高家は泰明の長子である。舎弟家明の後を嗣いで延元元年建武三年(昭和十六年ヨリ六百六年前)三月足利尊氏に従って九州に赴き官軍菊池武俊と戦い九州七騎落の一人として武名を揚けた。同年七月九州より尊氏と共に北上して京都に入り、彼の大楠公の亡き後の忠烈北畠顕家、新田義貞、名和長年等と尊氏との京都争奪戦に参加し、其功を顕したので尊氏之を賞して高家の子々孫々を加賀守護職に任する旨の教書を賜はった。
来因概覧第六巻
延元元年上洛従尊氏公、今年又従公走九州及公軍筑柴多々良浜与菊池武俊相戦大有 顕功故公賜於高家子子孫孫加賀国守護職不可有相違之教書大平記金勝院本以高家為 家通子、然時世懸隔不相当
美吉文書
譲申され候 加賀北英田保内気屋村田畠事 合中村名壱名並散田弐町者 坪付別紙 在之
右所領者 富樫介高家勲功之賞として拝領候当知行無相違候云々
康安元年八月二十五日 沙弥源通花押(花押在本章)
三宝院文書
(上文闕)参御方候今着北陸道計ニテ候 相構々々捨身命有其聞様仁、可有御振舞候、晦日合戦ニ分取生取数十人ニテ候、京都事ハ心安可被思食侯、委使可申候、穴腎々々
建武三年七月六日 富樫介高家(筆蹟在本章)
山川又五郎殿
延元元年三月九州多々良浜の戦から十五年を経たる正平六年観応二年辛卯正月(昭和十六年ヨリ五九一年前)高家及其二男家宗が加賀より上洛して、足利直義と戦い大敗して、高家は戦死し家宗は空しく国に帰って蟄居した。尊氏此時高家の死を悼み高家の長子に諱を賜い、其後高家の長子を氏春と号する。
阿波国古文書坪野氏文書
高家 富樫介観応二年辛卯正月戦死
氏春は高家の長子で、父高家の勲功に依り尊氏の諱を受け、家統を嗣いだ。正平十年文和四年(昭和十六年ヨリ五八七年前)三月尊氏に従い当時宮方であった足利直冬と洛中に戦い、功あったので尊氏より感状を授けられた。
加賀国地頭御家人等、今度於所々、致忠節之条、殊以所感思也、此趣普可相触之状如件
文和四年四月十九日
猶ほ三州志に
この史に依れば、氏春の幼名を竹童丸とし、亦桃井直常加賀を侵さんとした時、氏春克く之を防ぎ、猶ほ応安三年三月斯波義将と相携えて、桃井直和を斬るとある。且亦佐々木高氏は自己の女壻斯波氏頼を加賀守護に為さんとした等の諸事を載せてあるが、是等は氏春の嫡子昌家に属する事項と混同しているとの説があるが此説至当であろうかと思わるる。而してその説の主張する所に依れば、氏春の歿年後猶は竹童丸の存在しあることが見える。即ち氏春の歿年は美吉文書に依り康安元年八月廿五日以前なること明かである。
美吉文書
譲申され候 加賀北英田保内記屋村田畠事
合中村壱名並敢田弐町者 坪付別紙在之
右所領者 富樫介高家勲功之賞として拝領候当知行無相違候間、故介氏春かてのこうちの女房御方へ、ゆつり申され候あいた、惣置文被載候而、田島のハん(判)御見えず候へとも、申おかれ候むねにまかせて、かやうにはからひ申候て渡申候、御知行さうい(相違)あるへからず候、当富樫兄弟ようち(幼稚)あいた。先源通判形を加候てわたし申候、大方置文にの(載)せられ候上ハ、子細あるべからす侯、仍為後証如件
