往古の地域や、その形等は確なことは判ないが今よりも広く、又かたちも異なっていたようである、その野々市が長享二年より一向一揆の為め屡次に変更し、天正八年三月九日柴田勝家が織田信長の命に依って、加賀一揆に対し、峻烈なる討伐を加えた時、野々市は惨々に破られその全域は悉く燔燼の厄に遭ひ遂に焦土と化したのである、その時旧来の巨館、人物、宝物等を失ひ、土着の百姓のみ残った。(この史実は第二章あり)

 住民此の灰燼を収拾して焼野に散在していたが、幾何も無くして、その中央に散住する、住吉ノ宮(元ノ住吉神社ノコト)の氏子の者、同社に並行して、東西細長く寄集して一聚洛を成した。是れ今の、一日市町、中町、六日町、の三町である。此の寄集した一聯、在来の布の市を町の両端に開いて東端は一に相当する日に、西端は六に相当する日に、各市を開いたので、東端を一日市町と称し、西端を六日町と称し、中央を中町と称した是れ現在の町形の起りである。

 其後、焼野の西部に散在する八幡社の氏子の者、六日町の西端に接続して寄集し、鎮守宮八幡社(元ノ照日八幡神社ノ事)を今の八幡田(西表田甫八幡田ト云所)より、鶴来新道西側に遷し一町を成した是れ今の西町である。其の後、焼野の北部に散在せる白山社(今ノ白山神社ノコト)の氏子、亦一日市町の東端北に沿うて寄集し、一町を建る、其れ今の新町である。今又新らしく一町を加えたので、住民之れを名付けて今町とも謂い又新町とも云い北横通とも称した。文化文政の頃今の北横宮址より鎮守の神殿を今の社地に遷した。

 

 古跡考

  山川三河守同又次郎等の居館の旧跡は今町(石川郡野々市)の後にあり 云々

 

 其後亦焼野の東北に散住する外守八幡社及辻ノ宮の氏子、新町の北端に接続して寄集し、社殿を大乗寺址へ遷し(今のノ三十番地の事)一町をなした。是れ今の荒町である。此のアラ町の名称は曩に新町の名あるが故に「アラ」町と命名したのである。

 かようにして今の町形が出来たようである。

 

 富樫氏史伝

 野々市ノ西端が六日町東端が一日町ニシテ古昔一六ノ日ヲ期シ市為シタル其名残リテ町名ニトドメタルモノナリ。ソノ中央ガ中町コノ三町ガ野々市往昔ノ本町ナルヲモッテ鎮守宮ハ三町一社ナリキ、シカシテ六日町ノ西端ニ出来タルモノガ西町、ユヘニ西町ノ鎮守一社アリ、一日町ノ北方ニ出来タノガ即チ新町ニシテ鎮守一社アリタリ、新ラシク出来タル町ナレバ或ハ始メ今町ト呼ビタルモ知レズ。此ノ新町ノ北ニ又アタラシク出来タルモノヲ新ヲ避ケテ荒町ト称シ鎮守一社アリ、之等町名ノ由テ来タル事久シク以テ野々市ノ町名ノ淵源ヲ不朽ニ語ルモノナリトス。 云々

 

 此富樫氏史伝に載するが如く、野々市に於ける西町、六日町、中町、一日市町、新町、荒町の各町名の起りは斯の如き由因があるのである。今の野々市が出来上ったのは、確実のことは判らないが、遅くとも慶長の中期(昭和二十八年より三五○年前)頃までに出来たようである、この外に野々市新村が出来た。これは今の金沢市三馬町で何時頃出来たものか判らないが野々市の出村であったので明治初年迄野々市に属していたが三馬村に属し、其後昭和拾年金沢市へ編入した、而して富樫時代の地域については、種々の事情から見て、附近の大平寺、位川、稲荷、馬替の各村落が含まれていたのでないかと、思はれるのである。

 三州奇談に

  布市の邑ハ往古富樫氏ノ都ニシテ数千軒ノ坊舎モ有リシトコロナルニ今ハ寺号村々ニ残レリ

 

 この記文中「今ハ寺号村々ニ残レリ」とあるが、この寺号を負うて残っている村は大平寺村を指すより外に見当らないから大平寺はもと、野々市の地域でなかったかと疑わざるを得ない。

 大乗寺史に大平寺の事を

  開山徹通及第三世明峯の茶毘は大平寺に於て行い明峯二十五哲の一たる不惜玄位此地に大平寺を創建すとあり亦大平寺御坊は開山茶毘の霊地を護り明峯の墳をも祀り来しも星移り其寺滅いて村名に残れりと

 

