政親は、成春の長子にて幼名を鶴童丸と唱い通名を次郎と云う。寛正三年(自昭和十六年四百八十年前)父成春が山代に於て流離の中に歿したので、僅か八歳にて越前の国朝倉氏の擁護に依り上洛し将軍義政に拝謁し富樫介に任せられその後を嗣いだ。
身長六尺力量十人力勇悍抜群の英雄である。三州志に
「政親ハ成春之子也、身ノ丈六尺力十人ヲ兼ヌ、勇悍抜群ト云」
とある。
将軍義政の諱を賜り政親と号した。義政、義尚の二将軍に累任し、其の倚信篤く恩寵ありて近習すること満成、昌家、満家、満春、持春等の諸卿に劣らなかった。応仁の乱には初め西軍(山名)に属せしも宗家保持の為め東軍(細川)に属した。文明十二年月毛駒一匹を御馬として将軍家へ進上した。
親元日記
布施弾正被参申 子細自加州富樫(政親)殿、御方御所様へ月毛御馬一疋進 上被申候付て、馬二匹上候、月毛一疋坂本に候。草毛馬一疋、たたいま引上 候間、可懸御目心中にて、引参申候、則御対面
又本願寺と高田専修寺との論争は成春以来止まなかった。政親に専修寺と姻寂なる関係上専修寺に加担した。又山ノ内に居た頃弟幸千代と所領を争うた。又文明の初年より本願寺門徒屡々横暴を極め闔国を騒擾せしめたので、これを討たんとせしに、衆寡敵せず長享二年六月九日高尾城に陣歿した。年齢三十四歳法号大明寺運明大居士
これ富樫氏の滅亡である。
政親恒に画意あり、京洛の地より画聖雪舟を聘して画を学び特に馬の絵を好んだ。亦崇仏敬神の念厚く長享元年神霊の致す所に依り、今の額新保の地に一夜に青竹教本生えて神域を囲む、仍て政親此処に祠を追てて戦捷を祈った。この社名を藪田宮と称する。又宮永八幡神社に政親の寄進状がある。又野々市の照台寺にも政親の甲本尊なりと伝わる仏像がある。政親が戦乱相継ぐ時代に悠々馬の絵を画くが如きは雅懐の豊麗なることを感すべきである。
石川郡旭村北村市二蔵
加州能美部上土室並河北部英田庄内指江村等事、如先々知行不可有相違之状 如件
文明六年十二月廿四日
政 親
槻橋兵庫允殿
来因概覧第六巻
政親 称加賀介、事既注上文、長享二年六月九日高尾陥城ノ時、七国志闘諍 記ニハ政親防戦ニ堪ヘス、越中へ退キ自裁ト云、然レトモ此説誤也ト
爰に政親滅亡し泰高居館を能美御幸塚より宗家累世置庁の地野々市に移し政親の遺館に入り、国政を執った。然れ共宗徒は俄に節を変して泰高の令に逆いて肯かず、遂に守護職は有名無実、その実権は本願寺に移ったものの如く宗徒は今の金沢城址に一寺を建て、城郭を築きてこれを牙城とし、是より天正八年柴田勝家が一揆掃討迄、八十七年間加賀国土は、本願寺の領土となって、土貢地利は尽く江州山科へ収めたようである。
一向一揆は政親を亡して猶ほ飽き足らず、遠く伊勢一身田に在る高田専修寺を追襲し、院堂を燔燼し、夫より元亀元庚午年(自昭和十六年三七二年前)には、富樫晴貞を野々市の館に火攻し、晴貞河北郡伝燈寺に走るを猶追攻して、遂に之を亡し、越えて天正二年(自昭和十六年三六八年前)曩に越前金津城に避難した富樫泰俊を追攻し之れをも亡し、遂に富樫氏一門一族爰に悉く滅亡せしめた。
己上此の政親の条を以て富樫氏本流累世の国王諸卿の概史を止め、是より国家支流泰高より泰俊に至る累代の国主及その余列の概史に移らんとしたが、支流諸卿の事蹟概要は、泰高の分は第六章第七章第八章に相跨りて記載し、其の他の分は第八章国府廃滅の章に明記してあるから、重複記載の弊を省いて、同章に記載なき晴貞の部分をここに分記して、富樫氏支流の概史の記載を省略す。