康安元年八月廿五日 沙弥源通 花押
(花押在本章)
此の文書中、故介氏春と記してあるから、氏春が卒去した後に此文書を作成したものである。仍て氏春は康安元年八月廿五日前に卒去したものであろう。又、氏春の歿後と思われる康安元年八月廿五日の後に尚ほ竹童丸と記しある文書数通あるから、三州志に見える記文は氏春の長子昌家に属する事でないかと疑いられるのである。
臨川寺重書案文
本 文 略
貞治三年十月二十二日 (義詮) 御判
富樫竹童殿
春日神社文書
本 文 略
貞治四年二月五日 (義詮) 花押
富樫竹童殿
猪熊信男氏所蔵文書
本 文 略
貞冶五年九月廿四日 吉良満貞
左兵衛佐 花押
富樫竹童殿
氏春は元和年中、加賀石川部富樫山に成福寺を開創した。亦弟に家宗がある。石川郡吉野に大智禅師の為めに祇陀寺を開く。氏春の法名を定照居士と称する。
亦宮永八幡神社に氏春の御札ありと云う。
昌家は、氏春の長子で幼名を竹童丸と唱い、正平十七年(貞治元年)(自昭和十六年五百八十年前)桃井直常越中より加賀を侵さんとした時、越中に入って之と戦い、亦、康安三年三月には斯波義将と共に桃井直和を殪したることなどは、氏春の条に既に述べた如くである。
而して昌家が斯波義将と相携して桃井直和を討伐したるは応安三年に限らず応安二年にも野々市に於て合戦したる事等数回ある。
三州志故墟考
応安二年桃井直和加州平岡野ニ陣ス富樫城(在野々市)困窮ニ及ヒテ八月十五日吉見左馬助野々市ニテ日夜合戦ノコト得田章房申軍忠古状中ニ見ユ
続本朝通鑑
三年三月(応安)庚寅朔、甲午桃井直和(注略)蜂走越中国、拠長沢城、乙巳、越中国守護斯波義将、加賀富樫竹童合兵撃桃井直和斬之
昌家の父氏春の歿したときは、昌家、満家、未だ幼児であったので、佐々木道誉は、自己の女壻斯波氏頼に加賀守護職を与えようと策動したが、細川清氏将軍足利義詮(義満前代)の教書を受けて、昌家を加賀守護職に擁立した。この一事を見ても富樫氏の名望権威あることが知れる。
大平記巻三十六に
先加賀国守護職ハ富樫介建武ノ始ヨリ今ニ至ルマテ一度モ変スル事無シテ、シカモ忠戦他ニ異ニ、成敗暗カサルニ依ッテ、思補列祖ニ復セシヲ富樫介死去セシ刻、其子(参考大平記ニ天正本ニ云フ竹童丸下倣トアル)イマタ幼稚ナリトキ道誉、尾張、左兵衛佐(割注略)ヲ壻二取リテ当国ノ守護職申御教シトス、細川相模守是レヲ開キテ、去ル事ヤ有ヘキトテ富樫介カ子ヲ取立テ則守護安堵ノ御教書ヲノ申成ケル、是ニ依テ道誉カ欝憤其一ナリ
昌家幼稚であったので、細川清氏の擁護に依り加賀守護職に任せられ、前記、貞治、応安の比に桃井氏を討伐し、貞治六年(正平二十一年)(自昭和十六年五七五年前)八月八日畠山道朝北国を侵したので、将軍義詮の命に依り之を討ち、文中元年応安五年七月(自昭和十六年五百七十年前)上洛して八坂前祇園円明禅寺に館し、足利幕家に出入し諸事に活躍した。即ち天受四年承和四年六月七日(自昭和十六年五百六十四年前)将軍義満が祇園御輿迎のことある際、其盛儀を四条束洞院に覧んしたので、その桟敷を昌家が経営し、同五年大和十市某の討伐軍に、大樹より差遣せられたとき、その功を顕し、同年七月二十五日将軍義満極位の拝賀に伺候した際、供奉員として之れに扈従した。弘和三年永徳三年六月二十五日(自昭和十六年五百五十九年前)義満が昌家の邸に臨だなとの寵愛を享け元中元年至徳元年霜月十九日(自昭和十六年五五八年前)白山比咩神社の堂社上棟式に当り、京師八坂之館より御劒一振御神馬一疋を献上して加賀国民の安泰を祈った。
