本町は石川郡の稍々東部(北緯三十六度三十乃至四十分 東経百三十六度三十乃至四十分)に位し、北陸道に沿い金沢市と松任町との中間に在り、国道に跨って一市街を成し、東は金沢市の横川、三馬の両町に、南は額、富奥の両村に、西は郷村に、北は押野村に、各隣接して東西十九町、南北十六町、面積〇、一六九平方里である。東南に白山々麓を控え、西北は日本海に面し、土地平坦で手取川沖積土より成り耕土克く拓け、高燥開濶、水利潤沢であるから地味頗る肥沃で稲作、蔬菜の耕作に極めて適している。灌漑は七箇用水の分流富樫用水の幹流である、木呂川、関川、住吉川、高橋川が貫流して、年中涸渇の憂はない。又交通は国道が本町を縦貫して、夫より教条の道路が分岐する。即ち町の西部から南に富奥、林、蔵山の三村を経て、鶴来町に達する里程二里二十六町、明治二十六年に開通なり、更に此の線と連絡して北に押野、二塚の二村を経て、金沢市大野町に通ずる里程三里八町、大正三年開通し、又当町の中央部から東に金沢市三馬町を経て、同市窪町に通ずる里程二十一町、大正五年に開通せり、又中央部から南に額村字四十万に至る里程一里十町のもの一線がある。是等何れも主なる道路で、他に押野村字押越を経て同村字八日市に至る線、及び富奥村字大平寺に通ずる線がある。又軌道は、明治三十七年松任、金沢を絡ぐ鉄道馬車を始めとし、大正三年この線を電気軌道に変し、夫より屡次発展を見、現在では金沢市より来れる石川線は、本町にて松任、鶴来の両線に分岐し、鶴来線は鶴来町にて白山下、及び寺井の両線に岐る。猶ほ、金沢より松任行、小松行、粟津行、山中行、白峰行の各直通乗合自動車が通過するに及び当町は名実共に交通の要衝となった。
本町の区劃として、西町、六日町、中町、一日市町、新町、荒町の六町に分るるも、字名は公称のものでない。また田地の方では、西表、狐籔、鬼ヵ窪、荒田町、富樫、上田井、外守、白毛田、西裏の九字の区劃がある。
人 口 三千八百十人
戸 数 五百四十戸
世 帯 六百六十世帯
宅地原野 九万二千九百七十七歩七合六勺
野々市の地理風光を、石川訪古淤記には次のように記してある。
野々市町小史