富樫氏は累代加賀の国主で、野々市に凡そ五百年余居館を構え国政を執った。その始祖は、藤原鎌足の玄孫魚名六世の孫利仁である。利仁は延喜十五年(昭和二十八年ヨリ一〇三九年前)鎮守府将軍に任せられ北国大守の時、次男次郎叙用を加賀国土無加之(トムカシ)(富樫)の郷に遣し、加賀の領主とした、これより富樫氏は加賀国に所縁を発したので、富樫の姓もこれより起れりと謂はれている。その後永延元年(昭和二十八年ヨリ九六七年前)富樫忠頼(四世)は一条天皇より加賀の国司に任せられ、国務を執った。国民はその醇政薄歛の化に親んで三年にて任満なるを朝廷に奏して、重任を乞い更に永住の勅許を得た、夫より富樫氏累代は加賀の守介になって康平六年七世家国が館を野々市に移し二十四世の政親の時、一向一揆の為め社稷を失ったので、傍系の富樫泰高野々市の館に入って国政を執った。これから四代を経て晴貞に至りて又復、本願寺宗徒の為め亡されたので、その間加賀の国主であった、富樫氏の年数を算すれば、叙用より政親に至る迄五百七十三年、泰高より晴貞に至る迄八十二年、晴貞より最末の泰俊に至る迄四年、計して六百五十九年である。その間子々孫々相継きー門支流一人として国家社会に尽瘁せざるは無く、名門として何れも幕府に出入し将軍より人無き寵愛を亨け、恒に天下の枢機に参し辣腕を振い、活躍の武将のみであった。今その全盛時代に於ける日本の国情を考察するに、忠頼が任を拝して加賀に下りし永延中は、藤原兼家が摂政として政権を執り其後数世の藤原氏を歴て院政の世と為り、源平の戦乱より源、北条の鎌倉時代に入り、建武の中興を経て、足利高氏の乱に依って南北朝の並立となり、以て足利氏の室町時代に入り、天正の安土時代の数回の変革を見る。此の間戦乱相継ぎ、殺逆、乱闘国を挙けて興亡起伏殆と瞬間も待たざる情勢であった。この乱脉の世にも拘はらず七百年の長き星霜を、克く家名を保持し、国益を図り国家社会の為め貢献した事蹟は、他の大名の追随を許さず、只単なる一地方に割拠する豪族では無かった。
然るにこの声望威徳の同氏の事蹟を、史乗余りに伝へず富樫氏と謂へば、先づ一向一揆の仏敵法敵の汚名と、彼の安宅の富樫左衛門の勧進帳の二事位にて、只歌舞伎に、謡曲に、長唄に、婦女子を心酔せしむるのみを以て、七百年の名門史を評隲し去るが如きは、実に迂にして又酷である
以下累代の事蹟を述べよう。
利仁は、昌泰、延喜の頃の人で、従五位上民部卿鎮守府将軍であった。沈勇、知謀で、人皆帰従した。上野・上総・武歳等の守介を歴して、延喜十五年乙亥鎮守府将軍に任しられ、東国北国を任州とした。朝命を奉して、上野高坐山及奥州達谷等の賊党を討ち、大に武威を振い越前国敦賀に在って、京師に往来した。父を時長と云い、母は越前国人、泰豊国の女で、室は桓武天皇(第十五代)の皇孫、輔世王の女である。子三人在りて北国七州の大守の時次男次郎叙用を、加賀に遣し、加賀の領主とし、自己の輔佐とせしめた。是れ抑も加賀に於ける富樫氏の始源である。