大平記三十九
諸国大名讒道朝事附道誉大原野花会事
八月八日(貞治五年)ノ夜半計ニニ宮信濃守五百騎高倉西ノ門ヨリ将軍家ニ押寄ル體ヲ見セテ閧ヲソ揚ケタリケル(○中略)道朝二宮ヲ待付テ、越前ヘ下着シ、軈テ我身ハ抽山城ニ籠リ、子息治郎大輔義将ヲ粟屋城ニ籠テ、北国ヲ打従ヘント議セラレケル間、将軍サラバ討手ヲ下セトテ、畠山尾張守義深(○人名略)能登、加賀、若狭、越前、美濃、近江ノ国勢相共ニ七千騎同年十月ヨリ二ノ城ヲ囲テ(下略)
祇園執行日記 文中元年応安五年
七月十一日 晴
加賀富樫介上洛八坂前ニ住之間、此辺社僧房ニ手之者皆自一昨日打札今日皆寄宿了
後愚味記 天受四年承和四年
六月七日 雨下及晩程晴 今日祇園御輿迎也、而山門神輿造替末事終之間、皮社祇園神輿同不出来□此間年々無御輿迎、今年又同前也、然而於鉾者結構也、大樹構棧敷(四条東洞院)見物之件棧敷加州守護職経営依大樹命之、云々
花営三代記 天受五年康暦元年七月
二十五日 右大将御拝賀散状並路次儀
前略
布衣馬打参次第
本 文 略
赤松越後守顕利 富樫介昌家
後愚味記 弘治三年永徳三年七月二十五日之条
六月廿五日 今日左相府招請富樫介加賀守護宅
献引出物以及十万余疋云々
白山荘厳講中記録
至徳元年(元中元年)霜月十九日午時堂社上棟云々、当守護富樫介自京都御劔自銀打一振、馬一疋下畢其外国人共百余疋神馬進之
以上述べたる外昌家の活躍したる史料多数ありて、一々是を列挙すること出来ず。貞治応安の桃井氏攻防の戦蹟と共に、上述八坂前祇園円明禅寺に館として威容堂々たること、加賀守護としての勢望頗る顕然たるものがあった。然るに昌家壮年に至り病弱であったので、将軍の召に応せられず、職を辞し遂に元中四年卒し長子詮親統を襲いた。詮親上洛して昌家の卒去後四年を経た明徳二年(自昭和十六年五五一年前)山名氏清に党して、大内義弘と内野に戦い十二月晦日陣歿したやうである。詮親に子無く昌家の弟満家家統を襲いた。
南方記伝 元中八年明徳二年十二月晦
氏清氏冬みづから京中にみだれ入、大内義弘赤松満則山名時熈同しく氏幸と大にたたかい氏清、赤松満則、富樫詮親富田等うち詮範が郎党高嶋源太氏清をきる一色満範その首を取ぬ
詮親統を嗣いたと雖確実とは云へぬ仍てその世数に入れない。
昌家は元中四年四月歿した。法名孚山浄祐居士と号する。
常楽記
元中四年富樫介他界 右京云々(加賀守護)
来因概覧第六巻
昌家加賀介参考太平記貞治六年八月八日畠山道朝走北国時、将軍義詮公下昌家為討手出干天正本云、按家譜昌家多病屡不応義満公出師催足遂辞加賀介
満家は昌家の弟である。