晴貞は政親と同じく画意あり恒に京洛の地より画聖雪舟を聘して画を学び、馬の絵を画く事が好きであった。
燕台風雅に
丹青技在上古天長元年十月朔令加賀国図書先聖光師像見千日本後紀是本
州図画之起源也、
其後経七百余年弘治永祿之間有加賀介富樫晴貞 (通名小三郎)藤原利仁之裔 也能画馬今世有名款藤原晴貞者是也、今在越中富藩安達弼亮(通名周蔵)之 家者、古色蒼然、自余猶流布人間者、往往有之、富樫政親( )亦画馬 、今蔵小杉慎簡( 通名喜右衛門)之家
文政 丁酉七月
今晴貞の馬の画を蔵するのは、額村字四十万善性寺及び東京市荏原に在る富樫晴貞第十二世の遠胤富樫国彦氏及び金沢市野田大乗寺に所蔵す。此の晴貞の画意政親の条にも述へた如く武将として、戦乱相次き干才吶喊の声耳に喧しい兵馬倥偬の時に当りて、この雅懐のありし事は其情操の豊麗と人格の高異なることを感ず可きである。
富樫晴貞之画
在東京 富樫匤彦氏 所蔵
富樫氏の舘址は、野々市町字一日市町の東南方田甫中なることは、口碑に依り明瞭であるが、確実に其の地点を明にしたものはない。或は住吉川上流茶毘所(墓地)より東方百聞四方と謂い、或は高橋川東方富樫と称する所一帯なりと謂い、諸説紛々として拠る所がなかったが、文政五戍午年九月森田柿園氏の実測にかかる図面に因ると、今の額村往来より東方石川電鉄線に至る間なることが窺われる。即ち該舘址の西南角が倉ケ嶽城跡岸頭午一度八分、住吉社銀杏木、子一度二分、鬼ヶ窪領境松、末六度四分と各自其見当を標示してある。仍て之を検したる所現在の野々市町ヨ八十二番地に当るので、この地を基点として東方六十間〇五分、北方七十間は疑い無い所の舘址である。又御倉跡、御倉籔と称する地は該舘址の北方であるから、前記ヨ八十二番地より国道筋に至る迄同舘址であったようである。
爰に挿入した二葉の図面は、最初の一葉は森田柿園氏が実測製図したるものを写したるもので、次の一葉は其の図面に拠り現在の地所の何れの辺に当るかを著者が測量図したるものである。然して此の森田氏の図面の示すやうに、僅かに六十間に七十間の範囲を以て国守富樫氏館址の全域なりと云い難く、素より此の図面は僅に残れる土居の一廓を示したるもの、この図面を以て富樫館址の全城と謂うことは出来ない、之れを按するに恐らくこの図画の数倍は裕に存したると言っても妄作でないと思う。元亀元年富樫晴貞が、河北郡伝燈寺に遁れて安政五年迄ここに参百八十九年亦天正八年三月柴田勝家が我野々市を灰燼に帰してから弐百七十九年の長き星霜を歴れば、其間に遺形或は毀壊し或は撤去せられて僅かに土居の一部が残っていたのを森田氏熱誠にこれを測量製図したもので、此の図面が無かったならば富樫氏の居館何れの辺に在りしか、知る由も無かったのである。
大正六年耕地整理の際、該地の工事に従事した農家の人の談に依れば、図面の土居跡に当る箇所は地盤堅く開拓に困難であったと云うことである。試にこの区域の地中を発掘せば確に証憑物も出て館址全域も今少しく判然すると思われる。明治二十二年頃迄荒廃の遺形が残っていたが、水毛生伊余門氏この荒廃せる原野を開墾し水田とした。これに依り富樫氏の館址と印す可き遺跡の無いようになるのを憂へこの地を実測製図した。同時に同氏は自費を捐して布市神社境内に、富樫氏先業碑を建て永遠に人をして野々市は、富樫氏累代国府置庁の地たる事を知らしむる為めの碑となした。その熱意は賞すべきである。而して富樫館址は尚ほ一ヶ所あったようである。その基点はこれよりも東であると思われる。
三州志富樫館跡の記文