日本史云、藤原利仁左大臣魚名六世孫父時長民部卿鎮守府将軍、利仁沈勇多謀略、矯捷如飛、暗練兵機、有将師之器延喜中(続遍鑑為十二年)歴上野上総武蔵守、任鎮守府将軍、下野高坐山賊蔵宗蔵安等聚結千余人、剽掠貢調、却略郡邑廷議命利仁討之、進至高坐山下。時盛夏暑劇、利仁命士卒多橇、象不解其意、入夜召一卒、問曰天将雪乎、対曰否天晴盛暑、有何雨雪利仁大怒殺之少時叉召一卒、問之如前、卒懽伴日、雪降利仁大悦、既而夜半雨雪大作至暁而止利仁命士卒乗。橇進攻之、賊象飢凍不能復戦、利仁従兵奮撃、大破之斬獲屠多於是威武大振叉村氏百将伝利仁任鎮守府将軍守護東国北国云高丸悪党奥州達谷之窟ビ籠利仁是討攻破窟
叙用は、利仁の二男で、齊宮頭であった。叙用は加賀国領主となり、住所を京師と、石川郡富樫郷とに置いたそうである。それで入皆叙用を、富樫氏と称するに至り、富樫氏の姓是より始まったと謂われている。叙用は正五位上で、実母は桓武天皇の皇孫輔世王の女である、子供が三人在った。
三州志
富樫家譜ニ利仁ニ三子アリ嫡子太郎某越前ニ住シ斉藤氏ヲ輿シ二男次郎叙用加州ニ住シテ富樫ヲ輿シ三男三郎越中ニ住シテ井口氏ヲ興ストアリ諸家系図之説是ト同カラズ其弁ハ景周編輯ノ富樫図譜ニ詳也富樫ハ石川郡ノ卿名風土記倭名抄ニ見へタリ、叙用此郷ニ住スレハ富樫ト称スルナラン、
吉信は、叙用の嫡男で齊宮頭、従五位下、加賀守中務権少輔に任じられ、子九人在った。次男次郎忠頼は、加賀介となり国司に任じられ、富樫氏を嗣き、長男重光は越中に在って井口氏を襲ぎ三男三郎伊博は越前に在って斉藤氏を襲いだ。これ富樫、斉藤、井口の分起である。
三州志
中務権少輔加賀守従五位下ノ諸家系図ニ見ユ
忠頼は、吉信の次男で永延元亥年(自昭和十六年九五五年前)一条天皇(六六代)から加賀国司に任しられ、加賀に下りて国務を執った。国民其の醇政に服し、三年任満ちて転任せんとした時、皇都に上って忠頼の永住を奏したところ、其の臣狩野某を右衛門督に、布施某を左衛門尉と為し忠頼永住の勅許を賜わった。
それから富樫氏累世加賀守介に任せられることになった。忠頼は能美郡国府村辺に国府を置き、石川郡富樫村字山科の辺に別館を造った。この附近の風光が京師に類似するので満願寺山麓に八瀬内川村に小原、倉ケ嶽山麓に住吉、富樫村に伏見、山科、高雄(高尾ノコト)等の地名を付け、京洛の名所をここに偲ばんとしたものであろう。忠頼の恩沢を永く報ゆる為め、遺蹟を伝へ来りしに、藩政時代に至り前田氏の逆鱗に触れることを虞れて、芋堀藤五郎と変名し金城霊沢などの伝説として、今日に伝わっている。別荘の跡は旧富樫村字山科地内にあって、同村の共有地となっている。近年迄此処に藤五郎松と云いて松の大木があった。
来因概覧第六巻
永延(六十八代一条帝)元年丁亥孟滝ロノ候人ノ中ヨリ其国ノ武士富樫次郎忠頼=従五位下加賀介トナリ=国司ニ任シ=加賀国ヘ下りテ国務ヲ執ル=三年任満ト雖モ=国人ノ乞ニ依り重任=有りテ三年ヲ経テ其後又永住ノ勅許ヲ蒙り城郭ヲ構フ
仝書仝巻
富樫吉信之子也(利仁ヨリ第四世也)諸系図ニ忠頼加賀介従五位下加賀国ニ住ス子孫多シ齊藤林進藤赤塚匹田竹田以下皆其支流ト云フ景周按スルニ此流是ニ止ラズ大桑、佐貫、石浦、安田、横江、近岡、豊田、弘岡、松任、倉光、板津、藤井、白江、宮永、等此流也其詳愚編之富樫図譜ニ弁ズル又此本文ニ其ノ国ノ武士ト謂ヘルハ忠頼ハ富樫吉信ノ子ニテ加州ノ士ナレバ也
三州志