満家の通名を英田小次郎と号し兄昌家が多病であったので代って国政を執った。志気強勇で、将軍義満より満の諱を賜り満家と称へたのである。史条には満家天授四年六月七日被の祇園輿迎の棧敷を経営すと在るが、之れは前代昌家の誤りのようで、既に昌家の条に述べた如くである。且亦明徳二年山名氏清に党して、大内義弘と、内野に戦い同年十二月晦日ニ十九歳を以て陣歿したとある。即ち
昔日北華録
此時英田小次郎は氏清の指揮に有りて、心ならず叛逆の人数に加り、洛中へ打て入り、所々に於て合戦有り、是れ明徳二年の内野合戦なり、氏清並に兄弟の義数、家老の小林弾正、英田小次郎満家は大内義弘と戦いて、十二月晦日内野にて討りぬ
来因概覧第六巻
満家 昌家弟号英田小次郎、以昌家多病満家掌国政、其志気強勇、将軍義満公賜一名字、明徳二年内野軍役、満豪党山名氏清、与大内義弘戦、十二月晦日享年二十九死内野
是等の史に依れば満家明徳二年内野合戦に戦死した如くなるも、明徳二年より九年を経たる応永六年に猶ほ満家が生存していることが見える。之れは満家が元中四年四月卒去した兄昌家(孚山浄祐居士)の菩提の為め十三回忌仏事を鹿苑院にて常光国師に請して厳修しているから明徳二年内野に戦死したのは正しく満家で無いようである。
常光国師語録(原漢文)
富樫孚山浄祐居士十三回忌令弟満家請
此香、菩提ノ花果ヲ長就シ生死ノ根株ヲ抜出シ、功ヲ法身五合ニ帰シ、貴キコト海岸六銖ニ勝ル、今日尽力拈シ得タリ、天地洪鑪ニ熱向シ、光明雲台ニ弥布キ、功徳樹林ニ栄敷ク某弓剣業ヲ伝ヘ、銅虎符ヲ分チ、国ノ為メニ忠ヲ尽シ、英気山岳ヲ動力ス、民ヲ撫テ政ニ莅ム、仁声寰区ニ溢ル誠ニ是功一代ヲ蓋ヒ、勇万夫ニ敵スル者也、而カモ闌若ニ於ヒ、常ニ毳徒ヲ舶厠シ五濁悪世ヲ怕シ、泥水ヲ澄浄セント欲ス、三会ノ霊塔ニ詣テ特ニ衣盂ヲ頂載ス、積善ノ余慶、誰カ健羨セザランヤ、数葉早世、人ヲシテ鳴呼セシム、一十三年、正ニ春夢ト同シク破ル、千百億刹速ニ応化ノ躯トナル、真浄界中、幸ニ迷悟ニ去来スルコト無シ、実際理他、豈凡聖賢愚有ランヤ、此中能ク転路ヲ得レバ何処カ是帰途ナラザラン、此方ト他界ト、乃チ是浄刹ヲ開張シ、曠劫今日ニ至ルモ、未タ曾テ放離スルコト須曳モセズ、者裏ニ到ッテ這ニ通ズ、何ヲ以テ恩議ヲ報ジ、友子ヲ表セン、慈竹籬根稗子ヲ生ジ、イジ堂上新雛ヲ引キ、座槐ノ夏緑陰方ニ合ヒロウ麦ノ秋、黄雲ニソウユ
斯の如く満家が内野で戦死しないと見れば、満家の死は如何と謂うに之れ詳悉するに足る可き史料も見当らざるも察するに、応永六年十一月将軍義満が、大内義弘と戦いし時参加し、不幸戦死したものでないかと疑われるのである。
而して爰に又、富樫氏歴代中、実に奇とする事がある這は元中四年昌家卒去後加賀守護は富樫氏に下らずして斯波修理大夫義種に下った。義種は足利高範の子で斯波義将と兄弟である。此兄弟桃井直常を退治した功で、義将は越中を、義種は加賀を賜ったのである。
大乗寺蔵 明徳四年七月十日足利義満ノ文書
祇陀寺蔵 応永六年三月廿一日義種ノ文書
狩野文書、佐々木文書、応永五年六月八日加賀国若松庄地頭職ヲ狩野孫四郎義重ニ沙汰付スべキコトヲ命スル時ノ宛所ヲ修理大夫入道トアリ
