野々市の歴史として最も古く見えるのは、菅原道真公(以下菅公と記す)が、或時神を祈って越洲社に向う時、野々市を通過せられ、士地の風光を眺めて、疲驂嘶布水と謂う詩を作られたと伝えられる一事である。これが最も古い歴史かと思われるが、この歴史について近時に至りて、学者間に種々の反対説があるので、断定的なことは謂われない。只史乗に見える儘を叙することとする。三州志故墟考には次のような記文が見える。
とある。この記に依れば菅公が明に野々市を通過せられたように考えられる。
果してこの史が正当か否か。正当なりとせば、野々市は一千年余り前の歴史を持っている。
而して是れより以前の歴史もあるようであるが、確かなる証左が未だ見えないので発表することが出来ない。
菅公は今(昭和二十八年)から千七十七年前の元慶七年賀権守に任しられ仁和二年まで四年間勤められたが、加賀へは赴任せられず介をして国務に当らしめたのである。その任期中、神を祈って加賀へ下向せられ野々市を通過せられたものと察せられる。
石川郡誌中に(大正十五年編)
とあり又、菅家文章第一巻々末には、次のような詩が見える。
官公が詠まれた、詩に関係あると見られる記文は、次のようである。
三州志
一書ニ石川郡額乙丸村村領ニ碇河ト云フ道名アリ是ハ古ヘ手取川此辺ヲ流ルル比唐船着岸碇ヲ下シシユへノ名称也
河川記文
古ヘ手取川ハ鶴来ヨリ尾山ニ至ル崖下ニ沿ヒテ流レ古保川筋ヲ経テ河北潟ニ注キ遂ニ大野港ニ入レリ、其後水路漸ク南ニ転シ元暦ノ頃ニ至リ宮丸柏野ノ間ヲ西流シ松本ニ落ツ
太田軍記
天正八年閏三月九日勝家湊川を越え宮腰に陣し所々放火す仍て賊野野市堡に河を前にして拠るを追払い多く斬捨百艘の艦に軍根を取り入れさせ夫より奥へ焼入り
三州奇談
天正之比迄者手取川之水鶴来ヨリ高雄之城ヲ廻リテ此布市之辺ニ落チ 云々
亀の尾記
布水は此野々市の河なるべし野々市今は木呂川とて寛文年中白山の木を伐り川下し 云々
次に本町の地名については、口碑の相伝うる所に依ると、古え布市と謂ったようである。この地名の起りは、古え此の土に大徳の人があって、常に白山大権現、影向し給い、其の都度盛夏と雖も、白雪降り白雲布幅程棚引き、其の長さ一里に達したと謂う。之れを土民布一里と呼び、是れから布市の名起れりと今に伝っている。又一説には、古え布の市を此の地に開いたので布市の邑名がこれから起ったのだと云う。今尚お野々市に一日市町、六日市町などあり、何れも布の市を開いたことを物語るもので、往昔布の産地で布市と云った所であると云う。
三州奇談
去ル古ヘ此ノ所ニ大徳ノ人有リシニ白山権現常ニ影向有白雲布幅程ニシテ長クタナビキシシニ因リ布一里ノ名是レヨリ起ルト云フ
亀の尾の記
野々市 広野に於て市をなすといふ意にて野々市と云ふか。但し野とぬと通ずるなれば布市なるか、加賀は絹をいう事多くあれども、いまだ布に名有事を不聞、されども交易するなれば強ち国産に拘るにもあらじ、間近き越中八講などあれば布なるか。類聚国史の布水の文を爰にあぐれば布市なる事適せり
三州志 三宮古記考
是等の記文に依り察するに、古えは布市と謂いしが富樫家国、加賀国府を野々市に奠めし時、従来の布市を野市と革めたのである。その後猶お旧名布市と記する者が多々あったのである。此の家国の改名後何時の頃からか、誤って野野市(下ノ野は助語也)と記すようになり、夫より戦国不文の徒、此の誤りを因襲し来りたるが、藩政中期に至り専ら野々市と記すようになり、今日に及んだものである。
尚ほ応安二年の得田軍忠状には野々市と見え、文明十八年回国雑記には野の市とあり、天正八年太田軍記には野々市と見え、慶長二十年横山山城守の当村百姓肝煎に宛たる文書には、布市とある。亦正保以後の文書には何れも野々市とあるようである。
一説には野市が旧名で、布市はその転化であると謂う説もあるが、この説は三宮古記の野市と、慶長二十年の、布市とに基くものであろうが、旧名布市と菅公通過の事に就いては、研究を要すべき点が多数あるので後証を俟つこととする。
野々市町小史