永延丁亥滝ロノ候人=ノ中ヨり富樫次郎忠頼=ヲ撰ビ従五位下加賀介トナシ加州へ下向国務ヲ掌ラシム=而シテ三年ヲ終リテ転任セントスルニ=国民其ノ醇政ニ服シ重任ヲ乞フ即チ勅許アッテ六歳ヲ経、国民愈其ノ醇政薄歛ノ化ヲ親ミ皇都ニ上テ忠頼ノ永任ヲ官庁ニ乞フ=帝其ノ徳恵ヲ叡感アッテ其ノ臣狩野某ヲ右衛門督ニ布施某ヲ右衛門尉ト為シ忠頼永住ノ勅許アリ=忠頼卒シ其ノ子吉宗襲封武威ヲ闔国二振フ是ヨリ富樫氏累葉加賀州ニ相続シテ一門支流蕃昌ス
吉宗は、忠頼の嫡男である。従五位下で加賀に住み、父忠頼の職を襲ぎ大に武威を振ふた。是より富樫氏の威勢愈隆盛となり初めた。
吉宗は今より九百年程前の長久の頃の人である
来因概覧第六巻(三州志)
長久(後朱雀帝六十九代)中に至りテ忠頼ノ子富樫吉宗(従五位下)武威ヲ闔国ニ振フ是ヨリ富樫氏累葉加賀国守ヲ嗣キテ一門支流蕃昌ス
宗助は、吉宗の子で、貞宗、家国を生んだが宗助の記文は余り見えない。
家国は、宗助の次男で、康平六年の頃加賀国府を能美郡国府村より野々市に移した。(第三章参照)通名を次郎と云い法名を仏西と称する。兄貞宗は林氏を冒し今の林、舘畑、蔵山村辺に住したのである。其の子孫に光明光平があり、共に寿永二年源義仲に従い、越前三条野(敦賀附近)に戦死した。
三州志
家国之時石川郡高安荘(中昔ノ庄名也今無之)野野市ニ府ヲ開ケリ
仝 書
家国富樫介通名次郎 家譜云 一条帝御宇為滝口候人非也
仝 書
吉宗之孫宗助之子也法名仏西ト謂フ
ケンコウ余考第一巻
家国ノ時加州高安庄=野野市ニ第ヲ築キ其ノ子信家其ノ子家近=世々此ノ所ニ府ヲ定メ是ヨリ富樫介ト通号ス
信家は、家国の子で、通名を次郎と謂い其頃白山の衆徒信家の政に謀反したから、信家之れを討たんとしたが、衆徒の勢著しく遂に其役に戦死したと。
来因概覧第六巻
信家 富樫介通名次郎白山役戦死
しかし富樫氏史料彙存には次のような記文が見える。
信家自ラ白山禅定惣長史トシテ神ニ任ヘ石川郡森島ニ居館シ奉仕ノ白山ノ神ヲ勧請ス同社ニ信家ノ奉額ヲ蔵スト今ノ森島ノ白山神社デアル
家通を一名家近とも称い、信家之嫡子である。通名を次郎と号する。身長六尺胸厚一尺有六寸、力あって有名である。
応徳二年、白河天皇の鳥羽離宮御造営の時、加賀へも夫役を仰付られ、家通勅を奉して、役夫を率へて京師に上った。
其時狐の霊異あり、役終りて帰国の後野々市に小豆飯の稲荷社廟を創設した。是れ加賀の国俗小豆飯の濫觴遺蹤の社である。(第十章参照)
応徳寛治の頃東奥の清原武衝反謀した。その時源義家藤原清衝を従いて、之れを鎮めんとする。清衝家通に援軍あらんことを乞うたので、家通之れを朝廷に奏して羽州出征のことを切願したが許されず、此際特に本国を空しくして加勢するべからずと早く帰国して加賀を護るべしとの勅諚を拝して国に帰りて厳警した。家通は義勇兼備の名将で、保元元年百十七歳の高齢で卒した。
来因概覧第六巻
家通 家譜管智論並作家近通名次郎 寛治中鳥羽離宮造営之時率加州役夫至京師也家通長寿及一百拾七歳
家経は、家通の次男で、兄高通は家統を襲かなかったので、家経之を嗣いた。家経は常に病弱で勝れず遂に父に先立って卒した。寿永元年源義仲に従い平軍と戦うと記す古書も見えるが、是れは第十二代泰家の誤であろう。家経の通名を次郎と称ひ、子六人、松任町に若宮八幡宮を創建する。