義種は加賀守護職に就任したが、応永十五年二月五日卒去し、其嗣子満種が襲いた。満種応永二十一年六月九日俄然高野山に隠遁し、加賀守護を抛棄した。
東寺王代記応永二十一年六月九日ノ条
斯波左衛門佐満種遁高野山
爰に於て加賀守護は、富樫満成及満春に加賀各半国宛領せしめ同時に守護職を命せられ父祖の業を恢復した。富樫歴代の間に約二十余年加賀守護の闕職あったことは悼む可きことである。
満済准后記 応永二十一年六月八日ノ条
富樫両人加賀国拝領、自方々遣礼馬太刀云々
同 上 応永二十一年六月十一日ノ条
富樫大輔礼馬
斯の如く、富樫満成、満春、同時に守護職になったが、満成 既述の如く応永二十五年将軍義持の忌諱に触れ、遂に剥官の身となり、翌年吉野山に戮せられたので、満春其の後を襲ぎ、加賀一国を拝領し守護職となって国政を掌った。
斯波満種は応永三十四年七月七日卒去した。
満春の通名を小次郎と唱い、上洛して将軍義満の諱を賜り満春と号した。恒に仏道に耽け其居館内に禅堂を設け、自ら之れを勝連寺と謂うた。
昔日北華録
小次郎上洛ノ上将軍ノ諱之ノ一字ヲ賜り加賀介満春ト号シケル、コノ満春ハ仏道ニ耽リ、ソノ居館ノ中ニ禅堂ヲ設ケ自ラ勝蓮寺トイフ
来因概覧第六巻
満春 為加賀介、満春耽禅学、館内構一堂、号勝蓮寺故待人、以満春称勝蓮寺殿、此他譜中無可記者
加賀志徴
松蓮寺廃址(石川郡四十万村)同村全性寺蔵 弘治三年十月二十三日富樫晴貞判書ニ四十万村松蓮寺分之事、本寺松林院雖為知行、毎年之礼儀数十年無是候間、所詮教勝へ申付候、古跡考にも、此村に以前しうせん寺といふ 寺ありしが中比退転して其寺跡を寺藪といへり云々(下略)、宝永誌に四十万村領之内に寺藪といふ処あり、昔此処に聖善寺といひし寺ありたるよし云ひ伝へり、○按するにしうせん寺とは松蓮寺をいひ誤りたるにや
此の加賀志徴の文書中の松蓮寺、松林院、しうせん寺、聖善寺等の寺名は皆勝蓮寺の誤りでないか、猶亦満春の歿後其の菩提の為め、此の額村字四十万の地に寺院を建設したるものである。
満春は満成の受けたる残虐なる処刑の渦中に入らず、却て満成の遺領をも賜り加賀全国の守となり、闔国を統一し、依然将軍の恩寵を享け、将軍亦屡々満春の第に臨み或は宿泊して終夜の宴を張り、或時は入浴の途中縁より落ちて負傷する珍事さえあったと謂う。
満済准后日記
応永三十一年十一月二日ノ条
予今日参賀、御所様、自去夜富樫介亭ニ御座、未御寝云々、将軍御方御対面、宝池院同道乗車則退出、云々
同 上
応永三十一年十一月二十一日ノ条、
御所様、今日自水口還御、直渡御富樫介亭云々
同 上
早朝渡御管領亭、為雪御賞翫云々、其後御参内、還御ニ富樫介亭御一宿云々
花営三代記
応永三十二年正月五日ノ条
五日 御風呂アリ富樫満春宿也
満済准后日記
応永三十三年五月十三日ノ条
於富樫介亭御風呂、御落縁云々、左御顔スリヤフラルル云々、転重軽受之儀珍重
又、満春応永二十五年十二月十八日(昭和十六年ヨリ五二四年前)即ち満成の遺領を賜ってより二十六日目に、石清水八幡宮に百貫之地を寄進せりと見ゆ。これは注目すべきことである。(満成の領を賜りしは応永二十五年十一月二十二日である。満成の項参照)
