富樫氏の滅亡は、二十四世政親の湮祀に因るもので、その後泰高及びその子孫、野々市に在って国政を執ったと雖、それは一向宗徒の傀儡に基くもので、事実上の滅亡は、この政親の敗死に因るものである。

 この滅亡の原因は、前章にも述べた如く、種々複雑な原因も多くあるが、要するに教家泰高兄弟の紛争から、遂に本支両家に分れ、夫等を擁護する地方の土豪や仏教党の反目に由るもので、おもにその中心となったものは一向宗徒である。

 

 一向宗徒が政親を殪す組織の中心となったのは、従来真宗本願寺と高田専修寺(伊勢一身田)と、互に寺院の本末を争い紛争を続けて来たので、政親は父成春の女某が、専修寺に嫁娶している関係から、当然専修寺に加勢したのである。泰高は、その反対の本願寺に加勢したので互に勢力を争うに至ったのが政親を亡した組織の中心となったようである。

 しかし本願寺門徒と政親の関係は終始かかる険悪なものでもなかったようで、政親が幼弱で山ノ内(白山下より吉野辺までを云う)に在る時、本願寺門徒より扶持せられたこともあり、また弟幸千代と紛争を起した時、本願寺は政親に味方し幸千代方を破ったこともある。門徒はこれ等の施恩に驕り、念仏に耽け党を結んで、本願寺あるを知って領主の在ることを知らぬようになった。

 文明三年本願寺八世の法孫蓮如は北国に巡錫し越前吉崎に一道場を建立し、布教に努めたところ諸民群詣して蓮如に帰依したのである。その時泰高は能美郡御幸塚(今江村)に居て、蓮如を我館に迎えて留錫せしめ、自ら吉崎道場の施主となった。これから一向宗徒はますます政親の施政を妨害して、同六年野々市の館を侵さんとしたので政親大いに怒り、同年五月二十八日吉崎御坊を火攻し国に帰りて、本願寺支院を毀破し、主なる悪漢は緇素の別なく悉く戮殺した。

 爰に本願寺門党は大いに政親を怨み反抗するようになった。

 

 長享元年政親軍を率へて、将軍義尚(足利九代)に従い佐々木六角高頼を討伐する為め、江州に出陣中、土民は土貢地利は一塵も運上せず、横暴掠奪の限りを尽し、加賀国内を騒擾不安ならしめたから、政親思うよう是れを制して、蒼生を撫緩する事できないと悟り、同年十一月将軍義尚に愁訴して曰く「臣が分国の土民念仏の法に帰して動修に耽け土貢地利は一塵も運上せず剰へ党を結びて群を分け横暴掠奪至らざるは無し、冀ば済師を越前越中の両国に命し給はば公の威を借りて臣速に之を討伐し封内を安定せん」と、乞うたところ、将軍之を諒とし、同月二十一日江州坂本の陣中より政親に暇を賜い、次て両越の軍に御教書を下し、政親に援軍せん事を命じた。政親野々市に帰り、愈土冠討伐の戦備を執った。即ち野々市の居館は土地平坦して防戦に不便であったから、高尾城を修理し土賊討伐の気勢を表わしたので、押野の富樫家信、久安の富樫元家、山代の富樫泰行を首め、世臣恩士弓を摂搶を荷うて馳せ聚ったが、独り富樫泰高のみは之れに与からなかった。政親両越よりの援軍を待ち一挙に、一向一揆を撃滅せんと気勢を挙けたところ、流石の一揆も之を見て、大いに怖れて前非を悔い、その元謀等は政親の老臣山川参河守(此遺跡今ノ石川郡内川村字山川ト野々市新町ノ東ニ在リ内川村字山川本第ニシテ野々市ノ者ハ出第也)を介して、罪を政親に謝した。因て三河守破賊のことを猶予すべく、政親に諫言したが、政親は後日又蜂起の悔を慮り、この期を失せんことを惜み、諫言を容れず、愈々破賊のことに決し、兵制編伍を執ったところ一揆怱ち反噎の勢を現わし隣国の援路を遮きらうと、越前口には安藤九郎首魁となり、江沼の兵二千を率へ敷地福田(此所不明)に防禦し、越中口には越智伯耆首魁となり兵四千を率へ倶利伽羅松根に防禦した。叉州崎泉入道慶覚坊(金沢市百姓町慶覚寺ノ祖ナリ)同十郎左衛門正季、河合藤左ェ門宜久(能美郡河合村ヘ摂州ヨリ来住タル者)石黒孫右衛門等首魁となりて、河北郡の兵を集め、久安に新塁を構えて、之に拠り政親の哨兵と僅かに二十町を距て対持した。