来因概覧第六巻
家経通名次郎 日本史引保暦間記盛衰記 寿永元年五月源義仲将林光明富樫家経等 与平軍戦入敗之是家経疑 是泰家誤 家譜云 家経先父卒
家直は、家経の長子で通名を次郎と唱う、安元元年十二月二十九日近藤左エ門尉師高、加賀国司に任じられ、其弟近藤判官師経を目代として、加賀に遣はし、国政を掌ろうとし師経在国の武士、家直を首め従い、国中の神社仏寺の賜田等を削り放ったところ衆民之に服せず、白山七社の中の別宮、佐羅、中宮の三社と隆明寺、涌泉寺、長寛寺、善輿寺、昌隆寺、護国寺、松谷寺、蓮華寺の八院の衆徒聚合して、師高兄弟と相闘うたが衆徒の勢鋭く、敵を京師に攻め、白山の神霊を軍とともに、京都に遷し、惨々に師高軍を放った、遂に朝廷師高を尾張の井戸田へ徒流し、師経を禁獄した。仍て衆徒の奮起、遂に治り師高国政を保つことが出来ず惨敗した。
此の役に家直、師高を援け、能美郡鵜川涌泉寺を焼討ちしたから一度も上洛することが出来なかったと、因に家直、師高軍に従ったのは安元元年より治承三年まで約三年間である。
来因概覧第六巻
家直 通名次郎 安元二年従目代近藤師経闌入能美郡鵜川涌泉寺闘ク寺僧以故不得上洛
泰家は、家経の次男にして家直の弟である。家直子無く弟泰家其の家統を襲いだ、安元二年兄家直と倶に鵜川涌泉を火攻した罪に依り、恐れて上洛し、加賀介を拝す。泰家豪勇英傑の武将で、寿永二年、後白河上皇の内勅を奉し密に同族の林六郎光明、今城寺太郎光平及越前の稲津新介、越中の野尻、河上、石黒等を野々市の館に招いて「今や源平二家相諍ふに至った。此時に当り予輩、カを源軍に協するか、又忠を平氏に尽すか思うに、東国は既に頼朝に属し北国も将に義仲に風靡せんとしている。義仲必ず令を発して予等を招くであろう、招かれて応じなければ平氏の与党なりとして討伐せられるだろう、今自ら進んで之れを援けよう」と皆この説に賛じて源義仲に従う事とした。同年四月十七日平維盛先づ源義仲を討んと兵十万を率へ京都から北陸道に下った。泰家之を知るや、林光明及南北両越の軍と共に、仝月二十六日、越前三条野に平軍と奮戦した。此時義仲越後の国府に在り、泰家の軍、利あらずして遂に加賀に退き、今湊(能美郡湊ノコト)藤塚(石川郡美川ノコト)雙河(石川郡相川ノコト)倉部(石川郡倉部ノコト)大野庄(石川郡大野村ノコト)に屯した。爰に勝ち誇りし平軍は林(石川郡林村ノコト)、富樫ノ館(野々市)に宿営して休戦した。時に五月三日であった。平軍本部に諸将を聚めて軍議を凝らしたが、其の時僧将済明(越前国平泉寺長史済明ノコト)の言うよう「今義仲越後に在るが越前加賀の二州既に官軍に風靡した事を聞かば、彼らは速に兵を率へて南下するだろう、若し源軍越中の大平野に出たれば、勝敗の数必ずしも測り難いから今のうちに電馳して之を越後の南境寒原の険に阻止しよう」と、維盛是れを了とし、爰に軍を二手に分ち、維盛軍を本隊として森下、大延、崎田、井家、津幡、竹ノ橋を経て倶利伽羅に向う事とし、通盛軍を支隊とし、宮腰、徳蔵、大野、青崎、室尾、日角見、白生より志雄山に向うこととし、維盛野々市を発した。
