富樫氏は利仁より第二拾二世教家に至る迄、代々円満に家統を嗣ぎ紛擾はなかった。
富樫記に
室町家御代々富樫之家系繁昌ニ相続ス
然るに足利義教(足利四代)が将軍の時、家督相続につき、一族の間に軋轢を生し、遂に富樫家の分裂を招くに到った。それは嘉吉元年六月十八日二十二世の教家が将軍義教の命に依り加賀守護職を褫奪せられ、その弟泰高を以て相続者と定められたためである。この異変に依り教家及其家臣等憤慨し、遂に教家泰高の兄弟互に相争うに至ったのである。
この原因は表面上一、二の説明で論じられない複雑なものがあるようである。事は教家、泰高兄弟を囲繞する家臣の反目と又この兄弟が、日頃後援者として仰いていた幕府重臣等の暗闘とに基くものである。
兄教家は、前管領畠山持国を、後援者とし、弟泰高は、当管領細川持之を後援者として各暗徒し来ったが、畠山、細川両氏は常に幕府に於て互に勢力を争うていたので、教家の将軍に対す違意の儀は信じ難く、全く幕府重臣の暗闘に依り、遂に教家は反対派の圧迫に堪えず、京師を出奔せなけねはならない羽目に立ち至った。
是より先、嘉吉元年正月二十九日教家の後援者であった当時の管領畠山持国が上意に違うことあって、河内国に下り、泰高の後援者細川持之これに代って管領に任せられたので、教家は従来のいきさつから当然不利となり、遂に左遷せられ、弟泰高其の相続者とし加賀守護職に任られたのである。この時泰高は末だ幼児にして、慶千代丸と称し、三宝院より還俗して泰高と号した。
茲に富樫家一族の暗争も、遂に表面化し門属左右に分れて加担した。其の年六月十八日の異変直後、僅に七日を経たる同月二十四日将軍義教を、赤松満祐が殺したので幕情俄に一変した。これ嘉吉の乱である。この異変に乗じて教家の臣、本折但馬入道父子は剥官の辱を受けた主家の地位を回復せんと、同年十二月兵を率えて、加賀に下り、入国せんとしたので、泰高の臣山川筑後入道(以下山川八郎と記す)は之に拮抗せんと試み、持之更に加賀倉月庄に在る摂津掃部頭に命じて、力を山川筑後に合さしめんとした。持之が、いかに泰高を援けるに努力したかを見ることか出来る。
爰に加賀国内は騒擾した。然るに嘉吉二年六月に至りて細川持之管領職を罷免せられたので、管領は、教家の後援者である畠山持国、将軍義勝(足利五代)に招かれて再び就任した。このことあって二ヶ月を経た同年八月細川持之卒したので、教家の党大いに抬頭し、之れに反し泰高は失意の極に落入った。越えて嘉吉三年正月持国は令して、教家の代官本折但馬を、加賀に遺し国を収めしめた。仍ては守護職の争奪抗争は倍々激増し又、細川、畠山の暗闘反目の度は進んだので、在京の諸大名之れに応援加担して府中は駕々たる状態になった。ここに泰高の臣山川八郎はこの幕府の処置を大いに憤り、倒幕と主家の失地を回復せんとして、独り第に籠りて籌策を凝した。
偶々吉野朝の皇胤小倉宮を奉して、倒幕の挙に出でようとした者があったので、山川は之れと気脉を通し加担の大名また之れに応援せんとする説府内に拡まった。管領持国は意を決して泰高を討ち山川を屠らとした。
この時の我国情を見るに、明徳二年後亀山天皇は京都に還御せられ皇国全く統一したようであったが、足利氏の治下常に版乱あり、又吉野朝の遺臣隙あらば、事に乗せんとする気勢があって、天下は噴火口上に在るようであった。山川八郎は今一挙教家を討ち幕府を倒潰せんと欲せば、天下大乱京師の上下を恐慌せしめ、宸襟をも悩し奉ることを感じて、主家の保持と上御一人の安泰を祈るの外、他意なきことを披瀝し加賀国領を二分して泰高教家に領有せしめ、恩主富樫氏の保全方を幕府に進言したので幕府は之れを容れ教書を与えて約諾の誠意を示した。
爰に山川は輦下を騒したる罪を謝し、従容として自匁したので漸く事治まった。