 

 木越の光徳寺、磯部の勝願寺(今越後高田在瑞泉寺云)、若松の道場、山田の光教寺(江沼郡山田村ノ坊主成)、鳥越の弘顔寺、吉藤の専光専(今金沢アル専光寺也)等の譛山大坊主は、野々市の大乗寺に会し、政親と常に世貫の本支を争い、鴻毛の親み無き泰高を推して、加賀の守護と仰ぎ、攻囲軍の将として軍議を練る。是れ野々市の大乗寺一揆の本陣と為したるものである。又笠間兵衛家次(石川郡笠間村ニ住タル者也)は、兵七千を率へ野々市の馬市に屯し、字津呂備前(宇津良又ハ宇津尾ニモ作ルト)は兵五千を率へて野々市の諏訪(野々市ノ諏訪野ノコト)の樹林に屯す。山本入道円正は、山科の山王林に、高橋新左衛門(高階ト記ス古書モ在)は押野にそれぞれ雲集した。叉安吉源左衛門家長(石川郡安吉村ニ遺跡アリ)は、河原隊の兵を率へて額谷に、石川瀕海の衆徒は、広岡山王(古書デ只石川郡トアリ)の林に、また加賀郡の衆徒は、大衆免に屯し、各政親の軍に対し大乗寺の本営よりの主使を待った。この時白山衆は初め政親に党したが、本願寺門徒の猛威侮り難きを知り国中の大事之れに過ぎずと神社の安穏を期するを理とし、遂に節を変じて、劔(鶴来町ノコト)の衆徒と共に、諏訪口に至り、力を一揆に合さん事を約したりと。一揆以上の配陣を終へ戦備を整へたのは、長享二年五月であった。

 政親急使を江州の陣中に在った将軍義尚に派し風雲の急なることを報し、隣国の援軍を急派せられんことを請うた。将軍朝倉貞景をして援軍を加賀に致さしめん為め、南禅寺の瑞順西堂に使者たるべき事を命じた。

 

 かくて戦いは五月十日より開始せられたが、政親の援軍来たらず、これは両越の援路を断ったので、松坂八郎信遠は部下の精甲二千を帥へ城を発して槻津(月津ノ事)へ到ると、江沼郡の一揆は今江久太郎(今江兵衛ノ嫡子也)を首魁として之を囲んだ。時に軍中賊に内応する者強半、信遠之に当る能わず、高尾に退かんとしたがその途中、長屋(此所不明)に於て、信遠は馬を射洞し苦死した、余兵叉北巨河に溺死した。山川参河守も府兵千五百を従い、高尾を発し宮腰大野に至ったが、賊徒浦上九兵衛、馬飼喜八郎を首魁として、五千余蜂起し四面より攻め寄ったから参河守防戦に疲れ山路を指して逃んとしたが、攻囲軍これを追撃したので、列隊瓦解し僅かに百余人を以て高尾に退いた。斯の如く政親の手兵僅少なるが為め、衆寡敵せず、大敗を続けたので、ただ隣国の援軍を待つのみとなった、ここに将軍の御教書に依り、軍を政親に致さうとする越中四郡の代官松原出羽守信次は騎卒一千を集め、竹木石見守を隊将として放生津に、中郡の甲兵八百に稲川半大を大将として、吉江日沢に、礪波の甲卒七百に田原新吾を大将として蓮沼に各々陣せしめ、五月二十九日阿曾孫八郎、小杉新八郎、鋭兵二千を帥へて先鋒となり軍を三隊に分ち、倶利伽羅より加賀に入った。時に賊将越智伯耆是れを逆え若林藤内、不動獄(倶利伽羅山中ノ名称也)より回りて激戦すれども、越中の兵敗続し、清水谷(地名不詳)へ自ら蹂践して陥る者大半なり、孫八郎馬を釈して徒行奮撃し、土堤に陟て暫く休憩していたが、賊将安井源五其弟長九郎とともに馳せ来り之を斬殺した。越軍之を見て険所入り難きを知り、海浜へ回りて乱入せんとするのを、伯耆追撃してその多くを斬った。残る越兵大野に到るを、英田光済寺(河北郡ノ光済寺ト住時有名地所ハ英田村ニ在リ今ノ安江木町ノ光済寺也)与力の士之を撃ち、伯耆も亦越兵大野へ回るべき事を察し、爰に来って合攻したので、越兵瓦崩して走北した。後ち能州畠山義統(一名義元)の援軍黒津舟に来たが一揆是れを逆え戦ったところ能州の兵卒七慌八乱して敗北した。時は六月五日であった。

