩が大乗寺境内(と思われる)に建てたと伝えられている。
観応元年(一三五〇)富樫高泰が、大乗寺第三世明峰の塔院として開基した。後に大乗寺の移転にしたがい、寺地を金沢に移し、元禄十年(一六九七)今の大乗寺山に移った。明治後は廃されていたが、昭和二年(一九二七)旧大乗寺跡の今の地に再建した。
嘉歴元年(一三二六)大乗寺第二世瑩山の守塔として同寺第三世明峰が建てたが、大乗寺とともに各所に移転し、明治十七年(一八八四)下安原に再建されていると云う。
本町三丁目通りの南方にあったと伝えられているが、詳細はわかっていない。
永正山と称し、永正十四年(一五一七)僧、日授が建てたが、前田氏となってから金沢に移され今は野田寺町にある。野々市のどこに建っていたか分らないが、本町地区内と思われる。
本町二丁目(旧一日市通り)の東方に昔、観音堂があったところで調練場と呼ばれていた。その北隅には九間に四間半の建物があったと云われている。慶応二年(一八六六)に開かれ明治二年(一八六九)に廃止となった。
孝信は不破河内守の家臣の頃 松任城主鏑木右衛門大夫の聟となり野々市の出城をあずかっていたと云われている。また、孝信は豊臣家の四天王の一人である木村重成の伯父とも云われている。その館跡は今の町役場の附近と伝えられている。
泰高は一揆方に味方して、政親が一揆方に滅ぼされた後に野々市で守護となって富樫館を建てた。しかし現在ではくわしい場所は分っていない。政親が住んでいた館を修理したのではないかと考えられる。
永享年間(一七四五年頃)館を富樫に移したと伝えられているが、館の位置や跡も分っていない。
農事社とは、現在の石川県立松任農業高校や県立農業試験場の元となった明治時代の農業関係の研究所であった。そのもとは、加賀の前田藩々士で杉江秀直という人が明治政府の農業発展のためつくられた東京の農学社に内地留学生として派遣され学んだ。
新しい農業知識を身につけた杉江秀直は農学社の師だった渡辺譲三郎という人をつれて帰郷した。そして明治九年(一八七六)野々市に篤農家を集めて農事社を開き、農業の改良や研究の指導をはじめた。
明治二十年(一八八七)には規模を大きくして、石川郡模範農場と名称をあらため日本ではじめての田区改正として耕地整理を行なった。農業の先駆者として有名な高田久兵衛も、この農事社に学んだ一人である。この大きな偉業を長く後世に残すために、昭和四十三年に顕彰会を組織して明治百年を記念して農事社顕彰碑が住吉町に建てられた(昭和四十三年十二月十五日除幕)。
元和元年(一六一五)加賀藩より本町二丁目から四丁目(旧新町から西町の橋詰)までの両側で、前口一、二五〇間(三七五m)奥行十五間(四五m)の土地を無税として与え、藩馬七三頭を置き、この地を宿駅とした。同時に伝馬問屋を開始した。その位置は今の布市神社の前の橋の南側の西詰であったが、明治維新とともに廃止となった。又、町屋仁左衛門と云う人が末期の肝煎(世話役)であったと伝えられている。
長享の頃(一四八七~一四八八)より馬市があったと伝えられ、以後数百年間続いていたが、安政元年(一八五四)以降は加賀藩の役人が出張監督していたと云われている。市は毎年半夏生の候(七月上旬)一〇日間開かれ、集まる馬の数は数百頭に及び他国からも買人が来たと云われている。そして大正の中頃(一九一八年頃)になって市場法の実施と共に産牛馬組合は金沢に移されて市を開くようになり、長く続いた野々市の馬市はなくなった。
大正時代まで、館三郎兵衛という家があって代々宿屋業を営んでいた。藩政時代には犯罪者のあるとき、金沢より改方の役人が出張し、この宿屋を仮詮議場として使用したといわれている。