菊大路文書
奉寄附 加賀国百貫地
右為天下泰平、特上様、御寿命長久、且子孫繁昌家門無為、永代奉寄進之状如件
応永二十五年十二月十八日、富樫介満春在判
その他石川郡吉野祇陀寺に関する文書
加賀国河内庄祇陀寺領所々事、為御祈願所上者、諸公事等所令免許也 仍状 如件
応永廿八年六月十一日 富樫介満春現判(花押ハ在本章)
祇陀寺
是等の史実を綜合して按するに、満春如何に将軍との間に隔意なかりしことを知り、且亦、諸侯伯を凌駕せる親密信頼の深かりしことが見える。
満春は応永三十四年六月九日歿した。(自昭和十六年五一五年前)法名常継勝蓮寺と号する。
薩戒記日録
応永三十四年六月九日之条
加賀守護富樫入道死去之事
満春卒して長子持春職を継いだが、史乗これを富樫氏世数に入れて無く、且又持春の事蹟余りに伝わらないので、本書も亦世数の人として載せず、唯だ本条に附随して其の事蹟を挙げよう。
持春は父満春の歿した時、僅に十五歳で家統を嗣ぎ、将軍義持の諱を享け、信任篤かった。上洛して三条坊門京極に館し、当時将軍門跡の称ある三宝院満済僧正と親交あり、度々門跡に謁し交歓頻る厚く、亦将軍其の第に臨むこと数次に及び、或時は産所に充てられる等、其の愛寵を受けること、前代満春に越えた、持春年歯未だ壮ならざるに克く家名を保持したのは遙かに富樫氏の後胤と謂うべきか。然るに之の英雄も僅に在職七年即ち永享五年七月十日(自昭和十六年五○九年前)夭折した。惜む可きである。法名常永福巖寺と号す。
富樫家遺孫大桑氏系譜
持春 号富樫介早世二十歳、法名常永号福巌寺殿
(愚按此史中、二十歳トアルハ二十一歳ノ誤也)
持春の将軍より恩寵を受けたる史実の抜記
満済准后日記
応永三十四年十月二十八日ノ条
今日富樫介亭へ入御、此代ニ初ニ申入云々
兼宜記
正長元年三月二十日ノ条
室町殿、咋日自裏松亭渡御加賀守護 三条坊宿所宿所門京極
彰考舘薩戒記日録
正長元年三月二十日ノ条
右馬頭殿自日野中納言第、令渡御富樫宿所給事依御方遠也
満済准后日記
正長二年正月二日ノ条
富樫介来云々宝池院御対面、太刀被遣云々
正長二年三月四日ノ条
富樫来 二千疋持参
正長二年十二月廿六日ノ条
為雪御賞翫室町殿渡御畠山亭云々、直ニ又渡御右京大夫亭、恒例入御云々、其後渡御富樫亭
永享二年正月十三日ノ条
富樫介来 直垂 今日初出仕云々、太刀一腰遣之了
永享二年五月廿八日ノ条
富樫介加賀国案堵事申入処、不可有子細、可仰付奉行云々
義教卿元服記
七月二十五日 甲子申刻 大将御拝賀
天晴風静
供奉行列
侍所(以下略之)
次一騎打 被着狩衣
畠山尾張守持国 佐々木治郎少輔持光
富樫介 持春 土岐美濃守持益
執権左衛門佐義淳(以下略之)
右の他将軍に招かれたことは永享二年十二月廿九日、仝三年正月廿五日、仝年九月廿六日、仝十月一日、仝四年四月四日、仝五年正月十四日等。亦将軍の来臨を受けたのは、永享三年九月廿三日、仝年十月十三日、仝十二月三日、仝月九日、仝十一日、の数回に及んだ。