 斯の如く、政親の軍は敗北に敗北を続けたが、城中の将士一揆何物ぞと険阻なる山嶺に拠り利器を列し防禦を張って応戦した。即ち城の正門には、松山左近を将とし、背門(額谷口)には森宗三郎を将とし、其他、齊藤八郎、安江弥太郎、小早川半弥、新倉将監、浅井九八等前後に陣し兵を按して屈せなかったので、敵の本営野々市の大乗寺に軍議を凝しつつあった。譛山の大坊主中の州崎慶覚坊、進て謂うよう、今城郭険阻に拠りて地の利を占む。敢て之を力攻せんと欲せば、恐く我兵を喪うこと至大ならんや、故に策を取りて包囲を厳にし、以て敵の糧道を断たんにはと、叉河合宜久謂うよう余の見る所は之と異なり、我軍をして退きて四方の嶺に陣せしめ、以て空しく時日を経過せば、彼は遂に無聊に堪うる能わずして、平野に出る可し、此時一挙にして之を塵滅するに何の難き事があらんかと、木越の光徳寺之に服せず謂うよう、若し諸氏の説くが如く曠日弥久ならば、隣国の援軍必ず来りて救わん、宜しく急に之を力攻して城を抜く可きなりと、主張したので、衆皆此の光徳寺説に賛し、明七日(六月七日ノコト)払暁を期し猛攻することに決した。(会議ハ六月六日ノコトナリ)この日払暁高尾城下の賊軍鳴鑼桴鼓を合せて一度に堵墻して猛進し、矢石を飛し吶喊を揚げて暴攻した。城中の兵復支うることが出来ず政親爰に素志の遂け難きこと思量し童幼妻女を窃に山路に拠りて越中に逃避せしめた。しかし一説には政親、光徳寺、勝願寺に乞いて越中に避難せしめたとあるもこれは事情に鑑み誤りでなかろうか。(政親ノ室ハ尾張国熱田神宮ノ大宮司友平ノ女デアル名「巴女」ト云フ)

 

 八日は前日の戦労を癒やし、明九日を以て最後の雌雄を決しようとした。賊軍も亦八日は戦を避け労を癒やし九日を以て落城せしめようとし、州崎慶覚坊は諸陣に令していうよう努めて城兵を招降して敵の勢を減滅せしめよと。この時政親の陣中に止まる忠臣僅に三百余人となったと。

 賊軍九日払暁再び猛撃を始めたところ、本郷修理進春親は、部下の手兵を帥へ城門を発し、河合藤左衛門の一隊へ討ちかかり、河合を刺さんとしたが、河合老革にて相当らず、河合が手兵の賊将伊藤久内の為めに擒にせられた。春親の子松千代丸(二十八才)継進して伊藤を斬殺し、且木村八郎九郎と支搏し、木村の為めに獲られ亦正午に至りて互に休戦した。

 