爰に義仲越後の国府に在って、泰家の越前三条野に敗れたのを聞き、時を移さず急進し、越中国六動寺(今ノ伏木町勝興寺ナラン)に着いて全軍を点検したところ、五万余であった。ここに於て憎大夫坊覚明を招いて曰く「敵は多数で我れは寡である、霊神霊仏の擁護でなけねば一挙にして奇功を揚くることは出来ない。幸に北陸最第一の霊神白山社は遠くないから、謹んで白山妙理大権現に願文を奉し、大捷を祷請せん」と、そこで覚明白山荘に祈願した。請願成って愈々五月二十九日平軍を倶利伽羅に敗らんとして、義仲は植生の八幡宮に本営を移し、全軍を指揮した。爰に神異あり義仲の弓に一羽の白鳩とまり白装束の精甲三十騎現われ、源軍に交りて平軍に討入った。時を待ちたる泰家今ぞとばかりに敵中に討入り敵を南黒坂ケ谷へ討落したところ、維盛軍大敗し列を乱して退却した。是れを追撃し更に能美郡篠原に敗り泰家抜群の勲功を奏した。茲に泰家義仲に従いて平軍を敗り戦功あったが、不幸にして元暦元年江州粟津に於て、義仲源頼朝に敗られて陣歿した、泰家為す術も無く国に帰り野々市に蟄居した。(義仲の頼朝に討れたるは後白河上皇の後鳥羽天皇を立てたるに反したからである)
越えて文治元年頼朝諸国に守護地頭を置くことになったので、泰家書を鎌倉に致して誠意を披歴し、本領安堵の命を埃ったが更に命なく遂に泰家館内に安置しある忠頼以来崇拝せる、富樫家の守護神即ち今の布市神社の御神霊に只管祈願した処、仝年六月に到って、徴せられて加賀守護職に任し左衛門尉に叙せられた。爰に於て富樫氏は、従来の朝廷より派遣せられた国衛の次官でなく、武家の地方長官たる守護職となった。而してその子孫は尚ほ富樫介と通名する事旧の通りである爰に泰家は加賀守護職に任じられた報寳の為め、邸内に安置せられた三柱の守護神を、今の住吉川の畔に社殿を造営し住吉ノ宮と号した。是れ今の布市神社の最初の創建である。(昭和十五年ヨリ去ル七五六年)
此事ありてより一冬を越えた文治二年二月二十九日泰家頼朝公よりの宣旨に因り、能美郡安宅にて源義経の潜行を拒んだ是れ所謂富樫左衛門と弁慶の勧進帳の故事で、歌舞伎に、長唄に、謡曲に、婦女子を心酔せしむる泰家の義侠を物語るー事である。
源義経は兄頼朝の誤解から、遂に追捕の身となり近畿に居ることが出来ず、文治二年二月十日近臣の者三十人を従い山伏に身を扮し、内室の生家である京師一条今出川の久我邸を発して、北陸に下ったが之れを聞いた頼朝は、時を移さず諸国に令して義経追捕の命を発した。爰に泰家は曩に義仲の敗死に依り失位の極に達したが、漸くにして、加賀守護に任しられたので、頼朝の為め一功を挙げんと、安宅に関門を築き手兵を廻して警戒していた。
三月一日義経一行は加賀安宅に至るや、泰家兵を備えて厳警せるを知り、若し富樫氏にして此関を通し許さない場合はと堅き決意を示した。此の勢を見た泰家の心中、義経を虜へて鎌倉に出上することは何の難きもないが、これを虜えて義経の大望を阻むことは武士たるものの為す可き道でない。況して義経は天下の名将頼朝の実弟で、亦天下の英傑である。偶、頼朝の上意に遠い哀れ追捕の身となり果てたるを、虜うなどとはと、泰家爰に義経の心境に痛く同情し、弁慶の読上げる勧進帳に事寄せ、山伏に偽装せる義経一行を通したのである。是れ仁あり義あり勇ある守護として富樫氏の世に伝えるところである。