この山川八郎の一挙実に義あり節あり而も輦下の騒擾を恐懼し、一兵も衂らさずして、身を捧げて京洛の戦渦を免らしめ、主家の保全を図り正に噴火口上にあった。天下の乱楷を未然に拒き、彼の応仁の乱を二十有余年後に、遅れしめた其の大度忠烈、洵に讃美すべきである。宜なる哉草奔の一微臣山川八郎の忠誠、後崇光院太上天皇の聞に達し、畏くも詳にこれを宸記し、その至烈を不朽に伝えしめ賜うたのである。
自匁は嘉吉三年二月二十八日で、父子二人若党三人共に切腹した。
辞 世
あづさ弓五十路をこゆる年波の
まことの道に入りにけるかな
看聞日記
嘉吉三年二月二十八日之条
廿八日 晴 妙心寺入来、世之物ソウ無心元之由奉聯勧盃、茂成朝臣候、家秋参、剛叟和尚参、対面、世事閑談(中略)篤忠朝臣参物ソウ可祇候之由申、抑山川八郎(加賀守護代)腹切之由風聞、仍騒動、室町殿へ諸軍勢馳参、但シ管領ハ致用意不出頭禁裏へも公衆人々馳参、門番衆等帯具足候、是ニも番衆共皆祇候、上下騒動無云計、聞山河検見を給て可腹切也、所詮富樫被助置、懸命之地被割分者、家も不可放火、一身腹切之由訟訴申云々、仍奉行三人(略)被遣、被成御教書云々、至夜山川八郎(八郎ガ父若党三人)庭上ニて切腹五人云々、八郎切腹の後辞世の歌以血書扇
公名公記
嘉吉三年二月二十八日之条
富樫舎弟被官人山川父子切腹 仍世上之儀先落云々
教家、泰高兄弟の紛争も、山川八郎の義憤忠死に因り加賀所領を二分することになりしが、此の分領未だ実行されない何年七月将軍義勝痢を病みて薨し、足利義政(足利六代)職を襲いだ、ここに亦幕政一変次て畠山持国は文安二年四月管領職を辞し細川勝元之れに代った。
世はさながら走馬燈の如く変転し爰に至って細川党抬頭し、泰高は教家を排斤して加賀一国を領せんとしたから、勝元亦泰高の志を成さしめんが為め、将軍の命を奉して泰高を援く可きことを諸豪に命したので泰高の臣山川近江守は、加賀に下った。
斯くて、山川近江守等は、予定の如く兵を加賀に進めたが、教家父子之に怖れず、同年九月国内で合戦して、双方の死傷者数百人に及んだと。
東寺過去帳
同三年(文安ノ事)九月於賀州合戦死卒等数百人(富樫兄弟)
如何に、管頭細川氏の威を以てする泰高軍も、大老畠山氏に拠り支持せられたる教家の勢力を、根底より顛覆する事、困難なりと見えしか、遂に文安四年五月十七日、泰高窃に将軍義政に乞い、嘉吉三年の協定に基き、南半国を自己が領し、北半国は教家の子成春が領することとし、富樫氏伝来の所領を二分し二人共富樫介と称することを条件として姑息な妥協は成立した。
康 富 記
文安四年五月十七日ノ条
十七日戊申或仁語云、加賀国守護職事、富樫次郎亀幡丸並叔父安高両人半国充可知行之由管領之沙汰落居云々
爰に始めて幕府は山川父子の烈死後、五年を経て分領実施の命令を発した。然るに成春之れに肯かなかったが幕府成春を説伏して泰高、江沼能美の二郡を領して入国した。
此年教家歿して、成春その後を襲ぎしが前章に述べた如く寛正元年施政の失敗に依って野々市を去り山代に居たが同三年卒去し仍て長子政親統を嗣いた。政親また父の志を遂けんとし泰高に拮抗した。これより先五年前の長祿二年将軍義政は北半国を赤松次郎政則(赤松満祐ノ弟義雅ノ孫云後伊豆守此時僅五歳也)に与えた。此の理由は当時神霊が大和国吉野の奥北山なる宮方の捧持せし所なるを、前年十二月赤松満祐の臣、籌策を廻して奪還し、今年八月晦日を以て、入洛せしめ奉りし功に因り、其の恩賞として加賀半国を賜わったのである。
そこで、翌年(長祿三年)十月政則は加賀に入国せんとしたが、国民は富樫累世の封を削るものと憤り、富樫氏被官岩室某は成春の子政親を擁して兵を挙げ之を妨いだ。この合戦に両軍多数の死傷を出したと。
政則は文明の頃まで凡そ十余年の間加賀を領せんとしたが、その難治なる事を悟りしか旧封播麿美作備前の三国へ去った。ここに政親完全に北半国を回復した。しかれども泰高、政親は互に加賀一国の守護たらんと野心満々であった。又是等を囲繞する本願寺門党と高田専修寺派との争議は解消せず本願寺は屡政親に拮抗したので、政親、泰高の衝突は時機の問題となった。
野々市町小史