藩政時代には松の木の伐採が禁止されていたので、都市の薪にする木材が不足し、藩ではその補給策として白山山ろくの山毛欅の密林を伐り出して三尺(九〇cm)木呂に切り、夏になると数百人の杣人をこの仕事に従事させていた。流材期になると水源を堰止めて貯水池に集めた。薪木は一時にその堰止を決潰して手取川を下って富樫用水の堰止めを利用し少しづつ木呂川を下り、貯積場である木呂揚場に流して来た。木呂揚場の位置は本町四丁目の本町通りの南側で木呂川と堰川の間の田地約五、〇〇〇坪(一六、五〇〇㎡)をあて四方に高い堤を築き、一大貯水池を作り流材の堆積に備えた。昔から大体一〇年目毎に行なわれ流材期は一〇月下旬より十一月にわたり降雪期までとしていた。一番盛んな時期には、昼夜を問わず流材を積み上げるため、数十人の人達がこの作業にあたっていた。流材の終了と共に貯水池の排水が行なわれ、以後順々に高さ六尺(一、八m)のかけ橋を造って積み上げ数十条に並べて整理した。その後薪にする材木は二年から三年に及んで少しづつ金沢などへ運び出されていた。この運搬作業から得た賃金は非常に住民生活の助けになった。明治に入ってからも二回行なわれ、明治二十二年(一八八九)石川大林区署の経営で行なわれたのが最後である。
昔、館跡には神祠があったと云われているが、何時の頃かは分っていない。調馬場の跡を馬場田、米稟の跡を蔵屋敷と云っている。
観応三年(一三五二)四月四日、上林の地頭であった大桑禅門玄猷と云う人が白山宮への御供米を出さなかったため、その年のお祭りのあと神輿、神鉾を地頭の館に振入れられたという記録が残っている。本居は金沢の大桑にあったと考えられる。
林則光の館があったと云われているが、時代などくわしいことは分っていない。この館は、後に六郎屋敷と云われていた。
泰澄という僧が、養老年間(七一七~七二三)フェイ寺を白山権現の社として飛騨から内匠を呼び建立したと云われている。大きさは九尺四方でこの社は寛文(一六六二頃)の初めの頃まであったが、後は不明となっている。
粟野五兵衛という人は、富樫氏の将であったと云われているが、時代などのくわしいことは分っていない。館跡も現在では宅地となっているという。
新庄村に居住したと云われているが、年代などは不明である。この人は倉が獄に籠城したと伝えられている。
同村の西方に、昔土塁が残っていると云われていた。そして、そこには一つの伝説が残っている。それは、三百田というところから、石器時代の石塚が出てきたが、そこを発堀するとはげしい風雨になるといわれ伝えられている。
昔、備後土居と称する土塁が残っていたと言われた所があったが、現在どこにあったものか、いつ頃のものかも分っていない。
室町時代の末頃、大館某と云う人の館があったと云われているが、大館氏はどんな人かは判っていない。現在館跡は「大館」という地名の所と思われる。
天文二年(一五三二)了秀と云う僧が建てたといわれている。今、美川町に同じ名の寺があるが、末松の正寿寺が移ったと思われる。
伝なし。
栗山氏の館跡にロ字形の土堰があり、そこに神社が建てられたという言い伝えがある。現在字轟に栗山家が三軒あるが、その子孫と伝えられている。
末松廃寺は昭和十四年国の史跡指定をうけている。戦前、戦後の大がかりな発掘調査によって、遺跡のほぼ全体の状況が明らかになり、県下で最初(全国で三番目)の史跡公園として昭和四十六年整備された。二町四方と推定される寺域の中央の東に仏含利を納める塔、西に本尊を安置する金堂を配した奈良時代初期の寺院跡で、堂、塔の配置はいわゆる法起寺式伽藍構成をとっている。堂塔の四周から多量に出土した亙の中で軒丸亙は地方色豊かな一種類である。また寺域内から和銅開称の銀銭、須恵器の高杯やつぼなど貴重な遺物が発見されている。末松廃寺を古代人がどう呼んでいたかわからないが、おそらく石川平野(当時の越前国加賀郡)を支配していた郡司道君一族の氏寺と考えられる。河川の氾濫がはげしい手取川扇状地の開発にとりくんだ多数の農民と、地方豪族の壮大な記念碑ともいえよう。
末松某と云う人の館があり曲尺形の遺濠が明治時代まで残っていたと云われている。
衣掛氏は富樫氏の家臣ということしか分っていない。
殿の土居という所が館跡といわれ、一向一揆の時、高尾城が落城したがその時、討死した藤岡豊後守という人の館と思われるが、正しいことは分っていない。