虎口脱れた義経は大に悦び、根上ノ松(今ノ根上町)を過ぎ、白山権現に法華を手向け、岩本(山上村)の十一面観音に其日は宿り翌日白山に詣て其夜は鶴来金剣ノ宮に通夜し、明れば林六郎の脊戸(林村字日ノ御子)を通り、野々市に着いた。時に文治二年三月三日であった。此時一行は二手に分れ、義経は大野に向い弁慶は富樫館に立ち寄り勧進を請うた。
その日は恰も桃の節句(桃花節)で館内は謂う迄もなく、野々市は老幼の別無く、蹴鞠、小弓、闘鶏、管絃などの盛大な催しがあり館内亦酒宴酣であった。茲に泰家曩に山伏と看て安宅を通した義理もあって、一行を珍客として迎へ饗応した、一行は泰家の義侠いたく感謝し、種々の曲を演じた。
この時辨慶は大磐若石を鞠の如くに扱い、力持の曲をしたので、今野々市の西裏田甫に力石と云う字がある、是れは辨慶が共石を館内より投げた所であると伝へている。此の石は今布市神社境内に雨乞石と称して保存してある。(第十章参照)
其の日一行に泰家より加賀白絹五十匹、内室より白袴一腰と八花形の鏡一面を進められ、野々市より宮腰を過き大野にて義経と落ち合て一泊し、夫より竹ノ橋に出で、一泊、翌日は倶利伽羅に馳せ入り、彼の南黒坂谷に臨んで諸平の亡霊を弔い弥陀経を誦し、松永の八幡社を経て越中より奥州へと落ち行き藤原秀衝に寄らうとした。かように泰家、義経を安宅に通し野々市に帰って居たが、このこと頼朝の耳に達したので頼朝は、大に立憤し、泰家の守護職を解き同時に官をも剥いたので泰家野々市に安住すること出来ず嫡男家春に家を譲り薙髪し、通名を仏誓と号し名を重純と改め、義経の後を追い奥州路へと落ち行き、義経の潜居せる陸奥国、藤原秀衝の許で、義経に会ったのである。義経、秀衝に請うて食田を与えた。泰家此処に暫く留まり一子庄九郎を生み名を前野と改め、後胤相嗣ぎ、二十七世長康に至り尾張の羽紫秀吉に招かれ名を喜太郎勝左衛門と改め、彼の賤ケ岳の合戦に参加して戦功を樹て以後尾張に住し、子孫豊臣、徳川に仕へ前野家を相続した。是れ所謂尾張の富樫氏と称するものである。
泰家は暫時陸奥に在ったが、一子庄九郎を遺して野々市に帰り後年歿した。法号を仏誓と称し歿年は不明である。
泰家の子に前記庄九郎の他に泰景、某(名前不明)、家春が在り、長子家春は家統を襲ぎ、泰景は出羽の富樫氏の祖となり、四男某氏は能登七尾市の光徳寺の祖と為る。嫡男以外は尽く国外に諸族を冒した。また兄弟に兄、家直を首め家忠(額田氏の祖)繁家(山川氏の祖)知家(子孫に元家あり)景家(額氏の祖)見蓮等がある。
来因概覧第六巻
泰家家直弟也、家直無子、泰家嗣家統以安元二年与兄家直焼鵜川坊舎之罪恐上洛、然後依法皇内令従源義仲寿永二年於能美郡篠原有戦功、文治元年自頼朝公為加賀守護補左衛門尉、二年源九郎義経微走安宅関之時、泰家拒之、事詳本記
家春は、泰家の嫡男で泰春とも称する。文治三年(昭和十六年ヨリ七百五十五年前)家統を嗣ぎ、承久三年(昭和十六年ヨリ三二一年前)後鳥羽天皇が北条義時の権威を憎み諸国に内令して兵を募らせた。家春年少であったが、其の召に応じて義時の二男北条朝時の軍と越中境河に戦ったが、朝時の兵四万余で家春衆寡敵せず遂に敗退した。
来因概覧第六巻