 又、加越能金砂子、宝永地誌三州道の草、金城旧記、三州旧跡志に位川の事を

  位川村領之内御手水池ト申候テ四間四方程ノ池ト相見へ窪キ所有之是ヲ御手水池ト申儀ハ往古現在ノ大平寺領ニテ大乗寺明峯和尚葬ノ砌白山権現影向有之右ノ池ニ出現故権現御手水被成候由申伝候只今ハ水無之ク池アゼ有之候権現影向ノ節白山ヨリ大平寺迄布幅程白雲タナヒキ六月雪降り申候由申伝候

 

 三州奇談

  明峯和尚ノ墓ハ大平寺村ニ有リテ葬儀ノ時白山権現影向有リテ手ノ水ノ時清水涌出ルト云フ、去ル古ヘ此ノ所ニ大徳ノ人有りシニ白山権現常ニ影向有白雲布幅程ニシテ長クタナビキシ、ニ因り布一里ノ名是ヨリ起ト云フ

 この文書中「布一里ノ名」とは布市の名を指すものである。

 

 この記文に依れば、位川は大平寺領であったように見ゆるから、大平寺が野々市領であったとせば、この地も当然野々市の地域でなかったかと思はるる。また三州志には「長享二年一向一揆が富樫政親を高尾城に攻めし時、賊将笠間兵衛家次が賊衆数千を率ヘて野々市の馬市に屯す」とある。この野々市の馬市とは、察するに一向宗徒が高尾城と対陣する戦術上から見て、今の馬替でないかと思はれ、又往古野々市に富樫諏訪神社があったと云はれているが、その社が野々市に無くて馬替にある、これ等の点より考えれば、この地も、もと、野々市の地域でなかったかと疑はられる。

 

 又、石川郡誌には稲荷村のことを

 家近(中略)堀河天皇の寛治中鳥羽離宮御造営に際し夫役を課せられしかは家近家人を率えて京都に上り、事了りて国に帰るや稲荷の祠を造立して土民の守護神とし神会の日に小豆飯を供へて崇敬怠りなかりき(中略)遂に邑名を稲荷と呼ぶに至れり

 とある。家近は富樫氏九代の介で、長治元年野々市に稲荷社廟を創建せられたと、伝へられているが、その社の場所は、今の稲荷村であるとの事から、この地も、もと、野々市の地域で無いかと疑はれる。

 是等の各部落が愚見の通りならば往古の野々市は相当大きいものであったようである。

 次て国郡郷庄に付て述べよう。野々市は加賀建国以前は、越前国に属し郡は同国内の加賀郡に属したが、弘仁十四年越前国の内、江沼加賀の二郡を割りて一国とした、是れが、今の加賀国である。

 

 日本後紀

  加賀郡遠去国府、往還不便、雪雰風起、難苦加以殊甚加賀途路之中有四大川(按スルニ大川トハ越前ノ白蒐女川、鳴鹿川、加賀ノ大日川,手取川ヲ云)毎週洪水、経日難渉、人馬阻絶、動則壅滞

 この加賀建国の時加賀郡の管郷十六駅四の内、八郷一駅を割りて一郡を建て之を石川郡と称えて、今日に至った。

 

 

 

 日本後紀

 弘仁十四年 加賀都管郷十六駅四、割八郷一駅、更建一郡、号石川郡

          

 さて郷荘は住古土無加之(トムカシ)と訓して土加施と呼び野々市は、この郷に属したそうである。

 

 和名鈔

 

 

 其後康平(今ヨリ八百九十一年前)の頃には高安荘と云いこれに属していた。

 

 史実第三章参照

 

 其後貞和応永の頃には押野圧に属していた。

  石川郡誌(和田文次郎編)中

  接スルニ貞和二年富樫家善大乗寺ニ下ス文書(十三章にあり)

  応永十九年内大臣源義持ノ文書皆押野庄トス

 

 其後明応(昭和二十八年ヨリ四百四十六年前)の頃に至り富樫荘に属したそうである。

 

 石川郡四十万善性寺古蔵

 明応八年九月晦日、永正元年三月五日の文書(全文第八章ニアリ)

 その後何時の頃からか町と称し寛永(昭和二十八年ヨリ三三○年前)の頃には町奉行を置いたそうだが承応年間に至りて町を廃して村となし、前田氏治世の頃は富樫郷五十三村の一村であった。昭和十三年町制布かれて今日に至った。

 石川郡誌

 又伝う中古に至り野々市町と称し寛永の頃加賀藩は此に町奉行を置きしも承応頃より町を廃し村に複せり

 

 猶ほ慶長の頃より宿駅を設け逓役に服したから世人野々市を指して宿と呼んだ。

  

  宿じゃ宿じゃと野々市や宿じゃ

                 長い野手(ノウテ)を木呂かづく

  加賀宿町記

  野々市宿

野々市町小史