持春永享五年七月十日卒して弟教家宗家を継いだ。
師卿記 永享五年閏七月十日之条
閏七月十日庚寅、今日加賀守護 富樫介 他界年廿一云 依無子息弟刑部大 輔相続遺跡了
持春は将軍義持より諱を賜り持春と号した。
持家は、兄持春の夭折の後を襲ぎ、加賀の守護となり刑部大輔に任ぜられ、将軍義教の一字を賜り教家と称した。在京して幕下に勤め、持春と同じく三宝院門跡に出入して、殊遇を受け颯爽として幕中に跳躍した。然るに嘉吉元年六月十八日突如其の封を奪われ、流浪の身となり、加賀守護は三宝院に喝食たりし、教家の幼弟泰高(幼名慶千代)に命ぜられた。此時幕情一変嘉吉の変起って幕内混沌とした。教家不慮の左遷に激怒し幕情異変の虚に乗じて、剥官の恥を雪ぎ失地を回復し其の職を獲得せんと策動し、屡々泰高を圧迫した。泰高亦之れに拮抗して譲らなかった。それより富樫氏は二派に分れ、長享二年政親の亡命する迄、本支両流相諍うに至った。此の富樫氏二派分裂の顛末は第六章に詳しく述べる。
教家此のことあって七年を経た文安四年五月争議未解決の儘山代にて卒去した。法名禅輿寺
教家幕下に活躍せしこと九年であった。
満済准后日記
永享五年九月十五日ノ条
晴 富樫刑部大輔今日初出仕云々来三千疋随身
永享六年正月十六日ノ条
雪 富樫介来、太刀可遣之由申付了
永享六年四月廿六日ノ条
雨 富樫大輔来対面不例珍重云々、折紙二千疋随身
永享以来御番帳
永享比ヨリ至文正元年
一、番衆 十一人
富樫次郎教家
昔日北華録
弟の教家を養子となし、加賀介に叙じ義教公より御一字を賜り教家と号し家 督を嗣がしむ
来因概覧第六巻
家兄持春多病早世、教家為加賀介、将軍義教公賜一名字、此他家譜不具事状
成春は、教家の嫡男で家統を襲いだ。父の志を果さんが為め叔父泰高と相争うた。文安四年加賀を南北両半に分ち各領せしめたるも争は続いた。又寛元年(自昭和十六年四百八十二年前)真宗本願寺派と同宗高田専修寺派と互に其勢力を相争うたので(第六章参照)両門の門徒百姓を野々市の居館に招いて公平な解決方を提出し、円満和平ならしめようと謀ったところ、本願寺門徒却て怒り吉崎にあった下間筑前を大将として突如野々市の舘を攻めんとした。成春野々市の舘に在ること出来ず遂に山代(江沼郡)に潜居した。本願寺派の成春の妥協案に従わなかったことは成春の女某が高田専修寺に嫁して居るため邪心を起しこれに従わなかったのである。此事あってから三年を経た寛正三年、成春山代で流離の中に、無念の涙を咽んで歿した。其時加賀国民当時八歳になる成春の長子を野々市の館に迎い、越前国主朝倉敏景に拠りて将軍義政拝謁を賜りて加賀守護職に敍任せられた是れ即ち富樫二十四世政親である。
成春の童名を亀幢丸と称し通名を次郎と号した。法名大仙寺知定院と云う。此廟地は額村四十万善性寺地内であろう。
子は二男一女有り長子政親次子幸千代長女某あり、長女は高田専修寺に嫁す。
来因概覧第六巻
成春 童名亀童丸、後号次郎称加賀介住野々市、文安四年五月父教家卒、成春与叔父富樫安高争守護職、自是不和、応仁二年提国兵五百党細川勝元事、皆詳本記
野々市町小史