家春 一作泰春承久三年 後鳥羽帝憎北条義時威権内勅諸国募兵、以故家春雖年少、将越中井口光義、軍二越境河、然義時二男朝時師四万大兵来寡兵不得敵而退
家尚は、家春の後を襲ぎしが家春の子であるか否かは家譜明かでないが、家春の後を襲いだことは明である。
弘長三年(昭和十六年ヨリ六七九年前)「一作元年とも謂ふ」野々市町字荒町小字外守に、其の頃泰澄大師の作であった。大日如来の大仏堂があった。其の境内に一寺を建立して大日山大乗寺と称し、真言密師澄海阿闍梨を聘して住寺と為した。是れ今法燈燦として煌く金沢城南に高く聳ゆる護国禅大乗寺の創建である。是より二十九年を経た正応二年(昭和十六年ヨリ六五三年前)家尚は、越前国永平寺第三世和尚、徹通儀价禅師を請して、従来の真言宗を曹洞宗に革め徹通を大乗寺第一世とした。(詳事第十章)
家尚の嫡子に、家方、家忠があり、家方は正中元年永光寺本堂を建立し建武二年石動山に戦死した。家忠は正平十二年卒した。法名を北那院珠山需徳居士と号し、子孫能奥馬緤狩野氏である。(能奥馬緤は珠洲郡馬緤村のことである)
家尚の卒去は元徳元己巳年(昭和十六年ヨリ六一三年前)で法名を英俊居士と号した。
来因概覧第六巻
家尚以越前永平寺三世義价扮(徹通是也)富樫吉信未胤、家尚請待義价徳治二年石川郡建大乗寺、見明智記、此余家尚事状家譜闕之無由
泰明は、家尚の後を襲いた。元応二年三月八日(昭和十六年ヨリ六二二年前)白山比咩神社へ参拝をした。これは白山荘厳講記に見ゆる。
加賀守護富樫次郎泰明神拝元応ニ庚申年三月八日
右の他泰明のこと諸書に見えない。
家明は、泰明の三男で、兄高家に先って家統を襲いた。通名を保次郎と称し、人之れを久保殿と称した。敬神篤厚で元中二乙丑年(昭和十六年ヨリ五五七年前)白山本宮の上棟式に神剣一振と神馬一疋を献上した。
富樫氏史料彙存
元中二年白山本宮上棟式に神剣一振神馬一疋献上
猶ほ正中三年(昭和十六年ヨリ六一六年前)白山宮と金剣宮と相互に諍論を起した時、家明双方の中に入り斡旋の労を採り示談事無きに到らしめた。
三州志
此年白山ト金剣宮ト諍論アリ荘厳講記ニ時ノ守護富樫保次郎家明之レヲ令和談トアリ愚按家明ハ高家ノ弟住石川郡久保故ニ時人称之久保殿
家明の子孫に、家成、家永、満成、家元、宗春あり、家元は長亨二年政親と倶に高尾城に戦死し、宗春は能登蛸島に走り慶長十三年其子孫野々市に帰り宗家鎮守の住吉大明神に仕へ亨保十三年六世保高に至るを見る。亦家明の兄弟に高家、泰信、家善があり、高家は家明の後を襲いて富樫氏第十七世となる。泰信は山代殿と称して、山代に住み、其子孫に高泰、泰行がある。奉行は長亨二年政親と供に高尾城に戦死した亦高泰は昌家の弟にして量家の事なり泰信に養しなはれて高泰と号した。観応元年野々市に高安軒を開創する。家善は押野殿と称し押野に住して正平元年(貞和二年)四月大乗寺へ四至(地領ノコト)寄進した。(四至ノ史実第十三章白山水ノ条ニ記ス)又家善は入道して法名英道居士と称し其子孫に家信あり長亨二年政親と倶に高尾城に戦死した。又家明の子孫の満成は、家明から七十年を経たる応永の頃の人で、幼名を香憧と称し、童形より前征夷大将軍義満の母公、西向殿へ奉公し、西向殿率去(兼実記ニ応永十二年八月十一日)の後、将軍に近習して殆と人なき寵愛を受け、恒に幕府の枢機に参し権勢赫々天下の治乱に関与した活躍の武将であった。