此ノ館跡ハ官道東ヘ入ルナリ野々市村ヨリ一町アリ既ニ此ノ遺迹三百三十年強ヲ歴レバ今ハ尽ク荒廃田地ト化ス故ニ前後内外ノ分地勢ヲ以テモ不可測量ナリ其ノ存スル者ハ南方ノ土居五十間中断シテ二十三間ト二十七間トニナル 西方ノ土居四十九間此ノ余ハ中間ニ或ハ二十四間或ハ十間ノ土居アリ、或ハ中間ニ馬場跡ト呼フ所百〇七間アリ、又、御倉跡ト土人伝言ノ地ハ此ノ続ノ西ナリ、二十七間ノ土居中断シテ存ス、此ノ四五年前迄ハ此ノ所作食蔵アリシ由ナリ、倉嶽ハ此ノ遺跡ノ巽ニ当レリ
富樫城は高尾山中と倉ヶ嶽に在ったと伝えられている。世人城名を富樫城或は高尾城と呼ぶ。高尾山に在った城は古くから在ったもので倉ヶ嶽に在った城は政親破賊の為め一城を築いたものである。三州志に
富樫氏桓ニ野々市ニ館シ土冦起レバ此城ニ保ミ嶮岨ヲ恃ンテ拒クユへ国俗之富樫隠居城呼
とあり又高尾城址を
仰此城山ノ通路山前ハ高尾邑ノ方ヨリ陟ルト額谷ノ方ヨリトノ二条アリ背後ハ坪野邑ヘノ山路一条アリ今ハ皆狭険ノ樵径右歯足ヲロム小山ナレトモ城地ノ高サ七十間アリ之ヲ直立ニ測量スレバ三十三間也墟中五六尺ノ高低ハアレトモ概シテ平頂ト見エテ坤方ヨリ艮方マテ其袤一百余間其幅中間ノ広キ所ハ二十間艮方ノ狭キ所ニ至レハ、八十一間モアリ其下一二段低シテ八間ニ四十間許ノ平地有テ夫ヨリ高尾邑へ下ル路ニ通ス又此墟ノ坤首一段高シテ己ヨリ酉マテ二十四間己ヨリ卯マテ十四間卯ヨリ戍マテ十八間戍ヨリ酉マテ九間ノ坦地一区アリ是ヨリ寅方ニイン池アリ池辺卑湿其四面亘リ巽方ハ十八間乾方ハ六間艮方ハ七間ノ一区アリ墟背ハ皆断壑ナリ城谷河ノ一流城背ヨリ墟右へ注キ出シテ高尾邑辺二至レリ此水ハ小流ニテ而モ城水ニハ不便也
とあり。尚ほ本記第三章にもこの城のことを記してある参照
富樫氏累代の墓所は、史乗に詳てないが、伝うる所に依れば、左の各所にある。
額村字額谷、金沢市上野新町、同牛坂町、河北郡旧小坂村(今金沢市トナル)字伝燈寺、福井県坂井郡金津町、押野村字押野の諸所にある。
額谷に在るは五輪山御廟谷と称し、額谷入口から七八丁距てた山中にある後藤家譜中に見ゆる古文に依れば、
「額谷村端ヲ貫流スル七瀬川ノ渓流ニ沿ヒ東南ニ上ルコト十八丁余面積概算一万五千有余歩」
とある。今は二三十歩の面積に縮少し、仝字谷村清太郎氏の所有地となり、昭和十三年石川県古蹟指定地となっている。仝十五年八月仝廟所保存会設置せられ、仝月二十九日大乗寺住持渡辺玄宗師を聘し壮厳なる読経法会を巌修した。
仝廟所の遺物は遠く鎌倉時代よりの墓地と推察され、累葉此地に墓所を定めしものてあろうか。
金沢市上野新町に在る墓地は、大正八年迄存在したが、同年官立金沢高等工業学校創設に当り、其の敷地に収用せれ遺形悉く毀壊撤去せられ、今は其の跡方も認められないが、同校運動場の中央に在ることだけは想像に難くない。この墓地凡そ百坪許りで壮厳であった。
金沢市牛坂町に在る墓地は土人之れを御塚と称し、田甫中に在る。此地一帯は一向宗徒の墓地と後藤家譜に見えるから、或は一向宗徒は政親の墓を此処に建設したるものでなかろうか。
河北郡伝燈寺に在る墓は晴貞の墓で、前田藩時代に小杉某氏之れを建てたるものである。
福井県坂井郡金津町に在る墓は、泰俊及び同室の墓で同町字六日町日蓮宗妙満寺派梅昌山妙隆寺境内に在る。
押野に在る墓は家俊の墓所で同村リ百四十四番地に在る。
以上の外、猶ほ数十ヶ所の墓地散在しているも、自然廃滅の態になり今は之を知を由もない。