 時に府兵の戦死者は数え難いほど多かった。所謂額丹羽、同八郎四郎、林正蔵坊、弟六郎二郎、本郷修理進、同松千代丸、高尾若狭、槻橋弥二郎(按スルニ文明六年ノ役ニ見ユ豊後ノ後カ今石川郡月橋村領ニ御倉山ト云フ所ニアリ富樫氏城米の倉跡トシテ土人云ヒ伝フ今尚土中ヨリ焦米出ルト云其代官槻稿弥四郎ト云フ此弥四郎ナルベシ)齊藤藤八郎、安江弥太郎、同三郎、宇佐美八郎左衛門、山田弥五郎、広瀬源左衛門(河北郡上山田村領ニ広瀬伊賀守古城遺アリ若クハ此族ナランカ)同又七、徳光二郎、松木新五郎、阿曾孫六(此人之詳事三洲志アリ)霜田伊豆坊、奈良与八郎、杉原彦四郎、多田源六、石田帯刀、同二郎三郎、坂倉嘉内、森勝介、岡豊後、佐々木志摩助、柏原与市、古沢勘七、同明知阿弥、越前の士、溝口一木兄弟等を首め二百余人と云う。尚ほ恩顧の臣五十有七人、其の余の府兵も若干人、離散したと、正午後再び城兵血戦に及んだ。即ち山川参河守は手兵を従い城門を発し、三池掃部の陣に撃進し奮闘したが遂に賊の為に囲れて遁るること出来ず将に自刃しようとしたところを敵は刀を取って生捕し、之を祇陀寺(大乗寺ニ在リシ大智禅師之開基在石川郡吉野)に幽した。然共参河守夜に乗して、越前国大野に遁れた。又小河集人成定は寺井豊後の堅陣を衝き、寺井の子(寺井ハ賊将也子ハ十四歳也ト)を斬り取り小岡に陟って憩う処を賊は首を斬った。また本折越前守は、一揆に降ったので一揆は愈雲擾した。時に政親奮然として野々市の刀鍛冶安信の作たる白山水の銘刀を振り上げ、自ら歩騎の兵を激まし、虎怒龍騰血戦して屡々群賊の心謄を寒からしめたが、衆寡固より敵し難く、城兵多く痍傷し隣国の援兵未だ来らず、刀は砕け矢は尽き到底素志の遂げ難きを思い、城に還りて(高尾城ハ一名二城ト謂高尾ト倉嶽トノ二城在リト云フ政親之還リシ城ハ倉ヶ嶽城ナラン)城頭より住み馴れし、野々市の空を暫し眺めて

      五蘊もと空なりければ何物か

        借りて来らん借りて返さん

 と辞世を詠じ、三十四歳を一期に、城中で自刃した。嬖童千代松丸これを介錯して、直に群賊中に馳入り奮戦せしに賊兵猛攻城に火を放った。千代松丸は火に入りて焦死した。次て宮永八郎、三郎(旭村宮永ニ住モシ者カ)勝見与次郎、福光弥三郎、邦田某、小河某、吉田某、白崎某、進藤某、黒川某、与津屋五郎、谷屋入道、徳光西林坊、金子田上入道、長田三左衛門、宮永左京進、沢井彦八郎、安江和泉守入道、神戸七郎、御薗筑前守、同五郎、槻橋三左衛門、同近江守、同式部浄丞、同弥六、同三伍坊、本郷駿河守、同与春坊、叉二郎(叉次郎ハ参河守ノ族ナラン)八屋藤左衛門、長田三郎左衛門尉等の忠臣みな自刃した。時に長享二年六月九日で、昭和十二年はその四百五十回忌に相当し、利仁より二十四世凡そ六百年の久しきに亘る富樫氏も、ここに滅亡した。

 

 かくて九日夕、高尾城、落城の報伝わるや、越中、能登の援軍英田、大野の辺まで進入したるも其労空しく兵を引揚げたり。越前の援軍朝倉貞景氏の軍は、其臣堀江中務丞景用、杉若藤左衛門、南郷某等を将とし、国境を越え加賀の橘(江沼郡三木村橘ナラン)に入って陣を張りしが、江沼郡敷地福田の一揆は、願生入道を将として撃入った為め一時金津の上野に退いた、貞景捲士重来高尾に赴援せんとしたが、高尾落城と聞き郷里越前府中(今ノ南条郡武生町ノコト)に兵を引揚げた。

 攻囲軍に於ては焦土と化した高尾城の灰燼中より政親の遺骨を獲り野々市の大乗寺に葬り且亦千代松丸以下自刃者の遺骨をも探り得て、高尾城附近の山地(今土人此地ヲ御廟谷ト云是在石川郡額村額谷山)に葬り、戦士を齊めたと云うことである。

 

  六月九日ノ条

  賀州富樫城被攻落富樫介生害之由有風聞

                                                                   蔭凉軒日録

 

 

 

 

 この富樫落城につき諸説紛々として正史は判らないが、富田景周氏が富樫家譜及び官知諭等に依って按じたる記文には。

 