満成が最も辣腕を揮ったのは、新御所の乱である。この乱楷を為したのは、足利義嗣である。義嗣は将軍義満の次子で、義満は義嗣を愛すること長子義持に越え義持を廃して義嗣を立てんとしたのである。而して義満は廃立、志を果さずして薨したところ義嗣は帷幕を図ろうとした。満成は応永二十三年将軍の命に依って義嗣を諷諫したが、応じないので、義持大に怒り、之を拉して仁和寺に幽し、其従山科中将等を捕へ、満春、満成両家に拘禁し、次て加賀国に配流せしめ、越えて翌年之れを誅した。満成、義持の命を受け義嗣を火攻し遂に之を殺害した。是れ所謂、新御所の乱と云う満成敏捷克く天下の騒擾を鎮静したので、将軍の信望愈昇った。
しかるに応永二十五年十一月二十二日、俄然義持の忌諱に触れ信を失い、急転直下忽ち潰減の厄にかかり逐に高野へ遁れた。しかるに義持無情にも高野に在るを許さず、遠く吉野の奥地に蟄居していたのを更に欺き呼びて、応永二十六年畠山満家をして遂に之を殺害した。義持は尚ほ其所領も没収し邸宅は阿波入道の息に与へ、後ち焼失して其跡へ月次御壇所を造営した。而して加賀国領は幸にして富樫氏宗家の満春之を拝領し守護職に補せられた。この守護職に補せられたのは応永二十五年十一月二十二日である。
康富記 応永二十五年十一月二十二日ノ条
後聞者、今日室町殿近習富樫兵部大輔満成被勘当云々、以外堅被仰付、仍遁世高野山逃上
満成は吉野に居た頃左の和歌を詠して悲んだと
醍醐雑記
故里の、みちもいまさら、わするらし
出て年ふるかくれかの庵
みよしのや、山のあなたの、花みても
都の春をおもいいつらん
ながらへば、又もやと思う、たのみには
老てもおしき命なりけり
又在京の満成の夫人は吉野に蟄居中の夫君の安否を憂慮し、吉野参詣の山伏に書を託し、和歌を贈りて之を慰めんとしたが、幽閉の人なれば山伏之れを探し得ずして空しく消息を持ち帰ったと云う、夫人のその愛慕の情真に憐むべきことである。斯の如く満成は永年の功空しく残虐なる最後を遂げたのである。
相国寺供養記 元中九年八月二十八日
路 次 行 列
赤松孫次郎満則 外三十九人 人名略之
三十二位 富樫介藤原満成
応永放生会記
応永十九年八月十五日
八幡宮御参向供奉衛府次第
大和三郎兵衛門尉持行 以下十九人人名略之
同 供奉帯刀次第
赤松出羽守則支以下二十三人 人名略之
第十六位 富樫兵部大輔満成
満済准後日記
応永二十年正月十日ノ条
富樫大輔参 三重十結被下
同 記
応永二十年三月四日ノ条
公方様渡御富樫大輔宿所云々
同 記
応永二十一年二月三日ノ条
公方様渡御兵部大輔亭云々
同 記
応永二十一年三月四日ノ条
公方様渡御富樫大輔亭云々
同 記
応永二十一年十月二日ノ条
公方様花頂紅葉御覧 富樫大輔一献沙汰云々
同 記
応永二十二年二月三日ノ条
若公人御富樫亭云々
同 記
応永二十四年十一月三日ノ条
昨夕富樫大輔亭ニ御座今朝以毎阿可参由承 仍馳参 御祈口被仰旨在之、自明日可勤仕由申
同 記
応永二十三年十二月十五日ノ条
富樫大輔来
満成は応永二十六年二月四日卒した。
野々市町小史