大平寺があったので町名となったと伝えられ、元禄十五年(一七〇二)十二月二十日大平寺を太平寺と改めた。又、富樫氏の一族に泰平という人の位牌所で泰平寺があったところからつけられたのであろう。
太平寺の関はどこにあったかは判っていないが、天正年間前田利家の時代はまだ秀吉が天下を取ったと言っても、地方では落着かなかったために松任(城主、丹羽長重)に備えて関所をつくり、加賀を守ったと言われている。
同町の池神白山神社境内に御手水池という四間四方の池と思われる窪地がある。そこにはこんな伝説が残っている。昔、明峰和尚(又は徹通和尚)という人がなくなり太平寺に葬った時、白山から太平寺にかけて布の幅ほどの白雲が橋のようにかかり、六月というのに雪が降り、白山権現が現われたという。そして、この池で手を洗われたことから、御手水池と名がついたと伝えられている。現在では水が無く池の跡だけ残っている。
一向宗の指導者で、上林、中林、下林を領していたので、三林の名前が付いたとされ、どこに館を建てていたかは判っていない下林に「四郎塚」の地名があるので関係があるのではないかと思われる。又、今の定林寺(下林)は善四郎の弟隼人が開いたと伝えられており、その子孫は現在、北海道の北見市に三林の姓で僧職となっている。
今から七百五十年前(鎌倉時代)ごろに天台宗の蓮花寺という寺があったところから町名となったと思われる。後にこの辺は浄土真宗が盛んになり、大津の方に移り、今でも三井寺の近くに残っていると伝えられているかはっきりしない。
五郎兵衛は富樫政親(十五世紀中頃)の家臣であった。ある時、野々市の附近に老白狐がいて通行人に悪さを働き、多くの人が困っていた。そこで政親は五郎兵衛に白狐退治を命じた。五郎兵衛は無事白狐をとらえて政親から今までは身分が低く馬に乗ることを禁じられていたが、それを許され、横江庄の二日市に領地(五百四十八石)を与えられた。その後、五郎兵衛は二日市に館を建てた。五郎兵衛は深く仏教を信じ、信州(長野県) の善光寺に参詣して、その友坊(寺)を領内の二日市につくったと云われている。今、「善光寺」と地名があるのはその寺の跡と思われる。富樫政親が(長亨二年)一向宗に滅ぼされた時、五郎兵衛は一首の辞世を口づさみ五十一才で殉死した。同じ時、五郎兵衛の家臣で村本兵衛助清も殉死したと云われ、明治まで五郎兵衛塚、平兵衛塚の地名があった(二人の墓地と伝えられる)が、この附近には矢止・古屋敷・馬場などの地名も残っている。
縄文晩期のもので、手取川が押し流した土砂が堆積して生まれた扇状地の北辺に位置し、面積四六・〇〇〇㎡の大規模な遺跡である。しかも、長期間居住したと見られる大集落の跡で出土した石器類は、御物石器をはじめきわめて多く、縄文晩期の標準遺跡として著名である。昭和四十八年から三ケ年計画で発堀調査が進められている。
皇国地誌という本に「経塚は御経塚の本村北方にあり、小丘の高さ一間(一・八m)あまり、周囲二八間(五〇・四m)あまりで、塚の上に杉榎の大きな木がそれぞれ一本あり、里人はお経をおさめたところ」と伝えている。
しかし今では、その面積も半分となって、明治の頃までは杉の木が一本だけ残っていたが、これも近年に枯死してしまい、松の木があったがこれも倒れ、現在では小丘だけとなってしまい堂には地蔵尊がまつられている。
宗俊は十二代富樫介藤原泰俊の三男であり、富樫氏が一向一揆によって滅ぼされた後、押野村字清水という所に住んで名を後藤弥右衛門と改め、郷土となって今の後藤家につづいている。
加賀志徴には「佐久間盛政より堪忍料として後藤家に三百石を与えられた」と記されている。
上宮寺記によると延文三年(一三五八)唯性坊(新田義貞の二男)が押野に本寺を建て、天文十二年(一五四三)光信坊が金沢に移したと言われている。今、金沢市片町二丁目(旧木倉町)と笠市町にある上宮寺、そして小松市細工町にある上宮寺はそれぞれ押野から移ったものである。
家善は富樫介高家(十七世)の弟で、その館跡は明治まで土塁が残っていたと云われ、五六間(一〇〇・八m)と八七間(一五六・六m)の大きさとされている。
郷土の民話・伝説集