 景周富樫家譜及官智論等ヲ按スルニ今年高尾城ヲ修スル者ハ賊衆ヲ伐滅ナサンガ為也、然ルニ群賊却テ寇ス政親高尾ニ在リテハ全ク利ナキヲ監カミ密ニ妻拏ヲ越中ニ送リ遺シ鞍嶽ニ築城シテ要害ヲ守リ能越ノ援ヲ持チ常ニ夜ニ入リテ出入ヲナス然ルヲ河合藤左エ門是ヲ知リ兵子六百ヲ簡ミ慶覚坊ヲ首魁トシテ鞍嶽ノ搦手ヨリ急ニ攻ム城兵守ニ堪ヘズ出テ突撃然トモ攻衆強盛終ニ城ニ乗リ入ル、時ニ政親水巻新介ト馬上ニテ支搏シ郭内ノ池中ニ堕死ス因テ富樫ノ守兵白崎某、高尾若狭、同九郎左衛門、額八郎次郎、槻橋入道、同蔵太皐佐神八郎右衛門、中川監物、同小次郎等戦死ス本郷駿河守、八屋入道覚妙、宮永八郎、勝見与四郎、福益弥二郎郡緑、吉田、小河、白崎、進藤、黒川等自殺ストアリ、政親或ハ得ル所アルニ似タリ、世人多クハ高尾倉嶽ヲ一城二名トアルハ然ラズ、コレ別也政親恒ニ野々市ニ在リテ、代々ノ通館トス、今年高尾倉嶽ニノポル者ハ、防賊ノ為メ也、有沢武真云富樫氏代々館村ニ在城シテ事アレバ高尾山城ニコモル也、コノ間一里半許也、此類諸国ニ多シ、即信州ノ村上氏代々坂本ニ居住シテ事アル時ハ高尾ノ山城ニコモルガ如キコレナリ、高尾ハ堅固ノ地ニテ横吹ノ難所アリテ一里余坂ヲ上ルト也、此説ニ因ルトキハ高尾ニ築城セシコト明カ也、然レトモ景周曾テ陟リテ見ルニ高尾山ニハ今御城山、城谷川等ノ遺名存スルノミニテ、城跡タルへキ地詳ナラズ、鞍嶽ニハ城等ノ遺跡依然タリ、誠ニ要害堅固ノ地勢ナレトモ、狭隘峰峻其不便ナル事劇シ、只加州四郡ヲ目下ニシ、恰モ掌ニ在ルカ如シ絶頂ニ大小ノ両古池アリ、其ノ一ハ深キ事不測也、土人口碑ハ是ノ中ヘ政親ト水巻新介忠家ト支搏シ、馬トモニ堕死スルユヘ、今モ天晴ルルトキハ鞍形水底ニ隠見スト云、景周登山ノ日ハ天雲アリ、故ニ見ル事ヲ得ズト雖モ、恠説欺人者ニテ取ルニタラズ、或云古へ倉嶽ト書キシヲ、此時ヨリ自然ト人々鞍嶽ノ字ヲ造ルト云、是ヲ以テ見レバ此時ノ築城ハ鞍嶽ニテ高尾ニハアラザルニ似タリ、鞍嶽ハ知気寺村領也、高尾ハ高尾村領也、政親死スルノ際ヨリ燐火此高尾山間ヨリ出ツ、世俗今是レヲ高尾ノ亡主火ト云、政親ノ亡魂怨結シテ化スル者即四百余年ヲ歴テ今猶消却セサルコト、衰ムベシ、又慶覚寺縁起ニハ高尾城跡ノ辺ニアル御廟谷ト云フ所、即チ政親自害ノ地トアリ、又七国志ニハ此時防戦カナバズ越中ニ退キ九月九日自害ストアリ、以上諸説ホウ襍正史ナケレバ其真贋ヲ弁解シ難シ、叉近年印行セル信長記拾遺ニ以上政親高尾陥城ノ事ヲ享元祿二年五月ニ撃ク賊ノ魁将灰原藤太夫、今枝大膳ノ二名ヲ載セ且政親ノ臣富田九郎左衛門基重等ノ名ヲ顕ハス、其陀無稽ノ説多ク枚挙スべカラズ、是全ク本願寺門徒ノ妄作ノ見ユ一事トシ証スべキコトナキ贋書也

野々市町小史