政親亡びてから四百六十年余猶ほその亡霊の出現を見る。即ち春秋の夕暮に高尾山に怪火現われ、其火一本のタイマツの如く、旧道鶴来往来より稍高き所に見え、終始野々市の館址の方面に向って走って来る。人是れを高尾の坊主火と称し、政親の亡霊野々市の館址に通うと今に伝わる。三州志に
政親死スルノ際ヨり隣火此高尾山間ヨり出ツ世俗今是ヲ高尾ノ亡主火ト云政親亡魂恕結シテ化スル者即四百余年ヲ歴テ今猶消却セサルコト哀ムヘシ
政親が長享二年六月九日猛軍巨張の壮賊に当ること出来ず、遂に鞍ヶ嶽の池中に不慮の最期を遂けた池にも、奇談がある。此の古池の底に政親の霊魂在って毎年六月九日(政親ノ冥日)夜半正十二時には朱塗の鞍、水上に浮ぶと云ふ、亦池底に広き室在り室内に墓燈籠に灯を点し、傍に政親の幻影白髯長く翁姿に化して座すと、加越能三州奇談に見える、又。鞍ヶ嶽は金城の西南にして高雄山の峰つづきなり近卿高山奇霊の地絶頂に池有りて暑天濁せず次の池は大成提にして川彦奇怪有ハク薄名所にして夏日は遊人多所也是昔 富樫次郎政親布子の館を放し高雄の城に籠りて一揆に敵す智勇用い尽すと云え共寡は誠に衆に敵し難し終に誥の丸なる此鞍ヶ嶽の山上に乗り敵須崎和泉入道慶覚の家臣水巻小助と馬上ながら組て両馬終に此池に沈む其後此池に朱塗の鞍有りて往々水上に浮ぶ是れ此池の主也と云う人恐れて水に不入此池鶴来村の上金劔宮砥の池に水通す故に糖を蒔て見るに必ず教里の山谷を隔て、うかみ出つと云い げにも山上の古池望むも恐しけなるに金沢の使士往々水に入者有然共底を尽して帰る者なかりしに山王屋市郎右衛門と云者あり底を探しけるに折懸切コに灯をともして有りし見たり地底に灯の有る可き事なしと不審して帰りしが程なく家に死したり
三州志に
絶頂に大小の古池あり其の一は深き事不測也土人口碑は是の中へ政親と水巻新介忠家と支摶し馬とともに堕死するゆえ今も天晴るる時は鞍形水底に隠見すと云
これ等の怪説を綜合するに、政親の魂未だ魔道に迷い、大器の徳に逢わないので、今尚ほ消却せず、追善供養をしてその霊を祭る可きである。
この七葉の筆蹟花押は富樫氏花押叢にあったものである。
富樫高家筆蹟 三宝院文書所収
沙弥源通筆蹟花押 美吉文書所収 康安元年八月廿五日
富樫家善花押 大乗寺所蔵文書 貞和二年四月十六日
山川筑後守筆蹟花押 南禅寺所蔵文書 応永廿六年九月廿六日
富樫満春花押 祗陀寺文書 富田景周先生・臨摸本 応永廿八年六月十一日
山川豊前入道仙源花押 南禅寺文書 元弘三年、建武三年建部頼春着到状等 応永二十一年十月十日文書
富樫鶴童丸花押〇政親ノ事 祗陀寺文書 富田景周先生・臨摸本 応仁二年十月朔日
富樫泰高花押 善性寺所蔵文書 明応八年九月晦日
富樫植泰花押 善性寺所蔵文書 永正元年三月五日
高次花押 善性寺所蔵文書 永正二年五月十五日
富樫泰俊花押 善性寺所蔵文書 天文二年六月三日
富樫晴泰筆蹟花押〇晴貞ノ事 尊経閣文庫蔵
善性寺所蔵文書 弘治三年十月廿三日
重輯雑談 永祿元年十一月三日
富樫晴時筆蹟花押〇晴貞ノ事 善性寺所蔵文書 年号不詳五月五日
富樫晴貞筆蹟花押 晴貞後裔在東京富樫国彦氏所蔵白馬円落款
対馬守用家花押 尊経閣文庫蔵今井氏 採集古文書 延文元年六月十六日
富樫晴泰筆蹟○晴貞ノ事 善性寺所蔵文書 弘治三年十月廿三日 自署肩書
藤原重宗花押 祗陀寺文書 貞和三年五月五日 同 七月廿五日
上野介満宗花押 祗陀寺文書 永享十年正月十一日
惣領地頭満宗花押 祗陀寺文書 応永二十五年十二月六日
藤原政宗花押 祗陀寺文書 長祿四年閏九月 日
沙弥玄猷花押 尊経閣文庫蔵今井氏採集 古文書 延文元年六月十六日
藤原光顕花押
同上
野々市町小史